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『走れメロス』太宰治著 を読んで   竹久優真

『走れメロス』太宰治著 を読んで              竹久 優真     



 正直な話。太宰治という小説家があまり好きではない。

 おそらく、古今東西の小説家の中でも、その人気は一位二位を争うほどで、イケメンでモテモテ。才能には恵まれ、資産家の息子ときたものだ。


 なのにどうだろう? この男、はっきり言って相当に失格な人間なのだ。

 薬物中毒で、大酒を飲み、約束は守らず、金に、女にだらしない。挙句になにかある度に死のうとする始末だ。


 いったい、何が不満だというのだ!

 それほどに恵まれてなお、どこまでわがままを言おうというのだ。

 世の中の人間の多く、たとえば僕のようにいたって平凡、あるいはそれ以下のような人間からしてみれば……


 ――要するに、妬んでいるのだ。



『エロスはいきりたった!』


 そんな書き出しでその物語は始まる。


 傍若無人にムチをふるう女王様のうわさを聞いたエロスはいてもたってもいられず、すぐさまその足で宮殿のようにきらびやかなネオン瞬く雑居ビルに入っていくが、あいにくその日は目的の女王様は出勤しておらず、失意のままに家に帰る。


 友人、セリヌンティウスに連絡をとり、また改めて一緒に行こうと固く約束をするも、その日が妹の結婚式であったことを忘れていたエロス。


 結婚式が終わるやいなや一目散に女王様のお店に向けて走り出す。

 それというのも、友人セリヌンティウスは約束の開店時間までに到着しない場合は目当ての女王様を自分が指名すると言い出したのだ。


 エロスは走る。


「こよいわたしはシバかれる。シバかれるために走るのだ!」


 まだ開店時間まで余裕がある。とエロスはあまたの誘惑に何度もつられそうになり、気が付けば時間がどんどん迫っている。


 近道をしようと細い路地裏を入っていくと、そこで三人の男に性的暴行を受けてしまう(なんというヒドイ展開!)。


 それでもなお走り続けるエロス。時間ギリギリにお店に到着したエロスにセリヌンティウスは言う。


「エロス、君は真っ裸じゃないか」


 女王様とのプレイを妄想していたエロスは走りながらも我慢できず、一足先に全裸になっていたのだ。


「セリヌンティウス、俺を殴ってくれ!」


 道中、男たちに輪姦されたエロスは、男性愛にも目覚め、セリヌンティウスにSMプレイを要求する。

 それは、セリヌンティウスの望むところでもあった。お店の受付前でプレイを始めてしまうエロスとセリヌンティウス。それを見ていた女王様は二人のもとに歩み寄り、


「わ、わたしも、仲間に入れてくれないだろうか!」


 三人は仲良くプレイルームへとはいっていく。



 〝文芸部〟と表札のかかった、静かながらも老朽化の進む教室の中、その『(はじ)れ、エロス』という物語を読み終わったばかりの僕の目を覗き込む彼女。

 長いまつ毛と黒目がちな大きな双眸がメタルフレームの眼鏡のレンズ越しにきらりと輝く。


「感想を聞きたいのだけれど?」


 そう言って、まばたきをぱちりと一度だけして、じっと僕の方を見つめている。

 この部活動の部長である彼女、葵栞(あおいしおり)は黒髪のショートカット。文学乙女を思わせる眼鏡姿の彼女は、おとなしく地味な風貌ながらも個人的にはどストライクだと言って間違いではない。そんな彼女とふたりきりの部活動だと喜び勇んで入部したのが間違いのはじまりだった。

そもそも彼女の性格には問題がありすぎる。


「感想を、といわれても……専門外ですよ。僕は」


 文学を愛する僕にとって、目の前にある薄い小冊子は、彼女が先日同人誌即売会で見つけたという正真正銘漫画である以上に専門外であると言い切れる。いや、それどころか……


「これ、基本BLじゃないですか」


「BLをキライな女の子はいないからね」


「それは偏見です。いや、それ以前に僕、男ですけど……」


「〝男〟という言葉を使うのはどうだろう? だって君はまだ童貞だろう?」


「童貞だろうと男は男です。それにこれはあきらかにR‐18ですよね?」


 二か月前に高校生になったばかりの僕は当然18歳以下であり、それを言うならば、と大きくたわわに実った夏服の彼女の胸もとにぶら下がる緑色のネクタイは入学の年ごとに色分けされているもので、緑色のそれは今年二年生の証拠である。即ち、考えるまでもなく彼女もまた18歳以下なのだ。


「まあ、そんな細かいことは気にしなくってもいいじゃないか」



 ――まったく。こんなはずじゃなかったんだけどな……


 ここしばらくの間で、何度繰り返されたかしれないそんな言葉をつぶやく。二人きりの静かな部室を見回すと、教室の壁一面に並べられた書架と無数の本。古い紙とインクの匂い。昼過ぎに突然降り出した雨がまるで嘘だったかのように窓から差し込むたおやかな日差しが室内に舞う小さなほこりをキラキラと輝やかせている。その日、今年初めての真夏日を記録したにもかかわらず、山の斜面に建てられたその旧校舎の室内には心地の良い風が吹き込み、窓際の臙脂色のカーテンをやさしく揺らす。



「ちゃっおー、しーおりーん!」


 教室の静寂を打ち破る底抜けに明るい声が響き、同時に教室の引き戸が大きくひらかれた。


 まるで太陽を連想させるかのような小柄な体躯の少女の夏服から飛び出す四肢はほのかな褐色を帯びている。胸元のネクタイは僕と同じ青色で、一年生だという証拠だ。栗色のセミロングの髪を風になびかせ、おしとやかさのかけらさえ感じさせないのは肩幅以上に開いた彼女の股下のせいだろう。


 猫だか、きつねだかのように吊り上った双眸は笑顔とともに線のように細くなり、その眉とともに二つのVを描いている。


 僕はそんな彼女の表情を見る度、いつも決まって「ししっ!」とアテレコしてしまう。無論、彼女がそんな言葉を発しているわけではなく、あくまで僕の心の中でだけつぶやかれるのだ。


 控え目に言って、彼女、宗像瀬奈(むなかたせな)はとびきりの美少女である。


 物怖じしない性格で、人懐っこく、方々に首を突っ込んではかき乱すものの決まって彼女はいつも笑顔なのだ。そんな彼女の周りにはいつも笑顔があふれ、そんな笑顔に魅了されない男子生徒などいるはずもない。


 ちらり、と僕の方を一瞥して、


「なんだ、ユウもいたんだ」


 ワントーン落として、少し不機嫌そうにつぶやく。


「いちゃ、マズイかな?」


「だってさあ、アンタ。今日の放課後サラサたちと遊びに行くんじゃなかったの?」


「いや、まあ……。なんというかな、あれだよ。僕なりに気を遣ってみたんだけど……」


「はあ……」と、彼女は息をつき、「まあーったく、そうならそうとアタシにひとこと言っておいてよね。アタシだって今日、サラサたちと一緒に行くつもりだったんだからっ!」


「なんだ、そうだったのか……で、じゃあなんで宗像さんはこんなところにいるんだ?」


「いや、何でじゃないでしょ! アンタがいないからでしょ!」


 聞きようによっては、勘違いして調子に乗れそうな言葉だったが、あいにく彼女が言っているのそういう意味ではないだろう。


「……そうか、ゴメン」


「いや、別に謝ってくんなんくってもいいけどさ。さすがにアタシだってあの熱々カップルの隣に一人

でいるのは気まずいわけよ」


 宗像さんの親友、笹葉更紗(ささばさらさ)は僕の友人の黒崎大我(くろさきたいが)とすこし前に恋人同士になった。美男美女の完璧すぎるカップルだ。もちろん、友人として祝福はするが、やはり周りの人間としては少しばかり気を遣ってしまうものだ。僕にしても、宗像さんにしても……


「ああ、これ! 〝あみこ&つみこ〟の新作じゃん!」


 机の上に置かれたBL同人誌『恥れエロス』を見つけた宗像さんは息を巻きながらに薄い冊子を手に取った。


〝あみこ&つみこ〟という名はその同人誌にちゃんと記載されてある。宗像さんが息巻くほどに有名な漫画家なのだろうかと感心もするが、それよりも……


「い、意外だな……。宗像さんもそういうの……読むんだね……」


「え?」


 と、一瞬驚く彼女。腰に手を当て、薄い胸を張りながらに堂々と宣言した。


「ったり前じゃないの! BLをキライな女の子はいないからね!」


 ――偏見……なんだよな……。少し、自信がなくなった。


 椅子に座り、夢中になって同人漫画を読み始めてしまった彼女。仕方なしに僕は立ち上がり、インスタントのコーヒーを淹れる。


 部室に唯一置かれた家電製品である湯沸かしポットでお湯を沸かし、用意されているそれぞれの専用マグカップにいつものようにコーヒーを淹れる。僕と葵先輩はともかく、宗像さんはここの部員でもないくせに、ちょくちょくと顔をのぞかせるようになるうちに、いつの間にか専用のマグカップと大型のコンデンスミルクのチューブを持ち込んだ。僕と栞さんはきまってブラックコーヒーなのだが、宗像さんはミルクと砂糖の入った甘いコーヒーが好みだ。しかし、この部室には冷蔵庫など無く、したがってミルクもない。そこで彼女はコーヒーにたっぷりのコンデンスミルクを入れて飲むのだ。無論、スティックシュガーと常温で保存のできるコーヒーフレッシュを使えばいいことなのだが、コンデンスミルクのチューブなら一本用意するだけでかさばらなくていいというのはアウトドアの世界、ことさら荷物の量を気にする登山家の間では割と有名なテクニックらしいが、いずれにしても読書家の僕からすれば縁の遠い世界の話だ。


「なあ、宗像さん。いっそのことうちの部に入らないか? 前にも言ったと思うけど、部員の足りていない現状のまま秋になると廃部になって部室を取り上げられてしまうんだ。だから今はひとりでも部員が欲しいわけだよ。なにも毎日来なけりゃいけないってわけでもない。なんなら幽霊部員だっていいわけだからさ」


「でも、今はまだ大丈夫なんでしょ?」


「え?」


「ほら、秋までは自由にここが使えるわけ。もし、それまでに部員がそろわなくてギリギリになったら、その時考えてあげるわ。そしたらきっとアタシはユウにすごいカシができるわけ。与えられたカードは最大限に利用しなくちゃ」


そうして彼女はコーヒーを片手に、再び漫画の世界に没入する。しばらくして漫画を読み終わった宗像さんは得意気に、


「はあ、今作も素晴らしい出来! まさに神作! ねえユウ、これ、あれだよね。太宰治の『走れメロス』のパロディーだよね!」


 と、言われるまでもない当然のことを言った。

 いや、本を読まない彼女からすればそれがわかったということは賞賛するべきことなのか。


「『走れメロス』学校の授業でやったよね!」


 宗像さんのそんな言葉に、ああそうだったと当たり前のことを忘れていた自分が恥ずかしい。

 中学時代の授業でやった『走れメロス』。あれは最悪だったという記憶で、思わず記憶の中から封印しかけていたのだ。


 信じることの大切さと友情の大切さを説いた国語教師の授業の内容は反発を覚えるものばかりだった。しかし、それも致し方ないことだろう。あの教科書の抜粋は、僕からすれば一番大切な部分が切り取られてしまっていたのだから……。


 その点で言えばこの『恥れエロス』という同人漫画は秀逸だと言えるのかもしれない。その、大切な部分が削除されていない原文をもとに描いているからだ。


 僕は、部室に並べられた書架の中から太宰治の走れメロスを抜き取り、宗像さんのところに持って行った。


 そして、少しばかり偉そうに彼女に言う。


「ねえ、宗像さん。走れメロスの結末、最後はどうなったか知ってる?」


「え? たしか……。メロスたちがハグして、王様が改心して終わり……よねえ?」


「そう、たしかに物語はそこで終る……教科書の物語ではね」


 言いながら、宗像さんの向かいの椅子に座り書架からとってきた文庫本のページを開いて机の上におく。


「でも、原文の方はもう少しだけ続きがあるんだ……」



〝ひとりの少女が、緋のマントをメロスにささげた。メロスはまごついた。佳き友は、気を  

聞かせて教えてやった。


 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さ

んは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」


 勇者は、ひどく赤面した。〟



「えっ、なにこれ?」


 宗像さんはひどく赤面した。つい先ほどまで、あられもないBL漫画をケロリとした顔で読んでいたにもかかわらず、いまさらだ。


「原文の方ではメロスは最後、全裸で街中を全力疾走した挙句、セリヌンティウスと殴り合い、そして

抱きしめあってるんだ。まあ、さすがにこんな結末を中学の教科書に載せてしまったら、さんざんネタにされるだろからね。わからなくもないんだけど……」


「いや、セリヌンティウス……もっと早く教えてやれよってカンジ? さっきのBL漫画の結末のシーン、これだったんだね。全裸で殴りあってハグしてるっていう……

でもさあ、何で太宰はこんな結末にしちゃったんんだろう?」


「どうだろうね? これは、僕の解釈なんだけど前半、なんだかんだと言い訳をしながらあまり本気で走っていなかったメロスだけど、後半、本気で走り出すと、自分の姿がどんなに不恰好であるかなんて気にしなくなった……ということじゃないかな。まあ、文学の解釈なんてこれと言った正解があるわけでもないし、なにが正解なんて決めつけるものじゃない。だから、そこは勝手に自分なりの解釈をしてしまえばいいんじゃないかな」


 なんとなく、うまく話をまとめてしまおうとした時、栞さんが話の中に割り込んでくる。


「でもさあ、せなちー。太宰治ってモテモテ男だったわけだけど、その実人間的にはかなり厄介なやつだからさ、そういうダメな男に気をつけなきゃダメだよ」と、僕が言いたかったけれども遠慮していた言葉を遠慮もなく言う先輩。「走るメロスに走らない太宰とかね」


「なにそれ?」と、宗像さんが半分興味を示したところで僕はそのエピソードを得意げに語ることにした。


「太宰が熱海に滞在しているあいだ、友人である檀一雄は奥さんに頼まれて太宰のところへ宿代のお金を持って行くんだ。しかし、太宰はそのお金を使って豪遊してしまい、宿代が払えなくなってしまう。そこで『お金を工面してくる』といって檀を人質として太宰はひとり、熱海を離れる」


「あ、メロスと一緒だ」


「でも、ここからが違う。約束の期日になっても太宰は帰ってこない。そこで檀が太宰を捜しに行くと、井伏鱒二と一緒に呑気に将棋を指していたんだ。

 怒る檀に対して太宰は一言。

 ――待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね

 そう、言ったそうだ……」


「……意味、分かんないね」


「まあ、なんか適当なことを言ってごまかそうとしたんだろ。そんな感じのエピソードに絶えない人だからね、この人は」


「この時のことをもとに、太宰は『走れメロス』を書いたのかな?」


「まあ、『走れメロス』自体はシラーという詩人の『人質』という詩や史実などをモデルにして描かれたものなんだけど、この時のエピソードが内容に大きく影響しているというのは間違いないんじゃないかな。この事件のすぐ後に書いたのが『走れメロス』だったわけだし。

 まあ、このメロスという人物、なにからなににつけても自分勝手でしょうがない。考えなしに城に踏み込んで捕まるわ、勝手に友達を人質にするだとか……

 そのクセ妹の結婚相手にメロスの弟になることを誇りに思えだとか、自らを真の勇者だとかほざく。ダラダラ歩くわ居眠りするわ、なにかにつけて言い訳しながら自分が走らない理由を模索し続けている。『こよいわたしは殺される。殺されるために走るのだ』なんて言うセリフは完全に自分に酔っているとしか思えないよね。まったく、これじゃあ熱海の時の太宰治そのまんまじゃないか。

 あと『走れメロス』の書き出しが〝メロスは怒った〟となっているのに対し、太宰と将棋を指していた井伏鱒二がこの直後に描いた『山椒魚』の書き出しが〝山椒魚はかなしんだ〟となっているのも面白い。

 もしかすると、太宰の師匠でもあった井伏鱒二がその時の気持ちを表したものなのかもしれない」


「まあ、なんにせよ人間失格ってところね」


「まあ、ひどいものだよ、この人は。ここでいちいち説明はしないけど芥川賞事件やら、志賀直哉との喧嘩であったりとかもう、人間として救いようがない……でもさ、なぜだかこの手の人間ってのは才能が秀でていたり、女性にモテたりするもんなんだよね。神様っていうものが不平等だという証拠の一つだ」


 そんな話をしながら、早くも砂糖のいっぱい入った甘いコヒーを飲み終えた宗像さんはおかわりのコーヒーを淹れに席を立つ。かわりに身を乗り出してきた栞さんが、その溢れんばかりの胸を机に乗せてささやきかけてくる。


「ところでさ、たけぴー(栞さんは僕のことをそう呼ぶ)。走れメロスの真犯人は誰だと思う?」


「真犯人? 走れメロスはミステリではないですけど……」


 栞さんは普段、あまり読書はしないと言うが、聞くところによれば推理小説なんかはわりと読んでいるらしかった。身内に、実際私立探偵がいるらしいのだ。しかしその真実は推理小説の中の存在とは程遠いものらしいのだが……。


「つまりね、あーしが言いたいのは、誰がメロスを殺そうとしたのか? ということなんだけどね」


「メロスを殺そうとしたのはディオニス王……でしょ? 他に誰かいる?」


「あーしはね、この物語、裏にうごめく悪意のようなものを感じるんだよ」


「裏にうごめく……たとえば短絡的で、無鉄砲なメロスの性格をよく知ったセリヌンティウスがメロスに王の暗殺を企てさせる……とか? でも、やっぱりそれはありえないな。メロスの性格があんなだからこそ暗殺なんて成功しないというのは誰にだってわかることだし、結果、セリヌンティウスが自分勝手なメロスのせいで殺されかける結果となっている」


「ははは、なるほどね。確かにメロスほどの短絡的な考え方の人間ならば、うまくやれば利用するのは簡単だろうね。でも、一番に注目するところはここだよ」


 葵先輩は机の上に置かれた文庫本を手にとり、ぱらぱらとページをめくる。開かれたのは、三人の盗賊がメロスに襲い掛かるシーンだ。


〝「待て。」


「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城に行かなければならぬ。放せ。」


「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」


「私には命の他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」


「その、命が欲しいのだ。」


「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」


山賊たちは、ものも言わずに一斉に棍棒を振り挙げた。〟


 あきらかに、山賊はここでメロスの命を奪おうとしている。


「この山賊は、誰にやとわれたのかっていう話」


「だってそれは、ディオニス王じゃないのかな? だってここに……」


「でも、それって変じゃないかな? 王は人の信じることのできない人間で――」


 そうだ。確かに言われるまでもないことだ。


「メロスが約束を守ったからと言って改心なんてするわけがない。王が山賊を雇っていたというのならば、王は初めからメロスが帰ってくるものだと信じていたことになる。山賊たちも、王に雇われたなんてことには一言も言っていない、が、たしかに裏で誰かがメロスの命を奪うように指示をしている」


「――じゃあ、それはいったい誰?」


 二杯目のコーヒーに、さっきよりもたっぷりのコンデンスミルクを入れた宗像さんが椅子に帰ってくる。ふうふうと息を吹いて熱すぎる熱を冷ましているあいだ。僕は必死に答えを考えてみた。

 その横で、文庫本をぱらぱらとめくっていく宗像さん。不意に重大なヒントを言った。


「あ、こんな人物、教科書には出てこなかったな」

 

 見ると、そのページに描かれていたのはフィロストラトスだった。セリヌンティウスの弟子だというその男は、ぎりぎり町に到着したメロスにこう言っている。


『もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。』


『ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった――』


 しかし、実際にはセリヌンティウスの刑が執行されるのはまだこの後しばらくの時間があるわけで、なぜ、この男がこんなことを言っているのか皆目見当がつかない。あるいは、まるでここでどうにかメロスを思いとどまらせ、セリヌンティウスを死刑にしてしまいたいようにも見えるのだ。


 では――、一体なぜ?


 僕の持つ知識から考察することで、やがてそれは一つの答えにたどり着いた。

 栞さんに向けて、僕はその持論を展開する。


「――フィロストラトスは石工だと言っている。その師匠であるセリヌンティウスもおそらく同じ……。

 かつてのヨーロッパでは石工は多くの建築法は数学を編み出しており、その知識と技術は組合の中で秘密の暗号として共有されていたということは有名な話です。

 そしてそれらの組織は歴史の裏で大きく政治と関わり、秘密結社として暗躍していたという都市伝説はあまりにも有名だ。また、この秘密結社というやつがカトリックとの折り合いが悪く何かにつけて目の敵にされていたはずだ。そして太宰もまたカトリックの信者であり、この秘密結社に対しては良い印象を持っていなかったとも考えられる。

 さて、件のフィロストラトスもセリヌンティウスもその秘密結社の一員だったと考えて間違いはないとして、そしてまた、ディオニス王のような暗愚王がいつまでも実権を担っていてはいけないと暗躍していたのかもしれない。

 しかし、師弟の間でその考え方に対立があった。ディオニス王の暗愚はやがて国民たちの不審を買ってクーデターが起きるのは目に見えている。その時を待つという師の意見に対し、若いフィロストラトスはすぐにでも行動を起こさなければならないと考えていたのだろう。

 そこで、彼は一計を思い立つ。

 愚かで短絡的なセリヌンティウスの友人であるメロスをたきつけ、事件を起こす。そんなメロスの計略が失敗するのは計算済みで、友達思いのセリヌンティウスはメロスを守ろうとその身を差し出す。その、愛のある友情劇を無視してセリヌンティウスを処刑するディオニス王に対し国民の反発心を一気に煽り、意見の対立する師匠をも同時に消し、国民を扇動して一気呵成にクーデターを起こそうと考えたフィロストラトスからしてみれば、メロスが帰ってくるというのは最も望まないかたちの結末だと言える。

 だから、彼はメロスの命を奪おうとした……

 しかし、フィロストラトスの計略は失敗したが、ディオニス王はそれほどの暗愚ではなかった。それが、フィロストラトスの一番の間違い。

 王は改心し、結果としてクーデターは必要ではなくなったのだが、果たしてフィロストラトスはこの結果をどう受け取ったのか。もしかすると、ディオニス王亡き後に自分の息のかかった後釜を据えることで陰からの支配をもくろんでいたのかもしれないし……」


 と、つい調子に乗って熱く語り始めてしまっていた自分自身に気が付き、まったくバカらしくなってしまっていた。


「そんなわけがない。まさか太宰がそんなバカげたストーリーを書きたかったはずがないじゃないですか」


 そんな自分に突っ込みを入れる僕をニヤニヤした目つきで見ている栞さん。結局のところ、彼女自身の考えがあり、言葉巧みに僕を誘導し、その思い描く通りに僕が考察し、熱く持論を語り始めた僕を見て彼女は笑っていたのだ。


 まったく。恐ろしい人間だと嘆息するしかない。結局のところ僕は彼女の手の内で踊らされていたにすぎないのだ。


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