恋に落ちる。
ぼんやりとしていた。
先生が読む『春暁』をぼんやりと聞いて、黒板に書かれたその詩をぼんやりと眺めてた。
特に眠いわけじゃなくて、退屈っていったら退屈だったけど、こっそりメールやらマンガやら別の何かをしようって気もなかった。
教科書を机に広げて、左肘で頬杖をつく。
前に座る池山はべったりと机に伏して寝てるし、その隣の東さんは首をもたげて携帯メールを打っている。
クラスのほぼ全員が、このふたりと同じような状況だって、見回さなくてもわかる。
オレだって、寝てるのと変わらないほどに、ぼんやりとしてたんだ。
「ねー、これって、こうだっけ?」
ふいに聞こえた小さな声は、野太い声で通釈をしてる先生とは違う。
「ごめん、これ、教えてくれる?」
同じ声が聞こえてきたのは、オレの右隣の席。
人懐っこそうな瞳が、オレに向いていた。
「え?何?」
「これ、次の数学なんだけどね?」
いいとも嫌だとも答えないうちに、彼女はゆっくり机をこっちに寄せてきた。
彼女の机に広がる、数学の教科書と計算式が書かれてるルーズリーフ。
「ここの解き方がわからなくて・・・。絶対今日、当たるんだよねぇ。」
持ってるシャーペンを一回転させて、彼女は小さくため息を吐く。
数学の宿題は出てなかったはず。
だけどあの先生は、今日の日付を中心にランダムに当ててくる。
当たって答えられなければ、予習をしてないのか、とねっちりと嫌味を言う。
だから次の時間の数学だけは、予習率が高い。
「これ、どうことかなぁ?」
オレの机に教科書を半分置けるほどに寄ってきて、彼女はへらりと笑った。
視線を彼女が指す教科書のページに移して、じっくりとその問題を見た。
ベクトルの三角形面積、か。
ちらりと先生を見れば、相変わらず喋り続けながら、通釈を黒板に書いていた。
オレが教えてくれるのを待ってる視線が右隣からひしりと感じてる。
少しだけ、考える振りをしてから、自分のシャーペンを握った。
「これはさ・・・」
「うんっ。」
小さな声でゆっくりと正確に、できればわかりやすく、シャーペンをはしらせて教える。
彼女は静かに耳を澄ませて頷きながら、視線はずっとオレの指先を追っていた。
「これで、やってみな。」
「うん。」
教えてすぐに理解したのか、彼女は小さく微笑んで、問題を解きはじめた。
安倍川卯月。
変わった名前だとは思ったけど、特に目立つような女子でもない。だからって地味で大人しいだけでもないのは、この時間でわかった。
そして、彼女は考え込むと、唇をキュッと突き出す癖があるらしい。
セミロングの髪をかけてる左耳に花のピアスが揺れる。
ぼんやりと眺めてた。
彼女か揺れるピアスか、どっちでも良かったけど、ただぼんやりと眺めてた。
「あ、こうだ。どう?春日君?」
・・・っ!
勢いよくかち合った目線を、とっさに逸らした。
それがとても不自然だった気がして、急に顔が熱くなったのがわかった。
「春日君?」
なんか、ヤバい。
このまま何もないように彼女と視線を合わせたら、なんか、ヤバい気がする。
さっきまでぼんやりとしてた頭の中が急にぐるぐると回り出す。
自分は数学の予習してたっけ、とか、昼飯は何食べるつもりだったんだっけ、とか、どーでもいいことばかりを考える。
「どうしたの?」
聞こえてきた声に、オレこそオレに聞きたい。
どうもこうもないんだ、心臓がおかしいくらい早く打つ。
「安倍川。」
教室に響いた彼女の名前に、心臓が飛び出すかと、思った。
「は、はいっ・・・!」
「読んで。」
「え、あ、はいっ。」
先生に呼ばれて慌てて返事をしながら彼女は、バタバタと机の上をまさぐって、ようやく見つけたように国語の教科書を持って立ち上がった。
低くもなく高くもない背をピンと伸ばして、落ち着くように一息吐いた彼女は、そのまま『春暁』を読み始めた。
教室に広がる、彼女の声。
高くも低くも、細くも太くもなく、癖があるわけじゃなく、すんなりと耳に入ってくる声。
心地が良い。
こっちを向かない彼女をこっそりと覗き見て、心臓の高鳴りを落ちつかせる。
この、彼女の姿に、声に、ここまで魅せられてるのは、このクラスでオレだけだろうな。
そう思うと思わず笑ってしまう。
寄せたままの机に視線を戻すと、数学の教科書とルーズリーフがそのままあった。
ルーズリーフに新しく書き足された計算式に目をやって、余計なことばかり考えてる頭に入れ込んだ。
「あー、びっくりしたぁ。・・・当てられちゃった。」
読み終えて座った彼女が、オレに向かって笑う。
今度は目を逸らさずに、彼女と向かい合う。
コツン、とシャーペンを机に当てた。
「あってるよ、これ。」
「え、あ、ほんと?良かったぁ。」
今度は彼女が先に視線を外して、自分が解いた計算式を見て嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、春日君。助かっちゃった。説明、わかりやすかったし、さすが学年トップスリーっ。」
ついさっき教えてたときまで、何とも思わなかったこの距離が、たった数分後にはムズリと歯がゆくて落ち着かない距離に変わった。
あー、参った。
ぼんやりしているうちに、恋に落ちるとは。
勘弁してくれよ、と誰に対してなのかわからず助けを求める。
数学の教科書とルーズリーフを片付けて、彼女の机が元の位置に静かに戻っていく。
そうだ、戻るなら、いまだ。
スッと息を吸って、一気に吐き出す。
「そーいったら、ワタも、だろ。」
「え?綿貫君?・・・そーでもないよ?ってあたしが言うのも変だけど。」
「でも1年のとき、学年5番内だったじゃん。」
「あー・・・、そーだねぇ。でも、ベンキョー嫌いって言ってるんだよ?嫌みだよ。」
「そりゃ嫌みだな。」
顔を見合わせて、ふたりして笑う。
彼女の名前を知ったのは、ずいぶん前だ。
目立つような女子でもなかったのに、名前だけは聞いていた。
綿貫朔也の彼女として、知っていた。




