プロローグ
使い古されたがま口財布を開き、中身をローテーブルに広げる。
1円、5円、10円、50円と綺麗に並べ、現在の所持金を確認し呟いた。
「俺、明日からどうしよう」
所持金468円。
バイト代が入るのは、残り一週間。
彼の名前は鋏切八郎、よく学び、よく働く苦学生である。
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時は夏休み、場所は一人暮らしのアパート。
「んー...日雇い即金、日雇い即金...ある訳ねぇよなー...」
鋏切八郎は何時も金欠に苦しんでいる。
家賃、光熱費、食費に交通費、現代社会に生きる八郎にとって、それは必ず支払わなければならないお金。
だが八郎は現役の高校生、友達とも遊びたいし、勉強だってしなくちゃいけない。
一人きりの部屋でついたため息。いつか雲になりそうだ。
幼い頃に両親を亡くしている八郎は、高校に入るまでは叔父夫婦の家で同居していた。子供も居ないし、二人きりだと寂しいから、と無理矢理言いくるめられた結果なのだが。
しかし八郎が高校生になる頃、叔父夫婦に子供が産まれた。
待望の我が子が産まれた、幸せでいっぱいの家。
疎外されてない筈なのに、時が経つ度に自分は部外者なんだと、そんな思考が脳を埋め尽くす。
叔父夫婦の家の近所に住む事を条件に、八郎は高校から一人暮らしを始めたのだ。
「どーしよ、バイトもう一個入れれば、安定...ん?」
明日の食事すら危うい状況の中、八郎は求人情報を漁って単発バイトを探していた。叔父夫婦も事情を話せば快く食事を出してくれるだろうけれど、八郎はなるべく二人に負担をかけたくないらしい。
流し見ていた求人情報の中に、近所の植物園、たまも餡園での清掃バイトがあった。未経験者歓迎、学生可の単発バイト。
「これだぁ!!」
すぐさま八郎は記載されていた番号に電話をかけた。
その翌日。
「おー、ニュースで見てたけどデケェなー」
自転車を飛ばしてたまも餡園に向かった八郎。
夏休みだからか親子連れが多く、入園ゲートの辺りではマスコットと写真を撮っている人達も居た。園の駐輪場に自転車を停めて、連絡を貰っていた場所に向かおうとした時のこと。
「応募して下さった、鋏切さんですか?」
「あ、はい。鋏切です」
白衣を着た女性に話しかけられた。
黒縁のメガネ、艶のある黒髪。言葉にしたら変態の様だが、八郎は思う。凄くいい匂いがする、と。
彼女の瞳は真っ直ぐ八郎を捉えたままだった。
彼女の瞳の中に八郎は居る。
よく見れば彼女のメガネは、何一つも反射していなかった。
___伊達メガネだ、この人。レンズ入ってない。
「ご案内しますね」
そう言った彼女に連れられ、入園ゲートから二人はだんだん離れて行く。群衆の声が遠のいて数分が経った頃、鍵のかかった扉の前で彼女の足が止まった。
白衣のポケットから鍵を取り出し、鍵穴へと彼女は差し込む。重苦しい鉄扉が開き、彼女は中の階段へと降りて行った。八郎もそれについて行く。
従業員用のバックヤードだろうか。そんな事を考えながら更に下へ、下へと降りていく。
この時点で疑問を持つだろう、明らかに、これは異常である。
頭で数えていた階段の段数がそろそろ100段になる頃、階段の終わりが見えた。
「ここからはエレベーターで」
エレベーターと言う密室、男女が二人。
八郎が奥側に、彼女は操作盤の前に立つ。
「...どこまで降りるんですか?これ」
彼女が扉を閉めるボタンを押した時、流石に疑問を覚え口に出したが、その答えは返って来なかった。ゴウン、と機械音がエレベーター内部に響く。
その音が彼の、鋏切八郎の日常が崩れ去る瞬間だった。
「何ですか、それ。ガスマスク?」
操作盤の足元に置かれていた箱を開けて、何も言わずに彼女はガスマスクを身に付けた。ベルトを締めて、留め具を留めたその時だった。
「え、煙!火事!?非常、ボタンを、っ_____
口を開けた瞬間煙が流れ込む。
目に見える白い煙が、狭い密室を順に塗り潰していく。
息苦しさに噎せ返り、さらに大量の煙を吸い込む。
その様を彼女は黙って眺めていた。いや、観察していた。
次第に足がふらつき、手すりに捕まって何とか堪えようとするが、掴む力も弱まって行く。
エレベーターの隅に勢いよく倒れる。頭をぶつけた痛みすらも鈍く、瞼は抵抗も出来ないほどの力で下げられて行く。
「......撒布を停止。医務室のベットを用意しておいてくれ」
彼女の言葉は彼に届かない。
頬に残る床の冷たさだけが、彼の最後の記憶となった。




