『Ⅾ坂の殺人事件』江戸川乱歩著 を読んで 竹久優真
『D坂殺人事件』江戸川乱歩著を読んで 竹久 優真
誰かがこんなことを言っていた。
『純文学とは愛だとか絆だとか答えが明確でないものを描く。それに対して推理小説をはじめとする大衆文学はすべてが明確な答えを必要とされる。故に読後爽快感が得られる』
さて、名探偵と言えばいったい誰だろう。それぞれ想い入れがあり、人それぞれ意見があることだろうが僕が個人的に思う一般論、という事ならばシャーロック・ホームズにエルキュール・ポアロ。それに
くわえてこの明智小五郎という感じではないだろうか。
D坂殺人事件は初めて明智小五郎が登場する話で主人公とともにD坂で起きた殺人事件の犯人を推理するという筋書きになっている。そのなかで主人公はどうやら明智が犯人ではないかと推理する。しかし、それを覆すように明智は真犯人を推理し、しかも驚くことに……というよりはむしろなんで? と思う結末。真犯人が自首するという形で終わっている。
視点による密室の存在や先入観による誤推理。日本の推理小説の原点の一つともいえるこの作品、この結末に違和感を感じてしまったのは僕だけではないはずだ。そして僕の悪い虫が騒ぎ始める……。
この事件の真犯人は別に存在している……
六月のはじめ。晴れの日の午後の授業は眠い。
半分開いた二階の窓から春の風と夏の風がちょうど半分ずつそよいでいる。その優しい風に交じってささやかなピアノの音まで聞こえてくる。昼食後のまどろみの時間には手ごわすぎる……
――僕は坂道を駆け上っていた。学校へと続く桜が満開の並木道だ。その桜並木のうちの一本だけ一輪の花さえも咲かせていない樹があった。僕はその枯れ木に同情した。まるで自分のようではないかと……
ボカッ! 後頭部に鈍い痛みが走る――
「あまりにも堂々と居眠りしてるもんだから……。そんなにわたしの授業はつまらない?」
顔を上げるとそこには国語教師、桜木真理先生の姿。武者小路実篤を愛する(元)文学乙女だ。長い黒髪を後ろで一本に束ねた、若くてよく見ればそれなりに美人の先生だがいかんせん牛乳瓶の底のような度のきつい丸眼鏡がそのきれいな瞳を覆い隠してしまっているのはもったいない。手には分厚い現代文の教科書が……僕の眠りを妨げた犯人の凶器はそれで間違いない。
「そんなに居眠りするようなら補習を受けてもらいますからね」
「あー、その補習って先生とふたりっきりなんですかね? だったら受けてもいいかな」
ボカッ! っともう一撃教科書を食らった。
午後の眠い授業がようやく終わり放課後となった。昼過ぎごろまでは良かったはずの天気も次第に崩れはじめ、放課後の空は黒い雲に覆われていた。交際を開始して一か月余りのカップル、大我と笹葉さんとがやってきて放課後どこか遊びに行こうと誘ってくれた。
「わるい、雨も降りそうだし、今日は部室にでも行って読書でもしておくよ」
「なあ、優真。もしかしてお前俺たちに気ぃ遣ってくれてる? いいんだってそういうの」
「いや、別にそういうわけでもないよ」
「なら……いいんだけどな。それにしてもまさかお前が文芸部になんて入るなんてな。ま、本が好きなんだよな。なんか嫉妬するわ」
「わるいな」
言いながら、颯爽と二人を残して校内の隅にある部室へと向かっていく。
――気を遣っていないと言えば嘘になる。
どちらかと言えば一緒にいると自分自身がつらくなるので距離を置いているだけだ。
そのためにらしくない部活動を始めたというのもある。
事の発端は四月のある晴れた朝にさかのぼる。僕が部活なんてものを始めるきっかけとなった、100パーセントの女の子との出会い。
高校に入学して間もない四月の終わりに校内統一模試があり、それが終わり次第ゴールデンウィークという形になる。 そんなある日、部活動をしているわけでもないが毎朝一時間以上も早い電車に乗り込み登校する。そして誰もいない教室に一番乗りで到着して読書を開始する。
この朝読書が僕にとっての至福の時間。一年ほど前から始めたこの習慣はいつの間にか自分の体になじんでしまっていた。朝早くの読書は頭も冴えるし、家ではなかなか落ち着けないもののここでなら落ち着いて読書ができる。……と、そういうことにしておく。
「あ、あのさあ、た、竹久……」
と不意に声を掛けられた。聞きなれた、少しばかりのハスキーさを感じさせる声は笹葉更紗こと消しゴム天使だ。椅子に座っている僕のすぐ横にまで来ていたのにまるで気づかなかった。まだ朝も早い時間でいつもなら僕以外誰も来ていない時間。それに今だって僕と消しゴム天使以外誰もこの教室にはいなかった。
「ちょ、ちょっと……は、話あるんだけど……。いいかな」
いつもならツンツンした雰囲気の彼女が何だかしおらしい。カーディガンの袖口から覗く両手の指先だけを組んだり離したりしながら落ち着きがない。
僕は少しばかり考えてみた。彼女はもしかすると僕がいつも朝早くからひとり読書をしていることを知っていて(実際そのことは知っているはずだ。そのことを何度か彼女と話したこともある)その僕と二人きりになるチャンスをねらってこんな朝早くに登校してきたのではないか?
あまりにも自分に都合の良すぎる解釈かもしれない。だがいくら考えてもそれ以外の意見にはたどり着けそうにはない。しかし、しかしだ。そんな状況を作り出してまで彼女は僕に何の話があるというのだ。どう考えても都合の良すぎる想像しか働かない。
「なに?」なるべくクールを装ってひとことで返す。実のところ今にもにやけて顔が溶けてしまいそうだった。
「ねえ、竹久――。つきあって……ほしんだけど……」
――キタ。ついに僕の青春がやってきたのだ。
しかしどうしたものだろう。確かに笹葉さんは美人だ。もし彼女に告白されてNOという男なんているだろうか。しかし、僕はまだ笹葉さんとは知り合って間もない間柄。恋に落ちているかといえばそこまででもないだろう。それに、僕にはいまだ癒せない失恋の傷が深く根を下ろしており、こんな状態で別の人を交際するというのは不誠実ではないだろうか。
返す言葉を思索する中、笹葉さんが言葉を続ける。
「あ、あ、あのさあ……今週のテスト終わったら……春の文化祭があるでしょ……」
――春の文化祭。そうだ、すっかり忘れていたがこの学校には春に小さな文化祭がある。世で言うゴールデンウィーク期間の4月30日がその日である。文化祭というのは言い得て大げさなのだが、要するに各部活動の勧誘会である。参加も自由で少し前に皆で話をした時に誰も部活に興味がないと言っていたのでいかないつもりですっかり忘れていた。
「そ、その時さ、そ、その……ウチと一緒に周らないかな……とか……思うんだけど……」
文化祭の見物を一緒に周る……まあ、何事もあせってはいけない。こんな時こそ冷静でなければならない。
「んん……」なんて考えるふりをするが迷う理由も予定もさらさらない。内心即答したいがじらして答える。「だいじょうぶ。時間くらいどうにでもつくるよ」
「え、あ、うん。やた。じゃ、じゃあ……」
あからさまにほほを赤らめる消しゴム天使はあまりにもかわいすぎる。
「あの……ウチ、友達を連れていくから……。だ、だから、その……。竹久も黒崎君を誘ってくれる?」
「ああ、いいよ…………………」
――って……。ようやく事の次第に気が付いた。まあ、そういう事か……。本当に誘いたい相手はリア王で、直接言うのも恥ずかしいから僕を利用しただけだ。一瞬でもうぬぼれた考えを抱いた自分が愚かしい。考えてみればそれが当然と言えば当然。
それだけを言い残して彼女はまた教室を去っていった。
また、一人ぼっちの教室。今更読書をするつもりにはなれなかった。消しゴム天使はしばらくして教室内に他の生徒が登校してきたころになってまた、何事もなかったように教室にはいってきた。鞄を持ってまるで今登校してきたばかりの様子で。
午後になってリア王に約束を取り付けたことを報告すると顔を真っ赤にして喜んだ。
二人は周りの誰から見てもお似合いな美男美女であるし、むしろそこに僕が割って入るというのが場の空気を読めていないような行動なのかもしれない。そもそもがあの入学式の日のリア王に対する消しゴム天使の目線。あれはまさしく恋する乙女の目だった。
四月ももう最終日となるその日はもうすっかり夏日となっていた。
本来学校も休日で、春の文化祭とは名ばかりの、いわゆる部活動の勧誘イベント的な行事だ。登校も義務ではなく自由だし、時間の制限も当然ない。
昼食をとってからの午後1時に学校の教室で待ち合わせをした。
僕一人電車の方角が違うため、時間の都合もあって予定時間よりも少し早くに到着し、しばらく読書でもしていようかと思ったいたのだが、一足先に黒崎君はすでに到着していた。すっかり腰を据えて落ち着き払った様子はおそらくもう、随分前からきているように思われた。
この状況で読書をするわけにもいかず、僕たちはしばらく他愛もない会話をこなしながら時間をつぶし、「おまたせ」と、教室の隅に座る僕らに対して少し前かがみであいさつをする笹葉さんが現れたのは約束の午後1時を少し過ぎた頃だった。教室の差し込む初夏の日差しを受けて白い肌はいっそう白くその輪郭は半分透明にさえ見えた。
「で、こっちが友達の……」と笹葉さん伸ばした右手の先に視線をおくると「ちゃーお!」と元気よく挨拶する少女。そこに立っていたのは……。どこかで見覚えのある……。小柄で、薄小麦色の健康的な肌。栗色のセミロングの髪に天真爛漫な瞳。口角が自信ありげに上がっている。前回逢った時は一瞬過ぎて気付きもしなかったが、口元に小さな黒子がある。挨拶を済ませた彼女の目と眉はVの字を描いていて、まるで『ししっ!』と、声を出して笑っているようにも見える。(実際には声を出していない)――彼女こそが入学式に出会った太陽の少女だ。入学式以来校内を注意して見て回ったものの一度も見かけることもなかったが、その存在は意外と近くにあったんだという気がした。
「アタシ、宗像瀬奈! よろしく!」
前にあった時もそうだったが出会いがしらにいきなり人の頭を殴るくらいだ。一瞬の出来事ではあったが元気のいい子だという印象もそのままだ。
「君、黒崎大我君? はじめまして、だよね。うん、やっぱりかっこいいね!」言葉は途中で区切りはするものの、相手に喋る暇は与えない程度の早口。『かっこいい』の言葉に反応した笹葉さんがうしろで「でしょ。でしょ」と言っていたのは聞き逃せなかった。
「黒崎大我だ。よろしく」
みなさんご存知の……という言葉が頭についていながら省略したのように聞こえる自己紹介で黒崎君は手を出した。二人はまるで当たり前のように握手した。
「……で、」と太陽の少女がこちらに向き直った。「君は黒崎君の友達?」とまるでおまけのような扱いで僕を見据えた。僕はリア王と同じように手を差し出した。『また、あったね』だか、『久しぶり』の言葉を用意したが、僕の言葉を発する直前に彼女は飛びつくように僕の手を握りしめ、「はじめまして!」といった。
これで会うのは二回目のはずだったが、彼女はまるで僕のことを憶えてなどいなかった。
ある晴れた四月の朝(今日はギリギリ四月だ)、100パーセントの女の子に出会った時のために用意していた言葉はやはり今回も使いどころがなかった。だってそれは相手の反応があまりにも予定外(僕のことを全く憶えていない)だったから。
「いやあ、待たせちゃったね!」
悪びれる様子もなくまるでこちらに目配せでもするような感じで、一応、謝った。
「ごめんね。瀬奈はホント遅刻魔だから……」呆れたように笹葉さんが言った。どうやら今日の遅刻の原因は彼女らしい。
笹葉さんは続けて「いつもだって朝、学校に行くとき待ち合わせしてるのにしょっちゅう遅刻するんだから」
……それは知っている。入学式早々遅刻しそうになる奴だ。と言ってやりたいところだが、彼女が僕を憶えていないんじゃしょうがない。それに僕もひとのことを言える立場ではない。
「ごめんね。今日おひるゴハン食べてたらあまりにおいしくて三杯もおかわりしちゃって、そのあとデザートもしっかり食べてたらつい遅刻しちゃった!」
まったく。なにが言いたいんだろう? 反省の色はまるでない。
春の文化祭……。とはいうものの校内は閑散としていた。わざわざ連休期間中にしかも参加自由という形で行われる文化祭にわざわざ来るというのも億劫だ。特に部活動などというものに縁のない生徒は来やしないだろう。それにしても今年入学した生徒のうち一体何割くらいの生徒が部活動というものを始めるつもりだろう? この閑散とした様子ではあまり多いとは言い難い。僕たちはただダラダラと日常会話を交わしながらに校内を見て回った。どの部活動も特別勧誘に力を入れている様子もなく、運動部などはほとんど普通に練習をしているだけにしか見えない。少し見て回るだけですぐに飽きてしまった。無理もない、黒崎君も笹葉さんも、それにおそらく宗像さんだって特に何かをやりたいという感じでもなさそうだった。三人とも見事なまでの陽キャでおそらくリアルを生きているだけで充実していると言ってもよさそうだし、おそらく笹葉さんに至っては単に黒崎君と一緒に過ごすための口実でしかありえないのだろう。
すぐに飽きてしまった僕たちはいったん学食に向かった。セルフカウンターでそれぞれ飲み物を買ってテーブルに着く。僕の飲み物はブラックコーヒーだ。それに気づいた宗像さんが「あれ? ユウはコーヒーに砂糖とかミルクを入れないの? 大人だねえ」と言った。「まあね」と答える僕は悪い気はしない。
本当の理由は大人だからだとかそんなことじゃあない。単に両親が無類のコーヒー好き(あるいは中毒)で家にはいつでもコーヒーが淹れてあるのだが、いかんせん両親ともにブラック派で砂糖やミルクは置いていない。仕方なしに飲んでいるうちにそれに慣れてしまっただけだ。だけどいつのころからかそんな話をすり替えてこんなことを言うようになった。
「ミルクや砂糖を入れるくらいなら別にコーヒーじゃなくて甘いジュースを飲めばいいじゃないか」
「あ、でもさ。アタシはミルクと砂糖のたっぷり入ったコーヒーが好きなわけだから。それにね、世の中ってそんなに甘くはないじゃない? だからせめてコーヒーくらいは甘くたっていいんじゃない?」
宗像さんは言いながらミルクのたっぷりと入ったコーヒーにしこたま砂糖を入れてかき回す。しかし、そんなことよりもコーヒーと一緒にクロワッサンにかじりついていた。しかも二つ。たしかこの子は来る前にご飯を三杯食べてきたとか言っていなかっただろうか?
「それにしても、よく食べるね」
「アタシ、クロワッサンが好きなのね。だからいくら食べても太らないようになってるの! だからい
ちいち気にしてくれなくてもいいからねッ!」
なんて言いながらふたつのクロワッサンをぺろりと平らげた。
「ねえ、ねえ。クロワッサンってどういう意味か知ってる?」
宗像さんが手についたクロワッサンのパンくずをパンパンと払いながら得意げに言う。
「……たしか、三日月のことよね」
すぐに笹葉さんが答えた。つい、僕も負けじとそれに続いた。
「たしかトルコの国旗が三日月で、当時戦争状態にあったフランスがトルコを食べてやるという意味で三日月の形を模したデニッシュを食べ始めたのが始まりだ」
「あーあ……それ、今からアタシが言おうと思ってたんだけどなあ。そういう時は知ってても知らないふりしてもいいんじゃないかな」とつまらなそうに短く言葉を切った宗像さんは膨れてしまった。なんて強引だと思いながらもそういうものかと反省もする。
「あ、三日月と言えば今朝のテレビで今日はブルームーンだって言ってたわよ」
「へえ……。そうなんだ。めずらしい」
笹葉さんの言葉に黒崎君が答える。
「ブルームーン? なにそれ? まさかお月様が真っ青になるっていうの?」
「ブルームーンってのは一か月の間に満月が二回あることを言うんだよ」
「満月って月に一回じゃないの?」
「満月の周期は29・5日だから、2,3年に一回くらいの割合でそういうことが起きるんだ。この4月は1日と今日、30日の二回満月になる。これをブルームーンっていうんだ」黒崎君はより適切な解説を入れた。
「ふーん。ねえ、ユウ、知ってた?」その瀬奈の質問に僕はすかさず答える。毎日本を読むことで無駄に増えていく知識をあまりひけらかしてはならないと今さっき憶えたばかりのはずなのに、つい、言葉が出てしまう。
「ああ、知ってたよ。本来ブルームーンっていうのは春夏秋冬各季節に起きる満月が四回ある場合、その三番目の満月を差す言葉だったんだけど、それが謝って報道されて月に二回満月が起きる現象と言われるようになったんだ。それを慣用句で〝非常に珍しいこと〟という意味で使われるようになった。また、同じ名前のカクテルがあって、こちらの意味は〝言えない相談〟や〝叶わぬ片思い〟という意味があるよ」と、僕はさらに輪をかけて解説をしながら、きっとこういうところが嫌われるんだろうなと思うもやはりもう遅い。
「ふーん。でもなんにしてもあんまりいいもんじゃなさそうね。ブルームーンって」
「そうでもないよ。昔は不吉の前兆なんて言われてたけど、最近じゃあ見ると幸せになれるなんて言うし……ブルームーンを眺めながら『月がきれいですね』とささやいてみるのもいい」
「月がきれいですね?」
「『月がきれいですね』っていうのは夏目漱石の有名な言葉だよ。彼が英語の教師をしていたころ夏目漱石が『I love you』を日本語に訳す時に日本男児は〝我は あなたを 愛している〟などという言葉は使わない。と言って、適した訳として〝今夜は月がきれいですね〟がちょうどいいといった逸話があるんだ。もっとも、この逸話は最近では作り話だともいわれているけどね」
「……随分遠回りなんだね。なんかめんどくさい」
「でもさ、俺もその気持ちはわかるよ。なんかきれいな言い方だよな」
リア王が言う。確かに、こういう言い回しをこういう男前が言えばきっと様になるのだろう。
「翻訳ってなかなか難しいのよね。言葉をそのまま直訳しても、そのニュアンスは文化の違いがあるからどうしても少しずれてしまうのよね。昔に翻訳された本を読んでいると変だなって思うことがよくあるわ。昔の日本ではなじみのない言葉だから、それをどうにか伝えようと訳者は必死で考えたんだろうけれど、グレープフルーツをアメリカざぼんと言ったり、アボカドを鰐梨と言ったり、これはまあ確かにわからないでもないけれど、明らかな誤訳では『フランス人旅行者が列をなして通り過ぎた』という言葉があるのだけれど、ここで言う〝フランス旅行者〟っていうのは、自転車レースのツール・ド・フランスの走者のことだったの。これじゃあまるで違う話になってしまうのよね」
そんな笹葉さんの言葉に少し意外性を感じた。勝手に彼女のことをビッチっぽいと決めつけていたのだが、なかなかどうして文学的なことを言い出したことは意外だった。
「ああ、そういうことなら……」僕が笹葉さんに続ける。そういうことならば負けたくはないと見栄を張ってしまうのだ。「シェイクスピアの劇をはじめて英語で見た時正直すごく驚いたんだ。シェイクスピアは、ここまで考えて物語をつくっていたんだって」
「なに? ユウ、それどういうこと?」
「おれはそれまでに本でシェイクスピアの脚本を読んだことがあったし、その脚本通りの日本語の舞台を見たこともあった。だからきっと英語の劇でもストーリーは大体わかるだろうと思ってみたら、それは想像していたものとはまるで違っていたんだ。
シェイクスピアの戯曲のセリフは、英語だととても早口で、しかもその言葉は韻を踏んでいて、すらすらと語られるその言葉はまるで歌を歌っているような印象を受けるんだよ。だけどこれを日本語に訳してしまうとそのあたりの韻やリズム感がバラバラになってしまって本来持っている魅力が伝わらなくなってしまうことに気が付いたんだ。
もちろん、日本語は英語に比べてたくさんの単語があるわけで、当然その逆も存在する。だから文学を本当の意味で理解しようと思うとどうしても原文の言語で読まなくっちゃならないんだよな……」
そんな談話をしながら休憩を終えて部活動の見学周りを再開することにした。
食堂を出てその奥の体育館のさらに奥の崖の上には古い校舎が見える。普段教室として使われてはいないその旧校舎も部室として現在も使われているらしくそちらのほうにはまだ行っていない。率先してそちらへ向かおうとする僕の袖口を笹葉さんがつまんで引っ張る。
「旧校舎ってあれでしょ。その……出るっていうか。なんかいろいろ噂あるわよ」
「出る? 出るってまさか幽霊とか? もしかして笹葉さんって幽霊とか苦手なの?」
「竹久は幽霊怖くないの?」
「あたりまえじゃないか。だって今まで見たことなんてないしな」
「そんなのウチだって見たことないわよ」
「つまりは恐れる必要はないってことさ。もし、本当に幽霊がいるのだとして見えないのならいないのと同じだよ」
「もし、見ちゃったらどうするのよ」
「そうだな。それは、たぶん。みんなに自慢できるかな。だってほとんどの人が幽霊なんて見たことないんだからさ」
「え、でも……」
ガラにもなくおびえている様子の笹葉さんが少しかわいらしくもあった。それでつい調子に乗ってしまった。そこをすかさず王子様が救いの手を差し伸べる。
「じゃあ笹葉さんは俺と一緒にあっちのほうを見に行かないか?」
「そうね、じゃあユウ。旧校舎、アタシと行かない? アタシ別に幽霊とか全然平気だし、いったんこのあたりで二組に分かれて別行動してもいいんじゃない?」
宗像さんは僕の腕をつかみ、僕をその場から連れ出した。笹葉さんたちと距離が離れるなり僕の腕を離した宗像さんは呆れるように言った。
「もう、ユウ。アンタいい加減気を利かせなさいよね。サラサは黒崎君とふたりきりになりたいに決ま
ってるじゃない」
――解ってはいるけれど、あらためて言われると泣きたくなる。




