『リア王』シェイクスピア著を読んで3 竹久優真
帰り道で大我は深刻そうな顔で言ってくる。
「なあ、優真。脚本は優真が書くんだろ? どんな話にするのかもう決めてあるのか?」
「ああ、なんとなくだけどね。シェイクスピアの衣装が使えそうなのが残っているみたいだし、『リア王』をベースにした脚本で行こうと思うんだ」
「そうか……」
何かもの言いたげである。
「どうかしたのか?」
「いや、こんなことを言い出すのも差し出がましいんだが……」
「気にしないで言ってみろ」
「ああ。実はな……演劇には葵も出演するっていうだろ? だからさ、演劇の舞台の上で、オレに告白させてくれないか? 葵に……」
――なるほど。やけにあっさりと主演を引き受けると思ったらそういう魂胆だったのか。栞さんが演者として出演すると聞いて大我はその計画を思いついたのだろう。
「わかってるじゃないか」僕は言う。「実はさ、おれもそんなことを考えていたところだ。任せてくれ」
握った拳を軽くぶつけ合う。
その夜僕は机に向かい、一心不乱に脚本を書きはじめた。不思議なものでいくら頭で考えても上手くまとまらないというのに、手を動かし始めれば次から次へと文章が湧いてくる。もしやこれが降ってくるという奴だろうか? 正直、自分が書いたとは思えないような歯の浮くセリフやキザな言葉が書き綴られている。いわゆる深夜のラブレター効果というやつなのかもしれない。あるいは普段の自分ではなく、脚本を書いているときは自分が〝脚本家〟という仮面をつけていて、その仮面の下で本心を描いているのかもしれない。
一気呵成に結末まで書きあがったのは、もう白々と夜が明けるころだった。もちろん、これから煮詰めていく必要があるのだろうが、ひとまずここまで出来上がったことに満足し、学校までのわずかな時間、仮眠をとるつもりで横になり、順当に寝坊して遅刻した。
寝不足で始まった一日だが、午後の授業中に十分な睡眠をとることでどうにか回復した。放課後は部室に行けばきっと集中できなくなるようなトラブルが発生すると予想したので今日はあえて教室で作業を行う。替わりに仮入部中の大我に原作となる『リア王』『ハムレット』『ロミオとジュリエット』それにおまけの『マクベス』の四冊を渡して部室でしっかり読み込んでおくように指示しておく。
教室の机の上にコピーした脚本原稿の束を置いて赤ペンで直しを入れていく。
シェイクスピアの戯曲の断片を切り取っては集めて無理やりつなぎ合わせたストーリー。
『リア王』をベースにして、はじまりもそれになぞられたオープニングとなる。
本来の『リア王』は年老いた王で、生前のうちに三人の娘に自分の国を分割して相続させようとするのだが、じつにつまらない茶番を打ってしまう。
自分のことをどれほど愛しているのかを娘たちに言わせ、その裁量に応じて相続を決めようというのだ。
上の娘二人は思いつく限りのお世辞を言うが、自分が最もお気に入りだった末娘のコーデリアはお世辞など言うこともなく、正直な気持ちを答えた。
リア王はこれが気に入らなかった。
コーデリアに領地を相続させないどころか追放までして、上の娘二人に領地を相続させると、王は自ら隠居してしまう。
この後、二人の娘に冷たくされるようになり、末娘のコーデリアに対する愛情を思い出した時には時すでに遅く、リア王は不幸のどん底へと陥ってしまうのだ。
この部分を参考に僕の脚本のはじまりは、父を病気で亡くしてしまった若きリアが王位を相続するにあたって、二人の花嫁候補から片方を妃として迎えなければならないという物語だ。
一人目の候補ゴネリルは父王の弟の娘。リア王の従兄にして幼馴染でもある。
そしてもう一人の候補コーデリアは古くから王家とは仲が悪く、謀反を企てているのではないかと噂されるキャピュレット家の令嬢コーデリアだ。
王の側近のケント伯は永く続く両家の確執を埋める妙案とコーデリア嬢を推す。
そしてここにはまた真意がある。
公にこそされてはいないが、実はリア王はこのキャピュレット家の令嬢コーデリアと恋仲にあった。それを知る側近のケント伯は大義名分を携えてコーデリアを推薦したのだ。
しかし、一族の意見では王弟の娘ゴネリルを推す声が大きい。そこでリア王は大義名分を獲る為につまらない茶番を打ってしまうのだ。
二人の花嫁候補に自分のことをどれほどに愛しているのかを語らせ、その上で花嫁を決めるというのだ。
幼馴染のゴネリルは積年の想いを語りかけ、リア王を愛しているという。
しかし、コーデリアは「自分のような低い身分の者が王に対し『愛している』などと分不相応なことがどうして言えましょう」と言い、その言葉にへそを曲げてしまったリア王はキャピュレット家の爵位を奪い、王弟の娘ゴネリルと結婚してしまうのだ。
しかしリア王は後にこのことを後悔し、どうにかコーデリアとヨリを戻せないかと画策する。
言わずもがな、この物語は僕の友人黒崎大我と栞さんとをモチーフにした物語でもある。中学時代に栞先輩に想いを寄せながらも、陰キャの代表ともいえる相手に対し世間の目を気にして後悔してしまった出来事の再現のような物語である。
当然主演のリア王は黒崎大我。それを支えるケント伯を僕。そしてコーデリアの役は何が何でも栞さんにしてもらう予定だ。安直に演劇部に協力すると言い出した責任は取ってもらう。
そして舞台の終盤、リア王扮する黒崎大我は舞台の上で葵栞に公開告白をしてもらおうという寸法だ。
主演のリア王は大我に演じてもらうことは確定している。リア王の理解者であるケント伯は僕がやるとして、物語の中でおそらくもっとも難しい役どころとなるコーデリアの兄にしてキャピュレット家の長男ティボルト役は部長のとべっち先輩。そして、ゴネリルの父、王弟の役が脇屋先輩だ。脇屋先輩には舞台の仕掛けや照明をメインにやってもらうので出番の少ないけれど役割の重い王弟をやってもらう。
そしてヒロインのコーデリア役には栞さん。ここは嫌だとは言わせない。そしてもう一人重要な人物として恋のライバル役のゴネリルは決まっていないが、できれば瀬奈にやってもらおうとは思っている。
しかしこのリア王。自分が書いた、しかも友人をモデルとして作った話ながらなかなかムカつくやつだ。本心は片方に決めているとはいえ美女二人に告白をさせておいて平然と過ごしているのだから仕方のない奴だ。ゴネリルは断られてしまうことが前提にもかかわらず皆の前で愛の告白をさせられてしまうのだ。僕がもしリア王の立場だったらそのどちらかを選んでどちらかを切り捨てるなんてとてもできないように思える。まあ、おそらくそれが一番クソやろうな答えなのかもしれないけれど。
時間は瞬く間に過ぎ去ってしまう。いつの間にか放課後の時間は過ぎ去り下校指示の時刻が迫っていた。気に入らないところに赤ペンを入れていくつもりがいつの間にか原稿は真っ赤になっていて、直すというよりほとんど最初から書き直したほうがいいようにも思えてくる。荷物をまとめて帰り支度を始めることにした。
「竹久、まだいたの?」
静かな教室に声が響く。教室に差し込むはちみつ色の夕日が室内の埃をきらきらと輝かせ、それはまるでダイヤモンドダストのような輝きを放つ中にたたずむ彼女。こうしてみると、いや、こうして見なくてもやはり彼女は美しい。
「笹葉さんお疲れ。こんな時間まで委員会?」
「うん……でも、ほとんど意味のない話し合いだけでなんにも決まっていないわ。このままで学園祭、間に合うのかしら」
「ごめんね。なんか押し付けちゃったみたいで」
「ううん、そんなこと……ウチが自分でやるって言い出しただけのことだから」
各クラスから代表でひとり文化祭の実行委員を選出しなければならない。当然放課後の毎日をそんなことにつぎ込みたいとはだれも思わず、責任感の強い笹葉さんが立候補した。たぶん彼女からしてみれば恋人と別れて放課後に暇を持て余してしまった穴埋めという意味が含まれていたのだろうけれど、そんな彼女の行動を点数稼ぎだと悪く言うものも少なくない。
それはおそらく笹葉さんの容姿が人並み外れて美しすぎるというのもあるだろう。ましてやみんなの憧れである黒崎大我と一時期ではあるが恋人同士だったのだ。妬まれても仕方がない。
「あれ、ユウ。まだいたんだ」
そこにもう一人の美女が登場する。笹葉さんの親友の宗像瀬奈だ。彼女もまた成り行きで学園祭の実行委員のクラス代表になってしまったという。しかしこうして二人並んで立っている姿を見るとやはり甲乙つけがたい存在だ。万が一にもあり得ない話だろうけれど、僕の書いた脚本のリア王のようにこの二人から同時に愛を告白されたとしたら、それは本心の中でどちらかだという結論があったとしても、どちらかを選んでどちらかを切り捨てるなんてとてもできない選択なんだろうと思う。
わかっている。もちろんそれは最低のクズの選択だ。
「二人とも今から帰り?」
僕は二人を一緒に帰ろうと誘うつもりだった。友人の大我は部室に栞さんと二人きりにしているのであの二人が一緒に帰るのが望ましい。
そしておこぼれにあずかり両手に美女を侍らせての下校役を僭越ながら引き受けようと考えた次第だ。しかし――。
「アタシ今からちょっと用事あるんだ。ゴメンね」
瀬奈は僕がまだ一緒に帰ろうと誘ってもいないうちに断りを入れて立ち去ってしまった。
教室には僕と笹葉さんの二人だけが取り残される。
少しばかりの気まずさの中、それでも自然な成り行きで二人は並んで教室を出て、一緒に駅へと向かう道のりを歩く。
「そう言えば竹久、学園祭の演劇の脚本書いてるんだって? 瀬奈から聞いたわよ」
沈黙の気まずさを紛らわすように、笹葉さんは思い出したように言った。
「うん、シェイクスピアの戯曲をいろいろ合体させてパロディーをつくってみたんだ」
少し得意気になって、鞄から原稿の束を取り出す。それをさも自然に手に取った笹葉さんは歩きながらその原稿を読み始めた。
少し間をおいて、マズイことをしてしまったと気づく。
物語のストーリー上、リア王が大我でコーデリアが栞さんだとすれば、はじめに結婚するにもかかわらず、後半捨てられてしまう幼馴染のゴネリルはまさに笹葉さんそのものだ。まだ失恋の傷の癒えていないだろう彼女にこんなものを見せてしまうというのはいかに気のまわらない男だろうか。
かといって今からその手に持っている原稿を奪うというのも甚だおかしな行為である。彼女の様子を横目でちらちらと伺いながら歩く。
つまり、ちゃんと前を見て歩いていなかった。それは笹葉さんにしても同じことでふと気が付くと彼女は道を少しそれて道路わきの桜の木に激突する直前だった。
「あぶない!」
彼女の腕をつかんで手前へと引っ張ると、何事がおきたのかわからない笹葉さんは目を丸くして僕の胸の中へと倒れ込んだ。彼女が倒れてしまわないようにと、しっかりと受け止めようとするあまり、僕は笹葉さんを抱きしめるような形になった。
「あ、ありが、とう……」
「い、いや……なんか、ゴメン」
彼女を抱きしめた格好のままで互いに恥ずかしそうにつぶやく。僕の腕の中にいる笹葉さんは、とても柔らかく、甘い香りがした。非常事態とはいえ罪悪感が体を走る。
ゆっくりと離れ、それからまた無言で歩きはじめた。気まずさを紛らわせるための意味のない会話を始めてくれたのは笹葉さん方だ。
「『リア王』が中心の話なのね。まだ、最初のところしか読んでいないけれどハムレットとそれにロミオとジュリエットがミックスされているのね」
「うん。でも、物語全体のテーマは全然違ったものにしているんだ。
ほら、本来のリア王って〝老い〟によって失われていくものを描いているでしょ? でも、まだ若い僕らにとってはイマイチぴんと来ないテーマだなって……」
「だから若いリア王にして、〝老い〟に近い存在の〝過ぎたことへの後悔〟をテーマにしているわけね」
「さすがだね……。最初だけ読んでそこに気付いているなんて」
「でも、目の前の樹には気付かなった」
「うん。それはほんとに気を付けて」
その言葉で、ふたりは「ふふふ」と同時に肩を揺らして笑う。
駅に着いたがまだ電車は来ない。僕と笹葉さんは別々の方向の電車に乗るのだが、田舎の駅は次から次へと電車が来るわけでもなく、片側一車線ずつのホームだと電車を確認してからでも急いで向かいのホームに行けば間に合う。
僕たちは降りの駅のホーム(それは笹葉さんが乗る電車のホーム)のベンチにふたり並んで座り電車を待つことになった。
笹葉さんは思い出したようにシェイクスピアのリア王について話し始めた。
「ねえ、ウチ思うのね。『リア王』の本当の主人公はリア王でもコーデリアでもないんじゃないかなって」
「主人公がリア王じゃなくてコーデリアでもない? えっとー、じゃあグロスター卿エドガー……かな。グロスター卿のエドマンドとエドガーのストーリーは結構無視されてしまいがちだけど、リア王が悲劇的な結末を迎えるのに対し、並行するエドガーの物語は大団円になる。
物語的には確かにそっちを主人公と考えた方がきれいにまとまっているようには感じるけど……」
「うん、まあ、それもあるのだけれど、ウチが思う主人公は道化師なんじゃないかなって」
「道化師?」
「そう。特にリア王の物語なんかだと、みんな王に対してゴマをすってばかりで、そんな周りに対して王自身がいい気分になっているように感じるんだけど、唯一無礼講を許されている道化師はその立場を利用して、王に対して言いたいことを言うのね。愛娘であるコーデリアでさえ本心を言ったことでとがめられているというのに、それってすごいことなんじゃないかしら」
「ああ、たしかにそうだ。僕もあの話を見て思ったのは、いくら道化師とはいえ、あれほど好き勝手に言えるものなのかなって」
「たぶん、実際にはいくらなんでもあそこまでは言えないんじゃないかしら。でも、シェイクスピアは演劇の中であえてそれを道化師に言わせることによって、王自身にその意思を伝えていたんじゃないかしら。当時のシェイクスピアの人気はすごくて、エリザベス女王も観に行っていたっていうくらいだから……」
「そう言えば、たしかシェイクスピア自身、道化師の役を演じていたって聞いたことがあるな……。シェイクスピア自身は自分の意見を素直に王に言っていいような身分ではなかったし、もし、シェイクスピアの戯曲を書いたのがシェイクスピア自身ではなく、その素性を隠したい貴族のひとり、たとえばフランシスベーコンだったりするならば、尚更王に本音なんて言えない立場だったろうね」
「ほら、ね」
「あ、でも、リア王の劇の中で、前半あんなに印象の強いキャラクターだったのにもかかわらず、後半急に出てこなくなるんだよね」
「そうなのよ。ちょうどもう一人の主人公かもしれないって言ったグロスター卿エドガーが〝トム〟と名乗って登場するあたり」
「後半はまるでトムが道化師みたいに狂った口調でリア王に好き放題の言葉を言うんだ」
「ねえ、もしかするとシェイクスピア自身は道化師とエドガーの二役を演じていたんじゃないかしら。だから、後半エドガーが活躍するようになってからは道化師を登場させるのが難しくなったんじゃないかしら。だけれどもその分、エドガーが劇中で作者が最も言いたいこと言う役回りになった」
「うーん、それは……どうなんだろうか? でも、まあ、そこのところを勝手に想像してしまうっていうのも面白い見方だよね」
「ねえ……」
「うん?」
「竹久がリア王だったらどうする?」
「僕がリア王だったら?」
「うん、もし竹久が想いを寄せている相手がそっけない態度をとっていて、そんな時にそれほど好きで
もない女性から好きだって言われたら……」
「そりゃあもちろん断るさ……と、言いたいところだけど、実際どうだろう。僕はそんなにもてたことが無いからよくわからないけれど、その場の雰囲気に流されて間違った選択をしてしまうと、きっと後悔し続けることになるだろうから……」
僕は、そういながら立ち上がる。
反対車線の線路の先、遠くの方からやってくる電車の姿が見えたからだ。
「それじゃあ、またあした」
「うん、またあした」
僕が上りの電車に乗り込んでも、すぐに電車は発進しない。反対車線の下りのホームにも電車がやってきて、この駅ですれ違う予定だ。
反対車線にいた笹葉さんもベンチから立ち上がり、ホームに入ってきた電車に乗り込む姿が窓から見える。
やがて二台の電車はゆっくりと動き出し、それぞれ別々の方向へとゆっくり走り始めた。
僕は、リア王の物語を読んで改めて思う。
人は誰しもいろんなしがらみの中でその想いを隠し、偽らなければやってられない時というのはあるものだ。
しかし、もしリア王が初めから自分の気持ちに正直に生きていたならどうだろう? 物語は、全く違ったものになったのではないだろうか。
リア王の物語の中心には、〝老い〟に対する儚さが描かれている。
それはひとえに、失敗を犯した時に老いのせいで取り戻せないという部分もあるのではないだろうか。
さいわいにも僕たちはまだ若い。
犯してしまった失敗に足を引きずられて身動きできなくなるとは限らない。
失敗してもやり直すだけの余裕は残されているのではないだろうか。




