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『走れメロス』太宰治著 を読んで 2   竹久優真

「あ、あめ……」


 と、不意に宗像さんがぽつりとつぶやいた。窓の外を見ると、いつの間に降り出したのかしれない雨が次第に雨足を強めていった。


 準備のしたたかな自分を我ながら褒めてやりたい。まだ梅雨入り前とはいえ、用心深い僕は朝、ちゃんと傘を持って来ていた。


 窓を閉めようと思い、そちらの方へと向かって歩いて行き、窓を閉め切ったところで窓ガラス越しの向こうを走りすぎていくスーツ姿の男性教員の姿があった。思いがけない雨で、革の鞄を頭の上に掲げて走りすぎていく。黒縁の眼鏡はすっかり濡れてしまい、大きなしずくが視界を奪っている。


 その男性教員は、この芸文館高校の教師ではなかった。無論、高校に入学したばかりの僕がこの学校の教師の顔を全て憶えているはずがない。ひとの顔を覚えないことには自信があるくらいだ。


 にもかかわらず、その男性がこの学校の教師ではないと断言できたのには理由がある。

その男性教員はぐるっと建物を迂回し、この旧校舎の玄関口へと走っていった。


僕はタイミングを見計らい、その男性教員が文芸部の部室のちょうど前にたどり着いた時に教室のドアから廊下を歩く男性教員を「おっさん!」と呼び付けた。


 年配の男性、おじさんを意味する発音ではなく、〝お〟にアクセントをつけた発音だ。


 おっさんと僕に呼び止められた男性教員は驚いた風に眼鏡越しに目をぎょろりとひん剥いて、


「お、竹久か!」といった。


「こんなところでなにしてんですか?」


「卒業生が出身校に顔を出すのに理由がいるのか?」


「中年のおっさん(おじさんを意味する方の発音)の場合は必要でしょ? 変質者かと思われる……てか、この学校の出身だったんですか」


「俺はまだまだ二十代だ。おっさんではないだろ! それにちゃんと許可を得てからやってきてんだよ」


 言いながら、濡れた革の鞄で僕の頭を一撃軽くたたく。今度改めて暴力教師だということで教育委員会だかなんだかに文句を言ってやることとしよう。


 そんな僕の腕をつんつんと突いて「だれ?」と問う宗像さん。


「あ……この、僕の中二の時の担任。まあ、おっさん(おじさんの発音)って呼べばいいから」


 そこでまたもう一度僕の頭を鞄でたたく。


「今、発音がおかしかった。わざとやっただろ!」


「はん、ばれたか……、改めて紹介。僕の中学の時の担任、奥山先生。科学の教師でカメラヲタク」


「そこまでは言わんでいい」


 ともう一度鞄を振り上げるが、さすがに何度も同じ攻撃を食らうはずもなく、そこはひらりと華麗にかわす。


「なんか仲良さそうだね」


「「どこが!」」


 宗像さんのつぶやきにふたりしてツッコミを入れる。


 中学時代の担任だった教師、奥山先生は皆に「おっさん」と呼ばれ親しまれた教師だった。ちなみにこのあだ名は僕が付けた。奥山の最初の文字の〝お〟に敬称を付けただけなわけだが、当然本人がいないときやイラついた時は皆、中年男性を意味する発音の方で呼ぶ。

 フレンドリーであまり教師らしくなく、職員室嫌いでいつも理科の実験室にいたのは、一説では教師の間でいじめられていたからだという説もある。


「で、なにしに来たわけ?」


「いやな、来年度の受験の説明会なんかの都合もあって今日はここまで来たんだよ。あ、俺、今年三年

の担任な」


「それは気の毒に……」


「いや、まったくだよ」


 この教師、仕事がキライなのだ。生活するために教師をしているだけで、熱血だとかそういうものとは縁の遠い存在だ。


「でな、その用事が終わったからこうして思い出の校舎を散策していたわけだ」


 と、部室の中をゆっくりのながめながら歩き、


「この場所も変わらんなあ……」


 と感慨深そうにつぶやく。


「なあ……もしかしておっさんって文芸部……だったんですか?」


「んー、そうだなあ、文芸部ってわけじゃあないなあ」


「じゃあなんでこの場所がそんなに感慨深いんですか?」


「俺がここを使ってた時はな、文芸部は部員不足で廃部してたんだよ」


 ――文芸部って、いつもそうなのかよ……と、心の中で呟く。


「んで、まあ。ここの部室を使ってたってわけだ」


「カメラ部……とか?」


「ん、まあ……秘密だ」


 秘密だと言われればそれ以上は追及しない。別に、興味もない話だ。


おっさんは一通り歩き回ってから、そのあたりの椅子を引いて座りこむ。すかさずそこへ、部長である栞さんがコーヒーを淹れて差し出す。来客用の紙コップに淹れたインスタントのコーヒーだが、そんな姿はやけに彼女らしくなく、まるで気の利く女を演出しているようだった。


「どうぞ、おあついうちに、」


「ああ、どうも。気が利くね……」


 ニコリと眼鏡姿で微笑む彼女に、いい大人のおっさんが一瞬、その姿に見とれたのがわかった。しかし、すぐに我に戻って、照れ隠しにそっぽを向いた。


「それにしても、お前が文芸部だとはなあ……」


「ま、まあね……」


 言い誤魔化しながら、栞さんの方はとてもみられない。今頃どんな顔で僕を見ているのかなんて想像したくもない。


「あ、ねえねえおっさん!」


 と、宗像さん。さすがに順応が高く、所見ですぐにあだ名で声をかける。


「ねね、ユウって昔からあんなにひねくれた本の読み方してたの?」


「いや……そんなこともないんじゃないか? 俺が担任をしていたころのこいつは本なんてまるで読まなかったからな……。竹久、お前あれだろ、本読み始めたのって三年の時……」


「うるさいだまれ」


 イントネーションを欠いた言葉で言葉を制する。


「まあでもあれだな……ひねくれてたことにはひねくれてたよなあ……」


 そう言いながら、さっきまで宗像さんの読んでいた同人誌『恥じれエロス』の本を見つけて、ぱらぱらとめくる。こんな同人誌、おっさん以外の教師に見つかったら速攻で取り上げられてしまうだろう。


「なあ、太宰治は自殺だと思う? それとも殺されたと思う? 奇しくも今日、六月十三日は太宰治の命日だ。本来、命日とされている桜桃忌は六月十九日だが、これは死体が発見された日と、太宰の誕生日にちなんでつけられた記念日。実際には死亡推定時刻は今日、六月十三日かあるいは十四日だとされている。せっかくだからそんなことを話してみてもいいんじゃないのか?」


「はあ、太宰の命日……ね……」


「なんだ、竹久。不満でもあるのか?」


「いや、別に……」


 ――不満なら……。無くはないかもしれない。六月十三日は太宰の命日というよりは、僕の誕生日でもある。当然誰からもおめでとうなんて言われていないのだけれど、別にそのことに対して文句はない。そもそも僕はここにいる誰かに自分の誕生日なんて教えてなんかない。


 以前に一度、僕の誕生日が太宰の命日と同じことで〝生まれ変わり〟だなんて言われたことがある。太宰嫌いの僕からすれば不名誉なことこの上ない。



「ねえ、ところでさ。太宰ってどうやって死んだの?」


 と、今更当たり前のことを質問してきたのは宗像さんだ。一応、話についてこられない彼女のために簡単に説明をしておく。


「太宰治は1948年の六月十三日、愛人の山崎富栄と玉川上水で入水自殺をしたんだ。しかもこの日、新聞に連載していた『人間失格』の最終回の掲載の日でもあったんだ。

 この『人間失格』。言ってしまえば太宰自身の自伝的な側面の多い物語で、当時の新聞はこれは太宰自身の遺書だったと報道され、当然ながら話題となった。それから現在に至るまで約600万部が売れた超ベストセラー作品であり、この作品の熱烈なファンは数えきれないだろう」


「ああ、でももったいないよね。そんなに売れたんならきっとお金もたくさん入ってきてウハウハな人生だったかもしれないのに、死んじゃったんじゃあ意味、無いよね……」


「まったくね。でも……」


 言いかけた僕の言葉奪うように栞さんが言葉をつなぐ。


「この太宰の入水自殺については多くの疑問があるのよ。一つの説として、愛人の富栄に殺されたんじゃないか、という説。

 遺体が発見されたのは六月十九日。奇しくも太宰の誕生日であるその日見つかった死体は行方不明から六日後のことだった。

二人は赤い糸で結ばれて抱きしめあった状態で川底の棒杭に引っかかっていた。

富栄の遺体は激しく苦しんだ形相をしていたにもかかわらず、太宰はおだやかな死に顔で、あまり水を飲んだ形跡も見られないという。また、太宰の遺体の首には絞め殺された後のようなものまで残っていたのよ。

つまり、太宰は入水前に死亡、あるいは気絶、泥酔状態のいずれかではなかったかと言われているのよ。入水地点にはウイスキーの空き瓶と青酸カリの空き瓶が見つかっている」


「つまり……それって、その愛人が薬を飲ませて殺したうえで赤い糸を二人にくくりつけて無理心中に見せかけたってこと?」


「さあ、どうだろう」と、僕はつなぐ。「富栄が首を絞めて殺したとか、落ちていた青酸カリの瓶は関係ないとか、ただ単に直前までウイスキーの瓶を手放せないほどに泥酔していたとか、可能性はいくらでもある。その中で一番そうであるとドラマティックで、そうであって欲しいと宗像さんがそう想像しているだけかもしれない」


「別に……そうであってほしいとかそんなことを考えてるわけじゃあないけど……」


「ただ、こうして現場にこういうものが落ちていましたよ。といわれてしまえば、人は自然、それらの道具すべてに役割を与えなければらないとすべてを関連づけてしまいがちだけど、なにせ川べりに瓶が転がっているだけなんて、誰かが捨てただけかもしれないし、どっかから流れてきたのかもしれない」


「でもね、当時の記録としてはこんなのも残っている」

と、栞さん。立ち上がり、豊かな胸の前で両腕を組んで僕らの周りをゆっくりと歩きながら、それはさながら名探偵が事件の真相へ向けて説明していくように、何の資料を開くわけでもなく、頭の中の記憶を引き出すにしてはあまりに一字一句鮮明に当時の説明をしてくれる。


「当時の記録によると、入水現場には下駄を思いっきり突っ張った跡と手をついて滑り落ちるのを防ごうとした跡が、事件発生より一週間も後、その間雨が降っていたにもかかわらず残っており、入水することを拒んで激しく暴れたのかもしれないし、いざ死ぬとなるとやはり怖くなってもがいたのか、それについてもはっきりとしない。

けれど、現場検証をした中畑という呉服商は『わたしは純然たる自殺とは思えない』と警察所長に言ったことに対し、所長も『自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言ってもはじまらないが、実は警察としても腑に落ちない点もあるのです』と言っている。

 警察は事件性があるとしながらも、終わったこととして処理したこと述べている」


「ねえ、しおりん。だとして太宰の愛人、トミエ? そのひとが太宰を殺したのだとして、その動機ってなんなのかな?」


「『死ぬ気で恋をしてみないか?』と、太宰は言ったそうだ」


 僕はその有名な言葉を彼女に伝える。


「文字通り、富栄は死ぬ気で恋をしたのかもしれないね。なにせ相手は時代きっての人気作家。外見的にも魅力的で、そんな相手を好きになったのだから、それなりの覚悟は必要だったのだろうさ。たとえばそんな相手に本気になったにもかかわらず、色情のおさえられない猿のような男に弄ばれただけだと知ったなら、そいつを殺して自分も死ぬ。なんてヤンデレ展開もあるかもしれないよ」


「うーん。でも、そこまで人を好きになれるのって少し憧れてしまうかもしれない……」


「やめときなよせなちー。あんたは放っておいてもみんなに好かれる存在なんだから、何もそこまでしてろくでもない男を好きになる必要なんてないんだからさ……」


「じゃあ、俺もそろそろ理科の教師らしいことでも言ってみようか」


 と、話のきっかけを作っておいてずっと沈黙を守っていたおっさんが語り始める。


「さて、そんな太宰の死因について、当時の日本にはまだ十分な検死の技術がなかったからだということは言うまでもない。が、昨今の進化した科学技術があれば詳細が明らかになっていたのは言うまでもないだろう。

 しかし問題は五十年もたった今となってはそれを調べるための対象すら残っていないということだ。できることと言えば、残されたわずかな資料から、科学的な知識で再検証するくらいのことだろう。

 さて、いちばんの問題は死亡から死体発見まで六日もかかったということと、発見現場が入水現場とそれほど離れていなかったことが挙げられる」


「それは……つまり何が問題なわけ?」


「太宰の遺体は衣服なども着用したまま、遺体の損傷も少ない状態で発見された。これは太宰の遺体が川底に沈んで、ゆっくりと川底を移動したのではないということだ。

 通常、入水した場合、もがいて大量の水を飲み、肺の中が水で満たされることによって底へと沈む。しかし、先にも言ったように富栄は苦しんだ形相にもかかわらず、太宰の表情は穏やかだったということから、太宰はもがいて大量に水を飲んではいないということになる」


「それって、やっぱり先に殺されちゃってたってこと?」


「そうと決まったわけじゃないよ。だいぶ泥酔していたから、もがくこともなかっただけなのかもしれない」


「そうだな、この時点では何とも言えない。

 しかし要するにだ。浮いた状態では遺体が発見現場まで移動するのにおそらく一日だってかからない。六日後に遺体が見つかったのならば本来もっと下流の方へ流れ着いているはずだ。つまりはやはり遺体は一度どこかに沈んだのだと思われる」


「それはたとえばおもりを抱いて沈んだ……とか?」


「いや、そこまでするひつようはないさ。人間が一度死ねば、時間とともに肺に水が浸入し、やがては底に沈むことになる。水に沈んだ遺体はその体内でガスを発生させ、再び水面へと浮上することになる。しかしこれにしても、当時の六月十三日近辺の気温や、当日雨が降っていたことを考えれば水温はそれなりに温かかったと考えられる。それならばやはり六日というのはやはり浮上するまでに時間がかかりすぎなのではないかと思われる」


「んもうっ。じれったい! 結局のところ! いったいなんだったのよ!」

 長々と回りくどい説明の長いおっさんの説明にしびれを切らした(あるいは話についていけなくなった)宗像さんが結論を急ぐ。


「――だ、そうだ。若者の時間の流れはおっさん(おじさんの発音)のそれとは違う。話の長い大人は嫌われるからそろそろ結論を」


 おっさんは少し渋りながらも「じゃあ」と結論をまとめる。


「おそらく太宰は入水後まもなく心肺停止。遺体発見現場付近までまもなく流され、そこで引っかかった」


「ひっかかった?」


「そう、水中の木の枝にね」


「水中の木の枝?」


「遺体発見現場の新橋付近の川の中は空洞状になっていたんだよ。そう、その断面はいわば丸底フラスコみたいにね。川沿いに生えていた気の根っこは部分は水中で縦横無尽に広がっていた。その枝に引っかかった二人の遺体はその場で肺に水が溜まりいったん川底へ。

 そして体内にガスが溜まり浮上しようとしたところ、空洞の天井部分に引っかかって浮上するのにさらに時間がかかってしまったというわけだ。さらに、水死体の場合には首に絞められたような紋が浮き上がることがある……とまあ、こんな感じかな」


「うーん、で、結局どうなの? 太宰は殺されたの? それとも自殺した? 結局。そこのところってどうなったのかな?」


 足早に説明させておいて、納得できない様子の宗像さんに僕は補足する。


「まあ、首を絞められた跡があるってことは単なる勘違いってことは決まりだ。そもそもそこに関して言えば、はじめから矛盾だらけなんだよね。いくら太宰が酔っていたとはいえ、か細い富栄の手で男である太宰の首を絞め殺すとは考えにくい。それにそもそも青酸カリなんて用意する必要もない。

 で、もし青酸カリで死んだのならば、おっさんの言うように死体が一度沈んで再び浮き上がるなんてことまでを富栄が知っていたとは思えない。ならば死体はすぐに発見される確率が高いわけで、そうなると死因が青酸カリだったってことはすぐにばれる。だったら尚更心中に見せかける必要はなかったってことだよ。

 で、今度は僕の見解。理科の教師でもない文系な考察になるけれど、まず、人間失格は太宰の遺書なんかではない。後になって発見された資料によると、一度完成された人間失格はその後発表までの間何度も推敲が繰り返されている。で、実際の遺作と言えば『グッド・バイ』という小説がある。結局絶筆となってしまったこの小説を執筆中、作家としての自信を無くしてしまって自殺しようと思ったんじゃないかな。

 タイトルの『グッド・バイ』というのもいわくありげだが、この小説は13話で絶筆となっている。これはキリスト教についていろいろ調べていた太宰らしい忌み数だと思う。言うまでもなくキリスト教で言う13は不吉な数字であり、だからこそ心中の日にちも十三日に合わせたんじゃないだろうか。

 つまり、僕は太宰はやはり自殺だったと思ってる。これは、殺人事件なんかじゃないよ」

 僕の意見で、宗像さんもようやく納得を得た表情だった。おっさんも黙ったまま大きく一つ頷いた。

 これにて、一件落着……となるところだったが、やはり相も変わらず我が部の部長である栞さんはそんな簡単に物語を結末には導いてくれない。


「いや、これはれっきとした殺人事件だよ。しかも連続殺人……。あーしとしては死刑を求刑したいところだけれど、どうにも犯人は不本意にも死んでしまったので事件は迷宮入りするしかないという形になってしまったに過ぎない」


「まさか、それじゃあ富栄は本当は死ぬつもりじゃなかったみたいじゃないか。いくらなんでもそれは……」


「いや、たけぴー。そういうことじゃないよ。殺人犯は太宰治の方だ。太宰は富栄を殺し、自分だけが生き残って幸せに暮らすつもりだったんだろうよ……」


「え……」


「考えてもみなよ。最初にせなちーも言っていたけれど、本が売れて生き残ってさえいればお金もちになってウハウハだったんだよ、彼は。

 それにさ、発表までに何度も何度も推敲を重ねたこの人間失格という小説。太宰自身かなりの自信作だったんじゃないのかな? 

 その最終回が掲載される当日、その作者が自殺を図ったというニュースが新聞に載ったら、どれだけの人がその人間失格という物語に興味を示すだろうか? いや、現に話題となったその小説は日本の文学史上異例の大ベストセラーになったわけだ。計算違いだったのはその利益を自分が手にすることができなかったということ。 

『グッド・バイ』や十三の忌み数など、むしろ出来過ぎていると言えば出来過ぎている。自らが本気で死のうと考えている状況での仕込みにしてはいささか冷静に計算し過ぎではないだろうか?」


「つまりは、太宰治自身の心中未遂、未遂……だったってこと?」


「自殺未遂をすれば本が売れる。これは太宰自身過去に四回も繰り返し、その度そのうま味を預かってきたんだ。

 そもそも太宰は狂言自殺の常習犯でもあったわけだろう? なにせデビュー作がいきなり『晩年』で、本人いわくこれを書いて死のうと思っていた……らしいじゃないか。

 でも、その度に太宰に惚れた女はことごとく命を失っている。狂言心中に見せかけて、それまで何人の女が彼の手によって殺されてきたことか……。

 玉川上水のときだってそうじゃないか? 富栄は苦しそうな顔をして死んでいたのだっけ?

 果たして恋をした女は愛する男と心中するのであればそんなに苦しい顔をして死ぬだろうか? でももし、それがその愛する男に頭を水の中に突っ込まれて窒息させられたのだとしたら? 心中に見せかけるためにわざわざウイスキーの空き瓶や青酸カリの瓶を用意したのであったのならば?」


 彼女の、言いたいことはよくわかる。

 しかしそれはいくらなんでも信じたくはない推理だ。

 『人間失格』であることに誰も異をとなえるものはないだろう。

 たとえ自称太宰嫌いを声高にする僕であっても、その意見に首を縦に振ることはできなかった。


 僕は本当のところ、太宰をキライなわけではない。そのあまりに恵まれた、秀でた才能にひがんでいるだけに過ぎないのだ。


 その才能に羨望のまなざしを向け、その相手を否定することで平凡な自分を慰めていたいだけなのだ。


 なのになぜ、栞さんはそこまで太宰に対して厳しい推理ができるのだろうか?


 そんな彼女の闇と、永久に謎のままであり続ける太宰治の死因について、暗い空気に包まれてしまったその教室内の空気を払拭するためにいつものセリフを言うことにする。


 とある友人が言っていた言葉だ。



 ――まあ、わからないことがある方が世の中はおもしろい。

 そんなあっけらかんとした言葉でその日の部活動を締めくくる。



 窓の外は相変わらず雨が降り続いていた。

 スマホをいじっていた宗像さんが僕を呼び付ける。


「あ、ねえユウ。今日サラサたちが立ち寄ったカフェのクレープ・シュゼット。すっごいおいしかったんだってえ!」


「……そうか。それはよかったな」


「はあ? アンタなに言ってんの? そもそもアンタが今日、サラサたちとの約束を断らなければアタシだって一緒に行って食べてたはずなんだよ! そこのところ、ちゃんと責任かんじてるわけ?」

「いや、それはいくらなんでも……」


「まあ、いいわ。アタシ達も今からそこのクレープ・シュゼット、食べに行きましょ!

 ねえ、そんなわけでしおりん! アタシたち今日のところはこれで帰るね!」


 そんなことを言いながら、僕の腕を引っ張って文芸部という表札のかかった教室を後にする。



 そして、到着したの少しさびれたリリスという名の喫茶店。その喫茶店についてはまた別の機会に詳しく語るとして、その店のクレープシュゼットは確かに、文句なしにうまかった。

 しかし、もっと驚いたのはその日のクレープシュゼットは宗像さんがおごってくれると言い出したのだ。


 何かにかこつけて僕に甘いものをおごらせようとする宗像さんが、いつもよりも少しばかり値の張るそのクレープ・シュゼットをおごってくれるという事実に、その理由を彼女に問いただした。


「え? だって今日、ユウの誕生日でしょ?」


「え……。僕、自分の誕生日が今日だって、誰かに教えたかな?」


「ふふーん」


 彼女はそう言いながら目と眉とで二つのⅤの字を描いた。


「アンタ今朝、風船飛んだってつぶやいてたわよね?」


 ――そのことに関しては確かに心当たりがある。しかし、それこそなぜだと聞きたい。Twitterで自身の誕生日に設定した日に風船が上がるのは周知の話ではある。しかし、宗像さんが僕のTwitterを知っているというのがおかしい。もちろん僕自身彼女に教えたわけでもないし、YUMAというハンドルネームだけでは身バレするなんて思ってもいない。しかし……。


「そもそもYUMAなんて実名で名乗っているのがチョロいのよね。ユウの好きそうなものとか、地元である岡山であることだとか、そういうこと打ち込むとすぐに出てくるのよね。それにTwitterで何つぶやいてるかって、読んだ本の読書感想文だなんて……、しかもものすごくひねくれたやつ。見つけてしまえばすぐに特定できるのよね」


 ――まったく。返す言葉もない。そして、それらのすべてが宗像さんに筒抜けだなんて思ってもいなかったし、何か余計なことを言ってしまったことがあるんじゃないかと気が気でならない。


「――えっと、いつから……」


「うん。まあ結構最近ではあるんだけどね。見つけたの。あ、そうそう。ユウのフォロワーの〝ななせ〟っていうの。それ、アタシのことだから」


 慌ててスマホを取り出しフォロワーをチェックする。数少ないフォロワーの中から〝ななせ〟を見つけることは容易だった。アイコンやサムネイルさえ設定していないシンプルすぎるそのアカウントンにはフォローしているものこそわずかにあるが自身から発信しているものは何もない。それに、アカウント自体がつい最近になって作られたもので、それはいわば僕を監視しているためのものだと言って過言ではないかもしれない。これからは、発言に十分に気を付けなければならないと感じた。


「あ、そういえばさっきアンタ。太宰治の命日と自分の誕生日がおんなじ日だってこと、すこしやだなって思ってたでしょ!」


「よく……わかったね」


「わかるわよ、そのくらい。でもね、そういう時はもう少し違う考え方をした方が健全よ。ユウの誕生日が太宰の命日が同じってことは、少なくとも太宰のファンからしてみれば一発でユウの誕生日を覚えてくれるっていうことなんだからねっ! おかげでアタシも、太宰の命日なんて人生で絶対役に立たない情報を一発で憶えちゃったわよ」


 そう言って、会計を済ませて(本当におごってくれた)店を出た彼女はスタスタとひと足先に歩き出した。

 しかし、すこし歩いて立ち止まり、振り返ってこう言うのだった。



「わかってる? これはカシなわけ、アタシの誕生日には三倍にして返すのよ! いいわね!」


 そう言って彼女はいつものように目を細めて笑うのだ。


 まったく。僕は今までいったいどれほどの借りを彼女に作っていることになっているのだろう。

 夕方の少し涼しげな風が吹き、路面にできた水たまりの表面をやさしく揺らす。


「そう言えば、いつの間に雨は止んだんだろう」


 呟いて、彼女の少し後ろをついて歩く。


 これからは、胸を張って言うことにしようと思う。六月十三日。この日は僕の誕生日であり、太宰治の命日だ。


 そして僕はこの日、もう一つの記念日を制定する。

 


 宗像さんがクレープ・シュゼットをうまいといった。

 


 だから今日は、クレープ・シュゼット記念日だ。



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