【閑話】須賀原さんと武田さん 前編
前半、会社の後輩武田さん視点。後半、寺の次男坊サラリーマン須賀原さん視点です。
「おはよう、いってらっしゃい」
「あ、はい、おはようございます。いってきます」
自宅から出てすぐの角の家の小さな庭から、にこやかにおばあさんが挨拶してくれる。
おばあさんが生きている人間ではないことに気付いたのは、先日のことだ。
折からの台風接近で、注意報が出ている中の出勤で憂欝に思いながら家を出たときに、おばあさんが雨の中いつものように声を掛けてくれたのだ。
「おばあさん、濡れますよ」
思わずそう声を掛けたが、おばあさんはにこにこ私を見送るばかりだった。
歩き出した足元のアスファルトに大粒の雨が音を立てて、私は思わず振り向いた。そして大きな雨粒が、おばあさんの身体をすり抜けているのを目の当たりにしたのだ。
多少見分けることが出来るようになってきたと自負していただけに、驚いてしまった。
「須賀原先輩」
「ん?武田?何?」
私は昼休みに会社に戻っていた須賀原さんを捕まえた。
「お食事、外ですか?ご一緒していいですか?」
「別に構わないけど、今日の俺の気分は男飯だぞ」
「私もそう言うの平気です。男性が一緒なら」
「ああ、そう。じゃあ行くか」
例の人形騒動以来、私と須賀原さんとの距離はずいぶん近くなったと思う。すでに一緒の食事も何回目かだし、二人だけでお酒を飲みに行ったことも一度だけある。
「付き合ってもらってるから、奢りましょうか?」
「後輩にそんなことさせられないって」
須賀原さんと私が入ったのは会社の近くのカツ丼がメインのチェーン店だった。須賀原さんが笑いながら私の分のカツ丼の代金も券売機に入れてくれた。
「ごちそうになります。遠慮なく」
「いいから、いいから」
幸い二人掛けの小さなテーブル席がまだ空いていた。須賀原さんと私は椅子に腰掛けて、注文の品が出来るのを待った。このテーブルはこじんまりと作ってあるので、テーブルを挟んでも須賀原さんと近いのがいい。
「で、話って?」
「え?バレてましたか?」
「そりゃ若い女性からの誘いだからな」
「まだ須賀原先輩も若いじゃないですか」
「そうか?そう言ってもらえて嬉しいよ」
実際そんなに年が離れているわけじゃない。須賀原さんはもうすぐ三十路だが、見かけだってそんなに悪くない。と思う。
「須賀原先輩って「見える」じゃないですか」
「武田だって「見える」だろ」
「ええ、その、見分けってつきますか?」
「見分け?本物の人間との?」
「はい。実は近所のおばあさんが実は霊だと気づいてびっくりしちゃって」
須賀原さんが優しい顔で微笑んだ。
「ああ、分かるよ。普段通りの生活をしているような霊だろう?見分けるの難しいよね」
「ですよね。やっぱり難しいのかあ」
「違和感を覚えれば、じっと見ると分かるけどね。普段通りの生活している場合って、分かりにくいのがたまにいるね」
やっぱりそうだったのか。須賀原さんに見分けがつかないのならば、私にはまだまだ見分けがつかなくても当然だろう。
「それを聞いて安心しました」
「武田、社長はああ言ってるけど、無理に、その、こっちの世界に来なくてもいいんだぞ」
「もうその話はしたじゃないですか」
先日、社長も交えての飲み会で、この話については随分と話したのだ。
あんな社長だから私に須賀原さんのサポート役をやってほしいと言っていて、それについては特別報酬を出すとまで約束したのだ。須賀原さんはあまり気が進まない様子だったけれど、私は快諾したのだ。
快諾できた理由は、分かってる。
私は須賀原さんのことが気になっているのだ。
まどろっこしい言い方だ。
要するに好きなのだ。
「そりゃまあそうだけどさあ。蒸し返しちゃうけど、リスクあるんだからね」
「人形の一件を経てるんですから」
「ま、それもそうだな。でも社長が言ったように修行した方がいいんだぞ」
「それもお願いします」
「本気かあ。じゃあ予定通り明日からだな」
「ええ、そのつもりです」
ここで二人のカツ丼が運ばれてきた。食べながら雑談をする。入院していた同期の高野内君が無事に退院できたことが一番いい話題だった。
「ごちそうさまでした。今度は私に奢らせてくださいね」
「いやいや、だから後輩には」
断ろうとする須賀原さんの肘を引く。少し驚いた顔の須賀原さんに顔を近づける。
「奢られてばかりだと、誘いにくくなるんです」
思い切って言ってよかった。
頬を少し赤らめて頷く須賀原さんを見られたから。
「普段通りの行動をしているような霊って、自分が亡くなったことに気付いていない場合が多いんですよね?」
「うん、でも例外もいるよ」
「自分が亡くなったと分かっていても、霊でいられるものなんですか?」
「まあ、仕組みは分からないけどね。心残りがある場合なんかそういうことがあるみたいだね」
「経験ありますか?」
須賀原さんが少し遠い目をする。何かを思い出している目だ。
「あるよ」
「聞かせては、もらえません?」
ふっと須賀原さんが笑って私を見た。
「今日の午後は出先で打ち合わせてそのまま直帰になってるから、その後合流するかい?」
「します。お願いします」
食いつくように即答してしまった。
須賀原さんが独身で恋人がいないことは分かっている。
ただしそういう色恋沙汰についての質問は出来ていない。須賀原さんが、恋人が欲しいけどいないのか、それとも今は恋人を作る気が無いのか。
先日の人形の一件で行動を共にした桐野ひかりという女性は、ずいぶん須賀原さんとの距離が近かった。恋人ですかと聞いたら爆笑されたから、そういう存在ではないのだろうけど。やっぱりきれいな女性の知り合いがいるとなると、心穏やかじゃないのだ。
「じゃあ終わったら連絡入れるよ」
「はい、待ってます。その、あまりいい格好で来てないので。すいません」
「ああ、いいって。俺、そう言うのあまり気にしないの分かってるだろ?」
「ええ、まあ」
少しでも好きな人の前でましな格好がしたいという女心など、まるで分かっていない屈託のない顔だ。
こういう顔がまた素敵なのだ。
私のことを、どう思っているのだろう。
あっち方面の話よりも、それが一番聞きたい話だ。
◇
武田が例の一件以来、ぐいぐい来る。若い女性と仲良くなることは嬉しいことであるが、少々戸惑っているのは確かだ。
「見える」武田がこっちの世界のことを見聞したことで、俄然興味が湧いているのだろう。
しかし武田に見つめられると、ついつい男性として興味があるのではないかと勘違いしてしまいそうになる。会社の先輩後輩でもあるのだ。うかつなことを発言したら、セクハラパワハラと訴えられかねない。
対応には気を付けなければ。
「須賀原先輩っ。お待たせしました」
武田が手を振って小走りに近づいて来る。確かに少々ラフな普段着と言えるような服である。しかしそれはそれで年相応、いや、さらに若く見える感じで似合っている。
「いや、そんなに待ってないよ」
「こんな格好ですいません」
「いや、似合ってる」
可愛いよと付け足しかけて何とか止めた。危ない、危ない。セクハラになってしまう。
「この服で似合ってるって言われてもなあ」
「いやあ、可愛いから」
あー、言ってしまった。しかし武田がご機嫌な顔をしているので、どうもセクハラで訴えられる可能性はなさそうだ。
「お酒、飲みますか?ご飯メインですか?」
「明日、修行に来るならご飯メインかな」
「行きます。じゃあ、ご飯のお店で乾杯程度に」
「分かった。となると、和食と洋食でどっちがいいかな?」
「えっと、落ち着いて話せるお店がいいですね」
「じゃあ個室がある和食の店にするか?高級居酒屋って感じだけど」
「ご飯が美味しいならそこで」
「保証付きだ」
すでに社長に何度も連れて行ってもらった店だ。社長があっちの話を聞くために個室のあるその店を見つけて来たのだ。
社長というスポンサーがいないので、少々懐には厳しい店になるが、せっかくだし奮発しましょう。
「だし巻き卵、美味しいですねえ」
「だろ?毎回食べてるよ、これ」
武田も諸々気に入ってくれてよかった。結局乾杯だけで終わらずに、日本酒を飲んでしまっていた。店員におすすめを聞いて出された日本酒はまるで白ワインのような、雑味のない、とても飲みやすいものだった。
武田は日本酒を美味しく思えたのは初めてだと言って、大そう喜んでいる。俺が注文してしまったとは言え、明日修行するならあまり飲まないで欲しいところだ。
修業はフラットな精神と肉体で行うことが肝要だ。二日酔いで修行しても、フラットな時の感覚とずれてしまって、せっかくの修行が無駄になりかねないから。
「武田、このお酒飲みやすいけど、明日に残るかもしれないからな。あまりぐいぐい行くなよ」
「でも瓶で頼んじゃってますよね」
「いいんだよ、それは気にしなくて」
武田の頬がほんのりと赤くなってる。
「心残りのある、の話。聞かせてくれますか?」
「ああ、そうだったな」
本来の目的を忘れるところだった。
俺はあの日のことを思い出しながら、日本酒を一口飲んで語り始めた。
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