表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

『いつだって、どこだって、恋は始まりかけていた』

作者: くろめがね
掲載日:2026/02/07

夜のコンビニは、

何かが始まる場所ではないと思っていました。


用事を済ませて、

必要なものを買って、

それぞれの生活に戻っていくための、通過点。


けれど、雨の夜に、

ほんの少し足を止めただけで、

人の人生は、思いがけない方向へ傾くことがあります。


これは、

始まったとも、始まらなかったとも言い切れない、

恋の話です。


 夜の雨は、音を持たないことがある。

 コンビニの灯りが、アスファルトに落ちて、ただそこにある。


 私は夜勤のレジに立っている。

 名札には名前が書いてあるが、呼ばれることはない。呼ばれるのは番号や、「袋は要りますか」という言葉だけだ。


 深夜一時四十分。

 この時間帯は、街が一度、呼吸を止める。


 その人が来るのは、いつもこの頃だ。


 清掃員の男性。

 年齢は知らない。五十代だろう、という予想以上のことは分からない。

 作業着はいつも同じ色で、洗いすぎて少し柔らかくなっている。


 缶コーヒーを二本。

 同じ棚から、同じ手順で取る。


「雨ですね」

 私が言うと、男性は頷いた。

「まあな」


 それだけで会話は終わる。

 この人とは、それで十分だった。


 会計を終え、男性は袋を受け取る。

 そのとき、私は傘立てに目をやる。


 空だ。


 外に出ると、雨は細かく、間断なく降っていた。

 男性は軒下で立ち止まり、コーヒーの缶を持ち替えている。


「……傘、忘れました?」

 声をかけると、男性は少し困ったように笑った。

「みたいだな」


 言い訳をしない言い方だった。

 ただ、事実をそのまま置いた声。


 私も、傘を持っていなかった。

 夜勤の日は、だいたいそうだ。


 二人で、軒下に立つ。

 距離は一歩分。

 近すぎず、遠すぎない。


 雨粒が、境界線みたいに落ちている。


「いつも、この時間ですか」

 私が聞くと、男性は少し考えた。

「仕事が終わるのが、このくらいだ」


 時間を基準に生きている人の答えだと思った。

 私は、基準を探し続けている側だ。


「……長いですね」

「長いな」


 それ以上、話は続かない。

 無理に続けたいとも思わなかった。


 年齢の差は、確かにそこにあった。

 見なくても分かるほど、はっきりと。


 私は三十代で、

 この仕事を辞めたいと思いながら、辞めていない。


 辞める理由も、続ける理由も、どちらも足りない。


 男性は、

 長く働いてきた人の背中をしている。


 何も言わなくても、それだけは分かる。


 雨は、弱まる気配を見せない。


「先に行きますか」

 私が言うと、男性は首を振った。

「濡れていくほど、急いでない」


 その言葉を聞いて、なぜか胸が少し緩んだ。

 理由は分からない。


 沈黙が落ちる。

 気まずさはない。


「この仕事、長いんですか」

 男性が聞いた。


「……長くなりました」

 辞めたい、とは言わなかった。


「そうか」


 評価も、慰めもない。

 それが、ちょうどよかった。


 雨が少し弱まり、男性は空を見上げた。

「……送ろうか」


 その言葉が、意外だった。

 もっと、事務的な人だと思っていた。


「歩きですか」

「近い」


 一瞬、迷った。

 断る理由はあった。

 でも、断らなかった。


「……お願いします」


 二人で歩き出す。

 傘は一本。

 肩が触れないように、でも離れすぎないように。


 雨音が、近くなる。


「この店、長いですね」

 男性が言う。


「え?」

「いつも、同じ時間に灯りがついてる」


 私の仕事を、仕事として見ている人の言葉だった。


「辞めようと思ったことは」

 男性が聞く。


「……あります」

「今も?」

「今も」


 正直に言ってしまったことに、自分で驚く。


「辞めない理由は」

「……分からないんです」


 男性は、少しだけ笑った。

「それなら、まだ続けていい」


 正解でも、不正解でもない。

 でも、否定ではなかった。


 アパートの前に着く。


「ここです」

「そうか」


 別れ際、少しだけ間が空く。


「また」

 男性が言った。


「……はい」


 約束はしない。

 でも、次を否定もしない。



 それから、男性は来なくなった。

 少しだけ、胸が静かになる。


 代わりに、別の清掃員が来る。

 同じ缶コーヒーを、一つだけ買う。


 何も起きない夜が続く。


 ある雨の夜、

 交代の時間が近づいたころ、自動ドアが開いた。


 その人だった。


 缶コーヒーは一本だけ。


「今日は、一本なんですね」

 私が言うと、男性は頷いた。

「誰かと飲むときは、二本だ」


 胸の奥で、何かが小さく動いた。


「……傘、あります」

 私は言った。

「よかったら」


 男性は、少し驚いてから、受け取った。

「ありがとう」


 受け渡しのとき、指が触れる。

 それだけで、十分だった。


 恋は、始まったとは言えない。

 でも、始まらなかったとも、もう言えない。


 コンビニの灯りは、

 今日も街に溶けている。


 誰かが来て、

 誰かが出ていく。


 その途中で、

 人は、誰かと同じ傘に入る。


 それだけで、

 人生は、少しだけ、違って見える。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


恋は、

はっきりとした言葉や約束がなくても、

始まってしまうことがあります。


同じ時間に同じ場所を通ること。

同じ傘に入ること。

また会えるかもしれない、と思ってしまうこと。


この物語では、

恋がどうなるかは書いていません。

それでも、何かが動き出したことだけは、

確かだと思っています。


今夜もどこかのコンビニで、

同じように、誰かが立ち止まっているかもしれません。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ