『ハムレット』シェイクスピア著を読んで3 笹葉更紗
翌日の実行委員会の時、瀬奈が相談をもちかける。
「昨日さ、ユウに演劇を手伝ってくれないかって頼まれちゃったんだよね。どうすればいいかな?」
聞けば昨晩、例の脚本は瀬奈のところにも送られていたらしく、瀬奈にはゴネリルの役をやってもら
えないかと頼まれたらしい。
「どうすればいいかなって、瀬奈、そんな時間あるの?」
「うん、それなんだよね。演劇を手伝いたいっていう気持ちはあるんだけど、実行委員もあるし、バンドもやらないといけないんだよね」
「瀬奈、竹久にバンドのことまだ言っていないの?」
「うん。本当は当日に驚かせたいっていうのはあったんだけど、さすがに黙っておくのは無理みたい」
「まあね。竹久もバンドをやるっていうことを知っていれば無理に手伝ってほしいとは言わないだろうけれど」
「せめてもう少しセリフの少ない役ならねえ。このゴネリルって、ほとんど準ヒロインっていう立場じゃない?」
「そうね、あの脚本ではリーガンは出てこないから女性キャラクターはメインがコーデリアでゴネリルが準ヒロインね。後は、リア王の母親役のガートルードくらいかしら? これはハムレットの登場人物ね」
「せめてそのガーターベルドくらいのセリフなら覚えられなくもないんだけどね」
「ガートルードね。でも、瀬奈には役不足にも感じるわ。不倫をして夫を殺す役なんて」
「役不足……。アタシって信頼ないんだ。確かにアタシはシェイクスピアのことはよく知らないけど……」
「あ、瀬奈。きっと役不足っていう言葉の意味、瀬奈は少し勘違いしているかも」
「勘違い?」
「うん、役不足っていうのは演者に対して役のほうが不足しているという意味で、つまり瀬奈ならもっと重要な役を任せたほうがいいという意味。瀬奈は信用されているっていう意味なのよ」
「あは? なんだ、やっぱりそうなんだ! うーん、でもそう言ってもらえるのはありがたいんだけどさ、やっぱりゴネリルっていう役はセリフが多いよ。それにさ、なんかよくない? 愛のためならどんな悪事でもやってしまうような女」
「殺されちゃう役よ?」
「肝心なのは生きるか死ぬかってことじゃないよ。そこは大した問題じゃない。用は自分の意志を貫いたかどうかっていうことなの」
「生きるか死ぬかは問題じゃない?」
「そうよ。ほら、例えば好きな人がいるでしょ。その場合やっぱり告白する以外の選択肢はないわけ。成功するかしないか。つまり生きるか死ぬかが問題なんじゃなく、告白することもなく、ずっと内に秘めていたんじゃいつまでたっても浄化されないでしょ。きっとずっとしなかったことを後悔するわけであって、どのみち負けが確定しているわけ」
「そう。つまり瀬奈は好きな人がいれば迷わず告白するってわけね」
「それはもちろんそうよ……」
「すごいわね。まるで告白すれば必ず成功する自信を持っているみたい」
「成功するかどうかは別にして、その人のことを好きだっていう気持ちは誰にも負けないという自信はあるわ。少なくともユウの書いたこの脚本のゴネリルはそう考えていると思うの。勝つか負けるかなんてはじめからこだわっていない。ただ、リア王のことが好きだからその想いを伝えておく、みたいな?」
「でも、セリフは長いからやりたくない?」
「半分は嘘。本当は負けヒロインなんてやりたくないっていうのもあるかな。それにやっぱりセリフが多いから練習もしなくちゃならないだろうけど、バンドの練習もしなきゃだし」
「それに実行委員の方もね。少なくとも瀬奈は斎藤さんの代わりにここにいるわけだし斎藤さんに負けないくらいの仕事はしないといけないのよ。それに、あんたはどんどんと実行委員の仕事も増やしているみたいだし」
「だってえ、せっかくだからキャンプファイヤーやりたいじゃーん」
「はいはい。しっかりやりましょうね」
「うーん。あ、そうだ。ゴネリル役、サラサがやればいいんじゃない?」
「ウチだって実行委員の仕事があるのよ」
「でも、バンドはやらないでしょ?」
「瀬奈を基準に考えないでよ。普通の人はそんなにあれやこれはできないのよ」
「でも、ユウはサラサがやってくれるっていうなら喜ぶと思うなあ」
「簡単に言わないでよ」
「サラサなら、ゴネリル役が似合うと思うんだけどなあ」
「なあに? それはウチが負けヒロインがお似合いって言いたいわけ?」
「あは?」
「そもそも生徒会長がなんていうかしら? 本来ステージ上の管理をしなければならないウチらが実際にステージに立つなんて許してくれるかしら?」
「あー、アタシ。どのみちバンドで立つんだけどね。まあ、実行委員は斎藤名義でバンドをするのは宗像名義だから多分ばれないと思うけど」
「いいじゃないか。せっかくなんだからステージで演劇をやるといいさ」
許可は出ないんじゃないかと思いながら生徒会長に相談したところ、すかさず了承してくれた。しかも――。
「当日はぼくもステージの管理を担当するつもりだ」
「え、会長もですか?」
「だってそうだろう。ステージの管理は実行委員の仕事の中でも最も大変な仕事だ。やる気のある君たちのことだからきっとうまくやってくれだろうと任命したが、さすがに僕も責任者として立ち会うようにしてある。だから君たち二人が演劇に出演するというのならばその間は大船に乗ったつもりでぼくに任せておいてくれたまえ」
もしかすると、ウチはこの生徒会長星野という人物の評価を再認識する必要があるのかもしれない。
よし、ならばやってやろうじゃないか負けヒロイン役! 戦わずして負けるよりはずっとましだ。
その夜、竹久に演劇の配役について聞いてみた。瀬奈はすでにゴネリル役が無理だと言ってガートルード役なら参加してもいいということを伝えていた。ゴネリルは、誰かほかの人にやってほしいと言われて頭を抱えていたそうだ。
「ねえ、ゴネリルの役、ウチでよければやってもいいのだけれど……」
「え、笹葉さんが?」
「ウチではだめかしら?」
「い、いや、そういう訳ではなくて……」
竹久は言葉を濁す。考えてみればウチなんて初めからお呼びではなかったのかもしれない。そもそもあまり社交的なんかではなく瀬奈のように通った声が出せるわけでもない。ウチなんかが参加したいだなんていうのはおこがましいことだったのかもしれない」
「うん、わかった。笹葉さんがそういうのならばぜひお願いしたい。その……もしゴネリル役のセリフなんかであまり言いたくないようなセリフがあったら遠慮なく言ってくれ。舞台に支障が出ない範囲でなら書き換えるようにするから」
「わかったわ。ありがとう」
言ったからにはもう逃げるわけにはいかない。何がなんでもうまくやって見せる必要がある。
ウチが参加することでキャスティングはおおよそ決まった。舞台の主演となるリア王役が黒﨑君。叔父のクローディアスが脇屋先輩、敵役のティボルトが部長の福間先輩だ。特にこの三人は殺陣のシーンがあるため経験者以外が演じるのが難しい。二人の演劇部員はともかく黒崎君は演技の経験はないのだけれど、きっと彼なら大丈夫だろう。なにをやらせてもとても器用にこなすことはもちろん、努力は人一倍怠らない人だ。
女性陣はメインヒロインとなるコーデリアを葵先輩。負けヒロインのゴネリル役がウチで、リア王の母のガートルード役を瀬奈が担当。リア王の忠実な家臣ケント役を竹久が演じる。その他に少しのエキストラも登場するが、そのタイミングで舞台に上がっていない誰かが演じるという方法でどうにかなりそうだという話だ。なにしろ、人がいないのでしょうがない。誰か一人でも欠ければきっと幕は上がらなくなってしまうだろう。
学園祭までは残り一カ月ほどの期間しかなく、そのほとんどが素人同然のメンバー。放課後は毎日閉校時間ギリギリまで猛練習が行われた……らしい。
ウチと瀬奈は、毎日の実行委員会が閉校時間ギリギリまで長引いて練習には参加できない日々が続く。委員会全体の打ち合わせも、そして担当の体育館ステージのエリア担当の打ち合わせも共に生徒会長である星野先輩が取り仕切る。しかし相変わらずこの人は自分の話ばかりをして何も決められないまま時間を溝に捨ててしまわなければならないというジレンマを抱えている。
日によっては閉校時間を過ぎてなお場所を校外の喫茶店などに移して意味のない延長戦を繰り広げなければならないこともある。ウチも色々と無理を聞き入れてもらっているという負い目もあってなかなか断ることもできない。
結果、みんなと一緒に練習に参加することはままならない。皆は気を遣って気にすることはないと言ってくれているが、みんなと合わせて練習できないということはあきらかに迷惑をかけている。瀬奈は相変わらずなんでも器用にこなし短い練習時間でガートルード役をほぼ完璧にこなしていく。対してウチは発声すらままならない状態だ。元々が大きい声を出すこと自体にあまり慣れてはいない。瀬奈のように人前で大きな声を出して歌うなんて到底できないことだ。はっきり言って演劇というものを甘く見すぎていた。明らかに自分が皆の足を引っ張っていることを自認する。
最低限、発声練習だけでもしておかなければならない。しかし世の中は意外と大きな声を出していい場所というのは少ないのだ。ひとの行きかう路上はもちろん団地である自宅であっても大きな声を出して許される場所ではない。夜中の公園などひとけのないところに行ったとしても、そんなところで演劇用のセリフ(ましてやリア王への愛の告白)など大きな声で言っていたとしたら警察に通報されてもおかしくはない。いや、通報されなかったとしても誰かに聞かれてしまっているかと思うだけでもゾッとしてしまう。
では、校内ではどうだろう。放課後の旧校舎では皆がそろって練習しているわけだが、あいにくウチはその時間に委員会に出席していなくてはならない。昼休みの時間にでもどこかひとりになれる場所でもないだろうかと考えた挙句、一か所だけ人の来ない場所が頭をよぎった。
校舎の屋上に上がり、屋上踊り場のドアを開けてあたりを見渡す。案の定誰もいない様子だ。万が一に備え、唯一の出入り口であるドアに背をあずけ、隠し持っていた脚本を開いてゴネリルのセリフを指でなぞる。
まずは開幕のシーン。リア王に呼ばれたゴネリルとコーデリアとが順番にリア王に愛の告白をするシーンだ。先にゴネリルが告白し、そのあとでコーデリアがそっけない態度を示す。
ゴネリルが告白する時点で彼女は望みが薄いと知りながらも精いっぱい想いを伝えなければならないのだ。
〝ああ、リア王様。初めてお会いした時からわたしはあなたのとりこ。あなたという存在を知ってしまったこの瞳は、もはや虹を見てもその色を感じず、星のまたたきを見ても胸躍らせることもありません〟
思った以上に声は出ない。それどころか怯えるあまり声は震えているし、声量を探るあまり声はセリフの途中で大きくなったり小さくなったりしている。
安易な気持ちで演劇をやるなんて引き受けてしまったことに少しだけ後悔する。
大きくひとつ深呼吸して、脚本のセリフのはじめをもう一度指でなぞる。
「ああ、リア王様。初めてお会いした時からわたしはあなたのとりこ――」
そこまで言いかけたところで、「オレもだよ」という声が響き渡る。
びくっとしてセリフを止め、声のする方向。屋上の給水塔の奥に目をやる。
いぶしたような匂いが風に乗って届く。そのにおいだけで、そこにいるのが誰だかわかったような気
がする。
給水塔の裏からひょっこりと、とても目鼻立ちの整った顔がのぞく。ネクタイは緑色で二年生のものだとわかる。彼とは以前にもここで会ったことがある。ウチとは別の理由でこのひとけのない屋上をお気に入りの場所にしているらしい。
整った顔でウチのことを少しの間見つめ、「奇遇だな。オレも初めてあんたを見た時からとりこなんだよ」と、まじめな顔で言い終わると、急にくしゃっと顔をゆがめて「はははは」とバカにしたように笑う。
顔を一瞬にして赤くしてしまったウチは逃げ出すように扉を開けて屋上から立ち去った。
なかなかひとりになれる場所なんて、意外と少ないものだ。
ましてや、大きな声を出して誰にも聞かれないような場所なんて……




