『無題』著者名無し を読んで 竹久優真
この世には数えきれないほどの本があり、どんなに頑張っても短い人生の間にそれを全部読むことなんて出来やしない。だからこそなるべく作品を選んで読む必要があるだろう。
が、なにも名著だけが読むべき本だとは限らない。たとえ無名な本でもそれが自分にとって何かを残してくれるものなら、それこそが読むべき本なのだろう。
僕はその夏、無題で全く無名な作家の作品を読むことがあった。無名な作家、すなわちプロとしてデビューもしていない素人、という事だ。実際ほとんどの物語は本として印刷されることもなく無名なる素人作家の心の中にだけ存在することがほとんどである。それはつまり、そこにちゃんと存在しているという事なのだ。
その日、すっかり日が暮れてから携帯電話が鳴った。友人の黒崎大我からの着信でおおよその理由は予想がついた。数時間前、ショッピングモールで偶然彼と出会い、そこで思わず口論となってしまった。いくぶん腹も立っていたし、いっそ無視しようかとも思ったがこのまま放っておいていいというものでもない。それに「栞さんと付き合っている」なんて言ってしまったことぐらいはちゃんと訂正しておいた方がいいのかもしれない。
大我は直接会って話したいと言ってきた。電車に乗ってようやく家に着いたのにまた、電車に乗って出かけなくてはならないのかとウンザリもしたがそれは仕方がない。
市街地の駅に到着し駅を出た時、外は静かに雨が降り始めていた。こんな時にちゃんと傘を持って出てきた自分が誇らしい。とある突然の雨ふりの日、うまい具合に傘を持っていたことでちょっとしたいいコトがあった。そのころから少しでも怪しいと思う時には傘を持ち歩く習慣が出来ていたからだ。
大我と待ち合わせをしていた場所に向う途中、ちょうど市立図書館の前のところで雨に濡れながらベンチに座っている人を見かけた。後姿だが、それが誰だかはっきりとわかる。僕は駆け寄り彼女の頭上に傘を差した。
「笹葉さん……。こんなところで何やってんの……」
彼女はうつむいたまま、肩で大きく深呼吸するように「うん、大丈夫だから……」とだけ呟いた。声は震えていて僕といえども彼女が泣いていることが解った。そして静かに立ち上がり、うつむいたままこちらに振り返るとそのまま僕の胸と右肩のあいだあたりに顔をうずめた。決して顔を見せないようにと気を遣っているのだろう。
Tシャツの胸元に熱い水滴が小さくないシミをつくっていくのがわかる。僕は右手に傘を持ったまま、左手をそっと彼女の背中に回した。
「ごめんね……。お化粧崩れちゃてて……。こんな顔、見せらんないから……」
「ねえ、一体どうしたの。風邪ひくよ」
「……うん、あのね……。ウチ……。大我と別れちゃった……」
「……ったく、あいつ何考えてんだよ」
「ちがう……。違うの……悪いのは全部ウチだから……。大我は悪くなんかないの……」
「どんな理由があっても女の子を泣かせることは全部悪に決まってる。あんな奴の事なんて早く忘れたらいい、笹葉さんは最高に素敵な人だから……。ホントそれはおれが保証する。きっと、もっと素敵な彼氏がすぐに見つかるよ」
「優しいんだね、竹久は……。……ほんとにウチの事、すてきだと思う?」
「あたりまえじゃないか」
「……そう……。だったら……。だったらウチと付き合ってよ」
「え……」
「竹久……。ウチの恋人になってよ……」
「……」
本当ならイエスと言ってしまいたい。普通に考えて、笹葉さんのような美人に付き合ってほしいなんてことを言われて断る人間なんているだろうか。でも、それはおそらく誰に対しても不誠実な回答。
「……駄目だよ……。だって……。そんなのずるいじゃん」
「……うん、ずるいね。そうだよ。ウチ、ずるいんだよ……ありがとう、これで……ちゃんと前へ進める……」
彼女の言う〝ありがとう〟が誰の、なにに対しての言葉なのかはわからなかったが、とにかく彼女を一人にしてあげるべきなんだと僕は思った。彼女はおそらく一人で考え、一人で悩み、一人で結論にたどり着くべきなのだろうと思う。そして彼女自身、そう決心していることがなんとなくだが僕にはわかった。
背中に回していた手を戻し、彼女の手を取った。その手に僕の傘をあずける。
「これ以上濡れると風邪をひくからもう、帰りなよ。傘、使ってくれたらいい」
「竹久はどうするの」
「だいじょうぶ。おれは雨が好きだから。……今からちょっと大我を殴りに行ってくる」
僕は笹葉さんを残し、走ってその場を去った。西川の側道をしばらく上流に向かって歩いたところに噴水のある公園があり、園内のあずまやにおいてあるベンチで雨宿りをするように大我は座っていた。僕が駆け込むようにあずまやの屋根の下まで来ると大我は無言で立ち上がった。雨はそれほど激しく降っていたわけではないが僕はそれなりに濡れてしまっていた。
「どうしたんだ、優真。傘、持ってなかったのか」
「さっき笹葉さんに会った。傘は彼女に渡してきたよ」
「……そうか、じゃあ、聞いたんだな」
「ああ、聞いた。で、何か弁明するつもりはあるか?」
「いや……ない。 全部俺が悪いんだ」
「……そりゃそうだろうよ!」
言い終わるかどうかのところで僕の右手は固く握りしめられていて、躊躇することもなく大我の顔面へと向かっていった。
大我は顔を少しだけ動かす程度に僕の右腕をかわした。それとほぼ同時にみぞおちあたりに激しい衝撃が走った。あまりのことに痛みを感じたかどうかもわからなかった。
「わ、わりい、つ、つい……」息を漏らすような謝罪を耳にするかしないかのところで僕の意識は途絶えた。……あまりにもカッコ悪すぎる……。
意識が回復したのはそれから三時間くらいたったところだろう。ベンチの上に寝そべっていた僕の目が開き、公園の大きな柱時計の文字盤が見えた。すでに深夜十二時を回っている……
「……ああ、もう終電ねえな」
「だったら朝まで付き合ってやるよ」
ベンチは僕が一人で寝そべって占領しているため、大我はベンチの横の地べたに座り込んでいた。僕の意識が戻ったことに気がついて心配そうに声を掛けてきた。雨は一層激しさを増している。
「さっきは悪かったな。俺は……ちゃんと殴られるべきだったんだが……」僕は寝そべったまま大我に話に耳を傾けた。「俺、実はずっと葵先輩……栞のことが好きだったんだ。だからいつまでも笹葉を欺くわけにはいかないと思った……。それが理由だ」
「……なんだよ、そんなの聞いてねえよ……」
「言ってなかったからな。優真、お前も栞のことが好きなんだろ」
「好き? ああ、そうか、それをちゃんと訂正しなきゃいけなかったんだな。……別におれは栞さんと付き合ってるわけじゃあないよ。あれは栞さんが勝手に言ったことで思わずおれも否定できなくなっただけのことだよ……」
「……そう……だったのか……。じゃあ……なんで俺にあの本を薦めたんだ? あれはギャッツビーのようになるって警告なんじゃなかったのか?」
「本? グレート・ギャッツビーのことか?」
大我は黙って肯いた。
――まったく。大我は僕の勧めた本をまるで変な解釈をしている……。まあ、僕が人のことをどうこう言えたガラじゃないが。
「……なんだよそれ。そんなつもりなんてないよ。もっと単純な理由で、きらびやかで華のある大我のことに憧れて……。華やかなるギャッツビーが大我に重なっただけのことだよ」
「そ、それだけのことなのか?」
「ああ、それだけだ。田舎者のニックはギャッツビーに憧れ、その傍らで協力しているじゃないか。た
とえ古くからの友人を裏切るような結果になるとしても一心にギャッツビーを応援している。
それにさ、あの話の結末。ギャッツビーに不幸が訪れた後も彼の傍らで、その信念に敬服して、彼を尊敬し続けるんだ。確かにギャッツビーは完璧な人間とは言い難いよ。いろいろと間違ってる。それでもニックはギャッツビーを慕い続けるんだよ。ギャッツビーを偉大と言っているんじゃないか」
「あの話の登場人物、みんな少しづつ間違ってるんだよな。ニックだって例外じゃない」
「そうだな。ニックはギャッツビーを敬服するあまり、なにが正義かどうかなんて考えがおぼつかなくなっている」
「なあ、何も間違えずに生きてるやつなんていると思うか?」
「……いないね。それでもみんな頑張ってるんだよ。間違えながら、迷いながら生きていく」
「お前、かっこいいな」
「カッコつけてるんだよ。まあ、所詮は薄っぺらいペーパームーンだけどな」
「ペーパームーン?」
「ああ、栞さんがおれのことを比喩して言ったんだ。表面を取り繕っただけの偽物の月だってさ」
「月……。もしかしてあの月は優真のことを指しているのか?」
「ん? なんのことだ?」
大我はスマホを取り出し、そこに保存してあった画像を取り出して見せてくれた。もう、何度も見慣れたタッチだから絵に疎い僕でも栞さんが描いたというものだとわかるようになってきた。月明かりの照らされた大我の姿が虎の姿に変貌しかかっている。
「春の文化祭の日、旧校舎の部室で葵に描いてもらったんだ。この絵の意味を考えたんだがよくわからなかったが、もしかするとこの月は優真のことで、その光に照らされた俺が……」
「いや、まさかそれはないだろう。春の文化祭の出来事ならおれだって栞さんとは面識がない。たとえ大我の友人である俺のことを知っていたとしてペーパームーンだと形容するくらいに知っているはずがない」
「それも……そうだな」
「むしろその絵ってさ、山月記の李徴じゃないかな?」
「山月記?」
「中島敦の短編小説さ。李朝はプライドが高い男でね、下級役人をやっていることが我慢ならなくてあっさり仕事をやめて詩人になろうとするんだ。だけど思うようにはいかず、それでもなおプライドの高さのせいで人の心を失い、虎へと変貌していく自分に気づくんだ」
「なんだよ、それってまるっきり俺のことじゃねえか。つまり葵はプライドを捨てきれない俺が人の心を失った虎になったと言いたかったんじゃ……」
「どうだろうな。李徴は友人の袁傪に自分の想いを託し、最後に虎になった自分の姿を見て欲しいと言い残し、最後はその虎の咆哮で物語は締めくくられるんだ」
「バッドエンド……ってことだよな」
「うん。まあ、そうなんだけどさ……。あの物語を李徴の友人である袁傪が描き残したものだとして考えるとあながちそうとも言えないんじゃないかな。
最後虎となって月に向かって咆哮するその姿は憐れというよりはむしろ雄々しく勇ましい姿として描いているように思えるんだ。つまり袁傪は獣にこそなったものの最後まで自分の道を歩もうとした李徴を称賛しているんじゃないだろうか。ギャッツビーと同じだよ」
「……」
大我はしばらく口を閉ざしていた。僕の言葉をかみしめるように何かを考えこんでいた。
「なあ、大我。厚かましいことを言ってすまないんだが、……笹葉さんにはおれに殴られたってことにしといてくれ。でないと彼女に対してはかっこつかなくなる。カッコつけたいんだよなおれは」
僕自身。すごくカッコ悪いことを言っているんだという自覚はある。
「……ああ、そうだな……。親友……なあ、笹葉ってお前のこと……」
「ん?」
「いや、俺から言うことじゃないな。忘れてくれ」
大我は立ち上がって近くの自販機に飲み物を買いに行った。僕は痛む体を無理やりに起こしてベンチに座り、少し考えた。
――きっと栞さんも、大我のことがずっと気になっていたんではないだろうか。あの日、栞さんはずっと一人で文芸部の部室で大我が入部届を持ってくるのを待っていたんじゃないだろうかとさえ思う。
少し前に瀬奈から、あの旧校舎で起きた怪奇現象の顛末を聞かされたことがある。勝手に僕が解決したと思っていたことはまるで足りていない推理で、笹葉さんは誰かほかに仕組んだ人間がいるのではないかと考えていた。
僕はその犯人は栞さんなんじゃないかと思う。彼女は自身で桜のメモからあの鍵を使い、旧校舎に幽霊が出ると噂を作っておいた。そうすればほとんどの生徒は怖気づき旧校舎へは近づかなくなるだろう。そこに、大我が入部をすることで、あの静かな教室で二人蜜月を過ごそうと画策していたのだ。
計算違いは入部したのが大我ではなく僕だったということ。だから計画は変更になった。
たしか僕が入部した時、彼女は確か部員が足りなくて廃部になるから友達を誘えと言っていた……。その友達というのはおそらく大我のことなんだろう。
怪奇現象を演じる必要がなくなった栞さんは瀬奈と僕を使って鍵が元の通り職員室に戻されるように手配したというのどうだろうか。もちろん、確証はないし栞さん自身に名探偵よろしく詰め寄るような無粋なことを僕がするわけがない。
大我が缶コーヒーを二つ持って帰って来た。
「これでよかったか?」見ればミルクと砂糖のたっぷり入った缶コーヒーだ。
「おれは無糖派なんだけどな」
「まあ、そう言うな。オゴリなんだから」
温かいコーヒーを受け取り両手に挟むと雨に濡れて冷えた体が温かくなった気がした。
「なあ、大我。文芸部に入らないか?」
「漫画研究部だろ。俺、漫画あんまし読まないぜ」
「それならおれだってそうだ。それに以前、栞さんがおれと大我をモデルに漫画を描きたいって言ってたしな」
「まさか、引き受けたのか」
「大我がその気なら構わないって言いておいた」
「あいつの書く漫画、BL専門だぜ」
「……」
「知らなかったのか? たしか〝あおいしおり〟と書いた紙を裏返しにして縦横を90度回転させるとペンネームになるんじゃなかったかな。あいつの描いた同人誌はネットなんかではそこそこ有名らしい」
「ああ……そういえばそんなペンネームの同人誌をどこかで見たことがあるような……まあ、何はともあれ、大我はおれの入部の勧誘を断りはしないだろう? お前は俺に借りがるわけだし、そのことで全部チャラにしよう」
僕は缶コーヒーのプルタブを起して口をつけた。
「……甘い。甘すぎるよな」
朝まで語り合い、それから家に帰った。大我が傘を差して駅まで送っていくと言ってくれたが断った。男とラブラブパラソルするつもりなんてない。コンビニで安い傘を買って、始発の電車に乗り、家に帰った。すっかり明るくなった部屋のカーテンを閉めて布団にもぐった。
これで僕たちは以前のように三人仲の良い友人同士に戻れるのかはわからないが、なるべくならそうなってもらいたい。
大我の強引、自分勝手なところは基本受け身の僕にはウマがあった。むしろ彼自身、そんな相性の良さを本能的に見抜いていたのかもしれない。それに笹葉さんと大我の二人が付き合うという話を聞いた時、笹葉さんを大我にとられたという感じはしなかったのだが、笹葉さんに対して大我をとられたという感情がなかったかといえばそれを完全に否定はできない気がする。
僕は間違いなく大我に対して強く好意を抱いていたのだ。まさか栞さんがそこまで見抜いた上で僕と大我のBL漫画を書きたいと言ったわけではないのだろうけど……。
雨音は勢いを増して窓を叩く、天気のせいもあって朝日が昇った後でも落ち着いて眠り続けられるくらいの暗さがあった。
どうせこの雨なら花火は中止だろう。それにあの二人が別れたとなれば四人でお祭りに行く約束なんてあったものじゃない。せっかくだからこのままずっと寝ていよう。考えてみればみぞおちあたりが痛む、きっとしばらくは痣になるんだろう。思いながらまた眠りに落ちた




