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血の継承【改訂版】  作者: Salhi smail
第五章 黒の帳編

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嘘をつかない痕跡

最後の光が消えた。


誰も動かなかった。


通路を重い沈黙が満たしていた。聞こえるのは、天井から落ちる水滴と、石の上をゆっくり擦る金属音だけだった。


一度。


そして、もう一度。


カインが闇の中で鎖を動かしている。だが、攻撃はしてこない。


イーラはその隣に立っていた。マヤの目が歯に反射する微かな光を捉えた時、闇の中から浮かび上がったのは、薄い笑みだけだった。


だが、イーラの目はヤザンから離れなかった。


笑みを保ちながらも、指は無意識に強張っている。滝のそばで彼の意識に入り込んだ時、何を見たのか理解するより先に膝を折らされた。あの深みを忘れてはいなかった。


今度は退かない。


オスが槍を握る手に力を込めた。


後方で、ワーイルの息が震える。


ヤザンは足をその場に固定し、闇に距離感を狂わされまいとした。


ラカンは動かなかった。


見ているのは、カインだけではない。通路全体だった。


背後に残した距離。


二人が立つ位置。


そして、姿を現したあとに作った意図的な沈黙。


侵入者を殺すことが目的なら、灯りが消えた瞬間に襲っていたはずだ。


扉を守っているのなら、その真正面に立つはずだった。


だが二人が選んだのは、退路を確保し、奥にいる者へ時間を与えられる位置だ。


ラカンが低い声で言った。


「こいつらは、俺たちを通さないためにいるんじゃない」


カインの鎖が一本、動いた。


ラカンは続けた。


「足止めするためだ」


鎖が放たれた。


闇を裂き、陣形の中央へ迫る。だが届くより先に、ラカンの背後で激しい音が響いた。


アルダが動いた。


大地に弾き出されたかのように飛び出す。


足元の石が砕け、背後で風が爆ぜた。その勢いに押し出され、アルダの身体が一瞬で通路を駆け抜ける。


カインが目を見開いた。


両腕を上げると、三本の鎖が胸の前へ集まった。


アルダの拳が届く。


鉄と激突した。


二人の間で空気が炸裂し、通路の壁が震えた。鎖が浮き上がり、そのままカインの胸へ押し込まれる。カインは数歩滑ったあと、地面へ足を食い込ませて身体を止めた。


アルダは目の前に立ったまま、震える鉄輪の中へ拳を突き出していた。


ゆっくりと腕を引く。


「もっとやると思っていたがな」


カインは自分の両腕を見た。鎖で防いだにもかかわらず、震えている。


「くそ……なんだ、この馬鹿力は」


オスが前へ出た。


槍を身体に沿わせて斜めに構え、その金属の柄を伝って水滴が穂先へ流れていく。


「そいつは俺に任せろ」


アルダは振り返らなかった。


「先に触れたのは俺だ」


「だが、倒せなかった」


アルダの口端が上がる。


答えようとした、その時だった。


通路の中央で、空気が歪んだ。


光は現れない。


地面に門が開いたわけでもない。


見えない手が両端の闇を折り重ねたかのように距離が縮まり、天井から床まで黒い線が空間を切り裂いた。


その奥から、短い笑い声が漏れた。


ラカンは裂け目を見据えた。


スカイが静かに通路へ踏み出す。背後の歪みは、初めから存在しなかったかのように消えた。


他の者には目もくれない。


その視線は、ラカンだけに止まった。


「お前か」


ラカンの表情は変わらない。


スカイが言う。


「前回の決着が、まだついていなかったな」


「お前が途中で逃げたからだ」


スカイの笑みが深まった。


「最善の道を選んだだけのことを、まだ逃亡と呼ぶのか」


「なら、今ここで道を選べ」


ラカンは両手を上げた。


「俺が塞いでやる」


スカイは答えなかった。


だが二人の間の空気が一瞬で引き伸ばされ、わずか数歩の距離が、もう一本の通路ほどに遠ざかった。


ラカンは視線を外さずに命じた。


「マヤ、ヤザン。イーラを任せる。ワーイル、二人の背後を守れ。互いを引き離させるな」


マヤは緊張を呑み込み、両手を上げた。


ヤザンがそのそばで足を固める。


ワーイルはイーラを見てからラカンを見た。悪い冗談だと言われるのを待っているようだった。


だが、そんな言葉はなかった。


ラカンは続ける。


「オス。鎖の男はお前に任せる」


オスは槍を手の中で回し、カインと向かい合った。


「アルダ、お前は俺と来い」


アルダがスカイへ顔を向けた。


一秒ほど観察し、やがて大きく笑った。


「強そうだな」


両腕に風を巻きつける。


「そのほうがいい」


カインの鎖が激しく揺れた。


「待て! まだ終わってねえぞ。今のは不意打ちだ!」


アルダは一瞥もせず、その場を離れた。


だがオスが前へ出て、槍で道を塞いだ。


「お前の相手は俺だ」


カインが嘲るように見る。


オスは冷たく言った。


「今度はよく見えるだろう」


最初の鎖が走った。


同時に、三つの戦いが始まった。


ラカンが真っ先に攻めた。


スカイに広い空間を作らせる時間を与えない。二歩で間合いを詰め、その顔へ拳を放つ。


スカイは近い。


触れられるほど、近くにいる。


だが二人の距離が突然、引き伸ばされた。


ラカンの拳は進み続けているのに、スカイの足は動かないまま、その顔だけが遠ざかっていく。


半腕ほどの距離が、数歩へ変わった。


次の瞬間、スカイがラカンの横に現れる。


首へ掌が迫った。


ケメンをまとった前腕で受け止める。


衝突音が響いた。


ラカンは身体を返し、手首を掴もうとした。だが再び空気が折れ、スカイの腕は手の届かない位置へ引き戻される。


横からアルダが来た。


スカイのいた場所へ拳を振り下ろす。


拳が届く寸前に石床が折り畳まれ、アルダの拳はスカイではなく通路の壁を打った。


壁が裂け、黒い破片が降り落ちる。


スカイが言った。


「届かなければ、力に価値はない」


アルダは拳についた埃を払った。


「だから、お前がどこへ出るか分かる奴を連れてきた」


ラカンは、すでにスカイの身体を見ていなかった。


その目は周囲の空気を追っている。


移動する直前、わずかな一点から湿気が引き、逆向きに戻る。見えるのは一瞬だけだったが、同じ変化が繰り返されていた。


アルダはラカンの視線に気づいた。


両手を開く。


細い気流が通路に広がった。攻撃ではない。目に見えない糸となって、壁と壁の間を埋めていく。


スカイが動く。


風が左へ逸れた。


ラカンは姿が現れるのを待たなかった。


振り向きざま、何もない空間へ拳を放つ。


拳の前で空気が開き、スカイの肩がそこへ現れた。


拳が触れる。


完全な一撃ではない。それでも、スカイを半歩押し退けた。


笑みが一瞬、消えた。


ラカンが言う。


「見つけたぞ」


スカイが再び距離を折り、三つの通路が重なるように現れた。


だがアルダは笑った。


「面白くなってきたな」


反対側では、カインの鎖が三方向からオスを取り囲んでいた。


オスは槍を上げた。


水が前腕から柄へ流れ、穂先の周囲へ集まって、刃を薄い青の層で包む。


一本目の鎖を下から打ち上げた。


砕きはしない。だが軌道を変えられた鎖が二本目へぶつかり、弾き飛ばす。


三本目が頭上から落ちた。


オスは身体を傾け、鉄を肩のすぐそばへ通す。同時に槍を背後へ回し、鎖の輪を打った。


振動が鎖を伝い、カインの腕まで届く。


カインが笑った。


「磨かれた槍に、まっすぐな構え。それに、人を見下ろす目……」


二本の鎖を引き、先端を左右の壁へ打ち込む。


「どこぞの御曹司ってところか」


オスの表情は変わらなかった。


「お前の戦い方を見れば、路地で覚えたことが分かる」


「そのやり方で、何人も貴族を倒してきた」


カインは両足を地面へ固定した。


左右の壁に打ち込まれた鎖が動き、オスの周囲を閉ざしていく。


オスは槍先を下げた。


「なら、俺の名も加えてみろ」


踏み込んだ。


二本の鎖が交差しきる前に間を抜け、カインの胸へまっすぐ槍を突き出す。


カインは穂先へ鎖を巻きつけ、横へ引いた。刃は胸を逸れたものの、肩を掠めて衣服を裂いた。


カインの拳が返る。


オスは槍の柄で受け、半歩下がった。


「身分が違っても、血まで変わるわけじゃない」


オスは槍を回した。周囲で水が弾け、カインの拳を押し返す。


「身分が人を分けるのに、血など必要ない」


槍を一瞬地面へ突き、柄を支点に身体を浮かせてカインの胸へ蹴りを放つ。


カインは腕で受け止めた。


着地しながら、オスは続ける。


「口を開けば、それで十分だ」


カインの目が細くなった。


「そのご立派な身分ごと、呑み込ませてやる」


オスは再び正面に立った。


「まず俺まで届いてみせろ」


鎖が加速した。


その向こうで、イーラが手を上げる。


何も現れない。


それでもヤザンは、冷気が頭の中へ入り込むのを感じた。


空気からではない。


眼球の裏に、直接生まれた冷たさだった。


通路の壁が遠ざかり、戦いの音が水底へ沈んだように小さくなる。


イーラの姿が揺れ、三人に増えた。


五人。


十人。


石の上にも、壁にも現れ、すべてが同じ笑みを浮かべている。


重なった声が告げた。


「お前のような弱者を、よくアルマザがここまで入れたものね」


最も弱いからという理由だけで、ヤザンを狙ったのではない。


自分の中に残された恐怖を、彼を壊すことで消そうとしていた。


すべての分身から、笑みが一瞬消えた。


イーラが言う。


「今度は退かない。お前の中で何を見たのか、突き止めるまでは」


ヤザンは両拳を上げた。


目の前にあるどの身体が本物なのか、分からない。


隣でマヤが息を呑んだ。


彼女の目には、通路が膝まで水に満たされた広間へ変わっていた。背後から父に呼ばれ、オスには元の場所へ戻れと命じられる。


マヤは一瞬、目を閉じた。


足元に見える水は、呼びかけても応えない。


ならば、本物ではない。


壁へ手を伸ばした。


そこに浮かぶ湿気の粒が動き、床へ流れ落ちる。


薄い水の膜が、マヤとヤザン、ワーイルの足元に広がった。


「見えるものを信じないで」


ヤザンには、その声が遠く聞こえた。


「地面に触れるものだけを見て」


ワーイルの前にアルダが現れた。


顔は血にまみれ、片腕が力なく垂れている。


「もう終わりだ。逃げろ」


ワーイルは一歩下がった。


アルダの隣にラカンが現れ、胸には黒い穴が開いていた。


いつもの静かな声で言う。


「下がれ、ワーイル。ここにお前の役目はない」


ワーイルの肩が壁にぶつかった。


心臓が激しく胸を叩く。


逃げたかった。


身体のすべてが、イーラに目を向けられる前に走れと訴えていた。


だが、ヤザンが目に入った。


ケメンはない。


守ってくれる水もない。


手には槍もない。


危険から遠ざけてくれる風もない。


それでも、イーラの分身の前に立っていた。


ワーイルは思った。


俺たちの中で一番弱いのに、どうしてあんなふうに戦える?


怖くないのか?


その時、ヤザンの手が見えた。


震えている。


ワーイルは目を見開いた。


怖いんだ。


ヤザンが立っているのは、恐怖がないからではない。


恐れていても、立っているのだ。


イーラの分身の一体が、マヤの背後へ回った。


その足の影が水へ触れるのを見て、ワーイルは本物だと悟った。


「後ろだ!」


マヤが振り返る。


本物のイーラが、マヤの首へ手を伸ばしていた。


ワーイルが二人の間へ飛び込む。


イーラの掌は、マヤの首ではなくワーイルの前腕を打った。


腕の内側へ冷気が走り、足が石の上を滑る。


だがワーイルは倒れなかった。


短いケメンの衝撃を放ち、イーラを後退させる。


震える手を見たあと、ヤザンへ目を向けた。


拳を握る。


恐怖は消えていない。


それでも、もう恐怖だけに支配されてはいなかった。


マヤが隣へ来た。


「大丈夫?」


ワーイルは息を切らしながら答えた。


「いや」


別のイーラが目の前に現れる。


それでも両腕を上げた。


「でも、まだここにいる」


イーラの声が再びヤザンの頭に響いた。


分身が消える。


通路も消えた。


ヤザンは、アイン・アルワルの黒いナツメヤシの間に立っていた。


地面には腐ったナツメヤシの実が散らばり、煙と濡れた土の臭いが満ちている。


一本の木の前に、マルワンが背を向けて立っていた。


「マルワン……」


男は振り返らない。


そのまま遠ざかっていく。


追おうとしたが、ヤザンの足は地面へ食い込んで動かなかった。


反対側にマヤが現れる。


赤い水に囲まれ、膝をついていた。


ヤザンへ手を伸ばす。


「遅かった」


口を開いても、声が出ない。


マヤが倒れた。


鎖の擦れる音がした。


振り向く。


シグランが両腕を頭上へ縛り上げられ、吊るされていた。脇腹から血が流れ、肩に灯る青い炎も消えかけている。


苦しげに顔を上げた。


「助けてくれ、ヤザン……」


ヤザンは止まった。


シグランが言う。


「頼む」


ヤザンはその姿を見つめた。


ナツメヤシの間からイーラが歩み出る。今度は笑っていなかった。


「行きなさい」


ヤザンは動かない。


「助けたいんでしょう?」


ヤザンは両拳を下ろした。


イーラの目が変わった。


ヤザンが呟く。


「これは、シグランじゃない」


木々の間を抜ける風が止まった。


イーラが聞き返す。


「なんですって?」


ヤザンは囚われた少年を見上げた。


顔には同じ苦痛があり、同じ血が流れ、幻が真似た怒りさえ宿っている。


だが、声が違った。


「シグランは、そんなふうに助けを求めない」


ナツメヤシの光景に、一瞬ひびが入った。


戦いの音が耳へ戻り、また遠ざかる。


イーラが怒りを滲ませて言った。


「偽物だと分かっても、抜け出せるわけじゃない」


黒い根がヤザンの両脚へ絡みついた。


そのとおりだった。


見えているものが幻だと理解していても、身体は動かない。幻が頭へ送り込む痛みは本物で、胸を押し潰す恐怖もまた本物だった。


イーラは記憶の奥へ踏み込もうとするたび、あの冷たい深みが待っているのを感じた。


今度は退かなかった。


だが、近づきもしなかった。


その代わり、ヤザン自身の記憶と恐怖を次々に表へ押し出し、その向こうにあるものと向き合う前に、彼を埋め尽くそうとした。


領域の外で、アルダはヤザンがイーラへ顔を上げるのを見た。


風と鎖の音の中から、その言葉を拾い上げる。


スカイへ風の波を放ちながら、ラカンへ言った。


「あいつを鍛えるのは、さぞ楽しいだろうな」


スカイが右側の壁の上へ現れた。


ラカンはそちらへ身体を返す。


アルダが笑いながら続けた。


「ああ、俺の弟子だったら――」


「アルダ、気を抜くな」


アルダの頭の近くで空間が折れた。


寸前で身を沈め、スカイの掌を頭上へ通す。折り畳まれた空間が壁へぶつかり、石の一部が黒い裂け目の中へ消えたあと、砕けて戻ってきた。


アルダは飛び退き、ラカンの隣へ着地した。


「気は抜いていない」


「だから注意した」


アルダが笑った。


「あいつを鍛えるのが楽しいのも分かる」


スカイが再び襲いかかり、会話を断ち切った。


反対側では、カインの鎖が何度もオスの槍へ激突していた。


右から一撃。


下から二撃目。


三撃目は、岩を回り込んで背後から迫る。


オスは二本を弾いたが、三本目が槍の柄へ巻きついた。


カインが力任せに引く。


槍が止まった。


カインの顔に笑みが浮かぶ。


さらに二本の鎖を放ち、オスの背後の壁へ打ち込んだ。鉄輪が左右から動き、逃げ場を塞いでいく。


オスは両手で槍を引いた。


引く力へ抗う。だがカインは両足を固め、左右の壁へ力を分散させていた。


マヤがそれに気づいた。


イーラと向き合いながら、床に広げた水の膜も保っている。


二本の指を動かした。


足元から細い水の筋が伸び、石に沿って、オスの槍へ巻きつく鎖まで届く。


壊そうとはしなかった。


下から鉄輪を押し、引く角度を変える。


カインの足が半歩滑った。


ほんの一瞬だった。


だが、オスは逃さない。


鎖へ逆らわず、引かれる方向へ槍を回してから胸元へ引き戻した。鉄輪がずれ、金属の柄から外れる。


オスは即座に踏み込んだ。


穂先へ水を集め、カインの肩を突く。


カインは鎖を上げて受けたが、激突と同時に水圧が炸裂し、後方へ押し戻された。


オスが横目でマヤを見る。


「考えもなく割り込むな」


マヤは振り返らなかった。


視線は、イーラの足元に広がる水の輪を追っている。


「計算したわ」


オスは黙った。


再び槍を正面へ構える。


カインは顔の水を拭い、笑った。


「妹に助けてもらうとはな」


オスがゆっくりと顔を上げる。


「もう一度言ってみろ」


その目を見た瞬間、カインの笑いが消えた。


再び二人が踏み込もうとした時、全員の足元で通路が揺れた。


     *


遠く離れた場所では、別の白い怪物がアドナンへ腕を振り下ろしていた。


アドナンが後ろへ跳ぶ。


拳が地面へ激突し、ラーイドとアミールの足元まで亀裂が走った。


ラーイドは怪物の膝へ炎を放った。白い肉が燃え、一部が溶ける。だが火が消えるより先に、再び集まり始めた。


怪物の肩には、まだ黒い箱が固定されている。


ライはその脇に立ち、アナスに開かれた脇腹の傷を片手で押さえていた。


指の間から血が滲む。


それでも、その目は静けさを失っていなかった。


アミールが言う。


「負傷してる。畳みかけろ!」


腕を上げると、稲妻が周囲へ集まった。


「待て」


アナスが止めた。


アミールは苛立たしげに見る。


「なんだ?」


アナスが見ているのは、ライではなかった。


箱だった。


中から叩く音がする。


三度続けて。


そして、沈黙。


怪物が一歩動くと、箱が大きく傾いた。


同じ律動で、再び三度の音が鳴った。


「音が繰り返してる」


ナーダが言う。


「動けないのかもしれない」


「中に人がいるなら、箱が傾いた時に位置が変わる」


ライは低い岩まで退き、そこで振り返った。


箱を守ろうとしているように見える。


だがアナスは、その足の向きを見た。


箱へは向いていない。


その背後にある通路を守っている。


「それに、箱を取り返そうともしていない」


アドナンは意味を悟った。


箱を見てから、ライへ目を向ける。


「囮かもしれない」


アミールが言った。


「本当にシグランかもしれない。ここで見ていても分からないぞ」


アドナンは首を横へ振った。


「確かめる」


声を上げた。


「ラーイド、俺と来い! 怪物を止めろ。身体じゃない、ベルトを狙え!」


ラーイドが左へ動く。


怪物の腕が襲いかかる。その下を抜け、胸を横切る革のベルトへ炎を走らせた。


アドナンが反対側から、もう一本のベルトを打つ。


二本が燃え上がった。


怪物は箱を守ろうと身体を返す。


その瞬間、アミールが飛び込んだ。


岩へ跳び乗り、拳へ雷を集め、怪物の肩にある金具を打ち抜く。


金属が炸裂した。


箱が傾く。


ライが初めて動いた。


アミールへ駆ける。だが足元の影が持ち上がった。


その中からアナスが現れ、前腕から黒いケメンの刃を伸ばして立ちはだかる。


ライは、前と同じ傷を再び開かれる寸前で止まった。


アナスが言う。


「今度は見えてる」


ライは進路を変えたが、その遅れだけで十分だった。


箱が怪物の肩から落ち、地面へ叩きつけられる。


二度転がり、アスマーのそばで止まった。


彼女は錠へ掌を置いた。


氷が中へ入り込み、接合部まで包んでいく。


ナーダが言った。


「少し離れて」


アスマーが横へ動く。


ナーダは両手へ光を集め、蓋と箱の隙間へ細い光線を向けた。


光が中へ差し込む。


頭の影はない。


肩もない。


見えたのは、角張った動かない塊だけだった。


「人はいない」


アミールが箱の横へ降りた。


「開けるぞ」


凍った錠へ短い電撃を流す。


金属が割れた。


蓋を上げる。


中にあったのは、縄で縛られた鉄の重りだった。


その上には、引き裂かれたシグランの服の一部。


箱の内側には小さな金属片が取りつけられ、揺れるたびに壁を叩いて音を鳴らす仕掛けになっていた。


一瞬、沈黙が落ちた。


ラーイドが拳を握る。


「罠か」


アドナンはライを見た。


箱を開けられても、怒ってはいない。


取り返そうともしなかった。


「奴らは、必要なだけの時間を稼いだ」


仲間へ合図する。


「ラカンのもとへ戻る」


ライが初めて笑った。


「遅い」


白い怪物が両腕を地面へ叩きつけた。


土と岩の壁が、部隊と拠点へ続く道の間に立ち上がる。


爆発に押され、全員が後退した。


土煙が晴れた時、ライは瓦礫の上に立ち、白い怪物が隣にいた。


アドナンが言う。


「ここへ釘づけにするつもりだ」


両拳を炎が包んだ。


「なら、力ずくで道を開く」


ラーイドが隣へ並ぶ。


アナスの腕で影の刃が一度溶け、再び形を取った。


ナーダが光を集める。


アスマーの前へ氷が広がった。


追跡は終わっていない。


帰るための戦いへ変わった。


     *


拠点の奥深くで、シグランが顔を上げた。


壁の向こうから、かすかな衝突音が届く。


続いて、もう一度。


距離は測れない。それでも、誰かが外で戦っていることは分かった。


両手は二つの金属輪で壁へ拘束されていた。周囲に刻まれた紋様が、炎を灯そうとするたびにケメンの大半を吸い取っていく。


だが、すべてではない。


シグランは指を鉄輪へ添え、その動きを手首の陰に隠した。


皮膚と鉄輪の間に、小さな青い点が生まれる。


炎ではない。


一点へ凝縮した熱だけだった。


遠くで衝突音が響くまで待つ。


熱の脈動を放った。


金属が微かな音を立てて膨張し、その音は外の衝撃に吞まれた。


すぐに熱を消す。


次の衝突に合わせ、もう一度繰り返した。


手首は焼け、鉄の下で皮膚が裂けている。それでも、輪に走る細い線は少しずつ広がっていた。


アズロンは正面に立ち、閉ざされた石の扉を見ていた。


振り返らない。


「仲間が近づいている」


シグランの指が止まった。


ゆっくりと顔を上げる。


「なら、お前は終わりだ」


アズロンが肩越しに見る。


「入ってこさせたくないなら、道を開けたままにはしていない」


シグランは拘束具を引いた。


鉄輪がわずかに動く。


指の力を抜き、その動きを隠した。


アズロンが言う。


「奴らは、俺が来させたかった場所へ辿り着いた」


再び扉へ目を戻した。


シグランは次の衝突音を待つ。


そして、青い点をもう一度灯した。


     *


通路では、イーラの領域がさらに圧力を増していた。


もう全員を同時に惑わせようとはしていない。


力のすべてを、ヤザン一人へ集めていた。


戦いの音が消える。


マルワンが、再び目の前に現れた。


今度は黒いナツメヤシの下に座り、幹へ背を預けている。


顔を上げた。


その目には何もなかった。


「お前は、俺を見殺しにした」


ヤザンの息が止まる。


隣にマヤが現れ、口から血を流していた。


「遅かった」


次はシグラン。


地面へ倒れ、青い炎を失っている。


「お前は最初から足手まといだった」


黒い根がヤザンの両脚を強く締めつけた。


背が曲がる。


本物のマヤの声を思い出そうとした。だが幾つもの声が頭の中で重なった。


マルワン。


シグラン。


アマニ。


自分を残していった者たち。


救えなかった者たち。


領域の外で、マヤはヤザンの頭が垂れるのを見た。


「ヤザン!」


返事はない。


両腕が身体の脇へ落ちる。


指が一度だけ縮まり、それから緩んだ。


足も動かなくなる。


イーラが笑った。


「終わりね」


マヤは近づこうとした。だが同時に、三人のイーラが目の前へ現れた。


水面の輪が、それぞれ別の方向へ広がる。


イーラは足取りが作る波紋さえ惑わせていた。


「ヤザン、聞いて!」


顔は上がらない。


イーラが笑う。


今度は意識の中ではない。


本物の口から漏れた笑いだった。


ワーイルは、動かなくなったヤザンを見た。


一瞬、先ほど目にしたものは勇気などではなかったのかと思った。


ヤザンも、自分と変わらないのかもしれない。


結局、誰もが恐怖には屈するのかもしれない。


だが、ワーイルは気づいた。


ヤザンの足元にある水滴が震えている。


身体のすべてが止まっているわけではない。


「マヤ……」


マヤが彼を見る。


何と言えばいいのか、分からなかった。


イーラがヤザンへ近づき始める。


一歩。


足元の水が動く。


二歩目。


波紋がヤザンの靴へ届いた。


幻の中で、光景はまだ消えていない。


マルワンが目の前にいる。


マヤは自分の血に沈んでいる。


シグランが侮蔑を込めて見ている。


だが、冷たいものが足裏へ触れた。


水。


本物の、マヤの水。


微かな震えが届く。


そして、もう一つ。


誰かの足音が近づいている。


ヤザンは幻を壊そうとはしなかった。


壊せなかった。


周囲で叫び続ける像を放置し、イーラにも先読みできない、ただ一つの感覚へ意識を繋ぎ止めた。


水を踏む足音。


イーラがさらに近づく。


俯いた頭と、動かない肩を見る。


その目から警戒が消えた。


「その沈黙の奥に、何かがいると思っていた」


もう一歩、水を踏む。


「でも、結局あなたは……」


目の前で止まった。


二人の間には、腕一本分の距離しかない。


ヤザンの顎へ手を伸ばす。


「ケメンも持たない、ただの怯えた少年」


指が顔へ触れた。


ヤザンの足が石の上で強張る。


すぐには顔を上げなかった。


踵を固定する。


腰を回す。


そして、身体に残る力のすべてを乗せ、下から拳を突き上げた。


イーラが目を見開く。


拳が顎の下を捉えた。


笑い声が途切れる。


頭が後ろへ跳ね、足元が崩れた。身体は石の上へ落ち、何度も転がってから通路の脇へ激突した。


動かなくなった。


同時に、すべての分身が消えた。


ヤザンの頭の中で、黒いナツメヤシが崩れ落ちる。


マルワンが消えた。


偽りのシグランも消えた。


通路が戻る。


鉄と風と水の音が戻った。


ヤザンはよろめいたが、倒れなかった。


カインは妹の身体を見て動きを止めた。


目を見開く。


「イーラ!」


返事はない。


一本の鎖が激しくヤザンへ襲いかかった。


オスが槍を回し、途中で受け止める。


鉄が水をまとった穂先へ激突した。


「お前の相手はここだ、鎖使い」


カインが鎖を引く。怒りで顔が歪んでいた。


くそ。


妹は、どれほど恐ろしい領域を作れても、接近戦には弱い。


それを知っていながら、自分からあの少年の拳が届く距離まで近づいた。


オスは横目でヤザンを見る。


ケメンを持たず、立っていることさえ難しい少年が、屈強な戦士たちさえ意識の中で屈服させる女を倒した。


「あの少年……妙だな」


ヤザンは苦しげに顔を上げた。


額は汗に濡れ、殴った手は震え、幻の残滓がまだ意識へ重くのしかかっている。


床に倒れたイーラを見た。


そして言った。


「同じ扉には、二度と囚われない」


返事はなかった。


イーラは意識を失っていた。

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