9日目①:朝はうさぎと食パンで
昨日の夜、私がお風呂に入っている間に彼はリビングに戻ってきたようだった
置いておいてと言われたけれど、流石に申し訳なくて洗い物を先にしておいた
お化けは怖いけど、それ以上に・・・このままが続くのが怖かった
一人、和室の布団の中で縮こまって、明日の朝・・・彼と話そうと決めながら眠りについた
しかし、物事は上手くいかない
朝五時。いつも通りに起きて朝食の準備をしようとリビングに向かうと、そこには既に彼がいた形跡が残されていた
台所に、綺麗な筆跡で残されたメモ
『今日は早く出ます。帰りは遅くなると思うので、夕飯もいりません。ごめんなさい』
「・・・・」
謝罪が書かれた書置きを握り締めながら、無言で立ち尽くした
今日はいつもより・・・心が重い
・・・・・
朝六時
一人でデスクに向かって溜まりこんだ仕事を片付けていると、普段の一番乗りが顔を見せた
「あれ、夏彦。久々だね。おはよう」
「おはよう、東里」
「君がこんな時間からここにいるなんて珍しい。時間外出勤はしてくれるの?」
「・・・仕事が溜まっていたからな。早く終わらせて、早く帰ろうかと思って」
「嘘ついてるね。相変わらずわかりやすい」
東里は面白そうに俺の顔を見ながら笑う
「そうだろうか」
「うん。さりげなくついた嘘の時、夏彦は言葉に詰まる癖があるからね。何年君だけを見てきたと思っているの?」
「・・・お前に隠し事はできないってことか」
「そう思ってもらっていいよ。それで、君がそこまで落ち込むのは一馬先輩から叱られた時以来じゃない?何があったの?話なら聞くよ?」
「実は・・・」
さりげなく覚の席に腰かけた東里は、朝食の食パンを悠長に食べながら俺の話を聞いてくれた
一応、彼の前では「祖父の養子」としている彼女との間にあった昨日の出来事を話してくと、彼の表情が若干曇った
しかし、食事を勧める手だけは止めず、ジャムやクリームを塗りながら俺の悩みに対して向き合ってくれる
「・・・なるほどね。おおよそは理解したよ」
「東里は確か、俺の過去を・・・」
「知っているよ。けど、夏彦が思い出さないなら僕から話すことはない」
「話せないことなのか?」
「君の過去だから、君自身が思い出すべきだよ。きっと、辛いことが待っているだろうけどね」
そんな過去があると言われて、思い出したい・・・とは言えるわけがなく黙って頷くことしかできなかった
「養子さんとのことだけど、今回は事情が事情だから・・・昔の事を思い出せないことを伝えるべきだと思う。今は落ち着いているけれど、今回は下手を打てば、養子さんに殴りかかっててもおかしくなかったんだよ、夏彦」
「・・・」
東里から諭され、昔の事を思い出す
俺が、荒れていた高校時代の時
かつての俺は殴られることが分かった時に、反射的に殴り返していた
今回、もし・・・うっかり同じ癖を出して彼女の手に対して反射的に動いて、殴っていたらと思うとぞっとする
「・・・君と養子さんはきちんと話すところから始めよう」
「わかった。ありがと、東里」
「どういたしまして、夏彦」
「それと」
「それと?」
「さりげなく俺の腕を掴まないでくれるか?」
「バレないと思ったのに・・・」
「普通にバレるだろ、それっ!」
腕を抱きながらパンを食べる東里を振り払う
色々と相談に乗ってもらった手前、申し訳ない気はするのだがこれはこれ、それはそれだ
「やんっ・・・」
「変な声を出すな!?はっ!?」
変な声を出すということは、この東里は先ほどの東里ではない
よりによってこのタイミングで・・・!?
先ほどの親身になってくれた東里はどこにもいない
今俺の目の前にいるのは、発情しきった兎だけだ
「夏彦ぉ!」
「ぐべば!?」
俺より一回りほど小さいとは言え、そこそこの成人男性の身体が飛び上がり、俺の膝に勢いよく座り込む
その反動は、言葉で表せないほどとんでもない痛みが走った
「と、東里ぃ!?」
「んー・・・夏彦はまだ朝ご飯がまだと見たよぉ・・・ほら、僕の食パン上げるからお口、あ・け・て?」
「い、いやだっ・・・しかし美味そうだな」
確かに東里の指摘通り、彼女と出くわさないためには朝ごはんを抜く必要があったので朝ごはんを食べていない
東里が差し出すたっぷりジャムが塗られた食パンは、今の俺にとっては御馳走みたいな光を放っていた
「はい、あーん?」
「あ、あー・・・ん」
もちろん、食欲には逆らえない
いつもは拒絶する発情モードのおねだりも、今日は受け入れてしまった
甘いジャムが口いっぱいに広がる
焼けばもっと美味しいだろうなとか、悠長なことを考えている場合ではない
それよりも、受け入れてしまったことでさらに拍車がかかってしまった東里をどうするかを考えなければならない
「夏彦が僕のおねだりを受け入れてくれている!なんて素敵な日なんだろう!」
「と、東里・・・首を掴むな。締まる・・・!?」
「夏彦、まだ食パンあるよ。ほら、生クリームに、ピーナッツクリーム、それにいちごだけじゃなくて、ブルーベリーとマーマレードもあるよ。それとも君はチョコクッキークリームがいいのかな?意外と子供舌だからね。でも今の君はバターを塗ってトーストしたものがいいかな?大丈夫だよ。うちの会社はトースターもあるから君好みの焼き加減でできちゃうからね?」
なぜ思考がバレているんだ・・・恐るべし卯月東里
「でもお仕事するんだよね。でも大丈夫。僕が君の注文通りのトーストを運んであげるし、服についたパンの欠片も舐めとるよ。今日も外回りあるんだよね。ごめんね夏彦。人員不足の問題を解決するために本来は事務の君を営業に回して・・・でも、馬場さんのところの取引が一段落終えたら君は事務に戻るようにしているからね」
「舐めとらんでいい・・・って、その話本当か?」
気持ち悪い話の中に、朗報が少しだけ混ざっていた気がして問い直す
そこに反応するだろうと睨んでいた東里の発情モードはそれと同時に終わり、彼は先ほどと同じように友人として俺の膝から降りて、目の前に立った
「うん。もとより、創業から馬場商事との取引が一つの目標として創業メンバーで固めたでしょう?それは夏彦しか果たせない仕事だったんだ」
「まあ、そうだろうな」
「その仕事が落ち着いたら君も通常業務に戻してあげるに決まっているでしょう?代理もそろそろ疲れてきたし、来年には事務に戻る準備を進めておいてね、事務課長殿?」
元より、俺は創業時代からこの会社の事務を担当していた
東里は、馬場商事の馬場社長・・・この前、丑光さんがこっ酷くやられ、挙句の果てには俺以外は認めないと言い張った人と取引を行うために、俺を営業に回したのが、一年前の話だ
元より、人員が少なかった時代は事務も営業もこなしていたためできるといえばできるのだが、やはり本業に戻れるのは嬉しい
「室長はなんて?」
「やっとか。早く戻ってこいってさ。どこか安心していたよ。亥狩さん」
「じゃあ、頑張らないとだな」
「馬場社長との窓口はよっぽどのことがない限り今後も君に受け持ってもらうつもりだから、そこはよろしくね」
「ああ。あの人は、俺以外は嫌なんだろう?ご指名通り、俺が担当するよ」
「よろしく頼むね、夏彦。そろそろお邪魔するのも悪いし、またお昼にでも。今日は食堂でしょう?」
「ああ。またお昼に。色々とありがとうな、東里」
「どういたしまして、夏彦。お礼は働きで返してね?」
東里は食パンの袋を持って、席を離れていく
俺はそれを見送って、再び机の上の仕事を一つずつ・・・丁寧に、処理していった
・・・・・
夏彦の様子を見ながら、僕はデスクの上に置いていたコーヒーを口に含む
そして、彼が祖父の葬儀から帰ってきてすぐに告げた「養子」の件を考えた
夏彦は養子だというが、調べた結果、彼の祖父である巽龍之介に養子縁組をした形跡はなかった
弁当や、夏彦自身の反応から「女の子」がいるのは間違いないのだろう
しかし、それは巽龍之介の養子ではない
一体、何者なのか足取りがつかめていない。僕の情報網でさえも引っかからない女の子
そんな少女が、まともなわけがなかった
もし、戌や子の手先であれば・・・僕もそれなりの対処をしなければならない
「夏彦、君は一体何と一緒に暮らしているんだい?」
これは、近いうちに彼の側にいる何かを調べに行くべきだろう
覚にも事情を話して、一芝居を打ってもらうか・・・と考えながら、就業時間が始まる静かな時間を、大好きな夏彦を眺めながら僕は過ごす
かつて、誘拐寸前の僕を唯一助けてくれた面倒くさがり屋の青年
今度は、僕が貴方を助けますからね
その思いが彼に届くことはないけれど、それでも思うのは自由だ
「・・・本当に、君も僕も貧乏くじを引きますよね。本当に、災難ばかり」
面倒くさいものを持つ共通点がある友人に、届かないほど小さな声で呟きながら、僕はこの会社に自分を助けてくれる仲間が集うのを静かに待った




