第七話 前夜
香ばしいごま油の香りが、八郎の空腹を刺激する。
自室に戻ってシャワーを浴び、薬野の部屋を訪れれば、出迎えてくるのは美味しそうな料理の匂い。疲労が溜まった体が、今すぐに食せと急かしてくる気がした。
「お邪魔します」
「早いな八郎。もう少しで出来るから、座って待っててくれ」
部屋の主の言う通りに、八郎はローテーブルの周りに並べてあった座布団に座った。
ホテルのシングルルーム程度の広さしかない八郎の部屋と比べ、薬野の部屋は随分と広い。
落ち着かない様子で部屋を見回す八郎は、あちこちにある観葉植物を見ながらそう感じていた。
____俺もああ言うの置いてみたいな。でも場所取りそ〜
そう言えば、日差し一つも入らない地下空間で、どうやって植物を枯らさずにいられるのだろう。なんて疑問が浮かんだものの、最近の植物は電気で育つと言う結論で再び思考の海に沈めた。
なんて事を考えている内に、扉が勢い良く開かれる。
「お邪魔。類、果物ゲットした。切って」
「はいはい。あれ、郁人は?」
「来てるよ、ムウの足が速いだけ」
千草、不知火も部屋に合流し、残すは塩見だけとなった。部屋の中へ入ってきた不知火の手には、何かパンフレットの様なものがある。
「さてと......八郎くん、昼飯の前にさっさと済ましちゃうね」
「一体何を......?」
「では先ずこちらを拝見していただいて」
畏まった口調で、先程まで持っていたパンフレットが差し出される。表題には、『夢見ヶ丘学園』と記されていた。先日訪れた学園の事だ。
所謂学校案内と言うやつだろう。ページを捲れば、学園のそれっぽい情報が記載されていた。時間割や部活動の案内などだ。尤も、あの学園が正規の学校法人だとは思えないが。
「形式ってやつだよ〜。一応あの子達は転校って形でこっちに来てるからね、同じ様にはしておいた方が齟齬が出ない。これから八郎くんには、夢見ヶ丘学園の一生徒として学園生活を送ってもらけど、やって欲しい事は割とある。例えば、臆せず女の子と積極的に関係を築く事!」
「う、いやまぁ、そこは頑張りますよ」
「頑張ってよね、結構重要な仕事だからさ。多分今日制服届くだろうし、自己紹介のネタ考えときなよー」
練りに練ったネタでスベるのは非常に嫌なので、先ずは普通に、親しみやすそうな人間像を目指す事にした八郎なのだった。言う通りにする気はなさそうである。
そうこう話しているうちに、薬野お手製の炒飯が到着する。大皿にはウサギの形に切られた林檎が並び、千草は目を輝かせてそれに飛び付いた。
「あぁ、学園の話か。向こうは日曜だし、投入はそろそろか?」
「そうだね、多分明日が初日になるかな」
「え、時間違うんですか?」
八郎の記憶通りならば、今日の曜日は金曜日である。夕飯にはカレーでも食べようかと考えていたから、それに関しては少し自信があった。
二人の言葉によるなら、箱庭は二日先を進んでいると言う事になるのだろうか。
「うん、今こっちは夏だけどね。向こうはまだ春なんだ」
「現在季節、春、室温23.4℃。明日の天気は晴れ。システム制御で季節、気温、天気を変化させてる。間違ってこっちの曜日言っちゃダメ。厳罰」
また注意しなければならない事が増えてしまった。
覚えているうちにメモをして、後生大事にポケットに入れた。命と同価値のメモ帳である。
「ま、仕事の話は一旦ストップで。食べようか」
「だね。いただきます」
テーブルに取り残されていた炒飯を口に運ぶ。
腹が減っては戦はできぬ、とよく言う事だし、仕事の話は食後に持ち越される事となった。
それこそ一番詳しそうな塩見が不在なのだから。
「ごちそーさま。塩見、結局戻って来なかったね」
「霜山さんと呼ばれてたよな、確か」
「あー、じゃあなんか話し込んでるのか」
八郎の端末が震えた。メールだ。
ベータ班の霜山です。
本日20:00頃に夢見ヶ丘学園の制服が到着する手筈になっていますので、ご了承下さい。
あなたの投入開始日は明日からとなります。明日は夢見ヶ丘学園の職員玄関に8:30集合です。
塩見君の案内に従い、第13ゲートから中へ入って下さい。
ベータ班班長、霜山玄悠からのメールだった。
非常に丁寧なメールである。嵐山にも見習って欲しいものだ。投入開始日、言い換えると転校初日。ついに明日から、八郎の学園生活が始まるのである。
八郎が風呂を済ませた夜の時刻。
ドンドン、と強烈に扉を叩く音がした。その主はおそらくあのロボットである。
「はいはーい。大荷物じゃん」
『定刻配達ダ。早ク受ケ取レ』
ロボットから段ボールを受け取る。
荷物が無くなったのを感知したのか、すぐさま方向転換をして何処かに行ってしまった。
「あ、お礼忘れた」
充電しに帰ってきた時に伝えようと決め、扉を閉める。運び入れた段ボールには、丁寧に鋏切八郎様宛てのシールが貼られていた。宅急便の真似事でしかないけれども。
段ボールを開くと、中身はブレザーとスラックスだった。シャツとかはどうしたんだと思ったが、箱には手紙が同封されている。
シャツやネクタイはこちらで支給した物を使ってくれ。明日は8:30に学園の職員玄関集合だけれど、霜山の事だしメールぐらいしているだろうから、細かい事は霜山に聞いてくれたまえよ。
あと、サイズに関して不備があればメールを頼む。
誰もがさん付けで呼ぶ霜山を呼び捨てにするあたり、この手紙の差出人は嵐山の様だ。
サイズを確認する為、取り敢えず袖を通す事にした。
「うーん、いや、新鮮味もねぇな」
現役の高校生が他校の制服に袖を通しただけなので、代わり映えはしない。強いて言うなら、ちょっと違和感がある程度だった。サイズも特に不備は無く、むしろ丁度いい。
確認を済ませたのち、クローゼットに吊るした。
「明日かぁ......緊張する、早く寝よっと」
明日盛大な遅刻をかまさない為にも、八郎は普段よりも早くに眠る事にしたのだった。




