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『はつ恋』ツルゲーネフ著を読んで  竹久優真

『はつ恋』ツルゲーネフ著 を読んで             竹久 優真



 ツルゲーネフは静かで深い憂愁を感じる19世紀のロシア文学家で、はつ恋はその中でも最も代表的な作品。

 16歳のウラジミールが夏に過ごした別荘の隣に住むジナイーダに恋をする。

 ある日ウラジミールは想いを寄せるジナイーダが恋をしている相手に気づく。その相手はウラジミールが嫌悪するも尊敬せずにはいられない相手だった。自分の知らない世界の愛をささやきあう二人に対して、決してかなう事のない想いを抱きながら過ごす。


 そう、はつ恋とはいつの時代も儚く切ないものだ。


 あえて言うならば儚く切ないものでなければならない。儚く切ないものでなければ意味がない。儚く切ないものでなければ人生において一つ、大きな損をしているといっても過言ではない。


 ――なんて、単なる負け惜しみかもしれないな。



 さて、実際の生活の中ではミステリ小説のような殺人事件が起きることなどめったにありえないし、そんなもの無い方がいいに決まっている。そして解き明かせないような謎もなければ探偵だって必要ないのだ。


 そんな思春期真っ只中の僕たちにおいて最大の解き明かしたい謎というものは、果たして誰が誰のことを好きなのか、ということぐらいなのではないだろうか。


 このツルネーゲフの『はつ恋』においても、ヒロインであるジナイーダが果たして誰に想いを寄せているのかということが一番の見どころではないだろうか。

 


 僕にとってのはつ恋とはいったいどれの事だろう。中一の時にいつも憎まれ口ばかりをたたいていた

隣の席のあの子だろうか……。それとも小5の時に急な転校でいなくなってしまう前日に僕のほほにお別れのキスをしてくれたあの子だろうか……。いや、それとも小3の時、渡り廊下で起きた風のいたずらによって僕に水玉模様のパンツをさらしてくれたあの子かもしれない。いやいや、考えようによっては保育園に通っていた時にいつも一緒にままごとをしていたあの子かもしれない。あの時二人はいつも夫婦役で将来は本当に結婚しようなんて言っていた。


 ただ、はっきり恋をした。と、確信できるのはあの時だろう。


 中学三年になったばかりの図書室で……



 僕は高校の入学式に遅刻した。まさにしくじり青春のスタートであった。


 だが、今更終わったことをとやかく言う意味などない。


 二度と同じ轍は踏むまい、とありったけの目覚ましをセットして眠りについた。


 もうその気持ちだけで十分すぎるほどだったのであろう。どの目覚ましが鳴るのを待つまでも無く目が覚めた。目が覚めたからにはもう眠るわけにはいかない。過去の経験よりこういった場合、もう一度眠りについて、次に起きると遅刻というのがお約束だ。


しかしながらもただ出発の時間を待つためだけに起きて待つというのも苦痛である。暇をもてあますことに飽きた僕はひとまず家を出発することにした。とりあえず学校に着いてから寝よう。そうすれば遅刻はありえないはずだ。


 駅に到着するなり身の毛がよだつ。まさか田舎の電車がこんなに混んでいることがあろうなんて考えていたこともなかった。本来乗る予定だった電車よりも一時間も早い電車。たしかにこの電車に乗ればサラリーマンたちが市街地にあるオフィスにたどり着くには十分だろう。


 僕の通う芸文館高校は自宅から市街地に向かう中間に位置する。故にこんな混みあう電車に乗る必要などはない。よってここは電車を一本やり過ごすためにどこかで時間でも潰そうかとあたりを見回した。(田舎ともなればたとえ通勤時間だといっても次から次に電車が来るわけではない)


 しかし、目についたのは洗練されたかのような真っ白な制服。いかにも私こそがエリート校の生徒ですよと主張するかのようにひときわ目立つ制服の生徒が数人、駅舎へと入っていくのが見える。もしかすると、の期待を胸に僕はホームに駆け上がった。


 そしてホームの先端の方、蟻の行列の中からその姿をはっきりとらえられるのは何もそ真っ白な制服が目立つからという理由だけではないはずだ。


 黒髪の文学乙女。彼女を形容するにぴったりの言葉だ。肩にかかるか、かからないかくらいのところできれいに切りそろえられたきれいな黒髪はしなやかでつやがあり、前髪はその無表情すぎるほどにつねにかたく結ばれた真一文字の唇とともに見事な平行線を描いている。この点だけをとっていても、今から思えば二人がこの先も決して結ばれることない関係性だと象徴しているようだ。


そして不健康なほどに白い肌に大きく黒目がちな瞳は知性を感じさせるメタルフレームの眼鏡のせいか、一層大きく見える。長いまつ毛といつもキラキラと潤っている二つの水晶球がどことなく視点をとらえられていないのは視力が極端に悪いからだろうが、その視線に見つめられると、相手の視線は僕の眼球より少し奥の方でぶつかる。それがまた心の奥まで見透かされるような魔力を秘めているようで、どことなく妖艶ささえ感じる。


 視力が悪い人にはありがちなのだが、おそらく本人はそれほどにはっきり見えてないからなのか、恐ろしくまっすぐ見つめてくる。無駄に視力の良すぎる僕にとってはそんな美しすぎる瞳を見返すことなど耐えがたく、つい、目が右へ左へと泳いでしまう。


「ああ、おはよう。優真くん」


 やや言葉のイントネーションを欠いたか細い声で話しかけてくる。手は肘から上だけを上品に振り、それに合わせて鞄についた鼻ひげを生やした猫のマスコットが揺れる。


「ああ、おはよう」


 本当は息切れ寸前、しかも心臓が恐ろしく早く脈打っているのはホームまで駆け上がったからではない。こうして言葉を交わすのは一体いつ振りだろう。はるか遠く昔の事のように思えるし、つい、昨日の事だったようにも感じる。


 事実。まあ、三週間ぶりといったところだろうか……。それは中学の卒業式の日。

 その日まで僕たちは多くの時間を二人で過ごしていた。僕が高校の受験に失敗し、二人が別々の高校に進学すると決まり、もうあまり会えなくなることを悟った僕は卒業式の日にその秘めたる想いを伝えることにした。


 勝算はあった……。


――しかし完敗であった。


 もう過ぎたことだ。気にしてはいない……。 


 しかし、この胸の早鐘がそれを単なる強がりだと伝えている。


若宮雅(わかみやみやび)。たしかに彼女は未だ僕の心の真ん中深くに根を下ろしていた。


 若宮さんはそんな僕の心を知ってか知らずか、まるで悪意のない表情で話かけてきた。

 それがどんなに残酷なことなのか……。彼女は考えもしないのだろう。


「優真くん、たしか芸文館だよね。こんなに早い電車なの?」


 少し前に僕が告白したという事実なんてなかったかのように彼女は言葉を弾ませる。


「まあね。何というか僕は勤勉家だから誰よりも早く学校に登校するタイプなんだよ」


 ――嘘だった。単に入学早々二日連続の遅刻をどうしても避けたかっただけだ。


「そんなこと言って、どうせ図書室にでもこもっているんでしょう?」


「当たらずとも遠からずといったところかな。あの学校……芸文館には図書室がないんだよ」


「え、そうなんだ珍しいわね」


「まったく。おかげで教室の隅っこででも読もうかなと思って……」


「それは淋しいね。優真くん、中学の時はいつも朝から図書室に通い詰めていたもんね」


「…………」僕はそれに対しては何も答えない。


 正直に言えば毎朝図書室に通っていたのは読書好きだけが理由なわけではない。当時、図書室のヌシと陰でささやかれていた彼女が毎朝のように図書室に通っていたからだった。毎朝のように繰り返される二人きりの時間、今から思えばあまりにも見え透いた、それでいて痛々しいとしか思えない行動だった。だけれど若宮さんはそんなこと気にも留めていなかったようだ。


 ともあれ、今でも朝から読書をするという習慣が体に染みついて、それだけが今の僕と彼女とのわずかなつながりだといえる。


 間もなく電車が到着してドアが開いた。中にはおしくらまんじゅうと言わんばかりの乗客がひしめいていた。


「これに乗るのか……」


「うん、しかたないよ」


 僕が先に乗って振り返り、その空いたスペースに若宮さんが乗る。若宮さんのうしろで閉じたドアの内壁に腕を突っ張って踏ん張る。若宮さんが少しでもつぶされないようにとの僕の配慮だった。『こうしていると恋人同士にしか見えないかな?』なんて今更考えてみる。フラれたくせに……


 電車が動き出し、慣性の法則で巻き起こる人の雪崩を背中に受けると、もう、僕たちは会話どころではなくなった。僕たちは黙ったまま見つめ合う形になった。ドキドキしているのはたぶん僕だけ。


 カーブにさしかかると背中に雪崩を受けて、突っ張った腕が潰されそうになるのを必死に耐えるのは僕が若宮さんのナイトだからだ。


 でも……、もし、押しつぶされたとして……。そしたらきっと僕は向かい合った若宮さんに突進してしまうだろう……。そしたら、もしかしてその時に若宮さんにキスしてしまうかもしれない……。きっとそれは不可抗力というもので誰かに責められるものではないかもしれない……。呆れるような妄想で僕は少しばかり気が緩んだ。


 次のカーブの時、気負いよく背中に受けた圧力で突っ張っていた僕の腕は肘から折れ曲がった。


 不可抗力だ……。


 前のめりに倒れこんだ僕の顔は若宮さんの顔へめがけて倒れこんだ。寸でのところ。というべきか、額と額がぶつかり、鼻先と鼻先も触れあった。


唇は触れなかった。きっとそれでよかったのだろう。しかしながら彼女の温かく、湿った吐息を間近に感じるとやはり正気ではいられなくなりそうだ。


若宮さんは目を反らすなりしてくれればよかったのだが、彼女はなぜか黙って静かに目を閉じてしまった。体制を持ち直して再び距離をとると彼女は目を開いた。さっきの出来事は彼女にとってもだいぶ恥ずかしいことだったらしい。今更になってその白い顔はよく熟れたトマトのような色になった。体勢を立て直した僕は再び腕を突っ張る。その時、肩にかけていた鞄が半分ずり落ち、体勢を崩した鞄のサイドのポケットに突っこんでいた文庫本が少し飛び出した。いつもなら文庫本一冊、すっぽり収まる薄いポケットなのだが、何分その日入れていた文庫本は薄すぎたのだ。飛び出したとはいえ、表に出てきたのはほんのわずかな部分。青い背表紙と緑色の表紙絵が覗いたくらい。そして文学乙女の習性とでもいうのだろう。その文庫本に視線を釘付けにした彼女は、「ツルゲーネフ?」とつぶやいた。


――正解だ。その日鞄に突っこんでいたのはツルゲーネフの『はつ恋』だった。


「ああ、もう一回読もうかと思って」


「わたしも好き……」聞きようによっては勘違いさえできそうな、そんな言葉をぽつりとこぼした彼女は

続けて、「きっとジナイーダはウラジミールのなかに想い人の面影を見つけて、ウラジミールにも同じように恋をしていたのよね」


「え……」


 ああ、そうか、彼女はそちら側で物語を読んだのかと気づいた。考えてみれば初めて聞いた彼女の


『はつ恋』に対する感想に、思わずなるほどと思った。


……もちろん主人公は男性のウラジミールなのだが、女性の若宮さんはヒロインであるジナイーダ側の気持ちと立場から物語を読み解いていたのだと気づかされる。


「ねえ、優真くん。ジナイーダはあの人に出会っていなければ、ウラジミールに恋をしていたと思う?」


 そうは思わない。僕はそうは思わない……けれど――。


「うん、きっとウラジミールに恋していたんじゃないかな……」


「そう……。やっぱりそう思う?」


「うん」心と裏腹の返事をした。だって……。そう思わないとやってられない。せめてあいつさえ存在し

なければきっと僕のことを……。




『……わたしはね……。片岡君のことが好きなの……』


 思い出したくもないことを思いだしてしまった。もしあいつがいなければ……。


〝次は――東西大寺――、東西大寺――……〟


 車内アナウンスが鳴り響き、僕が降りなければならない駅に間もなく到着することが知らされた。


「優真くん、次……。降りなきゃいけないね」


「……なんだったらこのまま岡山駅までこうしていようか……。若宮さんが降りてから、Uターンして帰

ってきても僕は学校には間に合いそうだし……」


「え、そんな、いいよ。気持ちはうれしいけどそこまでしてもらほどの理由がないわ……

 それに、ここから先は少しすくから……」


「うん……。じゃあ……」


 そこまでしてあげる理由なら、なくはない。僕は今でも君のことが大好きだから……。君と少しでも長く居たいから……。なんて言葉言えるわけないし……。それに『そこまでしてもらう理由がない』という言葉は『はっきりとあなたとの交際は断りました』という言葉としてもとれる。


 僕には「じゃあ、また」と、言い残して電車を降りる以外の答えは与えられていない。



 それから毎日のように、一年前のあの頃と同じ目的を持って毎朝早くに起きて、早すぎる電車に乗って学校に行き、朝読書をする。まるであの頃から成長していない。


 電車を降りて、まだ通学生徒のほとんどいない坂道をうつむきながらトボトボと歩きながら、「ホント……。僕は何やってんだろう……」とつぶやいた。つぶやいてしまった。


 いまだ持って未練の塊でしかない自分が情けなくなる……


 思えば彼女との出会いは今から一年ほど前……。中学三年に上がったばかりの四月の放課後の事だった。



「――快晴。――無風。うん、言うことなしだね、ゆーちゃん。今日の放課後だいじょうぶ? どうせ部活なんか行かないでしょ」


「部活なんか……。とは失礼だろ。彼らはみんなああして、何も考えず汗を流すことこそ青春だと信じてやまないんだ。僕にしたって例外じゃないよ。僕はれっきとしたサッカー部員なんだからね」


「って、ぜんぜん部活なんか出てないじゃん!」


 僕にちゃんと突っ込みを入れてくれるのは友人の鳩山遥斗(はとやまはると)こと通称『ぽっぽ』。ぽっぽは普段は無口で内向的、友達といえるような存在は僕を除いてほとんどいない。背はやや高く、中性的な顔立ちはそれなりに整っているといっていいが女子生徒からの人気はまるでない。一般的な関心事とは縁が遠く、ごく一部の事象にそのすべてのベクトルを注ぐタイプ。女子生徒からの人気がなくても気にしない。『三次元女子になんか興味がない』だ、そうだ。せめてもう少し寝癖をちゃんと直して整えるだけでもそれなりに見栄えはするだろうに。


 あえて言うまでの事でもないのだが、ぽっぽはヲタクである。そんなぽっぽが本日提案したのが放課後の屋上で紙飛行機を飛ばそうというものだった。


 そんなことの一体何が楽しい? 問いただしたところで無意味だろう。彼の考えることは時として周りには理解が及ばない。それが時として周りの人間を遠ざける結果となりうるのだが、僕にしてみれば彼と一緒にいると退屈しない。非ヲタの連中がやることといえばどいつもこいつも同じようなことばかりで、こぞって同じような服装をして喜んでいるのである。それを自己主張などとほざくのだから笑うべきなのかどうかさえ分からない。


 ぽっぽは違う。時々突拍子もないことを思いついてはそれに突き進む。中二の時などは本気でタイムマシーンが作れないかなどと考えていたくらいだ。そんなぽっぽが屋上で紙飛行機を飛ばすというのだ。きっと何かが起きるに違いない。


 屋上。目の前に用意されていた紙の束は文章が羅列されている。当時の僕は本なんてほとんど読まなかったからよくわからないがどうやら文庫本のページらしい。背表紙から切り取られていて〝本〟の形を成していない。


「ぽっぽ、まさかとは思うけれど海賊版をアップロードとかしてるわけじゃないよな?」


 海賊版をアップロードする際、紙面をスキャンしやすいようにページをばらすと聞いたことがある。


「そんなわけないでしょ。大体それってほとんど漫画の話で小説ならもっと簡単な方法があるよ。絵が必要ないなら文章だけを読み取ればいいんだから」


「してんのか? 違法だぞ」


「してないよ」


「ならいい」


 ぽっぽは屋上に座り込んでは紙飛行機を折っては飛ばし、あれが違う、これが違うと言いながらスマホの電卓機能を使って計算をしている……。どうやら今日はハズレの日のようだった。飽きてしまった僕は屋上からのんびりと校庭を眺めていた。


 そこでは僕の所属しているサッカー部(とはいっても幽霊部員)が練習をしている。サッカー部のキャプテンの片岡君が大声を張り上げて喝を入れる声が屋上まで届いてくる。「まったく……。暑苦しい奴だよな……」ぽつりと独白する。


 中三になっていよいよ部活に顔を出さなくなった。どうにかこうにかレギュラーの端にとどまることこそできていたものの、どうやら僕はサッカーのような集団競技には向いていなかったようだ。

僕は決して運動音痴というわけではない。走ったり、飛んだりといったことはわりと得意な方だし、遊びでやっただけではあるがアイススケートやスノーボードなど、かなりセンスが良かったといってもいいくらいだ。だったらなぜ? 自らを他人の顔色をうかがうのが得意と自負するこの僕が集団競技がだめなのかという事なのだが、要するに周りに気を遣いすぎてしまうのだ。サッカーにおいては仲間の意思をうまく読み取り適格な位置でパスを受けとる。敵の行動を読んでうまくボールを奪うことができる。問題はその後だ。僕ごときが出しゃばったことをしてボールを奪われでもしたらほかのみんなに申し訳がないという恐怖にかられてしまう。そこで僕が何をするかといえば、とにかくほかの誰かにボールを渡したいのだ。ボール、即ち責任を早く誰かに押し付けたいのだ。そういった僕の行動に対し、特別強いチームでもないような中学生のサッカーチームにおいて僕が評価されることはなかった。それどころか、大切な試合の大切な場面に僕は大失態を犯した。


試合の残り時間はあとわずかで2‐2の同点。敵ゴール近くで僕の目の前に絶好のこぼれ球がやってきた。これを決めれば僕はきっとヒーローになれるだろう。しかし、僕の目の前には敵チームのディフェンスが二人向かってくる。僕はビビってしまった。


 その時、僕の取った行動は……。全力の空振り。いや、ただしくはスルーだ。僕のうしろのほうから上がってくる片岡君の姿が見えた。僕はこのチャンスを彼に託し、全力のスルーをして、空中を半回転しながら地面に背中から落ちて、敵チームのディフェンス二人も僕のあまりのこけっぷりにひるんだ。反則すれすれのプレーだ。しかし、どうしても試合に勝ちたかった僕に迷いはなかった。呼吸困難な体をどうにか奮い立たせたその時。片岡君はヒーローになっていた。僕は見事な失態を犯したとみんなの笑い種となった。


 あれがフェイントだったとわかってほしかったとかそういうことだけではない。僕は、片岡君とのあまりの格の違いを自ら強く感じてしまい、なんだかサッカーをするのがばからしくなってしまったのだ。



暇を持て余した僕が退屈がてらに見よう見まねで紙飛行機を折ってみた。よくわからないところはただ何となく思い付きだけで折ってみる。


息を止めて、肩の力を抜いてすう―とはるか遠くまで手を届かせる感じ、僕の手を離れた紙飛行機は上空高く飛び上がり、空を大きく、ゆっくりと旋回する。空を一回、二回、三回と大きな螺旋を描きながらゆっくりと降りて行った。


四回まわってちょうど階下のベランダのところに落ちて行った。


「ずるいなー、ゆーちゃんはー」


「なにが」


「そうやって、ふらっといいとこを持っていっちゃう」


僕は屋上の手摺を掴みながら身を乗り出して真下のベランダを覗き込む。どうやら階下は図書室のようだ。


「ちょっととってくるわ」


「いいよ。別に紙飛行機くらい」


 ぽっぽの言葉を尻目に小走りになっていた。


「いいって、べつにー」


 後ろのほうでぽっぽの声が響いていたが気にはしなかった。

 階段を下りて図書室に向かう。考えてみれば僕が図書室に入ったのなんてあれが初めてだったかもしれない。


 いやに静かな図書室の引き戸を開けるとガラガラという音だけが響く、当然中の皆さんからの注目を浴びてしまうことを覚悟でそろそろと中に入る。と、注目を浴びるどころか図書室の中にいるのはただのひとりで、しかも僕の事なんかまるで気にかけずに読書に没頭している様子だった。


 ベランダ出口のすぐ手前の無駄に広い閲覧コーナーにただ一人座っている女子生徒には、いつしか傾きかけていた太陽の茜色に染まる西日が降り注いでいた。


 放課後の図書室は蜂蜜をこぼしたような黄金色に包まれ、空気中を舞う無数の埃がまるで天使の飛び立った後の羽毛のように漂っていた。


 ショートヘアでノンフレームの眼鏡をかけた女子生徒は周りに構うことなく読書を続けている。茜色の夕日は彼女の黒髪を黄金色に輝かせる。


 彼女のことは知っている。同じクラスの若宮雅さんだ。


 知っているといっても顔と名前をようやく知っているだけ。同じクラスになったのは今年が初めてではあったが、それほど規模の大きくもない中学校の中で同じクラスにならなかったというだけで今まで知りもしなかったというのも稀有な話ではあるが、それほどまでに彼女は地味で目立たない存在だった。もちろん話をしたことなど一度もない。


 なるべくなら気取られないようにしたいところだが、いかんせん紙飛行機は彼女のすぐ後ろの引き戸を開けたベランダに落ちている。静かに静かに彼女の方に近づいていくとその大きな黒目がちな瞳と長いまつ毛にきらりと光るものが見えた。


「……泣いてるの?」声に出すつもりもなかった声が零れ落ちていた。


は。と、おどろくようにこちらに振り向いた彼女は……可憐で……。うつくしかった……。


「た、た、た、たけひさ君……。いつから……」


 あきれた。今の今まで僕の存在にすら気づいていなかったようだ。それから彼女は自分の涙を見られたことに気づいたらしい。


「あ、あ、あ、ごめんなさい、ちょっと、ほ、本を読んでて……」


 慌てて眼鏡をずらし、白いカーディガンの袖口で涙を拭きとった。


「どうしたの、こんなところに……」


 僕を見つめる彼女の視線に思わず息をのんだ。その視線は僕の眼球そのものではなくその少し奥にあてられているのは彼女の視力のせいだろう。しかもちゃんと見えていないからなのだろうか、おそろしく戸惑うことなくまっすぐに見つめてくる。


 いつもうわべだけを適当に取り繕って生きているだけの僕の心の奥底までを見透かしたような視線に冷静さを失った。それを必死に隠すため僕はあえて軽口をたたく。

窓の外のベランダに見える紙飛行機をを指差す。


「あれ……。あの紙飛行機にさ、君あてのラブレターを託して届けたつもりなんだけど、気付いてもらえなかったかな」なんて、自分でもイラッとするようなことを呟いて見せた。


「あ、あああ、ああ、ご、ごめんなさい。わ、わ、わたし……」


 若宮さんは耳まで真っ赤にしてしまった。


「い、いやいや本気にしないで、ただの冗談だから」


「………え、あ、ああ、あ、ご、ごめんなさい」


 僕の軽口で今度は若宮さんがたじろぐ。相対的に僕は少し冷静さを取り戻した。


「ねえそれ……。そんなにおもしろい?」


「え……ええ。ねえ、竹久君は小説とか読むの?」


「ああ……まあ、シェイクスピアとかならまあ……」


 ――嘘だった。


シェイクスピアなんて名前しか知らない。その頃はロミオとジュリエットのあらすじすら知らなかったのだ。そもそも小説と聞かれておきながら、僕がシェイクスピアを持ち出したのは、戯曲と小説の区別すらできないような無知な人間だからだ。


「シェイクスピアならわたしは『十二夜』と『夏の世の夢』が好きだわ。竹久君は?」


「……い、いや、まあ、ベタだけどハムレットかな」


 よし、これはナイスだ。ハムレットの名前が出ただけで申し分ない。もちろんどんな話だか知らないのだが。


「ねえ、また、竹久君が読んだ本の感想とか聞かせてもらえないか」


「あ、ああ、いいよ。僕なんかの感想が面白いとは思えないけど」


「うん、いいの。自分以外の感想とか知りたいし、そういうこと話しできるような友達とか……いないし……」


「うん、じゃあ、またあらためて……」


 僕はまた、気障ったらしく掌を若宮さんに軽く振ってから踵を返した。


 おそらくその視線を背中に感じながらもそれがまるで何事もなかったように、なるべくスマートであろうと心がけながら図書室を出た。やはりそれなりに図書室というやつは防音効果が働いているものだ

ろうか、廊下に出ると吹奏楽部の合唱の音が初めて耳に入ってきた。今度の地区コンクールで演奏することになっている曲、ベニーグットマンのシング・シング・シングだ。その軽快なリズムに半ばスキップするような足取りで駆け出した。結局紙飛行機を回収さえしなかったことに気づきもしないで。



 僕はその日の帰り道、本屋によってシェイクスピアの『ハムレット』を買って、朝までずっと読んだ。


 ほとんど意味が解らなかったし、途中何度も睡魔に襲われたが、朝までにはどうにか読み終わった。


 それから続けて数冊の本を読んで、僕はしばしば偶然を装って図書室に訪れるようになった。何をもって偶然と言い切ったのかはわからない。誰の目からどう見たって偶然であろうはずもないことくらいバレバレである。放課後、そして時には朝から。若宮さんは期待を裏切ることなくいつもそこに座っていた。


僕はちょっとした読書家を気取りながら〝同じ趣味を持つ者同士〟を演じて彼女に取り入ろうとした。始めのうちは開いた本の脇から盗むように彼女のことを眺めていたが、それになれるとだんだんと大胆さは増して本を置いたまま彼女に見とれることもあった。その白い肌、艶のある髪、大きな目、長いまつ毛。普段はおとなしすぎて気に留めもしなかったが彼女は充分すぎるほどに美しい少女だった。果たしてこの事実にどれくらいの人が気付いているだろうかと思うと、それを見抜いた自分を誇らしくも感じた。


 彼女は読書をするときは決まって右手でページをめくり、空いた左手でスピンをいじるクセがある。文中の世界で緊張が高まると細く、白い指にスピンをくるくる巻きつける。僕は左手の薬指に巻きつけるスピンを見ながらいつか自分が贈るであろう、その指の装身具を重ねた。


 本を読み進めようとしてもいっこう頭には入らず、結局同じところを繰り返し読まなければならなくなる。僕はたしかに恋をしている。そしてそれは思春期において大いなる悩みが一つ増えたことを意味する。


 そして時には彼女と読書の感想を語り合うこともった。あるとき、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の感想文を彼女に渡したことがあった。まるでひねくれた、バカバカしいとしか言いようのない感想文だった。しかし若宮さんはそれを面白いと言ってくれた。『同じ本でも人によってそれをどう読み取るかというのはさまざま。ありきたりのきれいごとばかり並べる優秀な感想文よりも、竹久君らしさが出ていていい』と、言う事だった。


 僕はその言葉を聞いて調子に乗っただろう。有頂天になって、間違った読み方をすることに対しても恐れなくなった気がする。ただ、自分の好きなように読む。時には自分の都合のいい様に理解する。そんな読み方までするようになった。


 そして僕はどんどん深みにはまっていった。


 ――読書と、――若宮さんに。


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