隠した過去は、おしいれの中
目の前にいる彼は夏彦さんの幼少期
「私は・・・」
私は、彼の前ではいつでも「りんどう」だった
けれど、私は・・・
「私は、二階堂鈴」
あえて本当の名前を口に出す
彼とは何も隠さずに話したいから。その心境の変化はなぜだかわからないけれど、そうしていたいというのが、今の私の思いだ
「貴方のお名前は?」
「巽、夏彦・・・」
優しく質問をしてみる。彼は抱いていたぬいぐるみに顔を埋めて、その影から私を覗き、質問に答えてくれる
・・・なんだか、怖がられている?
「夏彦さんですね。これから、よろしくお願いします」
「・・・・・」
小さく、首を縦に振ってくれた。元々人見知りの激しい子だったのだろうか
大人に対してものすごく怯えている・・・まさか、龍之介が言っていたのは・・・
「ここがどこかわかりますか?」
「・・・おしいれ、だと思う」
「どうして、そう思うのですか?」
「まま、いつも・・・ぱぱ以外の人を、家にいれたら・・・・僕をおしいれに入れるから。真っ暗だもん。だから、そうだよ」
・・・龍之介から聞いた彼の娘の事を思い出す
確か彼女は不特定多数の男と関係があったらしいと聞く
まさか、と思った。まさか、夏彦さんには・・・その時は必ず押し入れに押し込まれていたのだろうか
終わるまで、ずっとここに一人で過ごしていたのだろうか
「おしゃべり、したり・・・泣いたりしたら、叩かれるから・・・痛いの、嫌だから、怖くても・・・頑張る」
「そんなこと・・・」
「声、しなくなった。でも、まだ・・・」
私には声は聞こえていない。けど、目の前の夏彦さんには声が聞こえているのだろう
とても辛そうに、ぬいぐるみを抱いて俯いていた
そのぬいぐるみはチンアナゴのぬいぐるみ
彼が以前「なんとなく落ち着く」と言ったそれは幼少期に大事にしていたものらしい
・・・こんなところで、見ることになるなんて思いたくなかった
「いつまで待てばいいのですか?」
「・・・ドアが開く音がするまで。それまで出てきちゃダメ」
何も映さない目をした小さい夏彦さんのお腹が鳴る
「ご飯は、ありますか?」
「・・・・?」
流石に息子をおしいれの中に閉じ込めるのなら、食事の一つぐらい用意しているだろう
お茶も・・・まともな、母親であれば
「・・・あるよ」
「よかった。それぐらいは・・・・」
「まま・・・ご飯作れないし、夜も、どこかにいっちゃうから、ままがいなくなった後に、僕、おしいれから、出て、置いてある食パン、食べるの」
私はその言葉を聞いて、頭を抱える
それを語る時の彼は、先ほどの辛そうな表情ではない
無邪気に、嬉しそうに、語るのだ
それが猶更、私の心を締め付けた
ご飯を美味しそうに沢山食べる人だと思っていた
けれど、今まで・・・誰かの手作り料理なんて食べたことがなかったのだろう・・・
実の母親の作る食事すら口にしたことない彼は、私が作った食事をどんな気持ちで食べていたのだろうか
考えるだけで、息が出来なくなるぐらい苦しくなる
「すず、おねえちゃんも・・・食べる?食パンね、パン屋のおじさんがいつもくれるの。耳だけだけど、美味しいんだよ。水をつけたらふにゃふにゃで、もっと美味しいんだよ。でもね、白いところも美味しいらしくてね、いつか食べたいなって思ってるんだ」
「ううん。夏彦さんだけで食べてください。育ち盛りの貴方では、そんなものではお腹は満ちることはないでしょうし、栄養だって全然でしょうけど・・・!」
それでも私に自分の食事を分け与えようとしてくれる彼
小さい頃から純粋で優しかったのだろう。その優しさが辛すぎて、たとえ幻想であろうとも、彼の記憶に残らないとしても、それでも何かしてあげたかった
そして強く思う
もう少し、早く・・・彼が幼いころに出会っていれば、こんな目には合わせずに済んだのだろうか・・・と
後悔しても、時間は過去に戻せない
だから、これからも過去の彼は・・・こんな仕打ちを受け続けるのだろう
「・・・こうしてもらうの、はじめて」
「そう、ですか。私でよければ、何回でも抱きしめますから・・・だから!」
その瞬間、彼の姿がどこにもいなくなる
何が起きたのだろうと、周囲を見渡すと、先ほどの彼より、少しだけ成長した彼が立っている
何歳になったのかわからないけれど、その容姿は、まだ幼子だ
「すずお姉ちゃん」
「夏彦さん・・・・」
幻想だからか、私に対する記憶があるようだ
「今度ね、おとーさんが、帰ってくるんだ」
「それはよかったですね」
「うん。おかーさんが、ご飯を買ってくれるから、御馳走が食べられる。最近はね、給食もあるから、ご飯は美味しいものを食べられているんだ」
「夏彦さんはいくつになられたんですか?」
「九歳、だよ」
九歳にしては、とても幼い姿だと感じる
私が生きていた時代の九歳より、その姿は幼く見える
きっと、同年代に比べてかなり成長が遅れているのだろう
まだ、満足に食べられていない・・・のだろうか
彼がこんな状況なのに、彼の父親は何をしていたのだろうか・・・・
龍之介の話だと、単身赴任をしていたと聞いたが・・・帰ってきた時に夏彦さんの現状に気が付かなかったのだろうか
ああ、考えただけでもイライラする
「生きていてくれて、ありがとうございます」
「?」
不思議そうに首をかしげる彼を再び抱きしめる
「すずお姉ちゃんから、抱きしめられるのは、嬉しい」
そう呟いて、また彼はどこかに消えてしまう
同じ法則であれば、きっと彼は別の場所に・・・・
「・・・すず、姉ちゃん」
今度の彼は、先ほどよりもさらに大きくなっていた
しかし、目に見えて大きな変化があった
至るとこに青あざを作り、擦り傷の絶えない少年
何かで切られたような跡もある
それが、少しだけ成長した夏彦さんの次の姿だった
「・・・お父さんとお母さん、離婚してさ、俺、お母さんに引き取られたんだ」
それでも笑顔を浮かべる。自分に何かを言い聞かせるように、思い込ませるように
「俺さ、頭良くないから、お母さんの機嫌損ねるようなことしちゃって、いつも怒られるんだ」
「そんなの・・・」
「俺が、出来損ないだから・・・お母さんを怒らせるんだ。お母さんは全然悪くない。何もできない俺が、悪いから・・・お母さん事、責めないで」
「そんなことありません。気が付いてください。貴方が受け続けているのは、立派な虐待です。貴方に悪い所はどこにもありません!」
「ねえ、鈴姉ちゃん。俺はどうしたらいいのかな。俺が、お化けとか、神様とか・・・変なものさえ見えなければ、お母さんは俺を愛してくれたのかな」
「変なもの・・・まさか、夏彦さん・・・貴方も・・・」
彼が言う変なもの。それはきっとこの世のものではないのだろう
それは彼が神語りができるという事実を暗に語っていた
もし、彼の力が衰えていなければ・・・今も
「いつもお母さんは、俺に「消えろ」っていうからさ・・・死んだ方が、お母さんは・・・幸せになれるのかな。俺、わかんないや」
そう、笑顔で告げてから彼の姿はどこにもいなくなる
周囲を見渡しても、先ほどと同じ法則で成長した彼が出てくるなんてことはなかった
その代わり、欠けた結晶体が道に落ちていた
まるで、これを拾い集めた先に夏彦さんがいるかと教えてくれるように
「行こう・・・」
私は、ゆっくり足を動かす
彼を、迎えに行くために・・・彼が隠していた過去を知る旅を、始めよう
例えそれが、どんなに辛いものになろうとも
私は、きっと、全部知らなければならないだろうから
私と出会う前の彼が、いかに生きてきたのかを




