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蒼穹の絆

作者: 久遠 睦

序章:青い空と鋼鉄の夢

1.1. 家での誓い


航空自衛隊への入隊を数日後に控えた夜、佐倉家のリビングは不自然なほど静まり返っていた。テレビの音だけが、気まずい沈黙を埋めるように流れている。母、千佳子は、遥の湯呑みが空になるたびに、黙って急須からお茶を注いだ。その手つきは普段と変わらないのに、どこか硬い。


「遥、本当に、大丈夫なの」


ついに、千佳子が口を開いた。その声には、心配と、諦めと、そしてわずかな非難の色が混じっていた。「あんな男ばかりの、きつい世界で。女の子がやる仕事じゃないでしょう」


「お母さん、その話はもういいって言ったでしょ」遥は努めて明るい声で返した。「今は女性もたくさん活躍してるんだから。それに、やりたいことなんだ」


「やりたいこと……」千佳子はため息をついた。「飛行機が好きだっていうのはわかるわ。でも、民間の会社だってあったでしょう。どうしてわざわざ自衛隊なんて」


遥は言葉に詰まった。民間の航空会社への道が閉ざされたことは、家族も知っている。だが、本当の動機はそれだけではなかった。幼い日に見たブルーインパルスの鮮烈な記憶 。それだけを語れば、ただの夢見がちな娘だと思われるだろう。だが、遥の中にはもっと切実な思いがあった。国際航空専門学校で学んだ2年間は、彼女に技術の面白さと同時に、社会の厳しさも教えた 。ただ「好き」だけでは通用しない世界で、自分は何者になれるのか。何のために働くのか。その問いに対する答えが、「人のためになる職業」という、少し青臭いが、しかし真摯な願いだった 。


「誰かの役に立ちたいんだ。自分の技術で、人を、この国を守る仕事がしたい」


その言葉に、それまで黙って新聞を読んでいた父、健一が顔を上げた。彼は元々口数の少ない男だが、その視線には千佳子とは違う、静かな理解の色が浮かんでいた。


「……遥が決めたことなら、父さんは何も言わん。ただ、体だけは壊すな。それと、いつでも帰ってこい。ここがお前の家だということだけは、忘れるな」


その言葉は、遥の胸に温かく、そして少しだけ重く響いた。父の言葉は、応援であり、同時に逃げ道も示してくれている。だが、遥は逃げるつもりはなかった。これは、単なる就職ではない。彼女が自ら選び取った、人生そのものだった。多くの若者がそうであるように、それは漠然とした社会への貢献意欲であると同時に、ありふれた人生から抜け出し、自分自身の存在価値を証明したいという、若さゆえの渇望でもあった 。


湯呑みを置き、遥は両親に向かって深く頭を下げた。「心配かけてごめん。でも、頑張ってくる。絶対に、半端な気持ちで辞めたりしないから」


その誓いは、幼い日の空への憧れが、現実の重みと覚悟をまとった瞬間だった。


1.2. 感覚の衝撃


数日後、遥が足を踏み入れた基地は、想像を絶する感覚の洪水で彼女を迎えた。幼い頃に航空祭で感じた興奮とは全く違う、圧倒的な現実がそこにあった。まず鼻をついたのは、ジェット燃料とオイル、そして熱せられた金属が混じり合った、濃厚で無機質な匂い。鼓膜を突き破るように響き渡る、戦闘機のエンジン音。それは単なる「音」ではなく、腹の底を揺さぶる「振動」であり、有無を言わせぬ鋼鉄の咆哮だった。


案内された兵舎は、どこまでも続く直線と直角で構成され、個人の気配を消し去ったような無機質な空間が広がっていた。ここで、自分は「佐倉遥」という個人ではなく、無数の歯車の一つになるのだと直感した。彼女をここに導いた、大空を自在に舞う白い機体の鮮烈な記憶 と、目の前にある灰色で、油にまみれた現実との間には、途方もない隔たりがあった。


遠くの滑走路で、F-15J戦闘機がアフターバーナーを焚いて離陸していく。青白い炎が空気を震わせ、轟音がすべてを塗りつぶす。その巨大な鉄の塊が、信じられないほどの力で空へと駆け上がっていく姿は、美しくもあり、同時に暴力的ですらあった。あれを、自分の手で整備する。その事実が、期待と、そして未知の重圧となって遥の肩にのしかかった。


1.3. 兵舎での最初の夜


その夜、割り当てられた居室、通称「A内」で、遥は初めて本当の意味での孤独を感じていた 。二段ベッドとスチール製のロッカーが二つずつ。殺風景な部屋には、まだ生活の匂いがなかった。


「よろしく」


先に荷物を解いていた同室の女性隊員が、ぶっきらぼうに声をかけてきた。名札には「相沢 葵」とある。遥より少し背が高く、短く刈った髪と、どこか冷めたような目が印象的だった。


「佐倉遥です。よろしく、お願いします」


遥が緊張しながら挨拶を返すと、葵は「ふうん」とだけ言って、自分のベッドに腰を下ろした。気まずい沈黙が流れる。これから始まる集団生活への不安が、遥の胸を締め付けた。規律の厳しさ、気の遣い方、何もかもが未知の世界だ 。


荷物を整理する遥の背中に、葵が再び声をかけた。


「あんた、なんでここに来たの?飛行機が好き、とか?」


「え……うん。小さい頃から、整備士になるのが夢で」


「夢ねえ」葵は鼻で笑った。「ここでは、夢なんて見てる余裕、すぐなくなるよ」


その言葉は棘を含んでいたが、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、彼女なりの現実的な忠告のように聞こえた。


「一つ、教えておいてあげる」葵はベッドに寝転がりながら、天井に向かって言った。「何があっても、あいつらの前で泣くなよ。絶対に。一度でも泣いたら、『やっぱり女は』って思われて終わりだから」


その言葉は、遥がこれから直面するであろう現実の核心を突いていた。ここは、感傷が許される場所ではない。強くなければ、生き残れない。遥はロッカーの扉を静かに閉め、硬いベッドに腰を下ろした。窓の外は深い闇に包まれ、遠くで時折、機械の作動音が聞こえる。実家のリビングの、あの温かい光が、今はもう遥か遠い世界のことのように思えた。


第二章:挑戦と葛藤:男社会の壁

2.1. 言葉の重み


戦闘機整備士としての遥の日常は、フライトスケジュールに支配された、時間との絶え間ない戦いだった 。夜間訓練やスクランブル発進への対応で生活リズムは乱れ、朝は滑走路の石拾いから始まる 。ワークカードに記された膨大な点検項目を一つ一つ潰していく作業は、極度の集中力と体力を要求された 。


配属されて数週間が経ったある日、遥はその現実を改めて突きつけられる出来事に遭遇した。F-2戦闘機の飛行前点検の準備中、チームで共有する工具箱を運んでいた時のことだ。20kg近くあるその箱は、遥の体にはずしりと重く、腕がちぎれそうだった 。なんとか持ち上げて数歩進んだところで、腕の力が抜け、危うく落としそうになった。


「おっと、危ない!」


背後から伸びてきた太い腕が、工具箱を軽々と支えた。振り返ると、班の先輩である田村3曹が人の好い笑みを浮かべていた。


「佐倉、大変だろ?オレがやるよ」


その言葉は、純粋な親切心から出たものだとわかっていた。だが、遥の胸には悔しさが込み上げた。それは、「女性だからできない」という無意識のレッテルを貼られたように感じたからだ 。この組織において、男性隊員からの親切な配慮は、時として女性隊員の成長機会を奪う脅威となり得る。一度でもこの「甘え」を受け入れてしまえば、自分の仕事の幅を狭めることになる。遥はそれを痛いほど理解していた 。


「ありがとうございます。ですが、これも仕事なので。大丈夫です」


遥は田村の手から工具箱をぐっと引き寄せ、一呼吸置いた。そして、箱の持ち方を変え、重心を体に近づけるようにして、もう一度持ち上げた。まだ重い。だが、さっきよりは安定している。


「持ち方を、工夫してみます」


遥はそう言って、一歩、また一歩と、しっかりとした足取りで歩き出した。背中に田村の少し戸惑ったような視線を感じながら、遥は奥歯を噛みしめた。物理的な力の差はどうしようもない。しかし、それを知識と技術、そして「絶対にやり遂げる」という意志で補うことはできるはずだ 。オイルで手が汚れ、汗が目に入る。固く締まったボルトを緩めるのに人一倍時間がかかることもある 。それでも、遥は「男性と対等だ」という意識を片時も手放さなかった。それは、プロフェッショナルとしての矜持であり、この厳しい世界で生き残るための、彼女なりの戦い方だった。


作業を終え、一人になった格納庫の隅で、遥は自分の手のひらを見つめた。オイルと切り傷で汚れた手。そこには、悔しさと、そしてそれを乗り越えた確かな誇りが刻まれていた。


2.2. スケッチブックと静かな時間


遥には、誰にも言っていない秘密の習慣があった。それは、一日の終わりに、兵舎の自室のベッドで、小さなスケッチブックを開くことだった。日々の激務と緊張は、知らず知らずのうちに心身を蝕んでいく。同僚たちの中には、オフの時間に筋力トレーニングやランニングで汗を流す者もいれば、仲間と他愛ない話をしてストレスを発散する者もいた。しかし、遥にとって最も効果的なストレス解消法は、この静かな時間だった。それは、専門家が指摘する「癒し系」の趣味が、極度の疲労状態にある人間にとって有効であるという考え方と一致していた。


スケッチブックに描くのは、風景でも人物でもない。その日、自分が触れた航空機の部品だった。F-2戦闘機のエンジンノズルの複雑な構造、F-15Jのコックピットに並ぶ計器類の精密な配置、ランディングギアの油圧系統の配管。硬質な鉛筆で、その構造、材質感、光の当たり方まで、記憶を頼りに細密に描き込んでいく。


この行為は、単なる趣味ではなかった。それは遥にとって、仕事の延長であり、同時に仕事からの逃避でもあった。日中の整備作業では、時間と安全規則に追われ、一つ一つの部品とじっくり向き合う余裕はない。だが、このスケッチブックの中では、彼女は誰にも邪魔されず、自分のペースで機械の美しさと機能性を探求できた。なぜこの部品はこういう形をしているのか。この配管はどこに繋がっているのか。描くという行為を通じて、遥は航空機という巨大で複雑なシステムへの理解を、身体的な感覚として深めていった。それは、整備士たちが航空機を「生き物」だと表現する、その感覚の源泉に触れる作業でもあった 。


その夜も、遥はベッドライトの明かりを頼りに、F-2のエアインテークの滑らかな曲線を紙の上に再現していた。鉛筆を走らせる音だけが、静かな部屋に響く。この時間だけが、彼女を「女性隊員」でも「新人整備士」でもなく、ただ純粋に機械を愛する一人の人間に戻してくれた。この誰にも知られない個人的な儀式が、遥の心を支える静かな錨となっていた。


2.3. 家への電話


月に一度、遥は実家に電話をかけることにしていた。週末の夕方、公衆電話の受話器を握ると、基地の中とは違う、懐かしい世界の匂いがした。


「もしもし、遥?元気にしてる?」


電話の向こうから聞こえる母、千佳子の声は、いつもと変わらず心配に満ちていた。


「うん、元気だよ。お母さんは?お父さんも変わりない?」


「こっちは大丈夫よ。それよりあなた、ちゃんと食べてるの?痩せたんじゃない?」


「食べてるって。ここのご飯、量だけはすごいんだから」遥は笑って答えた。「それに、体力勝負だから食べないとやっていけないし」


「そう……。仕事は、大変じゃない?男の人たち、いじわるしたりしない?」


「しないよ、みんな親切」遥は嘘をついた。いや、嘘ではない。田村3曹のように、親切心から手を貸そうとしてくれる人は多い。だが、その親切が時として重荷になることや、体力差に悔しい思いをすること、オイルまみれになって自分の無力さを痛感する夜があることなど、言えるはずもなかった 。そんなことを話せば、母は「だから言ったじゃない」と、もっと心配するだけだろう。自衛官が家族に自分の仕事の全てを語れないのは、機密保持という理由だけではない。それは、大切な人を無用の心配から守るための、優しさであり、同時に深い孤独感を生む壁でもあった。


「そっか、それならいいんだけど……」


千佳子の声には、まだ不安が滲んでいた。遥は話題を変えようと、当たり障りのない基地の桜の話や、同期の話を少しだけした。短い会話の後、「じゃあ、またかけるね」と言って電話を切る。


受話器を置くと、どっと疲れが押し寄せてきた。母との会話は心を温めてくれると同時に、自分がいる世界と、かつていた世界との間に横たわる、埋めがたい溝を突きつけてくる。この仕事の厳しさも、やりがいも、本当の意味で分かち合えるのは、ここにいる仲間だけなのだ。遥は兵舎へと続く道を歩きながら、夜空を見上げた。無数の星が瞬いている。あの星空の下に、自分の帰る場所がある。その事実が、彼女を少しだけ強くさせた。


第三章:絆の萌芽:信頼と共感

3.1. 基地の外で:湖畔のバーベキュー


戦闘機整備士の仕事は、パイロットの命を預かるという途方もないプレッシャーとの戦いだ 。エンジンに吸い込まれる危険区域での作業、一つのミスが惨事を招きかねない緊張感。この共有された重圧は、自然と隊員たちの間に強固な連帯感を生み出していた 。しかし、その絆が真に深まるのは、しばしば職務から離れた場所だった。


ある初夏の休日、遥は同期の葵や、班の先輩である田村3曹、そして物静かな同僚の健司たち数人と、基地近くの湖畔へバーベキューに出かけた 。自衛官にとって、キャンプや釣りといったアウトドア活動は、心身をリフレッシュするための定番の過ごし方だった。


制服を脱ぎ、私服に着替えると、基地内での厳格な階級意識はいくらか和らいだ。田村3曹は慣れた手つきで火をおこし、葵は野菜を切りながら、最近見たドラマの話で盛り上がっている。遥と健司は、クーラーボックスから食材を運んでいた。


「佐倉さん、重いでしょう。半分持ちます」


健司が静かに言った。彼の言葉には、田村3曹の時のような「女性だから」という響きはなかった。ただ事実として、荷物が重いことへの配慮が感じられた。遥は素直に「ありがとう」と言って、クーラーボックスの片側を彼に渡した。


炭火の上で肉が焼ける香ばしい匂いと、仲間たちの笑い声が湖畔の空気に満ちる。仕事中は見ることのできない、それぞれの素顔がそこにはあった。田村3曹が新人時代に犯した失敗談を笑い話として語り、葵が意外にも料理上手な一面を見せる。こうした他愛ない会話、いわゆる「バカ話」を通じて、彼らの人間的な距離は急速に縮まっていく 。仕事中に築かれるプロフェッショナルな信頼関係に、プライベートな交流で育まれる人間的な親しみが加わることで、チームの結束はより強固なものになるのだ 。


遥は、熱い肉を頬張りながら、この温かい輪の中に自分の居場所があることを実感していた。厳しい規律と訓練の日々。だが、そこには「皆で助け合う」という、家族のような文化が確かに根付いていた 。一人では何もできない。エンジン、電機、計器、それぞれの専門家がいて、初めて一機の戦闘機は空を飛ぶことができる 。この当たり前の事実が、目の前の仲間たちの笑顔と重なり、遥の胸を熱くした。


3.2. 予期せぬ繋がり


バーベキューが一段落し、皆が食後のコーヒーを飲んでくつろいでいる時、遥は一人で湖のほとりを散策していた。きらきらと光る水面を眺めていると、ふと隣に人の気配がした。健司だった。


「いい景色ですね」


「うん、本当に」


しばらく、二人とも黙って湖を見ていた。健司は普段、口数の多い方ではない。だが、彼の沈黙は気まずいものではなく、むしろ心地よかった。


「佐倉さんは、どうして整備士に?」健司が不意に尋ねた。


遥は少し驚いたが、幼い頃に見たブルーインパルスの話を正直に語った。すると、健司は意外な言葉を返した。


「ブルーインパルスもいいですけど、僕は昔の機体が好きなんです。F-86セイバーとか」


そこから、話は自然と航空機の歴史へと移っていった。健司は、遥が専門学校で学んだ知識をはるかに超える、深い知見を持っていた。彼はアビオニクス(航空電子機器)の専門家で、遥とは担当分野が違う。だが、航空機そのものへの愛情は共通していた。彼は遥の知識を試すのではなく、純粋に意見を交換する相手として接してくれた。彼女がスケッチブックに描いているような、機体の構造美について語り合える初めての相手だった。


自衛隊という組織は男性比率が高く、恋愛に奥手な隊員も少なくないと言われる。健司もまた、派手なアプローチをするタイプではなかった。しかし、仕事への深い敬意と、共通の情熱を通じて示される彼の静かな態度は、遥の心に少しずつ染み込んでいった。それは、国防という同じ志を持つ者同士だからこそ生まれる、特別な共感だったのかもしれない。この日、湖畔で交わした短い会話が、二人の間に見えない絆の芽を育むきっかけとなった。


3.3. 対人関係の問題


整備部隊のチームワークは、極限の状況下で最高のパフォーマンスを発揮するための生命線だ。しかし、強固な結束力を持つ集団は、時として内部の問題を指摘しにくい「グループシンク」と呼ばれる状態に陥る危険性もはらんでいる 。メンバー間の調和を重んじるあまり、個々の逸脱や間違いが見過ごされてしまうのだ。


ある日、遥はチームの一員である若い整備士、山口が作業手順をわずかに省略していることに気づいた。それは、経験豊富な者なら許容範囲と判断するかもしれない、些細なショートカットだった。だが、マニュアルには明確に定められている手順だ。「ちょっとぐらいいい」という気持ちは、命を預かるこの仕事では絶対に許されない 。


遥は一瞬、どうすべきか迷った。班長である田村3曹に報告すれば、山口は厳しく叱責され、チームの雰囲気は悪くなるだろう。かといって、直接注意すれば、年下の女性である遥からの指摘に彼は反発するかもしれない。それはチーム内の人間関係に亀裂を生む可能性があった。


遥は、自分の武器が何かを考えた。それは、体力では男性に劣る分、日々のスケッチで培ってきた、細部への執着と知識だった 。彼女は昼休み、一人で機体のマニュアルを読んでいた山口に、さりげなく声をかけた。


「山口君、さっきの作業、お疲れ様。一つ教えてほしいんだけど」


遥は自分のスケッチブックを開き、問題の箇所を指差した。「ここのパーツ、マニュアルだとこの角度でトルクをかけることになってるよね。私、いつもこの角度だと少しだけ遊びが出る気がしてて。もしかして、こっちの角度から先に締めた方が、規定トルクが正確に出るのかなって。どう思う?」


彼女の問いかけは、非難ではなく、技術的な探求の形をとっていた。山口は一瞬、訝しげな顔をしたが、遥のスケッチの精密さと、彼女の真剣な眼差しを見て、表情を変えた。


「……ああ、確かに。先にそっちを締めると、こっちの座りが良くなるかもしれないですね。次から試してみます」


彼はぶっきらぼうにそう言うと、自分の作業場に戻っていった。そのやり取りを、少し離れた場所から田村3曹が黙って見ていた。その日の終業後、田村は遥のそばに来て、ぽんと肩を叩いた。


「佐倉、よくやったな」


それだけの言葉だったが、遥には十分だった。彼女は、単なる技術者としてだけでなく、チームの調和を保ちながら問題を解決する、社会的な知性を持った一員として認められたのだ。この経験は、遥に大きな自信を与えた。性別や体力の差を超え、信頼を勝ち取る方法は、一つではないのだと。


第四章:危機と成長:試される絆

4.1. F-2油圧漏れの余波


「航空機は生き物だ」という言葉を、遥は身をもって体験することになった 。ある日のフライト直前、F-2戦闘機に油圧漏れという予期せぬ不具合が発生したのだ。F-2は電気系統の異常をコックピットや地上整備員に知らせてくれる「親切な飛行機」ではあったが、原因の特定は困難を極めた 。


チーム全員が、迫るフライト時間に追われながら、緊張の中で故障探求にあたった。油圧系統の複雑な配管を一つ一つ確認し、マニュアルと睨めっこする。格納庫内は、工具の金属音と、焦りを押し殺した隊員たちの低い声だけが響いていた。数時間に及ぶ格闘の末、チームはついに原因箇所を特定し、部品交換と修理を完了させた。確認主任者の最終許可が下り、F-2が無事に大空へ飛び立っていくのを見届けた時、整備員たちは皆、その場にへたり込みそうになるほどの疲労と安堵に包まれた。


その夜、遥は兵舎の自室に戻っても、神経が高ぶって眠ることができなかった。一日の出来事が頭の中を駆け巡り、アドレナリンが全身を駆け巡っているのがわかる。あの時、もし判断を誤っていたら。もし、見落としがあったら。「一つのミスが事故につながる」という言葉が、ずっしりとした重みでのしかかってくる 。これが、この仕事の日常的なストレスなのだ。軍の航空機整備士が直面する精神的な負荷は、民間とは比較にならないほどの重圧を伴う 。


遥は気を紛らわせようと、スケッチブックを開いた。しかし、鉛筆を握る手が、かすかに震えていることに気づく。集中しようとしても、思考がまとまらない。


「眠れないの?」


静かな声に顔を上げると、同室の葵がベッドの上から遥を見ていた。彼女は黙ってベッドから降りると、電気ポットのスイッチを入れ、インスタントのハーブティーを二つ淹れてくれた。


「お疲れ」


葵はそれだけ言って、遥の向かいに座った。温かいマグカップを両手で包み込むと、遥の指先の震えが少しだけ収まった。二人の間に、言葉はなかった。だが、葵の静かな存在が、遥の張り詰めた心をゆっくりと解きほぐしていくのがわかった。同じプレッシャーを共有する者同士の、言葉を超えた慰め。この夜、遥は仲間との絆の本当の意味を、改めて深く理解した。


4.2. スクランブルと破られた約束


健司との関係は、ゆっくりと、しかし着実に進展していた。共通の話題は尽きず、仕事の合間に交わす短い会話が、遥にとって大きな心の支えとなっていた。そして、二人はついに、基地の外で会う約束をした。週末の夜、街の小さなレストランで食事をする。それは、普通の恋人たちにとっては当たり前の、しかし彼らにとっては特別な計画だった。


その日、遥は少しだけそわそわしていた。勤務を終え、シャワーを浴び、久しぶりに私服に着替える。鏡に映る自分は、いつもの作業着姿とは別人のようだ。約束の時間まで、あと一時間。遥が兵舎を出ようとした、その瞬間だった。


基地全体に、けたたましい警報音が鳴り響いた。スクランブル発進だ。


その音を聞いた瞬間、遥の思考は完全に切り替わった。レストランの予約も、健司との約束も、すべて頭から消え去る。彼女は踵を返し、迷わず整備エリアへと走り出した。そこには、同じように駆けつけてきた整備員とパイロットたちの、緊張に満ちた空気が渦巻いていた 。


作業は迅速かつ正確に進められた。機体の最終点検、パイロットの搭乗支援、エンジンスタート。すべてが、日々の訓練通りに、一分の隙もなく行われる。やがて、F-15Jが轟音とともに闇夜へと消えていく。その姿を見送り、地上に残った隊員たちが後処理を終える頃には、すでに約束の時間はとっくに過ぎていた。


疲れ切って兵舎に戻った遥は、ロッカーに置き忘れていたスマートフォンを手に取った。健司からのメッセージが一件入っている。


『了解。気をつけて』


短い、しかしすべてを理解した上での言葉だった。翌日、基地内で顔を合わせた時、健司は何も言わずに、ただ少しだけ笑った。遥は「ごめん」と謝ったが、彼は「仕事だから仕方ない」と静かに言った。自衛官との交際には、このような不測の事態がつきものだ。デートの約束が突然キャンセルされることも、災害派遣で何日も連絡が取れなくなることもある。それを不満に思わず、相手の仕事を尊重し、支える覚悟がなければ、関係を続けることは難しい。健司のその一言は、彼がその覚悟を持っていることを示していた。だが同時に、二人の間には、常に「国防」という、決して越えることのできない壁が存在することも、はっきりと示されたのだった。


4.3. 災害派遣後の静かな告白


大規模な災害が発生し、遥の部隊は人命救助活動の支援に派遣された 。彼女の任務は、救難ヘリコプターの整備。普段扱っている戦闘機とは違う種類の重圧が、そこにはあった。一つ一つの作業が、被災者の命に直接繋がっている。泥と汗にまみれ、不眠不休で続く整備作業。遥は、自らの手で人々の命を救うことに直接貢献できることに深いやりがいを感じながらも、目の前で繰り広げられる惨状に、心をすり減らしていた 。


数週間にわたる派遣任務を終え、基地に帰還した夜。遥は一人、誰もいない滑走路の隅に座り込んで、ぼんやりと夜空を眺めていた。派遣先で見た光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


「お疲れ」


静かな声とともに、隣に温かい缶コーヒーが置かれた。班長の田村3曹だった。彼は遥の隣に腰を下ろし、何も聞かずに、自分の缶コーヒーを開けた。


「俺が若い頃、大きな山岳遭難があってな。何日もヘリを飛ばした。毎日、体の一部しか見つからない、なんてこともザラで……」


田村は、遠い目をしてぽつりぽつりと語り始めた。それは、彼が普段見せる豪快な姿からは想像もつかない、静かで重い口調だった。彼は、自分の経験を語ることで、遥が話しやすいように、そっと扉を開けてくれたのだ。自衛隊のような組織では、隊員のメンタルヘルスをサポートするための公式な仕組みもあるが、こうした先輩や同僚による非公式な支え合いが、何よりも重要な役割を果たしている 。


田村の言葉に促されるように、遥はぽつりと口を開いた。


「瓦礫の中から……小さな、クマのぬいぐるみが、見つかったんです。泥だらけで、片方の目が取れてて……」


それだけを言うのが精一杯だった。だが、田村は黙って頷いた。


「そうか」


短い相槌。だが、その声には、遥の心の痛みをすべて受け止めるような、深い優しさがあった。この極限の状況を共有する体験は、彼らを単なる同僚ではなく、互いの魂の重荷を分かち合う「運命共同体」へと変えていく 。この夜、遥と田村の間に、指導者と部下という関係を超えた、静かで、しかし揺るぎない信頼の絆が結ばれた。


第五章:飛翔:未来への誓い

5.1. バトンを渡す


数年の歳月が流れ、佐倉遥は技量レベル「7」の資格を持つ、一人前の「機付長」として、部隊に不可欠な存在となっていた 。彼女が担当するF-15Jの機首近くには、「SGT HARUKA SAKURA」の文字が誇らしげに記されている。かつて「誰からも聞かれる人になりたい」と願った目標は、今や現実のものとなっていた 。後輩たちは、技術的な問題だけでなく、仕事上の悩みも彼女に相談に来るようになっていた。


その日、遥は一人の若い女性整備士、松本士長の指導にあたっていた。松本は、数年前の遥自身を見るように、意欲は高いものの、体力的な壁や男性社会の独特の雰囲気に戸惑い、自信を失いかけていた。


「すみません、このボルト、どうしても緩まなくて……」


松本が悔しそうに言うと、近くにいた男性隊員が「貸してみろ」と手を伸ばしかけた。その瞬間、遥は静かに制した。


「松本、ちょっと待って。そのレンチじゃなくて、こっちのロングスピンナハンドルを使ってみて。テコの原理を意識して、腰から力を入れる感じで」


遥は、かつて自分が試行錯誤の末に編み出した、力の弱い者でも固いボルトを緩めるコツを、丁寧に教えた。松本が言われた通りにやってみると、先ほどまでびくともしなかったボルトが、ぎしりという音を立ててゆっくりと回り始めた。


「……! できました!」


松本の顔に、ぱっと明るい表情が広がる。遥は、その顔にかつての自分を重ねていた。


その日の作業後、遥は一人で居残って勉強していた松本に声をかけた。「無理するなよ。でも、その気持ちは忘れるな」。そして、かつて葵が自分にしてくれたように、温かいお茶を差し出した。「困ったことがあったら、いつでも言えよ」


遥の存在は、防衛省・自衛隊が推進する女性活躍の取り組みを体現するものだった 。女性用トイレや隊舎の改修といったハード面の整備も進められているが 、それ以上に重要なのは、松本のような後輩たちが目標とできるロールモデルの存在だ 。遥は、自分が切り拓いてきた道を、次の世代へと繋ぐバトンを渡す役割を、自然と担うようになっていた。


5.2. 防波堤での会話


健司との関係は、あのスクランブルの夜以来、新たな段階に入っていた。頻繁に会えるわけではない。連絡が途絶えがちになることもある。だが、二人の間には、言葉にしなくても互いの状況を理解し合える、静かな信頼関係が育まれていた。


ある穏やかな休日の午後、二人は基地の近くにある港の防波堤に座って、海を眺めていた。潮風が心地よく頬を撫でる。


「来月、転勤の内示が出た」


健司が、海を見つめたまま言った。遥の心臓が、小さく音を立てた。自衛官にとって転勤は宿命だ。結婚した隊員同士でも、一緒に暮らせる保証はない。


「……そう。どこに?」


「北海道。千歳だ」


遠い。だが、遥は「行かないで」とは言わなかった。それは、彼のキャリアを否定することになる。自衛官のパートナーには、仕事を尊重し、応援する姿勢が何よりも求められるのだ。


「そっか。大変だね、冬は」


遥が努めて明るく言うと、健司は初めて遥の方を向いた。その目は真剣だった。


「遥。俺は、この関係を続けたいと思ってる。遠距離になるし、今よりもっと会えなくなる。それでも、いいか?」


それは、不器用だが、彼の精一杯の告白だった。遥は、黙って頷いた。幸せな未来を安易に約束することはできない。彼らの前には、転勤、長期の訓練、そして有事の危険という、数えきれないほどの困難が待ち受けているだろう。だが、この人となら、その一つ一つを乗り越えていけるかもしれない。遥は、健司の大きな手を、そっと握り返した。その温かさが、未来への不安を少しだけ和らげてくれた。


5.3. 誓い、再び


今日もまた、遥は滑走路に立っていた。彼女が機付長として丹精込めて整備したF-15Jが、パイロットを乗せて発進の時を待っている。エンジンが始動し、空気が震える。


遥の脳裏に、これまでの日々が走馬灯のように駆け巡る。心配そうに自分を見送った両親の顔。ぶっきらぼうな優しさで支えてくれた葵。「オレがやるよ」と手を差し伸べてくれた田村3曹。そして、今頃は遠い北の空の下にいるであろう、健司の静かな笑顔。指導している松本の、真剣な眼差し。


かつて、遥の誓いは、ただ漠然と「空」に向けられたものだった。だが今は違う。彼女が守りたいものは、もっと具体的で、温かい。この仲間たちとの絆。彼らと共有する時間。そして、彼らが守ろうとしている、この国の平和な日常。


パイロットが、キャノピーの中から遥に向かって、力強くサムズアップを送る。遥もまた、完璧な動作で敬礼を返した。


ゴーッという轟音とともに、鋼鉄の翼が滑走路を疾走し、大空へと舞い上がっていく。その姿を見送りながら、遥は胸に満ちる達成感と安堵感を噛み締めていた 。これこそが、この仕事の最大のやりがいだ。日本の空を守るという崇高な使命に、自分は確かに貢献している 。


機影が青空に吸い込まれていく。その向こうに、遥は幼い日に見たブルーインパルスの幻影を見た。あの日の憧れは、今、確かな現実としてここにある。


遥は空を見上げ続けた。彼女の視線の先には、守るべき日本の空と、その空を未来へと繋ぐ、仲間たちとの絆があった。それは、誰に聞かせるでもない、静かで、しかし何よりも強い、遥かなる誓いだった 。


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