『無題』著者名無し を読んで 2 竹久優真
眠りを妨げたのは携帯電話の着信音。ビル・エヴァンズのワルツフォーデビイは瀬奈からの着信に設定してある。きっとあの二人が別れたという話だろう。このまま無視したいという気持ちがあったが、僕は元来、そういう事の出来ない性格だ。
画面を見ると宗像瀬奈の名前と日付と時間が表示されている。いつの間にか時計は午後三時を回っている。随分長く寝ていたものだと思いながらも着信を受けた。
《あ、もしもし、ユウ? ねえ、サラサたちの事、聞いた?》
「ああ、聞いたよ。僕も一悶着巻き込まれて、家に帰ったのは朝だった」
《そう、大変だったね。サラサ……詳しいことはあんまり教えてくれなかったんだけど……》
「うん、ちょっとややこしい話でさ、まあ、大我に非があるみたいだけど、僕の口から言っていいのかはどうも……。でも……大我の事、許してやってくれないかな。僕からも頼むよ。あのまま放っておくときっと、もっと傷つくことになっていたと思うから」
《うん、ユウがそういうなそれで……。それにサラサも詳しくは教えてくれなかったけど、とにかく黒崎君は悪くないからってだけ言ってたし……。で……それとね……》
「うん? どうしたの?」
《うん、あの……。こんな時に言うのもなんだけど……。今日のお祭り……アタシたち二人だけでも行かないかな……。あー、その、せっかく買った浴衣、無駄になっちゃうしね」
窓の外を見るとまだ雨は激しく振っている様子だった。
「まあ、それは構わないんだけどさ、この雨じゃお祭りはどのみち中止なんじゃないかな」
《大丈夫だよ。きっと……。明けない夜が無いように、止まない雨もないからね。それにアタシね、むかしっから晴れオンナなんだからっ!》
彼女が晴れオンナかどうかについてはいささかの疑問もある。彼女と一緒に過ごした思い出は、いつの日も雨、のような気もするが、「じゃあ、晴れたら」と言って電話を切った。今から眠るわけにもいかず、準備をしてからとりあえず家を出た。
雨の中、コンビニで買った透明の安い傘を差して駅に向かい電車に乗ったがやはりどう考えても無駄な気がする。東西大寺駅で途中下車して喫茶店リリスに立ち寄った。安い傘を傘立てに差そうと見た時、傘立てに一本、ずっと前からそこに差しっぱなしの赤と黄色の傘が目についた。さほど気にすることもなく自分の何のかざりっけもないコンビニの傘をその隣並べて置き店内に入った。
当然店内に僕以外の客は誰一人としていなかった。その日僕は少しセンチメンタルになっていたのかもしれない。店内に入って右のカウンター席に向かい、隅の席に着いた。
「どうしたんだい。夏休みだというのに随分眠そうな顔をして」
「うん、まあ、ちょっとね……。マスター、今日はうんと濃いめのエスプレッソを……」
背中を向けて作業をするマスターにむかって「……実は、」切り出して、昨日の夜から今朝方にかけての出来事を洗いざらい話してしまった。きっと誰かに聞いてもらいたかったのは事実だ。
「いいじゃないか、青春だな」その一言。
「なにがいいもんんですか? 別にいい話をしたつもりはないんですけど」
「十年もたてば全部がいい思い出になるさ。まったく。青春時代というものが羨ましいよ」
「大人はみんなそう言うけれど、当事者としてはそれはそれでいろいろ大変なんですよ。……まあ、知ってるとは思いますけど。
もう、過ぎ去ったことだからいい思い出だけ思い出して羨ましいといっているような気がするんですよね。こっちとしては」
「青春ってのはね…… まだそれ自体が終わっていないってだけで幸せなんだよ」
「そんなもんですかね。バーナード・ショー曰く〝青春は若者にはもったいない〟か……」
「そのうちわかるさ」
「で、マスターの青春はどうだったんですか?」
「君と大して変わらないさ、いつも傷ついては悩んでばかり、そうかと思えばバカみたいに何も考えずに笑ったりする」
「あの頃に戻りたい?」
「どうかな」
それだけ言うとマスターはフラッシュメモリーをとりだしてカウンター席のテーブルに置いた。「書いてみたんだよ」
「……」
「もう、二十年近く前のオレの青春時代のやり残した宿題。才能も技術も何もないのかもしれないけれど、それでもとにかく挑戦だけはしておきたいんだ。オレの人生だって後三十年以上はあるんだ。生まれたばかりの子供が作家になるのに十分な時間だ。
……きみに読んでもらいたい。それで感想を聞かせてくれないか」
「……僕でよければ。それにしても瀬奈はすごいな……」
窓からまぶしい光が差し込んできた。
「晴れたな……」
「天気でさえも自在に操るみたいだ」
岡山駅に到着し駅舎を出た時に失敗したと感じた。こんな地方のお祭り、それについさっきまで雨が降り続いており、花火が打ち上げられるのかどうかも定かではないというのにどこからわいてきたんだというばかりの人の多さ、こんなところで待ち合わせをして見つけられるわけがない。しかも携帯電話までもが〝回線が込み合っているため……〟などという言い訳を始めてしまった。
まいったな。と思いつつも待ち合わせ場所に指定した噴水の方に目をやると、そこに瀬奈が立っていた。『カイロの紫のバラ』というのは確かウッディアレンの映画のタイトルだったか、その時の彼女を形容するにぴったりの言葉だった。どんな人ごみにあってもはっきりとそれをとらえられるほどに輝いていたのかもしれない。藍色に帯に紫色の浴衣、その浴衣の柄は鮮やかな紫陽花だ(残念だがバラではない)。髪は斜め後ろの方で一つに束ねられていて青い造花が栗色の髪を飾っている。
僕の姿に気づいた瀬奈は手に持った団扇を小さく左右に揺さぶりながら合図した。近づいた僕の前で両手を開き自分の浴衣姿をアピールする。
「どう?」
――どうと言われても言葉に詰まる。それなりに読書をしてそれなりに言葉を扱えるつもりになっていたのに、僕の想像力で引き出せるどんな言葉をもってしても彼女のを形容するには陳腐すぎる。言葉を失い、ただただ見つめるしかない。
「ちょ、ちょっと何よ。いくら何でも見すぎじゃない?」
照れくさそうにはにかんで、持っているうちわでその口元を隠す。
僕はしばらくそのまま見つめ続け、ゆっくりと言葉を発した。
「軒先の 金魚のつがい ながめあき」
「………………なにそれ?」
困ったような表情で瀬奈がつぶやく。
「ここに書いてある」と、僕は手に持った団扇に描かれるイラストの波の水しぶきを指さす。「知らなかったの?」
「うん。家にあったやつがとてもかわいくって持ってきただけだから」
「そのうちわは撫川団扇と言って岡山の伝統工芸品なんだ。唄継と透かしの技術が特徴で、俳句を一筆書きで描いて波しぶきに隠すんだ。光にかざして透かすと文字が読み取れる」
「あ、ほんとだ。ねえ、どういう意味なのかな?」
「そうだな。雨が降っていて外へ遊びに行くことも出来ない状態で、軒先のカップルの金魚をただただ眺めているだけで飽きてしまったという悲しい意味がひとつ」
「ひとつ?」
「うん。最後の『ながめあき』は掛詞になっていて『ながめ(長雨)』つまり、梅雨が明けたという意味にもなる」
僕の話を聞いているのかいないのか、彼女は団扇を空に透かして眺めている。
「もう、梅雨は明けたみたいね」
瀬奈のそんなつぶやきで、僕は今日、花火が打ち上げられるであろうことを確信した。
午後七時からの花火が始まるまでにあと三十分くらいはある。僕らは会場の中州に向かって歩きながら途中の出店を見て回ることにした。見て回る……。とは言っても見るだけでは収まらない。りんご飴にタコ焼き、わたあめ、フランクフルト。目につくものを次から次へと食べつくし、一体この小さな体のどこにこれだけはいるのか不思議でならない。口元の小さな黒子が食べるためにひょこひょこと上下に揺れている。なんだかそこに小さな生き物が住んでいるみたいだ。射的に金魚すくい、輪投げ、目につくもの次から次へと遊び倒す。……おいおい、そんなことじゃ花火が始まるまでに近くまで行けないのじゃないかと心配するやいなや遠くのお面を売っている屋台に向かって走っていった。子供じゃあるまいし、あんなもののどこが欲しいのか……
人込みの中を一人立って待っていた。ヘタに動くとはぐれてしまうかもしない。置いてきぼりを食った僕はしばらくそこから動かないことにした。
「あれ? 優真じゃないか……」
後ろからなんとなく聞き覚えのある声、振り返ってまず目に付いたのは声の主の中学生のころの同級生の片岡君ではなく、その隣にいた黒髪の文学乙女、若宮雅だった。
その時、最初の花火が打ちあがった。『ドーン』と大きく鳴り響く音と振動は僕の心臓を激しく揺さぶった。
僕のよく知る彼女と少し雰囲気が違って見えるのはたぶん眼鏡をかけていないからだろう。藤色の浴衣に身を包む彼女は僕の知るその人よりもずいぶん大人に見えた。
今すぐここから逃げ出したい。それでも瀬奈のことを考えると、そうもいかないだろう。
「ああ、優真。俺たち今、付き合ってるんだ」
「……ああ、そうなんだ」
そっけなく……特に気にする風でもなくあっさりと答えたが心の中で何かが崩れ去るのを感じた。僕はすでに彼女にすっかりフラれているし、彼女と同じ白明高校に進学した片岡君と若宮さんが付き合うことを想像していなかったわけではない。それでもいざ、目の当たりにするとショックを受けるものだと感じた。彼女の存在は記憶の隅に追いやったはずだが、それでも未だ心の真ん中にいたことを痛感させられた。
「あ、そういえばさ、中学の時の教師で奥山っていただろ、あいつさっき女連れで歩いているのを見か
けたぜ」
片岡君のそんな言葉も僕の耳には上手く入らない。
「ねえ、竹久君は今日は誰かと一緒?」
「もし、一人なら俺らと一緒にまわるか?」
気の利かないことをずけずけといってくれる。若宮さんにしても……。それに片岡君だって僕が彼女に告白したってことくらい知っているだろうし、こいつらわざとやってるのかと疑うほどだ。いや、事実そう考えた方が正解かもしれない。なんだか泣きたくなってくる……
「あー、ごめんごめん。待たせちゃったね!」そこに瀬奈が戻ってきた。どこで買ってきたのか狐のお面を後頭部に装着して、左手にソフトクリームを持っていた。まだ食うのかコイツ……と思っていたらまるで若宮さんの事に気が付かないような素振りで僕の左に寄り添った瀬奈は空いた方の右手を僕の左手に絡めるように手をつないだ。俗に言う恋人つなぎというやつだ。「はい!」と言いながら左手に持ったソフトクリームを僕の口元に運んだ。若宮さんたち二人の視線が気になり、さすがに「おい、瀬奈……」と小さく囁いた。
「どうしたの、ユウ?」
と僕の目線をうかがい、そのまま黙って見ている若宮さんたちに送る……
「あ! やだ。なに? 知りあいなの? ごめんなさい、なんか気づかなくて……」ヘタな演技だ。
「な、なんだ、優真。お前彼女と一緒に来てたんだ、わりいな、なんか邪魔しちゃって」
「ああ、いや、いいんだ」
「そうか、じゃあまたな」
言葉少なに若宮さんたちは通り過ぎて行った。
「……なんか……。悪かったな。気、遣わせちゃって……」
通りすぎてしばらくしたので僕は瀬奈とつないだ手を離そうとした。
「ああ、気にしないで、ただ好きでやっただけだから……」言いかけて瀬奈は僕の手を強く握りしめた。
「ねえ、今の人がミヤミヤだね」
僕は今まで瀬奈に若宮さんの話をしたことなんて一度もないはずだった。
「ぽっぽ君から聞いたことあるんだ」
「あいつめ」
「ねえ、ミヤミヤってなんかしおりんに似てるね」
「……」
「ユウはああいう人が好みなのかな?」
「……」
「それに、サラサともちょっと似てるかな」
「……笹葉さん? それは違うんじゃないかな」
「だってサラサ、中学の時は黒髪のストレートだったし、それにおとなしいタイプでメガネっ子だったから」
「そ、そうなのか?」
「知らなかった? まあ仕方ないか。なんだかちょっと悔しいなあ」
瀬奈はそう言ってソフトクリームを食べ終わった手のひらをまっすぐに空へと伸ばした。色とりどりの花びらがビルの隙間に咲いては消え、咲いては消えていく中、おぼろげな月だけがいつまでも浮かんでいる。
「何をしてるんだ?」
「月を、つかもうと思ってね。でもまだ、少し届かないかな」
「届くわけないだろ。月までどれくらいあると思ってんだよ」
「そんなの、やってみなきゃわからないよ。ちゃんと地に足つけて、体をバネにしてまっすぐと伸ばせば案外簡単に掴めるかもしれない」
「すごいな、瀬奈は」
「なにが?」
「そうやっていつも前向きでさ。いつも腐りかけの僕にまぶしく栄養を与えてくれる太陽みたいだ」
「太陽? アタシが? うーん。でも、それはちょっとやだな」
「なんで?」
「だって、ユウが月ならアタシたち一緒にはいられないじゃん」
そういえば笹葉さんが僕を月みたいだと形容したのだっけか。人には決して裏側を見せようとはしない、表面だけを取り繕ったペーパームーン。
「それなら心配ないよ。昼間にだって月はちゃんといるんだ。ただ、太陽があまりにもまぶしすぎて見えないだけだ」
「ねえ、少し休もうか」
瀬奈が川沿いのベンチを指さす。
「いいのか、花火はもう始まってるんだぞ。会場まではまだもう少し距離がある」
「いいのよ、べつに。あんまり近づいても人が多いだけだし」
「そうか、それなら……」
ベンチまで寄ると、さっきまでの雨のせいで見た目こそ濡れてはいないが木製のベンチには雨水がしみ込んでいるに違いなかった。新調したばかりの瀬奈の浴衣が濡れてはいけない。僕は持っていたタオルをベンチの上に広げた。
「ありがとう。さすが気が利くのね」瀬奈はお礼を言って座ろうとした。
それでもいくらかの不安を感じた僕は「あ、ちょっとまって」と言ってポケットに手を入れた。少し皺になったハンカチが出てきた。紅葉の柄のついた白いハンカチだ。軽く皺を伸ばしながらそのタオル
の上に乗せた。
「さあ、どうぞ」
瀬奈はそのハンカチを見つめて座ろうとはしなかった。僕の取り出したハンカチをただただじーっと見つめている。
「ねえ、なんでユウがこれ、持ってるの?」
なんで? と言われて考える……。そうだ、思い出した。
「あ、ああ、ゴメン。確か入学式の日の朝に瀬奈に頭を殴られて……その時に瀬奈が落としたものを渡そうと思って拾って……。いつの間にかそれを忘れて、自分のものだと思い込んで着服してしまってた……」
まったく。僕は昔からそういうことがよくある。
ごめんなさい……と素直に謝ろうとした時に瀬奈は言った。
「あ、あの時の……」
「そうだよ。再会したとき、瀬奈は僕のことを憶えていなかったみたいだけど」
「ふふ、ごめんね……」
「いいさ」
「そうか、あの時の少年はユウだったのか……うん、それはやっぱり運命を感じちゃうかも」
瀬奈は静かにハンカチの上に腰かけた。
ここからだとあまり花火は見えない。ビルの隙間から覗く花火が西川の水面に映って時折明るくもなるが街灯の少ない川沿いの緑道ではあたりは仄暗く人の気配も少ない。花火の明かりからだいぶ遅れた轟音がビルの隙間にこだまする。
「花火なら、こっちにもあるよ」
瀬奈が手提げから取り出したのは数本ばかりの線香花火、それに小さなスタンド型のキャンドルと使い
捨てのライター。
「おっきいのもいいけどやっぱりこれなんだよね」
ベンチに二人で腰かけ、二人の中間ほどの足元に使い捨てのライターでキャンドルに火を灯した。瀬奈は持っていた線香花火を半分ほど僕によこして二人で火に近づける。
足元は華やかに明るく灯された。血色の豊かな彼女の顔はいっそう赤く照らされる。僕は必死に言葉を探そうとしたがこういう時に限ってなにも言葉が見つからない。一つの線香花火がその先端を落とすとまた、無言のまま次の花火に火をつける。瀬奈もまた次の花火に灯をともす。どうした事だというのだろう。いつも、何の気なしに会話を交わしていたはずが急にいつも何を話していたのかさえ解らなくなった。
遠くの大きい花火の音が消えた。一つのセクションが終わり、次の花火が始まるまで数分の合間の休憩が入る。二人の沈黙に加え、背景の音も消えて、あたりはわずかな雑音ばかり、いや、その雑音さえももう耳に入らなくなっていた。僕は気まずさを紛らわすために、消えた線香花火の替わりの次の一本を即座に灯をともした。
その時、風下から強い風が吹いた。瀬奈の結わえた髪をゆらすと同時に二人の線香花火の先端と、足元のキャンドルの火とが同時に消えた。
周りには街の明かりがあるにもかかわらず、突然の暗闇は目が慣れるまでの間は真っ暗に感じる。たしかこのあたりにライターが置いてあったはず。記憶を頼りにベンチのあたりを手でまさぐった。握りしめたのはライターじゃない。それはつめたく冷えた瀬奈の手だった。慌てて手をどかそうとしたがそれを制するかのように瀬奈のもう片方の手がその上に置かれた。
だんだんと目が慣れてくる……
すぐ近くに瀬奈がいた。
流れる風が硫黄のにおいを運び、湿り気のある瀬奈の吐息に混じる。
彼女はそっと両眼を閉じた。
こういう時に、僕はどうすればいいのかを考えた。
まるで頭が回らない。
ただ思い浮かぶひとつの答えを必死で否定しても、やはり巡り巡って同じ答えにたどり着く。
でも、どうしても踏み切れない。
まだ、僕の中には完全に振り切れないいくつがの事象がそれを邪魔するのだ。
瀬奈の目が開いた……
彼女は何事もなかったように立ち上がり、空を見上げた。
もしかするとまた僕は、恥ずかしい思い違いをしてしまったんじゃないかと思った。
彼女の横に並ぶように自分も立ち上がる。
二人は空を見上げ、少しおぼろげな月を見つめた。
瀬奈がぽつりとつぶやく。
「月が……きれいだね……」
瀬奈が柄にもなくそんなことを言った。
「月は……太陽の光を浴びてはじめて輝くことができるんだよ……」




