『いつだって、どこだって、恋は始まりかけていた』
夜のコンビニは、
何かが始まる場所ではないと思っていました。
用事を済ませて、
必要なものを買って、
それぞれの生活に戻っていくための、通過点。
けれど、雨の夜に、
ほんの少し足を止めただけで、
人の人生は、思いがけない方向へ傾くことがあります。
これは、
始まったとも、始まらなかったとも言い切れない、
恋の話です。
夜の雨は、音を持たないことがある。
コンビニの灯りが、アスファルトに落ちて、ただそこにある。
私は夜勤のレジに立っている。
名札には名前が書いてあるが、呼ばれることはない。呼ばれるのは番号や、「袋は要りますか」という言葉だけだ。
深夜一時四十分。
この時間帯は、街が一度、呼吸を止める。
その人が来るのは、いつもこの頃だ。
清掃員の男性。
年齢は知らない。五十代だろう、という予想以上のことは分からない。
作業着はいつも同じ色で、洗いすぎて少し柔らかくなっている。
缶コーヒーを二本。
同じ棚から、同じ手順で取る。
「雨ですね」
私が言うと、男性は頷いた。
「まあな」
それだけで会話は終わる。
この人とは、それで十分だった。
会計を終え、男性は袋を受け取る。
そのとき、私は傘立てに目をやる。
空だ。
外に出ると、雨は細かく、間断なく降っていた。
男性は軒下で立ち止まり、コーヒーの缶を持ち替えている。
「……傘、忘れました?」
声をかけると、男性は少し困ったように笑った。
「みたいだな」
言い訳をしない言い方だった。
ただ、事実をそのまま置いた声。
私も、傘を持っていなかった。
夜勤の日は、だいたいそうだ。
二人で、軒下に立つ。
距離は一歩分。
近すぎず、遠すぎない。
雨粒が、境界線みたいに落ちている。
「いつも、この時間ですか」
私が聞くと、男性は少し考えた。
「仕事が終わるのが、このくらいだ」
時間を基準に生きている人の答えだと思った。
私は、基準を探し続けている側だ。
「……長いですね」
「長いな」
それ以上、話は続かない。
無理に続けたいとも思わなかった。
年齢の差は、確かにそこにあった。
見なくても分かるほど、はっきりと。
私は三十代で、
この仕事を辞めたいと思いながら、辞めていない。
辞める理由も、続ける理由も、どちらも足りない。
男性は、
長く働いてきた人の背中をしている。
何も言わなくても、それだけは分かる。
雨は、弱まる気配を見せない。
「先に行きますか」
私が言うと、男性は首を振った。
「濡れていくほど、急いでない」
その言葉を聞いて、なぜか胸が少し緩んだ。
理由は分からない。
沈黙が落ちる。
気まずさはない。
「この仕事、長いんですか」
男性が聞いた。
「……長くなりました」
辞めたい、とは言わなかった。
「そうか」
評価も、慰めもない。
それが、ちょうどよかった。
雨が少し弱まり、男性は空を見上げた。
「……送ろうか」
その言葉が、意外だった。
もっと、事務的な人だと思っていた。
「歩きですか」
「近い」
一瞬、迷った。
断る理由はあった。
でも、断らなかった。
「……お願いします」
二人で歩き出す。
傘は一本。
肩が触れないように、でも離れすぎないように。
雨音が、近くなる。
「この店、長いですね」
男性が言う。
「え?」
「いつも、同じ時間に灯りがついてる」
私の仕事を、仕事として見ている人の言葉だった。
「辞めようと思ったことは」
男性が聞く。
「……あります」
「今も?」
「今も」
正直に言ってしまったことに、自分で驚く。
「辞めない理由は」
「……分からないんです」
男性は、少しだけ笑った。
「それなら、まだ続けていい」
正解でも、不正解でもない。
でも、否定ではなかった。
アパートの前に着く。
「ここです」
「そうか」
別れ際、少しだけ間が空く。
「また」
男性が言った。
「……はい」
約束はしない。
でも、次を否定もしない。
⸻
それから、男性は来なくなった。
少しだけ、胸が静かになる。
代わりに、別の清掃員が来る。
同じ缶コーヒーを、一つだけ買う。
何も起きない夜が続く。
ある雨の夜、
交代の時間が近づいたころ、自動ドアが開いた。
その人だった。
缶コーヒーは一本だけ。
「今日は、一本なんですね」
私が言うと、男性は頷いた。
「誰かと飲むときは、二本だ」
胸の奥で、何かが小さく動いた。
「……傘、あります」
私は言った。
「よかったら」
男性は、少し驚いてから、受け取った。
「ありがとう」
受け渡しのとき、指が触れる。
それだけで、十分だった。
恋は、始まったとは言えない。
でも、始まらなかったとも、もう言えない。
コンビニの灯りは、
今日も街に溶けている。
誰かが来て、
誰かが出ていく。
その途中で、
人は、誰かと同じ傘に入る。
それだけで、
人生は、少しだけ、違って見える。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
恋は、
はっきりとした言葉や約束がなくても、
始まってしまうことがあります。
同じ時間に同じ場所を通ること。
同じ傘に入ること。
また会えるかもしれない、と思ってしまうこと。
この物語では、
恋がどうなるかは書いていません。
それでも、何かが動き出したことだけは、
確かだと思っています。
今夜もどこかのコンビニで、
同じように、誰かが立ち止まっているかもしれません。




