『リア王』シェイクスピア著を読んで 竹久優真
『リア王』シェイクスピア著を読んで 竹久優真
『リア王』は、かのシェイクスピアの『ハムレット』『オセロー』『マクベス』と並ぶ、四大悲劇の一つだ。
年老いた老王リアは自分の三人の娘を呼び、それぞれに自分をほめちぎらせ、それに応じた遺産を分与する。上の二人の娘は王を褒めちぎるが、本来一番かわいがっていたはずの下の娘はあまり上手に褒めることができない。そのことに怒ったリアは一番下の娘を追放し、上の二人に国と爵位を相続させた。しかし相続を終えた二人の姉は父であるリアに冷たく当たる。
ひとり行き場を無くしたリア王は荒野の雨に打たれ気がくるってしまい、そんなリア王を救うべくして訪れた末娘のコーデリアもとらえられてしまう。そして牢の中リア王とコーデリアは悲劇的な末路を迎える。親子の絆と老齢の悲哀を語る物語だ。
正直僕はイマイチこの話が理解しがたい。僕はまだ十六になったばかりの高校一年生で、老齢でなければ娘もいないし結婚もしていない。それどころか恋人だっていないのだ。
僕にあるのは友人ぐらいなものだ。しかもとびっきりの美男子で成績も優秀、スポーツ万能で気が利く男だ。まさにリア充のなかのリア充、キングオブリア充。僕はこいつのことをひそかに『リア王』と呼んでいる。
九月になったというのに相変わらず続く猛暑日。何をもって夏が終わったというのかはわからないが、夏に起きた事件を引きずる僕たちにとって夏が終わったとは言い難い。それでも夏の課題を残したままでも八月は繰り返されることなく終わりを告げて九月を迎えた僕たちには残暑を乗り越える必要があるらしい。
人間は本来気温22℃が適温らしく、暑いのが得意だとか苦手だとかにかかわらず気温が一度上昇するたびにパフォーマンスが2%下がるらしい。現代文のテストで70点というふがいない点を取ってしまった僕は教科担任の真理先生に「適温であれば100点取れていたはずだ」と主張してみたが、どうやらテストの時にはエアコンがちゃんとついていたらしく、それが僕の実力なのだと論破されてしまった。
確かに僕たちの教室がある新校舎にエアコンはついているが、部室のある旧校舎には当然エアコンがない。丘の上で少しばかり風通しが良いのだからそれで妥協するしかないとはいえやはりいくら何でも暑すぎるようだ。
まるで幽霊屋敷のような旧校舎の軋む廊下を歩き、『文芸部』の表札のかかった教室。そこが僕たち漫画研究部の部室だ。僕はこのまぎらわしい表札のせいで間違って入部することになった。管理のずさんな生徒会が表札を取り換えていないということらしい。
部室には瀬奈が一人でいた。最近栞さんはここへ来るのが少し遅いらしい。僕の教室からはこの旧校舎
は一番遠いので必然的に僕の到着は遅れる。
瀬奈はどの部にも所属していない。栞さんとも仲がいいため暇つぶしを兼ね漫画研究部の部員ではないが頻繁にこの部室に出入りしている。まあ、機会があれば入部させるということもあるかもしれない。
たぶん僕の到着に気づいていないわけではないだろうけれど、特に気にする様子もなく鼻歌を口ずさんでいる。耳にはイヤホンが差さっていてコードが鞄へと延びている。音楽でも聴いているのだろう。邪魔をしないように目で軽く挨拶をすると「こっちこっち」と手招きをした。
「これ、フラッパーズの新曲だよ」
と言いながら片方のイヤホンをはずして差し出す。僕は普段ワイヤレスイヤホンを使っているのでそれを使えば瀬奈から片方を借りる必要はないのだが……あえてそのことは言わないでおくことにした。
瀬奈の隣に座りイヤホンを耳にあてる。彼女は気を遣って椅子を寄せ、寄り添うように身を寄せてくる。夏服からむき出しの肘が触れる。
エアコンのない教室は暑い。ネクタイを緩め胸元から風を取り込む。
正直なところそのフラッパーズなんていうアーティストは知らないし、別段興味を惹かれるような音楽でもなかったけれどできればずっとこの曲を聞いていたいと思う。
――が、なかなかそうはいかないものである。
「あー、これはちょっと邪魔しちゃったのかな?」
厭味ったらしく僕らの前に姿を現したのはわが漫画研究部部長の葵栞先輩だ。
「いや、別にそんなことはないですよ」
特に気にしているつもりもない素振りでイヤホンをはずす。
「そういえばせなちー、さっき友達、笹葉さんだっけ? せなちーのことを探してたみたいだよ」
「あ、そーなんだ。じゃあアタシ、ちょっと行ってくるね」
瀬奈はそのまま部室を飛び出す。
瀬奈のいなくなった教室で僕から少し離れたところに座った栞さんが鞄から描きかけの漫画の原稿を取り出す。あえて栞さんには視線を向けないように聞いてみる。
「笹葉さんが呼んでいたのって嘘ですよね? 笹葉さんは放課後文化祭の実行委員で忙しいはず」
「そうだよ。あーしが言ったのは嘘だからね。君たちがあまりにも暑苦しいから追い払っただけだよ」
「うわー、嫉妬ですか? そんな嫉妬をするくらいなら栞さんもひとつ恋人でも作ってみてはどうです
か? 僕の青春の一ページを邪魔しておいてまったく反省の色がない」
「いやいや、反省どころかむしろ感謝してもらいたいね。いいかい? 君たちは片方ずつのイヤホンから同じ曲を聞いたつもりになっているかもしれないけれど、イヤホンの音は左右違う音が出ているんだ。つまり君たちはずっとすれ違い続けていたという訳だよ。それが大惨事に至る前に助けてあげたというのに……。大体さ、そんなことしなくてもたけぴーはワイヤレスイヤホンを持っているだろ? なぜそれを使わないんだい?」
――それを言われると、返す言葉はない。
「ところでさ、たけぴー」栞さんが追い打ちをかけてくる。「最近我が部室にやたらと部外者が乱入しているようなんだけど」
「瀬奈のことですね。何をいまさら言っているんですか」
わかっていてわざと白を切る。
「せなちーのことじゃない、昼休みにさ。どこぞの部外者がここにやってきて昼ご飯を食べているんだよ」
「いや、彼は部外者なんかじゃなくれっきとした漫画研究部員じゃないですか」
「あーしはまだ入部を認めてないんだけどね」
「そんなことを言っていたら我が部は人員不足で廃部になってしまいます。さっさと正式に入部させましょう」
「とかなんとかいって、あのイケメン君をこの部室に押しやってその隙にたけぴーがあの美人の彼女を寝取ろうって魂胆なんじゃないのかい? せなちーが言ってたよ。最近昼休み、いつも彼女とふたりっきりで学食に行っているって」
「……笹葉さんとは、元々クラスメイトだし友達です。それにあの二人、もう別れたので彼女でも何でもないですから」
「じゃあなにかい? もうすでに寝取り済みってことかい?」
「友達ですよ。あくまでも友達……瀬奈に、余計なこと言わないでくださいよ」
「別に言いやしないさ。放っておく方が面白そうだからね」
「面白そう?」
問いただそうとしたところでちょうど邪魔が入った。部室の引き戸を開けて入ってきた人物は僕も知っている人だった。
少しおとなしそうな雰囲気の男子生徒。赤いネクタイは三年生だという証。手に提げている買い物袋には大量のおやつが入っている。きっとこれは相変わらずの依頼料ということなのだろう。つまり、この人は再びこの部室に厄介事を持ち込んだというわけだ。
「なんだ、とべっちか、今度は何の用?」
とべっち先輩は三年の演劇部部長。一年前に両親が離婚して現在は母方の姓を名乗り平澤健吾となっているが、周りは以前の戸部のまま呼んでいる。
そして三年の先輩に対しタメ口の二年生葵栞と後輩に敬語で話す戸部先輩。
「そ、そのう……力を貸してほしいんだ」
とべっち先輩の依頼をまとめると、つまりはこういうことになる。
現在演劇部にはちょっとしたトラブルが発生し、部員のほとんどがボイコットをしてしまった状態らしい。その責任はおおよそ部長であるとべっち先輩の過失によるものらしいのだが、部員の多くがボイコットしているこの状態では到底来月の学園祭、芸翔祭での公演ができそうにないのだという。
たかだか学園祭の出し物くらいやらなければいいじゃないかなんてことは言ってはいけない。
少なくとも青春時代を演劇に捧げている演劇部にとっては一世一代の晴れ舞台だと言って過言ではない。ましてや三年生ともなると夏休み中に行われた高校生演劇大会を終えたことにより、人前で演劇を披露するのはおそらくこれが最後の出番となる。
「で、とべっちはあーしたちに一体何をしてほしいというんだい?」
「つまりはその……一緒に舞台に立って欲しいんだ。演劇部のピンチヒッターとして一緒に劇をやってほしい」
「えっ?」
思わず声を上げたのは僕の方だった。いくらなんでもそれはお門違いというものだ。人前に立って演劇をやるなんて僕たち文芸部(本当は漫画研究部)からしてみればもっとも縁の遠いイベントだ。どう考えたってそんな依頼を受けるはずが――
「ああ、いいよ」
――と、栞先輩は二つ返事で請け負ってしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください。そんなのできるわけないじゃないですか」
「できるかできないかは問題じゃない。あーしはお願いされれば断れない女なんだよ。だからたけぴーもしたくなったときはいつでもあーしに言ってくれたらいいよ」
「あー、はいそーですね」
一度本気で言ってみようかとさえ思う。そんなことをしたら栞さんはどんな顔をするだろうか? いや、それを言った時の大我の顔を想像するほうが興味深い。
「まあ、そもそもあーしたちが引受けなければどのみち演劇はできないわけだろ? だったらダメもとでやるだけやってみればいいじゃないか。だいじょうぶだよ。きっとたけぴーならうまくやれるよ」
あまりに安直な請負だ。しかもその口ぶりからすればどうせまた面倒なことを全て僕に押し付けようって魂胆がうかがえる。
まったく。そもそも僕がこの部に籍を置いている理由はこの静かな旧校舎でのんびりと読書をするためだ。だのにどういうわけか次から次へと面倒事に巻き込まれてしまう。
「――で、演劇っていったい何をすればいいですか?」
半ばやらざるを得ないのだろうとあきらめ半分にとべっち先輩に聞いてみる。
「いや、それについても今から決めなくっちゃならないんだ。なにしろ人手が無くてできる劇にも限りがある」
「人手が無いって……実際のところボイコットしていない演劇部員は何人くらいいるんですか」
「まあ……そうだな……二人……といったところかな。うん」
「ふたり?」
「ああ、ボクと脇屋という三年生がもう一人いる」
「で、でも確か演劇部って部員が二十人以上もいるって話を聞いたことが」
「まあ、元々はね……。数年前までうちの演劇部は人数も少なくて廃部寸前だったんだよ。ボクら三年は初めからボクと脇屋しかいない。で、次の年に城井が入部してくれたおかげ
でうちの部は一気に活発化して、去年と今年、続けて演劇全国大会に出場できるまでになったんだ」
「シロイ……さん?」
「ん? もしかしてたけぴー、あーしのクラスの城井を知らないのか?」
「えっと……そんなに有名人?」
「あきれたね。ま、ともかくとびきりの美形でね。校内に結構な規模のファンクラブだってあるんだよ」
「ま、マジですか? 栞さん。ぜひその子紹介してください」
「男だよ」
「――あ、なんだそうですか。どおりで知らないはずだ。つまり、その先輩のおかげで今の演劇部はあ
るってことですね」
「いや、まあお恥ずかしい話ね。部員のほとんどは城井目当てで入部したようなもんだしね。その城井が今回へそを曲げてしまったんで部は崩壊してしまったと言っていい。まあ、城井は根っからの演劇人間で実力だって相当なものだ。あいつが主演をするから観客は引き寄せられるのだし。きっとボクたち三年が卒業すれば演劇部には帰ってくるだろう」
「その城井って人、そりゃあまたずいぶんなカリスマなんですね」
「まあな。アイツがいるからボクも安心して卒業できる。今回の文化祭のことはボクが撒いた種だし城井がやりたくないって言うんならそれでもいいと思ったんだが、脇屋はどうしてもやりたいって言ってな。脇屋とは三年間ずっと一緒にやってきたんだ。それで、一応部長として脇屋には最後になるこの舞台をどうにかやらせたいんだよ」
イマイチ乗る気を見せない僕の両肩を掴み、とべっち先輩は頭を下げる。僕の悪いところは人からものを頼まれると断れないところだ。やるかやらないかを自分で決めることができない。
「うーん、こんな話、聞かなければよかったと正直思ってます。栞さんもやるっていうんなら、僕もいちおう付き合いますよ。で、どんな劇をしますか?」
とべっち先輩は目を輝かせた。
「そこでさ、竹久君には舞台の脚本なんかを書いてもらえたらなあ、なんて思うんだよ」
「え?」
反論したいところではあったが、とべっち先輩は栞先輩には聞こえないように、僕の耳元でささやくように言った。
「ぜひともプロの小説家にお願いしたいんだよね――」
もちろん、僕はプロの小説家なんかではない。ごくごくどこにでもいる一般的な読書好きの高校生に過ぎない。しかし以前にとべっち先輩は僕のことをプロのライトノベル作家だと勘違いしてしまったのだ。そして僕はあえてそれを否定せず、プロのライトノベル作家の仮面をつけて過ごすことにした。それはその本当の作者の秘密を守るためと、あと、勘違いされることが少しだけ心地よかったということもある。
おそらくとべっち先輩が僕の耳元でささやいた言葉の裏にはライトノベル作家であることをばらされたくなかったらいうことを聞けという脅しの意味を含んでいるのかもしれないが、実はちょっとだけ演劇の脚本というやつを書いて見たかったりもするのだ。だから僕は渋々ながらに承諾して見せたりもする。
「今回だけですよ」




