嘘をつかない痕跡
最後の光が消えた。
誰も動かなかった。
通路を重い沈黙が満たしていた。聞こえるのは、天井から落ちる水滴と、石の上をゆっくり擦る金属音だけだった。
一度。
そして、もう一度。
カインが闇の中で鎖を動かしている。だが、攻撃はしてこない。
イーラはその隣に立っていた。マヤの目が歯に反射する微かな光を捉えた時、闇の中から浮かび上がったのは、薄い笑みだけだった。
だが、イーラの目はヤザンから離れなかった。
笑みを保ちながらも、指は無意識に強張っている。滝のそばで彼の意識に入り込んだ時、何を見たのか理解するより先に膝を折らされた。あの深みを忘れてはいなかった。
今度は退かない。
オスが槍を握る手に力を込めた。
後方で、ワーイルの息が震える。
ヤザンは足をその場に固定し、闇に距離感を狂わされまいとした。
ラカンは動かなかった。
見ているのは、カインだけではない。通路全体だった。
背後に残した距離。
二人が立つ位置。
そして、姿を現したあとに作った意図的な沈黙。
侵入者を殺すことが目的なら、灯りが消えた瞬間に襲っていたはずだ。
扉を守っているのなら、その真正面に立つはずだった。
だが二人が選んだのは、退路を確保し、奥にいる者へ時間を与えられる位置だ。
ラカンが低い声で言った。
「こいつらは、俺たちを通さないためにいるんじゃない」
カインの鎖が一本、動いた。
ラカンは続けた。
「足止めするためだ」
鎖が放たれた。
闇を裂き、陣形の中央へ迫る。だが届くより先に、ラカンの背後で激しい音が響いた。
アルダが動いた。
大地に弾き出されたかのように飛び出す。
足元の石が砕け、背後で風が爆ぜた。その勢いに押し出され、アルダの身体が一瞬で通路を駆け抜ける。
カインが目を見開いた。
両腕を上げると、三本の鎖が胸の前へ集まった。
アルダの拳が届く。
鉄と激突した。
二人の間で空気が炸裂し、通路の壁が震えた。鎖が浮き上がり、そのままカインの胸へ押し込まれる。カインは数歩滑ったあと、地面へ足を食い込ませて身体を止めた。
アルダは目の前に立ったまま、震える鉄輪の中へ拳を突き出していた。
ゆっくりと腕を引く。
「もっとやると思っていたがな」
カインは自分の両腕を見た。鎖で防いだにもかかわらず、震えている。
「くそ……なんだ、この馬鹿力は」
オスが前へ出た。
槍を身体に沿わせて斜めに構え、その金属の柄を伝って水滴が穂先へ流れていく。
「そいつは俺に任せろ」
アルダは振り返らなかった。
「先に触れたのは俺だ」
「だが、倒せなかった」
アルダの口端が上がる。
答えようとした、その時だった。
通路の中央で、空気が歪んだ。
光は現れない。
地面に門が開いたわけでもない。
見えない手が両端の闇を折り重ねたかのように距離が縮まり、天井から床まで黒い線が空間を切り裂いた。
その奥から、短い笑い声が漏れた。
ラカンは裂け目を見据えた。
スカイが静かに通路へ踏み出す。背後の歪みは、初めから存在しなかったかのように消えた。
他の者には目もくれない。
その視線は、ラカンだけに止まった。
「お前か」
ラカンの表情は変わらない。
スカイが言う。
「前回の決着が、まだついていなかったな」
「お前が途中で逃げたからだ」
スカイの笑みが深まった。
「最善の道を選んだだけのことを、まだ逃亡と呼ぶのか」
「なら、今ここで道を選べ」
ラカンは両手を上げた。
「俺が塞いでやる」
スカイは答えなかった。
だが二人の間の空気が一瞬で引き伸ばされ、わずか数歩の距離が、もう一本の通路ほどに遠ざかった。
ラカンは視線を外さずに命じた。
「マヤ、ヤザン。イーラを任せる。ワーイル、二人の背後を守れ。互いを引き離させるな」
マヤは緊張を呑み込み、両手を上げた。
ヤザンがそのそばで足を固める。
ワーイルはイーラを見てからラカンを見た。悪い冗談だと言われるのを待っているようだった。
だが、そんな言葉はなかった。
ラカンは続ける。
「オス。鎖の男はお前に任せる」
オスは槍を手の中で回し、カインと向かい合った。
「アルダ、お前は俺と来い」
アルダがスカイへ顔を向けた。
一秒ほど観察し、やがて大きく笑った。
「強そうだな」
両腕に風を巻きつける。
「そのほうがいい」
カインの鎖が激しく揺れた。
「待て! まだ終わってねえぞ。今のは不意打ちだ!」
アルダは一瞥もせず、その場を離れた。
だがオスが前へ出て、槍で道を塞いだ。
「お前の相手は俺だ」
カインが嘲るように見る。
オスは冷たく言った。
「今度はよく見えるだろう」
最初の鎖が走った。
同時に、三つの戦いが始まった。
ラカンが真っ先に攻めた。
スカイに広い空間を作らせる時間を与えない。二歩で間合いを詰め、その顔へ拳を放つ。
スカイは近い。
触れられるほど、近くにいる。
だが二人の距離が突然、引き伸ばされた。
ラカンの拳は進み続けているのに、スカイの足は動かないまま、その顔だけが遠ざかっていく。
半腕ほどの距離が、数歩へ変わった。
次の瞬間、スカイがラカンの横に現れる。
首へ掌が迫った。
ケメンをまとった前腕で受け止める。
衝突音が響いた。
ラカンは身体を返し、手首を掴もうとした。だが再び空気が折れ、スカイの腕は手の届かない位置へ引き戻される。
横からアルダが来た。
スカイのいた場所へ拳を振り下ろす。
拳が届く寸前に石床が折り畳まれ、アルダの拳はスカイではなく通路の壁を打った。
壁が裂け、黒い破片が降り落ちる。
スカイが言った。
「届かなければ、力に価値はない」
アルダは拳についた埃を払った。
「だから、お前がどこへ出るか分かる奴を連れてきた」
ラカンは、すでにスカイの身体を見ていなかった。
その目は周囲の空気を追っている。
移動する直前、わずかな一点から湿気が引き、逆向きに戻る。見えるのは一瞬だけだったが、同じ変化が繰り返されていた。
アルダはラカンの視線に気づいた。
両手を開く。
細い気流が通路に広がった。攻撃ではない。目に見えない糸となって、壁と壁の間を埋めていく。
スカイが動く。
風が左へ逸れた。
ラカンは姿が現れるのを待たなかった。
振り向きざま、何もない空間へ拳を放つ。
拳の前で空気が開き、スカイの肩がそこへ現れた。
拳が触れる。
完全な一撃ではない。それでも、スカイを半歩押し退けた。
笑みが一瞬、消えた。
ラカンが言う。
「見つけたぞ」
スカイが再び距離を折り、三つの通路が重なるように現れた。
だがアルダは笑った。
「面白くなってきたな」
反対側では、カインの鎖が三方向からオスを取り囲んでいた。
オスは槍を上げた。
水が前腕から柄へ流れ、穂先の周囲へ集まって、刃を薄い青の層で包む。
一本目の鎖を下から打ち上げた。
砕きはしない。だが軌道を変えられた鎖が二本目へぶつかり、弾き飛ばす。
三本目が頭上から落ちた。
オスは身体を傾け、鉄を肩のすぐそばへ通す。同時に槍を背後へ回し、鎖の輪を打った。
振動が鎖を伝い、カインの腕まで届く。
カインが笑った。
「磨かれた槍に、まっすぐな構え。それに、人を見下ろす目……」
二本の鎖を引き、先端を左右の壁へ打ち込む。
「どこぞの御曹司ってところか」
オスの表情は変わらなかった。
「お前の戦い方を見れば、路地で覚えたことが分かる」
「そのやり方で、何人も貴族を倒してきた」
カインは両足を地面へ固定した。
左右の壁に打ち込まれた鎖が動き、オスの周囲を閉ざしていく。
オスは槍先を下げた。
「なら、俺の名も加えてみろ」
踏み込んだ。
二本の鎖が交差しきる前に間を抜け、カインの胸へまっすぐ槍を突き出す。
カインは穂先へ鎖を巻きつけ、横へ引いた。刃は胸を逸れたものの、肩を掠めて衣服を裂いた。
カインの拳が返る。
オスは槍の柄で受け、半歩下がった。
「身分が違っても、血まで変わるわけじゃない」
オスは槍を回した。周囲で水が弾け、カインの拳を押し返す。
「身分が人を分けるのに、血など必要ない」
槍を一瞬地面へ突き、柄を支点に身体を浮かせてカインの胸へ蹴りを放つ。
カインは腕で受け止めた。
着地しながら、オスは続ける。
「口を開けば、それで十分だ」
カインの目が細くなった。
「そのご立派な身分ごと、呑み込ませてやる」
オスは再び正面に立った。
「まず俺まで届いてみせろ」
鎖が加速した。
その向こうで、イーラが手を上げる。
何も現れない。
それでもヤザンは、冷気が頭の中へ入り込むのを感じた。
空気からではない。
眼球の裏に、直接生まれた冷たさだった。
通路の壁が遠ざかり、戦いの音が水底へ沈んだように小さくなる。
イーラの姿が揺れ、三人に増えた。
五人。
十人。
石の上にも、壁にも現れ、すべてが同じ笑みを浮かべている。
重なった声が告げた。
「お前のような弱者を、よくアルマザがここまで入れたものね」
最も弱いからという理由だけで、ヤザンを狙ったのではない。
自分の中に残された恐怖を、彼を壊すことで消そうとしていた。
すべての分身から、笑みが一瞬消えた。
イーラが言う。
「今度は退かない。お前の中で何を見たのか、突き止めるまでは」
ヤザンは両拳を上げた。
目の前にあるどの身体が本物なのか、分からない。
隣でマヤが息を呑んだ。
彼女の目には、通路が膝まで水に満たされた広間へ変わっていた。背後から父に呼ばれ、オスには元の場所へ戻れと命じられる。
マヤは一瞬、目を閉じた。
足元に見える水は、呼びかけても応えない。
ならば、本物ではない。
壁へ手を伸ばした。
そこに浮かぶ湿気の粒が動き、床へ流れ落ちる。
薄い水の膜が、マヤとヤザン、ワーイルの足元に広がった。
「見えるものを信じないで」
ヤザンには、その声が遠く聞こえた。
「地面に触れるものだけを見て」
ワーイルの前にアルダが現れた。
顔は血にまみれ、片腕が力なく垂れている。
「もう終わりだ。逃げろ」
ワーイルは一歩下がった。
アルダの隣にラカンが現れ、胸には黒い穴が開いていた。
いつもの静かな声で言う。
「下がれ、ワーイル。ここにお前の役目はない」
ワーイルの肩が壁にぶつかった。
心臓が激しく胸を叩く。
逃げたかった。
身体のすべてが、イーラに目を向けられる前に走れと訴えていた。
だが、ヤザンが目に入った。
ケメンはない。
守ってくれる水もない。
手には槍もない。
危険から遠ざけてくれる風もない。
それでも、イーラの分身の前に立っていた。
ワーイルは思った。
俺たちの中で一番弱いのに、どうしてあんなふうに戦える?
怖くないのか?
その時、ヤザンの手が見えた。
震えている。
ワーイルは目を見開いた。
怖いんだ。
ヤザンが立っているのは、恐怖がないからではない。
恐れていても、立っているのだ。
イーラの分身の一体が、マヤの背後へ回った。
その足の影が水へ触れるのを見て、ワーイルは本物だと悟った。
「後ろだ!」
マヤが振り返る。
本物のイーラが、マヤの首へ手を伸ばしていた。
ワーイルが二人の間へ飛び込む。
イーラの掌は、マヤの首ではなくワーイルの前腕を打った。
腕の内側へ冷気が走り、足が石の上を滑る。
だがワーイルは倒れなかった。
短いケメンの衝撃を放ち、イーラを後退させる。
震える手を見たあと、ヤザンへ目を向けた。
拳を握る。
恐怖は消えていない。
それでも、もう恐怖だけに支配されてはいなかった。
マヤが隣へ来た。
「大丈夫?」
ワーイルは息を切らしながら答えた。
「いや」
別のイーラが目の前に現れる。
それでも両腕を上げた。
「でも、まだここにいる」
イーラの声が再びヤザンの頭に響いた。
分身が消える。
通路も消えた。
ヤザンは、アイン・アルワルの黒いナツメヤシの間に立っていた。
地面には腐ったナツメヤシの実が散らばり、煙と濡れた土の臭いが満ちている。
一本の木の前に、マルワンが背を向けて立っていた。
「マルワン……」
男は振り返らない。
そのまま遠ざかっていく。
追おうとしたが、ヤザンの足は地面へ食い込んで動かなかった。
反対側にマヤが現れる。
赤い水に囲まれ、膝をついていた。
ヤザンへ手を伸ばす。
「遅かった」
口を開いても、声が出ない。
マヤが倒れた。
鎖の擦れる音がした。
振り向く。
シグランが両腕を頭上へ縛り上げられ、吊るされていた。脇腹から血が流れ、肩に灯る青い炎も消えかけている。
苦しげに顔を上げた。
「助けてくれ、ヤザン……」
ヤザンは止まった。
シグランが言う。
「頼む」
ヤザンはその姿を見つめた。
ナツメヤシの間からイーラが歩み出る。今度は笑っていなかった。
「行きなさい」
ヤザンは動かない。
「助けたいんでしょう?」
ヤザンは両拳を下ろした。
イーラの目が変わった。
ヤザンが呟く。
「これは、シグランじゃない」
木々の間を抜ける風が止まった。
イーラが聞き返す。
「なんですって?」
ヤザンは囚われた少年を見上げた。
顔には同じ苦痛があり、同じ血が流れ、幻が真似た怒りさえ宿っている。
だが、声が違った。
「シグランは、そんなふうに助けを求めない」
ナツメヤシの光景に、一瞬ひびが入った。
戦いの音が耳へ戻り、また遠ざかる。
イーラが怒りを滲ませて言った。
「偽物だと分かっても、抜け出せるわけじゃない」
黒い根がヤザンの両脚へ絡みついた。
そのとおりだった。
見えているものが幻だと理解していても、身体は動かない。幻が頭へ送り込む痛みは本物で、胸を押し潰す恐怖もまた本物だった。
イーラは記憶の奥へ踏み込もうとするたび、あの冷たい深みが待っているのを感じた。
今度は退かなかった。
だが、近づきもしなかった。
その代わり、ヤザン自身の記憶と恐怖を次々に表へ押し出し、その向こうにあるものと向き合う前に、彼を埋め尽くそうとした。
領域の外で、アルダはヤザンがイーラへ顔を上げるのを見た。
風と鎖の音の中から、その言葉を拾い上げる。
スカイへ風の波を放ちながら、ラカンへ言った。
「あいつを鍛えるのは、さぞ楽しいだろうな」
スカイが右側の壁の上へ現れた。
ラカンはそちらへ身体を返す。
アルダが笑いながら続けた。
「ああ、俺の弟子だったら――」
「アルダ、気を抜くな」
アルダの頭の近くで空間が折れた。
寸前で身を沈め、スカイの掌を頭上へ通す。折り畳まれた空間が壁へぶつかり、石の一部が黒い裂け目の中へ消えたあと、砕けて戻ってきた。
アルダは飛び退き、ラカンの隣へ着地した。
「気は抜いていない」
「だから注意した」
アルダが笑った。
「あいつを鍛えるのが楽しいのも分かる」
スカイが再び襲いかかり、会話を断ち切った。
反対側では、カインの鎖が何度もオスの槍へ激突していた。
右から一撃。
下から二撃目。
三撃目は、岩を回り込んで背後から迫る。
オスは二本を弾いたが、三本目が槍の柄へ巻きついた。
カインが力任せに引く。
槍が止まった。
カインの顔に笑みが浮かぶ。
さらに二本の鎖を放ち、オスの背後の壁へ打ち込んだ。鉄輪が左右から動き、逃げ場を塞いでいく。
オスは両手で槍を引いた。
引く力へ抗う。だがカインは両足を固め、左右の壁へ力を分散させていた。
マヤがそれに気づいた。
イーラと向き合いながら、床に広げた水の膜も保っている。
二本の指を動かした。
足元から細い水の筋が伸び、石に沿って、オスの槍へ巻きつく鎖まで届く。
壊そうとはしなかった。
下から鉄輪を押し、引く角度を変える。
カインの足が半歩滑った。
ほんの一瞬だった。
だが、オスは逃さない。
鎖へ逆らわず、引かれる方向へ槍を回してから胸元へ引き戻した。鉄輪がずれ、金属の柄から外れる。
オスは即座に踏み込んだ。
穂先へ水を集め、カインの肩を突く。
カインは鎖を上げて受けたが、激突と同時に水圧が炸裂し、後方へ押し戻された。
オスが横目でマヤを見る。
「考えもなく割り込むな」
マヤは振り返らなかった。
視線は、イーラの足元に広がる水の輪を追っている。
「計算したわ」
オスは黙った。
再び槍を正面へ構える。
カインは顔の水を拭い、笑った。
「妹に助けてもらうとはな」
オスがゆっくりと顔を上げる。
「もう一度言ってみろ」
その目を見た瞬間、カインの笑いが消えた。
再び二人が踏み込もうとした時、全員の足元で通路が揺れた。
*
遠く離れた場所では、別の白い怪物がアドナンへ腕を振り下ろしていた。
アドナンが後ろへ跳ぶ。
拳が地面へ激突し、ラーイドとアミールの足元まで亀裂が走った。
ラーイドは怪物の膝へ炎を放った。白い肉が燃え、一部が溶ける。だが火が消えるより先に、再び集まり始めた。
怪物の肩には、まだ黒い箱が固定されている。
ライはその脇に立ち、アナスに開かれた脇腹の傷を片手で押さえていた。
指の間から血が滲む。
それでも、その目は静けさを失っていなかった。
アミールが言う。
「負傷してる。畳みかけろ!」
腕を上げると、稲妻が周囲へ集まった。
「待て」
アナスが止めた。
アミールは苛立たしげに見る。
「なんだ?」
アナスが見ているのは、ライではなかった。
箱だった。
中から叩く音がする。
三度続けて。
そして、沈黙。
怪物が一歩動くと、箱が大きく傾いた。
同じ律動で、再び三度の音が鳴った。
「音が繰り返してる」
ナーダが言う。
「動けないのかもしれない」
「中に人がいるなら、箱が傾いた時に位置が変わる」
ライは低い岩まで退き、そこで振り返った。
箱を守ろうとしているように見える。
だがアナスは、その足の向きを見た。
箱へは向いていない。
その背後にある通路を守っている。
「それに、箱を取り返そうともしていない」
アドナンは意味を悟った。
箱を見てから、ライへ目を向ける。
「囮かもしれない」
アミールが言った。
「本当にシグランかもしれない。ここで見ていても分からないぞ」
アドナンは首を横へ振った。
「確かめる」
声を上げた。
「ラーイド、俺と来い! 怪物を止めろ。身体じゃない、ベルトを狙え!」
ラーイドが左へ動く。
怪物の腕が襲いかかる。その下を抜け、胸を横切る革のベルトへ炎を走らせた。
アドナンが反対側から、もう一本のベルトを打つ。
二本が燃え上がった。
怪物は箱を守ろうと身体を返す。
その瞬間、アミールが飛び込んだ。
岩へ跳び乗り、拳へ雷を集め、怪物の肩にある金具を打ち抜く。
金属が炸裂した。
箱が傾く。
ライが初めて動いた。
アミールへ駆ける。だが足元の影が持ち上がった。
その中からアナスが現れ、前腕から黒いケメンの刃を伸ばして立ちはだかる。
ライは、前と同じ傷を再び開かれる寸前で止まった。
アナスが言う。
「今度は見えてる」
ライは進路を変えたが、その遅れだけで十分だった。
箱が怪物の肩から落ち、地面へ叩きつけられる。
二度転がり、アスマーのそばで止まった。
彼女は錠へ掌を置いた。
氷が中へ入り込み、接合部まで包んでいく。
ナーダが言った。
「少し離れて」
アスマーが横へ動く。
ナーダは両手へ光を集め、蓋と箱の隙間へ細い光線を向けた。
光が中へ差し込む。
頭の影はない。
肩もない。
見えたのは、角張った動かない塊だけだった。
「人はいない」
アミールが箱の横へ降りた。
「開けるぞ」
凍った錠へ短い電撃を流す。
金属が割れた。
蓋を上げる。
中にあったのは、縄で縛られた鉄の重りだった。
その上には、引き裂かれたシグランの服の一部。
箱の内側には小さな金属片が取りつけられ、揺れるたびに壁を叩いて音を鳴らす仕掛けになっていた。
一瞬、沈黙が落ちた。
ラーイドが拳を握る。
「罠か」
アドナンはライを見た。
箱を開けられても、怒ってはいない。
取り返そうともしなかった。
「奴らは、必要なだけの時間を稼いだ」
仲間へ合図する。
「ラカンのもとへ戻る」
ライが初めて笑った。
「遅い」
白い怪物が両腕を地面へ叩きつけた。
土と岩の壁が、部隊と拠点へ続く道の間に立ち上がる。
爆発に押され、全員が後退した。
土煙が晴れた時、ライは瓦礫の上に立ち、白い怪物が隣にいた。
アドナンが言う。
「ここへ釘づけにするつもりだ」
両拳を炎が包んだ。
「なら、力ずくで道を開く」
ラーイドが隣へ並ぶ。
アナスの腕で影の刃が一度溶け、再び形を取った。
ナーダが光を集める。
アスマーの前へ氷が広がった。
追跡は終わっていない。
帰るための戦いへ変わった。
*
拠点の奥深くで、シグランが顔を上げた。
壁の向こうから、かすかな衝突音が届く。
続いて、もう一度。
距離は測れない。それでも、誰かが外で戦っていることは分かった。
両手は二つの金属輪で壁へ拘束されていた。周囲に刻まれた紋様が、炎を灯そうとするたびにケメンの大半を吸い取っていく。
だが、すべてではない。
シグランは指を鉄輪へ添え、その動きを手首の陰に隠した。
皮膚と鉄輪の間に、小さな青い点が生まれる。
炎ではない。
一点へ凝縮した熱だけだった。
遠くで衝突音が響くまで待つ。
熱の脈動を放った。
金属が微かな音を立てて膨張し、その音は外の衝撃に吞まれた。
すぐに熱を消す。
次の衝突に合わせ、もう一度繰り返した。
手首は焼け、鉄の下で皮膚が裂けている。それでも、輪に走る細い線は少しずつ広がっていた。
アズロンは正面に立ち、閉ざされた石の扉を見ていた。
振り返らない。
「仲間が近づいている」
シグランの指が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
「なら、お前は終わりだ」
アズロンが肩越しに見る。
「入ってこさせたくないなら、道を開けたままにはしていない」
シグランは拘束具を引いた。
鉄輪がわずかに動く。
指の力を抜き、その動きを隠した。
アズロンが言う。
「奴らは、俺が来させたかった場所へ辿り着いた」
再び扉へ目を戻した。
シグランは次の衝突音を待つ。
そして、青い点をもう一度灯した。
*
通路では、イーラの領域がさらに圧力を増していた。
もう全員を同時に惑わせようとはしていない。
力のすべてを、ヤザン一人へ集めていた。
戦いの音が消える。
マルワンが、再び目の前に現れた。
今度は黒いナツメヤシの下に座り、幹へ背を預けている。
顔を上げた。
その目には何もなかった。
「お前は、俺を見殺しにした」
ヤザンの息が止まる。
隣にマヤが現れ、口から血を流していた。
「遅かった」
次はシグラン。
地面へ倒れ、青い炎を失っている。
「お前は最初から足手まといだった」
黒い根がヤザンの両脚を強く締めつけた。
背が曲がる。
本物のマヤの声を思い出そうとした。だが幾つもの声が頭の中で重なった。
マルワン。
シグラン。
アマニ。
自分を残していった者たち。
救えなかった者たち。
領域の外で、マヤはヤザンの頭が垂れるのを見た。
「ヤザン!」
返事はない。
両腕が身体の脇へ落ちる。
指が一度だけ縮まり、それから緩んだ。
足も動かなくなる。
イーラが笑った。
「終わりね」
マヤは近づこうとした。だが同時に、三人のイーラが目の前へ現れた。
水面の輪が、それぞれ別の方向へ広がる。
イーラは足取りが作る波紋さえ惑わせていた。
「ヤザン、聞いて!」
顔は上がらない。
イーラが笑う。
今度は意識の中ではない。
本物の口から漏れた笑いだった。
ワーイルは、動かなくなったヤザンを見た。
一瞬、先ほど目にしたものは勇気などではなかったのかと思った。
ヤザンも、自分と変わらないのかもしれない。
結局、誰もが恐怖には屈するのかもしれない。
だが、ワーイルは気づいた。
ヤザンの足元にある水滴が震えている。
身体のすべてが止まっているわけではない。
「マヤ……」
マヤが彼を見る。
何と言えばいいのか、分からなかった。
イーラがヤザンへ近づき始める。
一歩。
足元の水が動く。
二歩目。
波紋がヤザンの靴へ届いた。
幻の中で、光景はまだ消えていない。
マルワンが目の前にいる。
マヤは自分の血に沈んでいる。
シグランが侮蔑を込めて見ている。
だが、冷たいものが足裏へ触れた。
水。
本物の、マヤの水。
微かな震えが届く。
そして、もう一つ。
誰かの足音が近づいている。
ヤザンは幻を壊そうとはしなかった。
壊せなかった。
周囲で叫び続ける像を放置し、イーラにも先読みできない、ただ一つの感覚へ意識を繋ぎ止めた。
水を踏む足音。
イーラがさらに近づく。
俯いた頭と、動かない肩を見る。
その目から警戒が消えた。
「その沈黙の奥に、何かがいると思っていた」
もう一歩、水を踏む。
「でも、結局あなたは……」
目の前で止まった。
二人の間には、腕一本分の距離しかない。
ヤザンの顎へ手を伸ばす。
「ケメンも持たない、ただの怯えた少年」
指が顔へ触れた。
ヤザンの足が石の上で強張る。
すぐには顔を上げなかった。
踵を固定する。
腰を回す。
そして、身体に残る力のすべてを乗せ、下から拳を突き上げた。
イーラが目を見開く。
拳が顎の下を捉えた。
笑い声が途切れる。
頭が後ろへ跳ね、足元が崩れた。身体は石の上へ落ち、何度も転がってから通路の脇へ激突した。
動かなくなった。
同時に、すべての分身が消えた。
ヤザンの頭の中で、黒いナツメヤシが崩れ落ちる。
マルワンが消えた。
偽りのシグランも消えた。
通路が戻る。
鉄と風と水の音が戻った。
ヤザンはよろめいたが、倒れなかった。
カインは妹の身体を見て動きを止めた。
目を見開く。
「イーラ!」
返事はない。
一本の鎖が激しくヤザンへ襲いかかった。
オスが槍を回し、途中で受け止める。
鉄が水をまとった穂先へ激突した。
「お前の相手はここだ、鎖使い」
カインが鎖を引く。怒りで顔が歪んでいた。
くそ。
妹は、どれほど恐ろしい領域を作れても、接近戦には弱い。
それを知っていながら、自分からあの少年の拳が届く距離まで近づいた。
オスは横目でヤザンを見る。
ケメンを持たず、立っていることさえ難しい少年が、屈強な戦士たちさえ意識の中で屈服させる女を倒した。
「あの少年……妙だな」
ヤザンは苦しげに顔を上げた。
額は汗に濡れ、殴った手は震え、幻の残滓がまだ意識へ重くのしかかっている。
床に倒れたイーラを見た。
そして言った。
「同じ扉には、二度と囚われない」
返事はなかった。
イーラは意識を失っていた。




