婚約披露パーティーをすっぽかして年下大学生と遊んでいたら、元整備士の婚約者は億万長者になっていました
1. 私は自分の婚約披露パーティーをすっぽかした
白川蓮と婚約する日、私は彼をすっぽかした。
その日、東京・港区の高級ホテルでは、宴会場いっぱいに白い薔薇が敷き詰められていた。西園寺家の親族も、白川蓮の会社の取引先も、みんなそろっていた。全員が婚約披露パーティーの主役である私を待っていたのに、私は葉山の海辺のホテルのテラスで寝そべり、日差しを浴びながら冷えたシャンパンを飲み、友人の森下依織が送ってきた中継動画を眺めていた。
画面の中で、白川蓮は行き交う招待客の間に立ち、グラスを手にしていた。寂しげな目をしているのに、それでも無理に笑みを作り、私の代わりに場を取り繕っている。
彼は濃い色のスーツを着て、背筋をまっすぐ伸ばしていた。すべての感情を胸の奥に押し込めているようだった。
「瑶子は今日、少し体調が悪くて、どうしても出席できませんでした。この一杯は、彼女の代わりに私からのお詫びとさせてください。どうかご容赦ください」
彼の声を聞いても、私の中に罪悪感はほとんど湧かなかった。むしろ、少しおかしかった。
白川蓮が私を愛していることを、私は知っていた。だから私は、ずっと好き勝手に振る舞ってきた。
朝倉陽翔が隣から身を寄せ、指先で私のシャンパングラスに軽く触れた。曖昧で、従順そうな笑みを浮かべている。
「瑶子さん、本当に自分の婚約披露パーティーに行かないんですか?」
私は動画の中で、白川蓮が私の代わりに頭を下げ、酒を受けている姿を見て、鼻で笑った。
「行かない。どうせ蓮は、私から離れられないもの」
私と白川蓮は六年付き合っている。
彼の世話は、細かすぎて異常と言ってもよかった。歩くこと以外、私はほとんど何もしなくてよかった。胃が弱い私の食事を毎日見張り、寒がりの私のために先に布団を温め、私が何気なく食べたいと言ったものを、深夜でも車を出して買いに行く。
けれど私は、心の底では彼を見下していた。
ただ彼が祖父の命を救ったというだけで、祖父はあの古くさい頑固さで、蓮を「信頼できる男」だと決めつけた。臨終前には、どうしても私と彼を婚約させると言って聞かなかった。
両親は私が幼いころに事故で亡くなり、私は祖父に育てられた。祖父の言葉を完全に無視することはできず、私はこの関係を半ば受け入れた。
スマホはずっと鳴っていた。画面には白川蓮の名前ばかりが並んでいる。
私は彼のそういうところが一番嫌いだった。毎日電話、毎日メッセージ。まるで永遠に話すことが尽きないみたいに。
苛立ってスマホをソファの反対側へ投げ、目を閉じた私は、ホテルのスパスタッフに言った。
「全身トリートメントを一通り。髪も整えて」
次に目を覚ましたとき、外はもう暗くなっていた。朝倉陽翔はまだ隣におとなしく座って待っていて、よく躾けられた大型犬みたいだった。
「西園寺さん、夜は一緒にキャンドルディナーでもどうですか?」
私は目を開けた瞬間、顔を冷たくした。
「前にも警告したはずよ。私のことは西園寺さんと呼びなさい。瑶子なんて、あなたが気軽に呼んでいい名前じゃない」
朝倉陽翔の笑顔が一瞬こわばった。それでもすぐに従順にうなずいた。
「すみません、西園寺さん」
私はその反応に満足した。
物分かりがよく、従順で、自分の立場をわきまえている。彼が数いる曖昧な相手の中で残っていられる理由は、そこにあった。
外にいる男たちは、私と遊ぶだけならいい。けれど白川蓮の前で騒ぎを起こされるのは困る。処理が面倒だからだ。
私はデッキチェアから起き上がり、ゆっくりと上着を羽織った。
「今日は食べない。彼をすっぽかしたんだもの、帰って少しは慰めてあげないと」
朝倉陽翔の目に、かすかな驚きが走った。それでも彼は、従順に返事をした。
「はい」
私は、彼が余計なことを聞かないところが気に入っていた。
私の前では、誰もが自分の位置を理解しているべきなのだ。
2. 彼はまだキッチンで私を待っていた
港区のマンションに帰ると、白川蓮はキッチンで夕食を作っていた。
暖かな黄色い灯りが彼の肩に落ちている。シャツの袖を肘までまくり、手際よく野菜を切り、味を調え、皿に盛っていく。その光景を私は何度も見てきた。見慣れすぎて、もう何も感じないほどだった。
それでも認めざるを得ない。白川蓮の顔立ちは整っている。
この数年で、町工場の自動車整備士だった彼は、テック企業の社長になった。少年のころの荒々しさは半分以上そぎ落とされ、成熟し、清潔で、以前よりも近寄りがたい雰囲気をまとうようになっていた。
物音に気づいた彼が振り返る。目が一瞬、明るくなった。
「少し待って。もうすぐできるから。今から食べよう」
私はうなずいただけで、それ以上は何も言わなかった。
食卓で、白川蓮は何度か私をそっと盗み見た。長いこと言葉を選んだあと、ようやく低い声で聞いた。
「瑶子、今日は何か、どうしても抜けられない用事があったの?」
その口調は、慎重すぎるほどだった。まるで悪いことをしたのが彼であるかのように。
私は顔も上げず、適当に言った。
「そうよ。用事があったの。葉山でスパを受けていたわ」
言い訳を考えることすら面倒だった。
白川蓮の目の光が、少しずつ暗くなっていった。私のあまりに平然とした残酷さに刺されたようだった。
彼の目元は赤くなった。それでも彼は黙って、私の皿に焼き魚を一切れ置いた。
私はもう、彼の中に、昔のあの奔放でまぶしい少年の面影を探すことが難しくなっていた。
彼が傷ついていることは分かっていた。
分かっていただけだった。
その小さな違和感は、私が彼をなだめるために心を砕くほどのものではなかった。なだめても、なだめなくても、結果は大して変わらない。私が彼を遠くへ蹴り飛ばしたとしても、結局彼は、自分からすがるように戻ってくる。
今だって、そうだった。
白川蓮はサイドボードから二枚のチケットを取り出し、優しい目で私を見た。
「瑶子、劇団四季の人気ミュージカルのチケットが取れたんだ。明日、一緒に行かない?」
ミュージカルは私の一番好きなものだった。
本当なら、行きたいと思った。
けれど、朝倉陽翔も帝国劇場のチケットを二枚用意して、私を誘っていた。私はすでに彼に返事をしていた。
朝倉陽翔がなぜ必死に私の機嫌を取っているのか、私は分かっていた。最近、彼は二千数百万円のGクラスを欲しがっている。
あの日、彼はまっすぐ私を見つめ、甘く柔らかい声で言った。
「西園寺さん、一緒に行きましょうよ。お願いです。僕、本当にあなたと観たいんです」
年下大学生の甘えた声は、なかなか断りづらい。しかも朝倉陽翔は、若くて、明るくて、清潔感のある顔をしている。笑うと青春映画から抜け出してきたみたいだった。
若くて綺麗で従順な男の子を嫌いな人がいるだろうか。少なくとも私は好きだった。
私が承諾した瞬間、彼は飛び跳ねそうなほど喜んだ。
「やっぱり西園寺さんは、僕に一番優しいです」
甘え方をよく知っている。
前に新型のゲーミングノートが欲しいと言ったときも、彼は横浜のヨットへ二日一晩付き合った。私は白川蓮には、女友達と気晴らしに出かけると嘘をついた。
その二日間、私と朝倉陽翔は、寝ている時間以外ほとんど一緒にいた。海を見て、食事をして、次はどこへ行くかを話した。
だから白川蓮の誘いに、私は迷わず断った。
「また今度ね。もう別の人と約束しているの」
白川蓮はゆっくりとうつむいた。唇が少し動いたが、何も言わなかった。
私は彼の目の奥に浮かんだ失望を、見えないふりをした。
そして立ち上がり、明日着る服を選びに行った。
3. ミュージカル劇場での鉢合わせ
翌日の夜、帝国劇場の中は薄暗く、舞台の奥から音楽がゆっくりと広がっていた。
私と朝倉陽翔は三列目の中央に座っていた。旋律は雄大で、歌声は美しかった。私はすぐに舞台へ引き込まれた。
朝倉陽翔は何度か私の手を握ろうとした。私は微笑みながら、指をそっと引き抜いた。
近づくことを許しているからといって、本当に境界を越えていいわけではない。
終演後、客席の明かりが少しずつ灯っても、私はまだ余韻の中にいた。
朝倉陽翔は諦めきれないように、親しげに私の額にかかった髪を払った。唇には、機嫌を取るような笑みを浮かべている。
「西園寺さんが好きなら、次も僕が一緒に来ます。僕たち、時間ならいくらでもありますから」
その言い方で、私の機嫌は一気に半分ほど冷めた。
私は指先を彼の額に当て、少し押し離した。
「あなた……」
言いかけたとき、向かいの廊下に立つ男の姿が目に入った。
白川蓮だった。
彼は折りたたまれたチケットの半券を手に、ひとりでそこに立っていた。人の流れが彼のそばを通り過ぎていくのに、彼だけがその場に釘づけにされたようだった。
その視線は、私と朝倉陽翔のほとんど触れ合うような距離に落ちていた。
胸の奥で、理由の分からない苛立ちが湧いた。
「どうしてここにいるの?」
白川蓮が来ているとは思わなかった。
いや、私が断ったのに、彼が一人でミュージカルを見に来るとは思わなかったのだ。
白川蓮は答えなかった。
外では相変わらず、上品で冷たい社長らしい顔を保っている。けれど視線は、私と朝倉陽翔の間に止まったままだった。
それに気づいた私は、さらに苛立ち、振り返って朝倉陽翔を強く押しのけた。
何にせよ、私は白川蓮にこんな場面を見られたくなかった。
彼と別れるつもりなど、私は一度もなかった。
朝倉陽翔はまだ何か言いたそうだった。私は冷たくにらんだ。彼はすぐに表情を収め、素直にその場を離れた。
白川蓮は、その一部始終を見ていたが、何も聞かなかった。
私は彼の前まで歩いた。
現場を見られた以上、少しは気まずかった。けれど気まずさよりも、彼が何も言わないことの方が嫌だった。
「何か言って」
不満がにじんだ声になった。
白川蓮は苦く笑った。自分を嘲るような笑みだった。
そして、朝倉陽翔に触れられていない方の私の手を取った。声はとても軽かった。
「帰ろう」
私は心の中で得意げに鼻を鳴らした。
彼がこうやって自分をごまかし続ける限り、私たちの間の薄い紙は永遠に破れない。
帰りの車の中で、白川蓮は何度もスマホの画面を点けていた。
私はちらりと見た。銀行からの利用通知だった。
その日の午後、私は朝倉陽翔に二千三百万円のGクラスを買ってやっていた。
その金額は、今の白川蓮にとって大したものではない。
彼はもう、安い作業着を着て町工場で暮らしていた少年ではなかった。彼が創業した白川スマートモビリティ株式会社は、東京のテック業界で注目される新興企業だった。AI自動運転システムと車載電子制御を主力に、彼の資産価値は昔とは比べものにならない。
私が何に金を使ったのか知りたいなら、秘書に調べさせればすぐ分かる。
それでも彼は、あえて聞いた。
「瑶子、午後の二千三百万円、何を買ったの?」
彼がわざと聞いていることは分かっていた。
私はシートにもたれたまま、答えなかった。
白川蓮は数秒沈黙してから、低い声で言った。
「瑶子、僕が稼いだお金は君に使ってほしい。外の人間に使うためじゃない」
彼は一度言葉を切った。声に、初めて抑えきれない感情がにじんでいた。
「僕だって男だ。怒ることもあるし、プライドもある」
その言葉を聞いた瞬間、私は一瞬ぼんやりした。
そうだ。
今、私が使っている金のほとんどは、白川蓮が稼いだものだった。私たちの立場は、昔とはとっくに変わっていた。
かつて彼は、西園寺家に施しを受ける側だった。
けれど今の彼は、私が寝て暮らしても一生遊べるだけの金を稼げる男になっていた。
ふと、彼と初めて会った日のことを思い出した。
病院だった。
私は彼を、祖父をはねた車の運転手だと思い込んで、頭ごなしに罵った。
彼は一八〇センチを超える体を、狭い長椅子に持て余すように座っていた。長い脚は行き場がなく、服には油汚れがつき、髪は乱れていた。それなのに顔だけは妙に整っていた。
私はそれがなおさら腹立たしくて、腰に手を当てて怒鳴った。
「笑っている場合? 西園寺家が誰だか分かっているの? 私が指一本動かせば、あなたの人生なんて一生刑務所で腐らせられるのよ」
白川蓮は片眉を上げ、なぜか笑った。
「俺が、あんな車を買えるように見える?」
そのとき初めて、私は彼をまじまじと見た。
粗い作業着、古いスニーカー、爪の間には洗っても落ちない油汚れ。
顔だけに少し品がある以外、金持ちの要素はどこにもなかった。
彼は低く笑って言った。
「車は買えないけど、毎日車には触ってる。俺、自動車整備士だから」
そのころの私は理解できなかった。
ただの整備士が、汚い仕事ばかりして、稼ぎは私の朝食代にもならないような人生を、どうしてあんなに平然と生きられるのか。
後になって知った。
彼はどんな苦労もしてきた。空き瓶を拾い、皿洗いをし、接客をし、使われる側の仕事を何でもした。彼にとって、整備工場で技術を身につけられることは、それだけで十分いい人生だった。
祖父は命を救われた恩に報いるため、彼に小さな整備工場を持たせた。ときどき家に呼び、食事もさせた。
私はずっと彼にいい顔をしなかった。恩を盾に入り込んできた人間だと思っていたからだ。
祖父が亡くなった後、西園寺家の分家が財産を狙って動き始めた。猟犬みたいに群がり、食いちぎろうとしてきた。
そのころの私は祖父に守られすぎていて、会社のことなど何も分からなかった。ただ呆然としていた。
その中で動き回り、いくつかのアパレルの供給網と店舗を守ってくれたのが白川蓮だった。年商はたしか二、三千万円ほど。正確な数字は数えたことがない。
私のお金の使い方はいつも派手だった。その収入も別のカードに入れたまま、ほとんど触っていない。
それでも、今の白川蓮の言い方を聞いた瞬間、なぜか怒りがこみ上げた。
彼は何様のつもりで、私にそんな口を利くのだろう。
「それで、白川蓮。今のはどういう意味?」
4. 朝四時のいちご飴
白川蓮の声はすぐに柔らかくなった。
「別に、そういう意味じゃない。君が欲しいものなら、何でもあげる。君が楽しいなら、僕は何でもいい」
彼は前方の道路を見つめたまま、最後の怒りを押し殺すように低く言った。
「でも、そういうものは、君だけにあげたいんだ」
それでも私は引き下がらなかった。
「白川蓮、いい加減にして。私に要求しているの? 分かっているの? 祖父があなたとの婚約を望んでいなければ、私は最初からあなたとなんて婚約していない。私、男に困っているわけじゃないの」
白川蓮は長いこと黙っていた。
そして、軽く言った。
「うん。知ってる」
彼は私のそばで、ますます沈黙するようになった。
ほとんどの時間、彼はただ静かに私を見ていた。騒がず、怒らず、まるで影のように。
朝倉陽翔とは違う。彼は甘えないし、不満も言わない。新鮮さも作らない。静かすぎて、まるで木偶人形のようだった。
その静けさが、いつも私を苛立たせた。
その夜中、私は生理が来て、痛みでぼんやりしたまま近くの熱源へ体を寄せた。
白川蓮はすぐに目を覚まし、ベッドサイドの灯りをつけた。眉間にしわを寄せている。
「瑶子、痛い?」
彼は布団をめくり、パジャマ越しに使い捨てカイロを私の下腹に当てた。それから額に触れた。
「少し待って。生姜湯を作ってくる」
彼がベッドを降りようとしたとき、私はふいにその手をつかんだ。声は弱っていたが、わがままだった。
「生姜湯はいらない。いちご飴が食べたい」
白川蓮が一瞬固まった。
私は布団から顔を半分だけ出し、彼をじっと見上げた。
「浅草のお祭りで売っているみたいな、長くて綺麗ないちご飴。今すぐ食べたい」
今が朝の四時だということは分かっていた。
外で雨が降っていることも分かっていた。
けれど私は、彼がどこで買うのかなんて気にしなかった。明日の朝、目が覚めたときにそれが見られるかどうかだけが大事だった。
そうすれば、胸の奥にある名もない苛立ちが消える気がした。
そうすれば、白川蓮がまだ私の手の中にいて、まだ私を愛していると確認できる気がした。
白川蓮は長いこと私を見つめた。
その目は、信じられないくらい柔らかかった。
彼は身をかがめて、私の額にそっと口づけた。
「分かった。買ってくる」
彼は私を失望させなかった。
翌朝、目が覚めると、白川蓮はもう帰ってきていた。
髪は濡れ、上着もズボンの裾も雨水だらけだった。彼が歩くたび、床に一滴ずつ水が落ちる。
彼はベッドのそばに立っていた。勝利を収めた将軍みたいに、目が驚くほど明るかった。
「瑶子、買ってきたよ」
彼の手には、丁寧に包まれたいちご飴があった。
私は目を細め、本心から驚いた。
「本当に買ってこられたの?」
私は身を寄せ、彼の頬に軽く口づけた。
白川蓮の目に、愛しさがあふれそうになっていた。
私はもう、自分から彼にキスすることがほとんどなかった。前回から二か月は経っている。
こんなに気を利かせたのだから、たまには褒美をあげてもいい。
彼が手を伸ばして私を抱こうとした。けれど濡れた服に気づき、すぐにその手を引っ込めた。
「先にシャワーを浴びてくる。君まで濡らしたくない」
私はあごを少し動かして、分かったと示した。
白川蓮はそういう人だった。
シャワーを浴びに行くような小さなことまで、私に報告が必要だと思っているみたいだった。
5. 九千九百九十九円のネックレス
白川蓮は毎日、私にたくさんのメッセージを送ってきた。
私が最近まともに返信したのは、青山にあるカフェを気に入って、彼に買収してほしいと思ったときくらいだった。
彼のチャット欄には、いつも細かくて退屈な気遣いが並んでいる。
【瑶子、今日は静岡に出張だよ。仕事が終わって海を見に行った。すごく青い。写真を送ってもいい?】
【ご飯食べた? 時間がずれると胃が痛くなるから、ちゃんと食べて】
【今日は忙しい。昼食は二口だけで会議に入った】
【帰りに何か買っていくものある?】
【お金が足りなくなったら言って】
【飲みすぎた】
【瑶子、会いたい】
【今から帰る】
こういうメッセージは、私の興味をほとんど引かなかった。
たまに「うん」や「そう」と返すと、彼はまたたくさん送ってくる。時間が経つにつれ、私はそれを開くことさえ面倒になった。
白川蓮がシャワーを終えて出てきたとき、低い声で私の意識は引き戻された。
「瑶子、明後日、時間ある?」
考えてみると、明後日は特に予定がなかった。私はうなずいた。
彼はすぐに笑った。眉も目元も、やわらかくほどける。
「よかった。じゃあ、一緒に行こう」
どこへ行くのか、何をするのか、私は聞かなかった。
どうでもよかった。
どうせまた、何かのサプライズを用意したのだろう。
翌日、白川蓮はいつもどおり会社へ行った。
私は一人で家にいて退屈になり、朝倉陽翔を誘って映画を見に行った。
銀座のアクセサリーショップの前を通ったとき、彼は三十数万円のメンズブレスレットを見つけた。目が隠しきれないほど輝いていた。
私はためらわずカードを切った。
店員が笑顔で言った。
「お客様、ただいまキャンペーン中でございます。三十万円以上お買い上げのお客様は、こちらのペアネックレスを九千九百九十九円でお持ち帰りいただけます。ご覧になりますか?」
そのネックレスは銀色のビーズチェーンで、灯りの下できらきら光っていた。服に合わせれば悪くない。
「包んで」
映画を見終わった後、朝倉陽翔はまだ食事に誘ってきたが、私は断った。
比べてみれば、私はやはり家に帰って食事をする方が好きだった。
キッチンで白川蓮が忙しくしている背中を見ると、安定した、温かな感じがする。もう新鮮ではなくなっていても、その感覚は確かに私を安心させた。
白川蓮は私より早く帰っていた。
いつものように私が脱いだコートを手に取り、クリーニングに出す前にポケットの中身を確認した。そして中から、あの銀色のネックレスを見つけた。
「瑶子、これは君の?」
「うん」
私はそのネックレスを一瞥し、白川蓮の期待に満ちた目の前で一瞬だけ黙った。
そして、なぜか言った。
「あなたに買ったの」
どうせ中性的なデザインだ。男でも女でもつけられる。
白川蓮は一瞬固まった。
それから目尻に、ゆっくり笑みが浮かんだ。
彼はネックレスを両手でそっと包み込んだ。まるで、とても大切なものを捧げ持つように。
「綺麗だね」
私はからかった。
「そんなに気に入ったの?」
「うん」
彼の声は軽く、隠しきれない喜びが混じっていた。
「瑶子が買ってくれたものなら、何でも好きだよ」
彼がそれほど大事そうにするのを見て、私はふと、彼が哀れになるほど馬鹿だと思った。
別に、私のお金で買ったわけでもないのに。
6. 母の命日
翌朝、白川蓮は本当にそのネックレスを首にかけていた。
銀色のビーズチェーンは、高級スーツには少し不釣り合いだった。
それでも認めざるを得ない。白川蓮には、生まれつき人を振り向かせる顔と体がある。安物の上着を着ても目を引く人だった。まして今は、底辺の少年だったころの狼狽えた気配が消え、上品で鋭い男になっている。
彼を好きな女は、昔から多かった。
北海道から二十時間以上かけて東京まで来て、彼に一目会おうとした女性を見たこともある。
けれど、そういう女たちの結末はいつも同じだった。
白川蓮は冷たく拒絶する。
そして必ず私を指して言うのだ。
「見えますか。これが僕の婚約者です」
私はいつも彼を見下していると言っていたが、確かに彼に心を動かされたことはあった。
私の青春は退屈だった。
白川蓮は、そこへ突然飛び込んできた少年だった。勢いがあって、向こう見ずで、頑固なのに折れるところは折れる。まだ何も分からなかった私の年頃に、彼は私のすべての注意をさらっていった。
私が彼を好きになったのは、自然なことだった。そこは今でも認めている。
ただ、今は少し飽きただけだ。
スマホが鳴った。
朝倉陽翔からのメッセージだった。
【西園寺さん、今日は僕の誕生日です。夜、六本木で一緒に祝ってくれませんか? 会いたいです】
私は何気なく五十二万円を送金した。
【今日が誕生日だなんて知らなかった。自分で何かいいものを買いなさい】
夜、六本木のバーは、揺れる光で満たされていた。
朝倉陽翔は友人たちに囲まれ、冷やかされながら目を閉じて願い事をしていた。まつ毛がかすかに震え、両手を合わせている。甘えるような声だった。
「西園寺さんがずっと幸せでいますように。あと、僕たちがずっと一緒にいられますように」
彼は目を開け、高くグラスを掲げて、まぶしい笑顔を見せた。
「八月二日って、本当にいい日だな。今までで一番楽しい誕生日です!」
私の頭が一瞬、真っ白になった。
酔いが少し冷める。
私は声を高くした。
「今、何日って言った?」
朝倉陽翔は不思議そうに私を見た。
「八月二日ですけど。どうかしました?」
八月二日。
白川蓮の母親の命日だった。
私はようやく思い出した。
白川蓮が一昨日、私に時間があるかと聞いたのは、その日に一緒に行こうと言ったのは、彼の母親の墓参りに付き添ってほしかったからだ。
胸の奥に、理由の分からない苛立ちが湧いた。
大丈夫。
白川蓮はいつも無条件に私を許してくれる。
去年だって、私は彼の母親の墓参りに行かなかった。彼は怒らなかった。今回だって同じだ。
明日、一緒に行ってやればいい。何も変わらない。
私は心の中でいくつも理由を並べ、最後には自分さえもだましきった。
けれどスマホを手に取った瞬間、画面があまりにも静かなことに気づいた。
白川蓮からのメッセージはなかった。
不在着信もない。
あれほど何でも共有し、帰宅するだけでも報告してきた人が、今日は一通も連絡をしてこなかった。
新しく、奇妙な考えが稲妻のように頭をかすめた。
何かが、ゆっくりと私の支配から外れていっている気がした。
7. その夜、彼はネックレスを外した
集まりが終わったとき、朝倉陽翔が車で私を送ってきた。
私は少し酔っていた。
鍵を取り出そうとした瞬間、マンションのドアが内側から開いた。
白川蓮がそこに立っていた。
彼が見たのは、私が朝倉陽翔の腕にもたれている場面だった。
「ちょっと、めまいがしただけ」
私は反射的に言い訳し、朝倉陽翔の腕から離れようとした。
けれど彼の腰に回した手は、逆に強くなった。
私はすぐに怒りを覚えた。
「離して」
朝倉陽翔は聞こえなかったふりをした。
それどころか、白川蓮に向かって笑った。軽い声だった。
「西園寺さん、もう彼のこと好きじゃないなら、別れればいいじゃないですか。僕と一緒にいる方がよくないですか?」
その顔には、守られているという自信があった。
明るく、太陽のようで、けれどその瞬間、ひどく目障りで、吐き気がした。
私が彼を曖昧な相手に選んだのは、彼の中に若いころの白川蓮の影を見たからだ。
自信があり、張り合いがあり、口は悪いけれど折れるときは折れる。
けれど今、彼の笑顔は少しも綺麗ではなかった。むしろ醜かった。
朝倉陽翔はまだ言おうとした。
「誕生日を一緒に過ごしてくれて、嬉しかっ――」
言い終わる前に、白川蓮が私を彼の腕から引きはがし、その顔へ拳を叩き込んだ。
二人はすぐに取っ組み合いになった。
白川蓮の喧嘩は、若いころと同じだった。無言で、速く、痛い場所を確実に狙う。
私は横で止めようとしたが、酒が回っていて、二歩歩くだけで倒れそうだった。
正直に言えば、私は心のどこかで朝倉陽翔を止めたいと思っていなかった。
彼は調子に乗りすぎた。
私は前から言っていた。誰であろうと、白川蓮の前で騒ぎを起こしてほしくない、と。
それなのに彼は、私の境界を試した。
殴られて当然だった。
最後に、白川蓮は腫れ上がった朝倉陽翔の顔を足で踏みつけ、上から見下ろした。ゴミでも見るような目だった。
昔、白川蓮は私のために喧嘩をしたことがある。
祖父と賭けをして、自分の会社に頼らなくても外でうまくやれると証明したくて、私は別の会社で働いたことがあった。
若かった私は、職場の人間関係が分からなかった。ただ意地だけで、みんなを見返してやろうとしていた。
ある接待の席で、上司がしつこく酒を飲ませ、取引先を家まで送れと言ってきた。私が拒むと、汚い言葉で私を散々にけなした。
その日、白川蓮はたまたま私を迎えに来ていた。その場面を見た彼は、迷わず飛び込んでその男を殴った。
彼の喧嘩は、あのときも容赦なく、命知らずだった。
今夜と同じように。
朝倉陽翔は苦しそうに顔を上げ、突然皮肉げに笑った。
「白川蓮、婚約披露パーティーの日、西園寺さんが誰と一緒にいたか知ってる?」
「あの日、彼女は葉山で僕といたんだよ」
頭の中で、何かが大きく鳴った。
酒の酔いが半分以上、吹き飛んだ。
「もういい。消えて!」
私は怒鳴った。
朝倉陽翔が信じられないという顔で私を見た。
でも私はもう彼を見る気もなく、白川蓮の服をつかもうと手を伸ばした。
白川蓮は、私の手を避けた。
そして黒い顔のまま部屋に入った。
私は数秒その場に固まった。
それから床でみじめに転がる朝倉陽翔を見下ろした。
「私たち、終わりよ」
玄関からリビングまでの短い距離で、私はいろいろなことを考えた。
昔から私は、白川蓮は簡単になだめられると思っていた。
一度叩いてから甘いものを一つ与えれば、彼は自分から戻ってくる。
けれど今夜の彼は、あまりにも静かだった。その静けさが怖かった。
私はふらつきながら彼の隣に座った。声をやわらかくした。
「白川蓮、もう怒らないで」
彼はソファに座り、首元の銀色のネックレスを親指でゆっくりなぞっていた。ぼんやりと見つめている。
私は彼の膝の上に座り、首に腕を回して甘えた。
「蓮……」
白川蓮は私を抱きしめなかった。
彼はうつむいたまま、そのネックレスを見ていた。声は独り言のように低かった。
「君がくれたネックレス、彼のブレスレットとよく似ている」
私の顔色が変わった。
「違う……」
「君はあの日、朝倉に三十万円のブレスレットを買った。このネックレスは、満額購入キャンペーンで九千九百九十九円で追加できたものだろう」
彼の目に、薄い自嘲が浮かんだ。
その瞬間、私は何も言えなくなった。
白川蓮は首からネックレスを外した。
手のひらに置き、長いこと見つめた。
「僕たちは、本当にもう戻れないのかな」
酒のせいもあって、私はまた苛立ち始めた。
「白川蓮、結局あなたはどうしたいの?」
「大げさね。これから彼とは連絡しない。それでいいでしょう? 私はあなたたち男がよく言う、男なら誰でも犯す間違いをしただけじゃない」
白川蓮は目を閉じた。
本当に疲れきっているようだった。
「瑶子、僕は言ったよね。僕も男だって」
彼は目を開けて私を見る。声は静かだったが、怒鳴られるより怖かった。
「自分の婚約者が外で別の男と曖昧にしているのを、平気で見ていられる男がどこにいる?」
私は苛立って顔をそむけた。
彼は続けた。
「今日は母の命日だった。君は一緒に霊園へ行くと約束した」
「僕は家で夜八時まで待っていた。でも君は帰ってこなかった」
私は不満そうに声を上げた。
「だから、次に一緒に行くって言ったでしょう? 一日くらい違ってもいいじゃない」
白川蓮は私を見た。
その目の中にあったものが、少しずつ消えていった。
「違うんだ」
彼は、あれほど大切そうにしていたネックレスをテーブルに置いた。
そして立ち上がり、二階へ向かった。
廊下の影が彼の全身を包む。背中は寂しく、疲れきっていた。
私はそれを見つめながら、初めて思った。
もしかすると私は、本当に何かを間違えたのかもしれない。
8. 友人たちは、私が間違っていると言った
朝倉陽翔とはもう連絡しないと言った私は、本当に連絡しなかった。
この数日、私はおとなしく家にいて白川蓮を待ち、彼に優しく声をかけ、できるだけ柔らかい口調で話すようにした。
自分では十分にやっているつもりだった。
けれど彼の態度はずっと薄く、たまに見せる笑みさえ無理に作ったものに見えた。
ついに我慢できなくなって、私は聞いた。
「白川蓮、明日、一緒にお母さんのお墓参りに行く?」
彼は考えることもなく断った。
「もういい」
私は眉をひそめた。
そんなに長く拗ねる必要があるのだろうか。
少し放っておけばいいと思い、私は荷物をまとめて、親友の森下依織と何人かの友人たちと隣県の温泉ホテルへ出かけた。
その日の夜、白川蓮からメッセージが来た。
【どこへ行ったの?】
私は口元に得意げな笑みを浮かべた。
ほら。
白川蓮はやっぱり演技をしているだけだ。
彼は私から離れられない。
私は返した。
【依織たちと遊びに来ているの】
スマホを置いたあと、少し考えてから、温泉ホテルの動画を撮って彼に送った。
二時間後、彼から返ってきたのは一文字だけだった。
【そう】
簡潔すぎた。
そのせいで、私はその後二日間の旅行中、何度もスマホを見てしまった。
森下依織が気づき、不思議そうに聞いた。
「瑶子、さっきからずっとスマホ見てるけど、白川と喧嘩したの?」
私の周りの人間も、白川蓮の周りの人間も、私が彼を軽く扱っていることを知っていた。彼が何年も、私の周りをまるで忠犬のように回っていることも知っていた。
婚約披露パーティーの日、彼が私の欠席を取り繕っている動画を送ってきたのも森下依織だった。
ちょうど気分が晴れなかった私は、そのことを話した。
「彼が母親のお墓参りに一緒に来てほしいって言っていたのを忘れて、行かなかったの」
私はたいしたことではないというふうに説明した。
「でも後からちゃんと行くって言ったのよ? それなのに彼がもういいって言うから。私、少し甘やかしすぎたのかもしれない」
森下依織は深くため息をついた。
「瑶子、今でも自分がどこを間違えたか分からないの?」
私は固まった。
「朝倉陽翔とは少し曖昧だったけど、越えてはいけないことはしていないわ。しかも私は白川蓮に、もう連絡しないって約束した」
森下依織は私を見た。珍しく、真剣な声だった。
「体の関係がなければ裏切りじゃない、なんてことはないよ」
彼女は少し間を置き、また言った。
「心が別の男に向いていたなら、それも裏切りだよ」
「それに、白川蓮がこの数年あなたにどう接してきたか、私たちはみんな見ている。あなたは彼にとって母親がどれだけ大事か知っていたのに、その命日に別の男の誕生日を祝ったんだよ。瑶子、それは彼の傷口を踏みつけて、もう一度痛ませたのと同じだよ」
私は口を開いたが、言い返せなかった。
友人たちも次々に口を開いた。
「そうだよ、瑶子。あなたはむしろ幸せを噛みしめるべき。私の彼氏なんて、夜中に起きて食べ物を買いに行くどころか、豚みたいに寝ているだけだよ」
「白川さん、背も高いし顔もいいし、お金もある。しかも目の中にあなただけしかいない。これ以上何が不満なの?」
「二人が一緒にいる六年間、彼がどれだけあなたを守ってきたか、みんな知ってる。でも人はいつか疲れるよ。白川さんを好きな女が少ないとでも思っているの?」
「瑶子、ちゃんと大事にしなよ。失ってから後悔しても遅いよ」
その言葉たちは、長い間閉ざされていた箱の蓋を開けたみたいだった。
心の中にかかっていた霧が、少しずつ晴れていく。
こんなに長く別れなかったのは、祖父の遺言のせいではなかった。
白川蓮のお金や世話に慣れたからでもなかった。
私は、彼から離れられなかったのだ。
白川蓮は片親で育った。
以前、彼は私に話してくれたことがある。
彼の父親は、母親が白血病だと知った日に離婚を切り出し、そのまま姿を消した。養育費も払わず、二度と彼らを見に来ることもなかった。
その男は白川蓮を疫病神だと罵り、彼の母親を病人だと罵った。
母親は彼の受験に影響を与えまいと、病状が悪化してもずっと隠していた。弱った体でコンビニのバイトに出て、彼の大学費用を少しでも貯めようとしていた。
母子は、互いだけを頼りに生きていた。
彼の母親が亡くなった日を、私は覚えている。
小さな町には大雨が降っていた。
弔問に来た人は多くなかった。数えても十数人ほどだった。
白川蓮は雨の中にまっすぐ立ち、遺影を見つめていた。世界に置き去りにされたような顔をしていた。
あんなに壊れた彼を見たのは、あれが初めてだった。
私は傘を差して彼の横へ行き、雨を遮った。
長い時間が過ぎてから、彼が顔を上げた。声はひどくかすれていた。
「瑶子、僕にはもう家族がいない」
そのとき、私は言った。
「白川蓮、私があなたの家族になる」
六年という時間は、長くも短くもない。
彼は記憶の中の少年のままだった。
変わったのは私だった。
私は勢いよく立ち上がり、バッグをつかんで外へ走った。
森下依織が後ろから呼んだ。
「瑶子、どこへ行くの?」
私は振り返らなかった。
「家に帰る!」
9. 彼は、別れようと言った
東京へ戻る道中、私は緊張して落ち着かなかった。
白川蓮は、私が突然帰ったらどんな顔をするだろう。
驚くだろうか。
呆れるだろうか。
以前みたいに、まだ怒っているのに、結局我慢できずに私の荷物を持ち、温かいご飯を用意してくれるだろうか。
彼の目がまた明るくなるところを想像するだけで、胸の中に蜜がしみ込んだみたいに甘くなった。
私は白川蓮に、そこまで飽きていたわけではなかったのだ。
その思いは、家のドアを開けるまで続いた。
部屋の中は、からっぽだった。
「白川蓮?」
何度か呼んでも、誰も返事をしなかった。
いつもならこの時間、彼が地方出張に出ていない限り、必ず家にいる。
けれど今、マンション中を探しても、彼の姿はどこにもなかった。
呼吸が少しずつ浅くなる。
私はスマホを取り出し、彼に電話をかけた。
「おかけになった電話は、現在つながりません……」
白川蓮はどこへ行ったのだろう。
私は焦って部屋の中を歩き回った。
ふと、共通の知り合いがいることを思い出した。最後に、仲間内の友人を通じて彼の居場所を聞き出し、すぐタクシーに乗った。
位置情報は、銀座の会員制レストランを示していた。
急いで上がり、個室の位置を確かめた。
ドアを開けようとした瞬間、中から優しい女の声が聞こえた。
「白川、飲みすぎないで。頭が痛くなるよ」
その声は柔らかく、穏やかだった。
私はドアを開け、まっすぐその女の前へ行き、手を上げて頬を叩いた。
「綾瀬慧奈。何年経ってもまだ諦めていないの? 戻ってきて最初に白川蓮に会うなんて、恥ずかしくないの?」
綾瀬慧奈は頬を押さえた。目元が赤くなったが、すぐにやり返してはこなかった。
「違うの。今回会ったのは、仕事のプロジェクトで……」
「プロジェクト?」
私は冷笑した。
「どうせあなたの手段でしょ」
さらに罵ろうとしたとき、手首を白川蓮につかまれた。
彼は私を自分の横へ引き寄せた。力は軽くなかった。声にははっきりと不快感があった。
「西園寺瑶子、彼女は僕のビジネスパートナーだ。やりすぎるな」
私は信じられない思いで彼を見た。
「私がやりすぎ? 白川蓮、今あなたは彼女の味方をするの?」
白川蓮は眉間を揉んだ。
疲れきっているようだった。
個室にいた他の人たちは空気を読み、それぞれ理由をつけて出ていった。
綾瀬慧奈は私のそばを通るとき、足を止め、静かに言った。
「瑶子、彼を解放してあげて」
私は冷たく彼女を見た。
彼女は引かなかった。
「この数年で、白川蓮がどれだけ消耗したか、ちゃんと見て。彼は本当ならアメリカへ研修に行けた。会社を海外へ広げることもできた。もっと大きな未来があった。でもあなたのために、たくさんの機会を断って、あなたのそばにいたの」
私は嫌悪をこめて一言吐いた。
「消えて」
綾瀬慧奈が去ると、個室には私と白川蓮だけが残った。
私は問い詰めた。
「説明して。どうして彼女がここにいるの?」
白川蓮は静かに私を見た。
「言っただろう。彼女は仕事のパートナーだ。それだけだ」
「じゃあ、どうして彼女をパートナーに選んだの?」
私は一歩ずつ詰め寄った。
温泉ホテルから途中で帰ってきたのは、彼を驚かせるためだった。謝るためだった。そのことさえ、私はすっかり忘れていた。
白川蓮は私を見て、ふいにとても軽く言った。
「瑶子、別れよう」
頭の中で轟音がした。
別れる?
ありえない。
私は白川蓮と別れることなど、考えたこともなかった。
彼は言い終えると立ち上がった。
私はすぐに彼の前へ走り、強引に行く手をふさいだ。
「嫌よ。私は同意しない。白川蓮、あなたは私のものよ。私から離れられると思わないで」
白川蓮は目を伏せ、私がつかんだ指を一本ずつゆっくり外した。
その動きは優しかった。
けれど、そこに迷いは一つもなかった。
彼は背を向けて歩き出した。
私は初めて本気で慌てた。
追いかけて、取り乱した女のようにその背中へ叫んだ。
「白川蓮、忘れないで。あなたのお母さんが重病だったとき、お金を出して助けたのは私よ!」
彼の母親が危篤になったとき、手術費用を出したのは私だった。
彼は私に背いていいはずがなかった。
白川蓮の足が一瞬止まった。
私は、彼が振り返ると思った。
けれど彼は一秒だけ止まり、そのまま歩き続けた。
私から、どんどん遠ざかっていった。
10. 彼のいない部屋
私は本当なら、すぐに家へ帰るつもりだった。
白川蓮の今回の決意が怖かった。
これまで、私がどれほど激しく騒いでも、どれほどひどいことをしても、彼は一度も別れようとは言わなかった。
けれど今回は、彼が本当に去ろうとしている気がした。
レストランの入口まで来たとき、朝倉陽翔が突然私の前に立った。
顔の傷はまだ完全には消えていなかった。目には恨みと委屈が浮かんでいる。低く、卑屈な声で頼んできた。
「西園寺さん、白川蓮はあなたを大事にしていません。僕と一緒にいてください」
私は眉をひそめた。
「私はあなたが好きじゃないの。あなたもずっと分かっていたでしょう?」
朝倉陽翔の目が赤くなった。
「でも、僕はあなたを好きになってしまったんです」
目の前の顔に、私はこれまでにないほどの嫌悪を覚えた。
私は彼の告白を最後まで黙って聞いた。
彼が言い終えると、淡々と聞いた。
「言いたいことは終わった? 終わったなら行くわ」
彼をよけて歩こうとした。
朝倉陽翔は笑った。
笑いながら、涙をこぼした。
「西園寺瑶子、あなたって本当に薄情な人ですね」
私が薄情?
もし薄情なら、白川蓮と六年も一緒にいるはずがない。
私は、自分の人生から白川蓮がいなくなる日など、一度も想像したことがなかった。
他の人間は、私にとって通り過ぎるだけの存在だ。
彼らが私をどう見ようと、どうでもよかった。
今、私がしたいのは家へ帰ることだけだった。
白川蓮をなだめたい。
もう強気に出てはいけない。
ちゃんと彼と話をしよう。
そう思っていたのに、マンションへ戻った瞬間、私は完全に呆然とした。
白川蓮はいなかった。
彼に関するものは、すべて片づけられていた。
クローゼットに彼のスーツはない。
浴室に彼のシェーバーはない。
書斎に彼の書類はない。
玄関に彼の靴はない。
キッチンに、彼がいつも使っていたマグカップさえなかった。
部屋全体が、まるで彼が最初から存在しなかったかのように綺麗だった。
その考えが浮かんだ瞬間、胸を重いものに押し潰されたようだった。
涙がぽたぽたと床に落ちた。
どうにか朝まで耐え、私は黒い隈を目の下に作ったまま、白川蓮の会社へ行った。
ビルの下で彼を待ち伏せ、無理に優しい笑みを作った。
白川蓮は以前、私の笑顔を見るのが一番好きだと言っていた。
「白川蓮、私、一晩中考えたの。本当に自分が悪かったって分かった」
彼は足を止め、静かに私を見た。
私は慌てて続けた。
「他の男と曖昧にしたのも、あなたのお母さんのことをあんな言い方したのも、全部悪かった。許して。ね?」
「私たち、もう婚約しているでしょう? 今時間ある? 区役所へ行って婚姻届を出そう」
白川蓮は長いこと黙っていた。
そして再び顔を上げたとき、その目にはもう、かつての愛情がなかった。
彼はとても静かに言った。
「瑶子、僕は本当に、もう続けたくないんだ」
私は固まった。
彼は続けた。
「どれだけ熱があっても、いつかすり減る。あの夜、八時まで君を待っていたとき、ふと思ったんだ」
「たぶん、もう好きじゃなくなったんだって」
涙が一気にあふれた。
「大丈夫よ。私が、あなたにもう一度私を好きにさせるから」
白川蓮は首を横に振り、受付と警備員を呼んだ。
「今後、彼女を会社に入れないでください」
私は慌てた。
「嫌よ。白川蓮、そんなことしないで」
彼は私を見た。声は相変わらず静かだった。
「言っただろう。僕たちは終わったんだ。瑶子、君は僕を知っているはずだ」
私はその場に呆然と立ち尽くした。
そうだ。
白川蓮は、もともと心が弱く優しいだけの人ではない。
彼は野心が大きく、手段も冷たい。
私を愛していたときは、私を天まで持ち上げることができた。
愛さなくなったときは、ためらいなく背を向けることもできる。
それでも、私は本当に手放せなかった。
11. 後悔しても、もう遅い
あの日から、私はあらゆる方法で白川蓮の前に現れようとした。
彼の会社に行った。
彼がよく行くレストランへ行った。
彼の母親の霊園へも行った。
彼が昔連れていってくれたミュージカル劇場へも行った。
何度も現れすぎて、白川蓮は私を避けるようになった。
ある日、ネットで「一度離れた人を取り戻したいなら、追い詰めてはいけない。距離を置くべきだ」と書かれているのを見た。
それで私は、頻繁に彼の前へ現れるのをやめた。ただ静かに、彼の行動を見守った。
そんな日々は一週間しか続かなかった。
彼と綾瀬慧奈がレストランから並んで出てきて、笑い合っているところを見た瞬間、私はもう耐えられなかった。
私は駆け寄り、綾瀬慧奈を強く押しのけた。
「白川蓮に近づかないで。彼は私のものよ」
白川蓮は彼女の前に立ち、冷たく私を見た。
「西園寺瑶子、君を見ると疲れる」
その一言だけで、私はほとんど崩れ落ちそうになった。
あんなに私を好きだった白川蓮が、私を見ると疲れると、本人の口で言ったのだ。
私は走り、何度も転びそうになりながら、その場から逃げた。
けれど白川蓮のいない空っぽの部屋には帰りたくなかった。
そのまま車でバーへ行き、頭がぼんやりするまで酒を飲んだ。
森下依織が駆けつけたとき、私はもうまともに座っていられないほど酔っていた。
彼女は根気よく私をなだめた。
「瑶子、自分がまだ白川を愛しているって気づくのが、遅すぎたんだよ」
私は必死に首を振った。
「嫌よ。そんなの嫌」
胸を押さえる。痛くて、ほとんど息ができなかった。
「彼が別の女といるところなんて見られない。本当に苦しいの」
森下依織は私を見て、目にどうしようもない哀しみを浮かべた。
「もしかしたら、これが二人にとって一番いい結末なのかもしれない。彼は新しい人生を始めた。瑶子も、もう自分を罰するのはやめなよ」
私は彼女を押しのけ、ふらつきながら外へ歩いた。
「一人で少し冷静になりたいの」
誰にもついて来させなかった。
バーを出て車を走らせたとき、湘南の海岸線を吹く風は冷たかった。
私は運転しながら泣いていた。
涙で視界が滲み、拭っても拭っても止まらなかった。
街灯が一つまた一つと車窓の外を流れていく。
それは、白川蓮と過ごした六年を、私が自分の手で浪費していく日のようだった。
カーブに差しかかったとき、車体が突然制御を失った。
鋭いブレーキ音が夜を裂いた。
車の先端がガードレールへ突っ込んだ。
数秒間、体が宙に浮くような感覚があった。
次の瞬間、冷たい海水が四方から押し寄せてきた。
水は首を越え、頭の上まで満ちていく。
意識は、なぜかその瞬間だけ妙に澄んでいた。
私は顔を上げた。
車窓に、一つの蝶の飾りが揺れているのが見えた。
私と白川蓮が付き合って一年目の年越しに、彼がくれたものだった。
あのころの彼はまだ貧しく、高価な宝石は買えなかった。
だから彼は、木を削って蝶を作ってくれた。
君がいつまでも自由で、いつまでも愛されますように。
そう言っていた。
私は窒息の中で、ようやく理解した。
私が悪かったのだ。
私が、自分の手で、あれほど真っ直ぐに愛してくれた人を失望させた。
目を閉じる瞬間、私は不思議なくらい静かに思った。
きっと、これが私への罰なのだ。
――完――




