第499話 時針
पापम्さんは頭を抱えたまま、呻くように呟いた。
「うぅ……。怒りが、憎しみが、消えていく……。返してくれ……」
「怒りなんていらないよ。憎しみなんていらないよ。種族の差なんて関係ない。ただ、仲良くなりたいの」
あきなさんがそう言って優しく声をかけると、पापम्さんはしばし逡巡したのち、ゆっくりと腕を下ろした。
「でも……グャギゼウスの意思一つでどうとでも転ぶ世界なんて……」
グャギゼウスさんは確かに、あきなさんの説得で拳を下げた。しかし、その事実だけで今後もこの世界が滅ぼされないという安心材料にはならない。今回のようにあきなさんを害そうとする意思があれば、終末時計の針は簡単に終わりへと振れてしまうのだ。
しかし、だからといって『だったら自分の手で引き金を引こう』なんて発想はいただけない。それがपापम्さんから生じたものではないのなら、なおさらだ。
「पापम्さん、思い出してください。その考えはあなたから生じたものではないはずです。誰かに入れ知恵をされたのではありませんか?」
「そんなことはない……。これは僕の考えで——」
確かに、〈ロールプレイング〉で遡れる情報には、誰かに考えを押し付けられたような記憶は残っていない。しかし、意図的に記憶を改ざんされた形跡が残っている。黒幕にとって不要な記憶は、ほぼすべてが消し去られ、その代わりに魂の言葉に類する信念と、一般的な常識とは異なる『確信』とが埋め込まれているのだ。
ボクが足を軽く踏み鳴らすと、わずかな衝撃が空気を介して伝播し、पापम्さんの脳髄に信号として到達した。濁流に投げた小石ひとつ分ほどの小さな力——ただそれだけで、記憶の底に沈み込んでいた違和感が膨れ上がった。原因を探るべく、信号が活発になっていった。
「あっ——あああああああああああああ!!!」
पापम्さんの思考を塞いでいた大岩に穴が穿たれ、すべての記憶が呼び覚まされた。
「そうだ……僕は、ただ友達になりたかっただけなのに……」
पापम्さんの記憶が解放されたと同時に、ボクの思考にもその情報が流れ込んできた。だが、あくまで本人から話を聞くべきだろう。
「何があったんですの?」
ボクが口を開くより先に猫姫さんが問いかけた。すると、पापम्さんは大きく深呼吸をしてから、ぽつり、ぽつりと吐露し始めた。
「——『転式学院』……。たしか、そう名乗っていた……」
『またですか?』と思わず口を挟みたくなったが、代わりにごくりと唾を飲み込んだ。以前とやり口がまったく同じだ。人間の自我を書き換えることで、人類をさらなる段階へと引き上げようと企む組織だ。どうやらまったく懲りていないらしい。
"作者"という絶対の壁を乗り越えたことで、彼らの目的は果たされたのかと思っていた。だが、グャギゼウスさんという新たなハードルを前に、再び実験を始めたというわけか。
「ちなみにグャギゼウスさんというのは実際のところ、どのくらい凄い『異形』なんですか?ニュースでやっていたのは見ましたけど」
ボクがその場にいた人に尋ねると、視聴者さんからレスポンスが降ってきた。
----
>思うだけで万象を自在に書き換える『夢現の理』とやらの使い手らしい。ソースは週刊文秋
>文秋の取材に答えてるの草
>アクなんとかさんのパクリかな
>アクタニアみたいに他人の意識に左右されないから上位互換だぞ
----
「ほえー。そんなことができるなら真の意味で全能ですね。最強じゃないですか」
と口では言いながらも、頭の中では戦闘をシミュレートしてみた。初手で世界を丸ごと崩壊させられたら勝ち目はない。
けど、どこぞのアクタニアさんみたいに格下を前にして遊ぶタイプなら、意外となんとかなりそうだ。少なくとも絶対に勝てないというほどじゃない。
とはいえ、戦闘になる前に癇癪を起こして世界を終わらせるタイプの『異形』であれば、『転式学院』が懸念を抱くのもわからなくもない。
「まぁ、喧嘩を売らないに越したことはないのです。そんなことをする意味もないのです」
メグさんがそう結論を述べるが、話はそう単純じゃない。確かに一般的な観点から言えば、わざわざ藪を突くようなことはしないはずだ。
けど、全人類がそんなに合理的に動けるわけじゃない。無意識のうちに感情を逆なでする人もいるだろうし、破滅願望の持ち主なら進んで危害を加えに行くかもしれない。
これがこの世界とは違う次元に存在する神様ならまだしも、週刊文秋の取材に応えるくらいフットワークの軽い『異形』なのだ。彼にとって、終わりの引き金を引くのは、終末を示す時針を回すかのごとく容易い。
いつもならこの手の案件は、ボクがグャギゼウスさんなんて怖くないと証明してみせることで解決してきた。けど、今回はそうはいかない。挑むことそのものが引き金に指をかける行為に等しいからだ。
今のボクにできるのは、『転式学院』をとっとと潰すこと。それから【フォッダー】で進化した人類の実力を見せつけて、グャギゼウスさんに届きうる可能性を示すくらいだ。どちらも根本的な解決には至らないだろう。
幸いにしてグャギゼウスさんは世間を騒がせた割には世界を終わらせてはいないし、想像よりは遥かに友好的な存在だろう。首に刃物を突きつけられた状態で、安心して暮らすことができないというのは事実かもしれないが、気にするだけ無駄だ。
「『転式学院』ってなに?」
あきなさんが疑問符の感情表現を飛ばしながら尋ねてきた。
「まあ端的に言って悪の組織ですね。पापम्さんは悪の組織に洗脳されていただけみたいです。まあ気にすることはないですよ」
「――そっか。よかったぁ……」
पापम्さんに敵意がなかったことは確かだが、悪の組織があきなさんに敵意を向けているという事実は揺らがない。けれど、あきなさんはほっと触手を撫で下ろしていた。わざわざ口にする必要はないだろう。ボクが『転式学院』をもう一度潰しに行けばいいだけの話だ。
情報を集めるべくログアウトしようと思ったそのとき、メッセージが送られてきた。
とがみん >さっそく以前の首謀者をシメに行ったけど、どうやら何も知らないみたい。まあこっちで進めとくから荒罹崇は気にせず遊んでていいよ
行動の早いことだ。別の人格とはいえ、もともとはボクでしたからね。考えることは同じということでしょう。あきなさんのことも心配だし、お言葉に甘えて、ボクはこのままゲーム内でフォローしていこうか。
とがみんには『助けが必要ならいつでも呼んでくださいね』とだけメッセージを返しておいた。そして余計な心配をかけないように、みんなに笑顔を向けながら言った。
「ま、先のことを心配しても意味がありません。ぽじてぃぶにいきましょう!」
能天気でおとぼけ気味なその発言に、みんなはくすりと笑った。




