『ヴェニスの商人』シェイクスピア著を読んで 竹久優真
『ヴェニスの商人』シェイクスピア著を読んで 竹久優真
〝シェイクスピアにはゴーストライターがいる〟
そしてその正体は外交官ヘンリー・ネヴィルであったり、オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーであったり、フランシスベーコンであったり、劇作家のクリストファー・マーロウ等と様々な説がある。
昔から偉大な人物であればあるほどに別人説や影武者説というのが付いて回る。こと日本国内の歴史においてもそれは例外なく発生する。
聖徳太子、源義経、徳川家康…… 挙げればきりがない。もはや影武者をささやかれるのが偉人のステータスだと言ってもいい。
夏休みが明けて9月1日となった。夏に読んだライトノベルのせいでもしかするとこのまま夏休みが終わらずに繰り返すことになるんじゃないかという不安はどうやら解消されたらしい。もしかすると今の僕が知らないだけで実は昨日までの夏休みが15498回ほど繰り返されていたかもしれないけれど、今の僕が知らないならばそれはなかったこととして考えてもいいだろう。
新学期に気分を一新して早起きし、朝から優雅に喫茶店でコーヒーを飲んでいたら思わず遅刻しそうになり、駆け足で心臓破りの坂道を上り始業のチャイムにギリギリで滑りこむ。
新学期早々の遅刻を免れ、教室を入って奥の窓際、後ろから二番目の自分の席に座り教室を眺める。
そこに、笹葉更紗はいなかった。
見た目がギャル風であるにもかかわらずおそろしく真面目な彼女が遅刻するなんて普通はあり得ない。
後ろの席に座るイケメンの友人黒崎大我に聞いてみる。
「今日、笹葉さんは?」
その瞬間、脳裏に嫌な予感がした。
「――笹葉さんって誰だ?」
ふと、大我がそんなことを言い出すのではないかと考えてしまった。いつの間にか書き換えられた世界の中で僕はきっと文芸部の部室で眼鏡をかけた栞さんの力を借りて世界をもとの形に戻さなければならないなんて想像をしてしまったのはきっと夏に読んだライトノベルの影響だ。
いや。むしろそのほうが気持ちが楽だったのかもしれない。この世界は紛れもない現実で、なかったことにできない夏の出来事の延長線上に僕らはいるのだ。
「今日は、一緒に来てないんだ……。やっぱり、俺のせいかな……」
それが黒崎大我の口から発せられた現実世界の言葉だ。
黒崎大我と笹葉更紗は恋人同士だった。誰もがうらやむ美男美女のカップルで僕としてもその二人の友人であるというだけで鼻が高かった。
しかし、夏と共にその恋は終わりを告げ、そのことが原因でこうして新学期から一緒に登校しなくなったのだろう。
始業式ということもあり、その日の学校は午前のうちに終了した。
笹葉さんは来ないままだった。
「大我が気にすることじゃないよ」
あからさまに気にしている様子の友人の肩をたたく。
「おれはこれから部室のほうに顔を出すつもりだけど――」
「ああ、それならオレも……」
「いや、今日のところはおれだけでいくよ。栞さんとの過去の話を聞く限りじゃあ、いきなり大我を連れて行くよりもまずおれが声を掛けてからのほうがいいと思う」
「ああ、確かにそれはそうだな……。じゃあ、今日のところはよろしく頼む」
「ああ、まかせておけ」
男同士で、握りこぶしを軽くぶつけ合う。こういう気障な行動にも最近ようやく慣れてきた。さみしそうに一人教室を後にする大我の背中を見送り、僕は校内から外れた丘の上にある旧校舎へと向かう。
山の斜面に沿って建てられているこの学園の中央を貫く長い階段を上り詰めると食堂があり、そこから左手の奥に体育館がある。その裏手にある赤錆だらけのゲートから更に坂の上にいったところに旧校舎があり、そこにはあまり大きく活動をしていない部活動の部室として使われている。木造の二階建ての建物でその上には小さな時計台があり、随分前から時計は止まったままである……と、思っていたのだがいつのまにか動き出している様子だ。夏休みに入る前、長い間紛失していた時計台の鍵が見つかり、おそらく夏休みの間に修理がなされたのだろう。
軋む廊下を歩き、一階の『文芸部』の表札のかかった教室に入る。古い書架が立ち並ぶ静かな部室にはショートヘアの銀縁の眼鏡をかけた少女が一人漫画を描いている。部長の葵栞さんだ。この部室は彼女を部長とした『漫画研究部』の部室で、表札の『文芸部』というのは漫画研究部発足前に部員不足でなくなってしまった文芸部のまま放置されているとのことだ。そしてまた、この漫画研究部もまた部員不足で存続を危ぶまれている。
十月の生徒会総会までに部員が三名に満たない部活動は廃部となる。現在漫画研究部の部員は僕と栞さんの二人だけだ。
僕の姿に気づいた彼女は眼鏡をはずして僕のほうを見つめる。黙ってさえいれば美しい大きな瞳に思わずドキッとしながらも、教室に僕たち二人以外に誰もいないことを確認する。
「残念だけど愛しのせなちーなら今日は来ないよ。さっき連絡があった。なんでも今日は外せない用事があるらしい」
「瀬奈は律儀ですね。元々部員じゃないのにわざわざ連絡をよこすなんて」
「まあ、半分部員みたいなもんだろう。何なら無理やりにでも部員として引き込んでもいい」
どうやって話を切り出そうかとも考えていたが、いの一番そんな話の流れになってこっちとしては好都合だ。瀬奈が今日は来ないというのもちょうどいい。
「ああ、そのことで話があるんですよ――」栞さんが漫画原稿を描いている向かいに余っている椅子を引っ張ってきて座る。「――入部希望者を見つけてきました」
「ほう、それは……。あーしが納得するような人物なんだろうねえ」
「ええ、それはまあ。たしか、BL漫画のモデルにできそうなイケメンが希望でしたっけ?
それに関して言えばこれ以上の人物はいないくらいには……」
おそろしく知恵の回る栞さんのことだ。これだけ言えばいったい誰のことを指して言っているのかがわからないということはないだろう。
僕のクラスメイトで親友の黒崎大我のことだ。夏休みに話をしてわかったことなのだが、イケメンにしてリア充の王様黒崎大我は中学生時代に栞先輩のことが好きだったらしい。彼女のことを追うようにこの学校へ入学するも一度彼女に拒絶されたことで笹葉更紗と交際することに。しかし、栞さんへの想いが忘れられず二人は破局してしまった。
だからこうして友人の僕がおせっかいをしているのだ。
「ならば一度入部テストをしなくちゃいけないねえ」
「入部テスト……ですか? そんな悠長なこと言っている場合ですか? 早くしないとこの部は廃部になっちゃうんですよ」
「あーしの気に入らないメンバーを増やすよりは廃部になったほうがマシだよ」
「僕は、そんな試験受けてませんけど?」
「たけぴーは合格しているんだよ。君はいつもあーしを気持ちよくしてくれるから」
「誰かが聞いて誤解するようないい方しないでくださいね」
「大丈夫、今日はせなちーいないから。ふ・た・り・き・り・♡」
ネクタイをするっと外し、シャツのボタンをはずしながらそのふくよかな胸を僕に近づけてくる。多分瀬奈なら栞さんのこういう態度にも慣れているから問題ない。しかし、こういう仕草を大我のいる前でだけはやめてほしい。
「で、入部テストって何をするつもりですか?」
「ああ、いやまあ簡単なことだよ。とりあえずは仮入部として、この部で必要な人間かどうかを判定するまでさ。くれぐれも、あーしの機嫌を損ねないようにね。たけぴーも」
ネクタイを外し、胸元を少しばかりはだけた栞さんはその谷間に風を送るように下敷きで仰ぐ。舐めるような上目遣いの栞さんから僕は視線をはずす。
「ええ、まあ。それはもちろん……」
たぶん僕は、将来誰かと結婚したならその妻の尻に上手に敷かれる自信がある。
さて、必要な話は済ませた。瀬奈も今日は来ないという話だしこのまま帰ってもよかったのだがやはりそれは少し不躾だろう。今、僕が栞さんの機嫌を損ねるわけにもいかない。ひとまず座っていつもの通り読書でもしようかと思ったところで栞さんが書きかけの漫画原稿を差し出す。
「ねえ、ちょっとこれの感想を聞かせてくれないかな」
正直なところ専門外だが彼女の機嫌を損なう訳にはいかない。手渡された漫画原稿のタイトルは『●ニスの笑人』とある。
借金の担保として●んぽをかけていたがお金を返せなくなってしまった主人公は●ニスを奪われそうになるが気の利いた裁判で確かに●ニスは借金のカタに持って行ってもよいが、証文には精液について書かれてはいない。よって自分のものにしても一滴の精液もヌイてはならないという判決を下すというくだらない話だ。
栞先輩はいわゆる薄い本の漫画家である。基本的にBLを中心に書いていてその分野ではそれなりに名が通っているらしい。『壁作家』と言うらしいが彼女自身は僕の見る限り立派な山を持っている。話をするときによく腕を組んではいるがおそらく相当に重いのだろう。組み手でその山を下から支えるようにする仕草に僕はいつも目をそらしがちになる。
言わずもがなこの話のモチーフはシェイクスピアの『ヴェニスの商人』だ。
『ヴェニスの商人』はシェイクスピアの代表作の一つであり、後半の人肉裁判はあまりにも有名だ。主人公のバサーニオはポーシャという女性に求婚するための旅費を友人のアントーニオから借りる。手元にお金のなかったアントーニオは不本意ながら嫌いなユダヤ人のシャイロックからお金を借りることに。
バサーニオは無事ポーシャの出す問題、三つの箱の中から正しい箱を選ぶことに成功し、無事ポーシャと結ばれることになる。しかしそのころ、アントーニオの財産を積んだ船がことごとく難破してしまいアントーニオは借金のカタに1ポンドの肉を差し出すと証文に書いていたせいでその命が危険にさらされる。
そこにバサーニオの妻となったポーシャが男装し、裁判官として登場する。証文の通りにと強く主張するシャイロックに証文の通り、1ポンドの肉を切り取ることを許可する。しかし、証文には血液については記されてはおらず、一滴の血液さえ流すことは許さないと戒めたうえ、キリスト教徒の命を危険にさらした罪として財産を没収。さらにキリスト教への改宗を命令される。
裁判の後、友の命を救った裁判官に対しお礼をしたいというバサーニオ。裁判官は妻からもらった指輪を要求する。大切なものだと一度は断るも友の命を救ったものへの礼として差し出す。変装を解いて元の女性に戻ったポーシャは指輪をなくした夫に激怒。平謝りで妻に頭が上がらなくなって物語は終わる。




