『ティファニーで朝食を』カポーティ著を読んで 笹葉 更紗
作家を目指す主人公は階下に住む新人女優ホリデー・ゴライトリーと親しくなりその日々の生活の中で彼女を取り巻く多くの嘘やまやかしの存在に気付いていく。自分の居場所を探し続ける彼女の行き着く場所は……
――思っていたストーリーとまったく違っていた。
〝笹葉更紗 放浪中〟
放浪と旅行の違いは目的地があるかどうかという事ではないかと思う。だったら目的さえ持たないウチはやはり放浪中といったところだろうか。『ティファニーで朝食を』のホリーは自分の名刺の住所の欄に〝旅行中〟と書いてあった。明日、自分がどこに住んでいるかもわからないからだ。
夏休みに入った頃、本屋で『ティファニーで朝食を』を見かけて、手に取った。それは本を、というよりは記憶に中にあるその本を手に持った竹久の手を取るような想いだった。
――全然違っていた。思っていた展開とは全然違っていたのだ……。ずっとハッピーエンドだとばかり
思っていたのに、本当はそうじゃなかった。
主人公とホリーは全然ラブラブなんかじゃないし、ホリー自身もヘップバーンのように清純な愛らしい女性なんかではなかった。妖艶でしたたかで邪悪だ。それでも芯はしっかりしていた。映画版ではほとんど描かれていなかったマフィアのサリートマトに対する友情《その人がどんなふうに私を扱ってくれたかで、私は人の価値をはかるの》その言葉で彼女の強さが見えた。原作の方でしきりに描かれていることは映画版と大きく違い、自分の居場所を探し続けるために旅をしているホリーの姿のように感じた。そしてティファニーのような落ち着ける場所を探し求めていたホリー。決して映画版が悪いといっているわけではない。『ムーンリバー』は名曲だしヘップバーンは最高に魅力的だ。あの映画がなければ、今、ウチの手元までこの本が回って来たかどうかはわからない。それでも原作のホリーにはリアルな人間味があり、周りのみんなが彼女のことを好きになるのが理解できた。
自分はどうか? いつまでたってもウチ自身は目的も信念も持っていない。だから今もって〝放浪中”なのだ。
ウチが初めてこの作品に触れたのは(触れたといっていいのかわからないが)今から一年前、中学三年の夏休みの事だった。家のすぐ近くに市立の図書館があって、当時受験生だったウチはよくそこで勉強をしていた。こういう広いスペースにもかかわらず皆が静かに過ごしているというのはそれでなかなか勉強がはかどるのだ。実際、夏休みともなるとおそらくウチと同い年と思われる。中三の受験生らしい人がたくさんいた。
彼もまた、そんな中のひとり、短く切りそろえた髪に色白な肌、背も低くお世辞にも頼りがいがあるとは言い難い。それでもその表情は優しそうでどことなく落ち着ける感じがする。時々は勉強をし、時々は読書をしながら過ごす彼を初めのうちは見慣れない人程度として認識だった。多くの場合、彼はひとりで行動していたが、時折同級生くらいの女子生徒と親しげに話をしているのを見かけた。その人はウチにも知った顔で以前からよくこの図書館には訪れているひとだった。眼鏡をかけた黒髪の女子生徒。
そのころはウチも今とは違い、ストレートの黒髪で今のようなカラーコンタクトではなく眼鏡をかけていたので親近感もありよく覚えていた。彼はその子に会うといつも以上に優しい表情になる。その表情を見て彼はきっとその眼鏡の少女に好意を抱いているのだろうと直感した。彼との関係はただのそれだけで、だから別段それ以上意識することもなく遠巻きに眺めている程度だった。
ある日「おはよう」と声をかけられ、そのまま彼はウチの隣に座った。突然に声をかけられ驚いたまま
「お、おはよう……」と小さな声で返事をする。
その返事に驚いたのは彼のほうだった。
「あ、い、いや、ごめん。ひ、人……違いだった……」
事情はすぐに理解した。ウチはその少女と背格好も同じくらいだし、黒髪でメガネをかけていた。後ろ姿で一瞬勘違いして声をかけてしまっただけなのだろう。
しかし、だからと言って今更座っている席を移動するというのも気まずい。その日は二人並んだまま勉強をした。勉強の途中、彼は消しゴムを無くして困っているようだった。ウチは自分の消しゴムをそっと差出し、「よかったら、これ」
「あ、ありがとう。よく無くすんだ」
交わした言葉はそれきりで、しばらくすると勉強に飽きたらしい彼は文庫本を開いて読書を始めた。すごく楽しそうに、受験勉強なんかよりもずっと集中して読んでいた。村上春樹の『海辺のカフカ』という本だ。カフカとサラサは音の雰囲気が似ている。気になったウチはそのまま図書館で同じタイトルの本を借りて帰った。
全身の身の毛もよだつほどに震えた。これほどまでに読書というものが面白いだなんて知らなかった。ウチはそれからというもの彼を見かけるたびに手に持っている本をチェックして、同じタイトルの本を借りて帰るようになった。
――彼は卑怯だ。
借りて帰った本に尽くされる美しい言葉の数々は彼の手柄として与えられてしまう。あとになってわかったことだが、当時彼が好んで読んでいた本のほとんどが〝耽美主義〟と呼ばれる作品だった。美しい文章に出会う度、その言葉は彼からウチに贈られた言葉のように錯覚してしまう。ウチの心は、徐々に彼に惹かれてしまっていた。
ある日読んでいる本が『ティファニーで朝食を』だった。タイトルくらいは知っている。同タイトルの古い映画がとても有名だ。
その日はあの眼鏡の子はいなかった。ずっと読書に集中している様子でそのまま最後まで読み終わったのは図書館の閉館間もない時間だった。閉館時間を案内する音楽に追われるように席を立ち、一階へと降りるエレベータの中で偶然二人きりになった。
「あの……。よく会いますね」
突然彼に声をかけられ緊張した。自分のことを追憶えていてくれただけでもうれしかった。
「あ……。さっき読んでた本、面白いですか……」ヘタだ。ウチは会話のセンスというものがない……
「すごく良かったよ。ここ最近読んだ中では最高だったかも」
「そう……。じゃあ、ウチも今度読んでみようかな……」
「うん、きっと気に入ると思うよ。あ、僕は竹久、竹久優真、よろしく」
「あ、あ、う、ウチは……さ、ささ、さ、さささ」噛んでしまった。自分の名前を……
「……さ、さ……佐々木さん? そうか、佐々木さんか、ところでたぶん同級生……だよね。もう受験校は決めた?」
「あ、えっと……白明、かな。多分……」
「そっか、じゃあ、僕と一緒だね。お互い合格するといいね」
「う、うん……じゃあ、ウチは……これで……」
……本当はもっと話をしたかった。たけどあまりに緊張しすぎてしまって、エレベータが一階のエントランスに到着してドアが開くと同時に逃げ出すようにしてその場を立ち去った。
『ティファニーで朝食を』は、図書館においてはいなかった。正確に言うなら貸し出し中で、近くの本屋に行っても置いていなかった。どうしても気になったウチが行ったのは本屋でなくレンタルビデオ屋。同タイトルの映画を借りて友人の瀬奈を呼んで二人で見ることにした。
瀬奈はとても美人で学校の誰からも好かれるアイドルのような存在だった。そしてウチのような根暗なヤツとも分け隔てなく接してくれるかけがえのない友人だった。瀬奈はその映画をとても気に入って……と、いうよりはオードリーヘップバーンにすっかり憧れて、それから古い映画をよく見るようになった。彼女が調理科のある芸文館に進学するようになったのも『麗しのサブリナ』が原因だ。
……正直ウチとしてはあまりこの映画は好きになれなかった。よくある〝お金よりも愛が大事〟みたいな話でなんだか最後はお金持ちみんなにフラれたから仕方なく主人公とくっついたような感じがした。……それきり、原作を読む機会から遠ざかっていた。
夏休みの最後の木曜日の事だった。ウチはそれまでの観察であの眼鏡の子は木曜日には図書館に来ないことに気づいていた。
彼のすぐ向かいの席に座って勉強を始め、読書をしていた彼もしばらくして勉強を始めたのだが、どうやらまた消しゴムを無くしてしまったらしい。ウチはチャンスだと思った。持っていた消しゴムを渡し、「ウチ、もう一つ持ってるから使ってくれていいよ」と言った。「ありがとう」と答える彼。……うまくいった。正直こんなうまくいくなんて思っていなかった。ウチはその場を逃げるように立ち去った。予定通りにその消しゴムを彼のもとに置いたまま立ち去ったのだ。
あの消しゴムのキャップを外した中身にそっとメッセージを忍ばせておいた。
――あなたのことが好きです――
夏休みが終わり、彼は図書館に来なくなってしまったけれど、自分の想いを伝えることができただけで満足だった。いつか運命的に再会したとき答えを聞けたらいいと思っていた。
その運命というものにも実は期待がある。互いに白明高校を受験するのだし、二人とも合格すれば再会することもあるだろう。
しかしウチの読みは甘かった。受験に失敗し、滑り止めだった芸文館高校に通うことになった。これで彼と会うことはもうないだろうと思っていた……
芸文館高校の入学式の日に唖然とした。もう会うこともないと思っていた竹久が同じクラスにいたのだ。ウチは思わず彼を見つめていた。彼と目があった時、心臓が止まりそうなくらいに息が詰まる。……彼はウチが誰だか知らない初対面のようなそぶりで目を反らした……
仕方がない。あのころと今ではウチの外見的にかなりの違いがある。
同じ高校に通うことになった瀬奈はいろいろウチに気を遣ってくれた。『サラサはとっても美人なんだからもう少し気を遣わなきゃだね!』そう言ってウチにメイクの仕方を教えてくれた。髪も明るい色に染めて、眼鏡もコンタクトレンズ、しかもカラー入りにした。ダイエットにだっていくらか成功した。
「いくら何でも気合い入れすぎだよ」
瀬奈がそう教えてくれたのは入学して一週間ほどたったころ。加減というものを知らないうちは高校デビューに気合を入れすぎてしまっていた。
元々が深い付き合いでもなければ今のウチとあの頃のウチが同一人物だなんてわかりっこないだろう。近寄って「久しぶり」と声を掛けようとも思ったが、今更なんて言えばいい? 「あの時の消しゴムのメッセージの答えが聞きたいの」なんて、言えるわけもない。ウチをまるで初対面の人としてとらえる彼にイラつくこともあったが結局悪いのは自分自身だ。
だったら初対面として彼と仲良くなればいい。そう、それだけのことだ。ウチは勇気を振り絞ってゴールデンウィークに校内で開かれる春の文化祭に一緒に行こうと誘うことにした。さすがに二人きりでは気まずすぎる。一緒に連れて行く友達と言えば瀬奈くらいしか思いつかない。でも彼女を連れて行けば誰だって彼女のことを好きになるだろう。でも大丈夫。竹久の友達の黒崎君、誰の目からしても彼以上のイイ男なんてありえないくらいに完璧な人、きっと彼も誘えば瀬奈とお似合いだ。あの二人が仲良くやっている間にきっとウチは竹久と仲良くなれる。
――打算は失敗に終わる。瀬奈は竹久を連れてどこかに消えてなかなか帰ってこなかった。途中で雨
が降り、雨が止んでようやく二人は帰って来た。「雨が降り出したんでずっと雨宿りしてたんだ」という彼女の言葉が嘘だということはすぐにわかる。自分がいつも雨女だと呟いている瀬奈はどこに行くときも鞄の中に折り畳み傘を入れていることを知っている。帰り道瀬奈と二人きりになったときに彼女は言った。
「ねえ、ユウってどんな奴なの?」
「どうしたのよ、そんなこと聞いて」
「うん、なんかちょっと気になるのよね。アイツ」
――それは、まるで恋をした乙女のような発言だ。卑怯なウチは遠巻きに竹久のイメージを損なう言い方を選ぶ。
「そうね、言ってみれば月、みたいなやつかしら」
「つき? 空のお月様?」
「そう、満ちたり欠けたり掴みどころないし、ほら、月の中に見えるのってさまざまでしょ。日本ではお餅をついているうさぎってよく言うけど、人によってはカニだったり、人の顔だったり……。結局お前はなんなんだって思うわけよ」
「ふーん。お月様ね。やっぱりサラサは文学乙女ってやつだね。普通そんな例えなんてしないよ。あ、でもさ、あの大我ってやつさなんかサラサとイイカンジなんじゃない? ねえ、どうなの?
すごくかっこいいしさ、まんざらでもないんじゃない?」
――実はついさっき、付き合わないかと言われたことは言えない。何か言い訳を探してみる。
「でも、なんていうかさ。運命っていうものを感じないのよね」
「運命?」
「うん。ほら、実は大好きな本とか映画だとか音楽だとかさ、そういうのがぴったり一致すとかさ……。もう会うこともないだろうって思っていた人が偶然すぐ近くにいる人だったりとかさ」
言いながら、竹久のことを思い浮かべていたというのは言うまでもない。
「うーん。そうねえ。でも、まだ知り合ったばかりでお互いよく知らないだけかもだし、そのうち何かそういう発見があるかもよ。それこそ今日という日がブルームーンっていうめずらしい日でさ、そんな日に愛を告白されれば『これが運命かも』って思っちゃいそうだけどさ……」
瀬奈は、雲に覆われた空を見上げて言う。
「だけど、ブルームーンは見えそうにないよ……」
ウチは、瀬奈の『ブルームーンは見えそうにない』という言葉の意味を考えた。
ブルームーンの意味は、言えない相談、叶わぬ片思いという意味がある。つまり瀬奈はウチに〝竹久のことはあきらめろ〟と言っているのではないだろうか。だとすれば、所詮付け焼刃で表面だけを着飾っただけのウチがどう頑張ったって瀬奈にかなうわけがない。結局ウチはこの想いを封印するしかなかったのだ。
それから数日後、ウチは黒崎大我と付き合うことになった。だって仕方なかったのだ。瀬奈に勝てるわけでもなく、大我以上に理想的な人物だって考えられない。彼のような素敵な恋人が出来たらきっと竹久の事なんてすぐに忘れられる……はずだ。
でも、それは間違った選択。もし、何でも消せる消しゴムなんてものがあればその事実から消し去ってしまいたい。
瀬奈と竹久の距離は日を追うごとに近づいていくのがわかった。それを目にする度つらくなる。高鳴る鼓動を抑えようと必死で心を外側から押さえつけると、心の内側にはトゲトゲのサボテンのようなものが住んでいて、押さえつければつけるほどに痛みが増した。




