産婦人科の待合室から愛をこめて
残酷な表現があります。各自、自己責任でお読みください。
怖いのを書くぞと意気込んだらそこそこの文量になってしまいました。
怖くなったのかなあ?
「外れでした。ごめんなさい」
「そうか」
俺としてはほっとしたと言うよりもがっかりした気持ちが強かった。
それはつゆりも同じだったようで、だからこその「ごめんなさい」なのだ。
月経が遅れた理由はいわゆる想像妊娠で、検査薬に反応しなかったのも当然だった。つゆりは月経が結構きちんと来るタイプだったこともあってもしかしたらと思ったようだ。
「なんかね、想像妊娠って、妊娠したいなあって思ってると起きやすいんだって」
「そうなのか」
つまりそれはつゆり自身が本当は俺の子を妊娠したいと思っているという告白であった。俺はつゆりの手を握った。
つゆりの視線は産婦人科の待合室に座る妊婦さんへと向けられている。
普段危険日には避妊をしているが、どのみち結婚しようと思っているので、妊娠したら籍を入れてしまうつもりだ。訳あって、お金の心配はとりあえず無いし。
つゆりは保育士を目指しているが、妊娠したらどうするつもりだったのだろうか。そういう話もしておくべきだろうか。
なんとなくそんなことを考えていたら、つゆりが手をぎゅうっと握って来た。
いつの間にかつゆりの視線が待合室の空席へと移っていた。
「どした?「見える」?」
「うん」
珍しくつゆりが怯えた顔をしている。
「やばいやつ?」
「うん、たぶん、でもなんか、分かんない」
ここで直接やらかすタイプじゃないみたいだ。となるとどこかへ移動するタイプだろう。
「どうする?心配ならついて行く?」
「う、うん。うーん、うん」
いつになくつゆりの意思決定の歯切れが悪い。
おかしなものが「見えた」時には結構ずんずんと行くタイプなのだ。特に俺が一緒のときはその傾向が強くなったと自分でも笑っていたのに。
「石、持ってるんだよね?」
「うん、病院だから」
過去にいろいろあったことで、つゆりは病院に行くときには石を持ってくるのがデフォルトだ。
石はつゆりが祖母から譲り受けたもので、祝詞を唱えることで様々な効果をもたらす。俺自身も何度か石の力を受けているので、その力は疑いようもない。
支払いを済ませて外で待つこと数分。
「あ、出てきた」
「やっぱりか」
一か所にとどまるものもいれば、あちこち動くのもいる。そして同じ行動を繰り返すものも多い。
大学では月曜の1限に必ず大講堂の最前列に座って講義を聞いて行くものがいる。
よく行くコンビニには、水曜日発売の週刊漫画誌を立ち読みするものがいる。
どれもつゆりが「見える」と言っているだけで俺には見えやしないが。
「歩きだといいけど」
そう言ったのは、稀に乗り物に乗り込むものがいるからだ。
タクシーを止めるものもいて、運転手が「見える」タイプだと、うっかり止めてしまうらしい。
「あ、バス停」
「乗るのか」
今回のはバス停に並んだようだ。俺とつゆりも並ぶ。家とは別方向だが、まあ、乗り掛かった舟だ。
「やっぱり優先席に?」
「うん、妊婦さんだしね」
妊婦なのか、やっぱり。
後方の座席に座って俺はつゆりにどう見えるのか聞くことにした。
つゆりによれば20代くらいの女性。黒髪ロング。服装は特徴のないワンピースでお腹をしめつけないタイプ。当然お腹は膨らんでいる。
何より気になるのはその暗い表情だそうだ。思い詰めている感じが半端ないんだと。
妊娠しているかも、と思ったつゆりだから、なおのことその思い詰めた表情が気になったのだろう。
「あ、降りちゃった」
「え?」
なんと妊婦は誰もブザーを押さなかったので通過したバス停で降りてしまった。動いているバスなのに、席を立って降りたというから、もし見えていたら結構シュールな光景だったんじゃなかろうか。
俺たちは次のバス停で降りて道を戻った。周囲は住宅街で、少しの店舗はあるが、道路の両脇はそのほとんどが住宅だった。どこかの路地に入られたら、見つけるのが難しそうだ。
結局歩いてバス停まで来てしまった。
「いない?」
「うん、いない」
「見当とかつくの?」
「全然」
俺はふと思いついた。
「なあ、つゆり。少し変わったのは「見える」?」
「変わったの?」
「うん、可能性は低いけど、もしかしたら」
「うーん」
きょろきょろとつゆりが周囲を見回す。
「いない」
「何もいない?」
「うん、いない」
そうかあ。何も見えないんじゃ手掛かりにしようがないな。
「少し住宅街を歩いてみる?」
「うーん、もういいかな」
気になって付いてきてはみたが、見失ったからと言ってさらに探そうとまでは思っていなかったようだ。
「じゃ、戻りますか」
「ん」
歩き出そうとして俺は動けなかった。
「ん?どした上梨?」
「あれ」
俺に見えると言うことは人間だ。
「子供?」
俺の視線の先にいた男の子を見て、つゆりが呟いた。
その子は不釣り合いな大人のズボンをまくってはいていた。薄汚れているのは上に着ている白シャツも同様だ。白い部分を探す方が難しいほど汚れている。
見える手足はいかにも栄養不足。そしてギラギラとした目でゴミ袋を見つめているのだ。
しかし欲しいものが無いと判断したのか、ふいっと顔を上げた。視線が一瞬合うと、少年はダッシュして逃げた。
「どうなの、あれ」
「関係あるとは限らないけど、なんか心配ではあるね」
「うん、ネグレクトっぽいなあ」
俺たちは少年が曲がって消えた路地へ入って行った。
すでに少年の姿は無い。代わりに別のがいた。
「あ、待って、上梨。いた」
「妊婦の方?」
「うん、立ってる」
「ただ、立ってる」
「うん、ただ、立ってる」
つゆりの視線の先はちょうと曲がり角。しかし特に何があるわけでもない。
「なんだか、ためらってるみたい」
「ふむ。家に帰りたくないのかな?」
「なるほど、そうとも見える」
住宅街の道路で立ち尽くすなんてのは、家に帰りたくないからだろう。つゆりはそういう経験ないのか。
しかし行方を見失ってから結構な時間が経っている。途中に省略が無いのなら、結構な時間立ち尽くしていたってことだ。
「あ、決断したみたい。歩き出した」
「ついて行こう」
俺はつゆりと手を繋いで歩き出した。
そして曲がり角を曲がってつゆりが固まった。
「う、うわあ」
ぎゅうっと握られた手が痛いくらいだ。
視線の先には荒れた住居が一軒。周囲と同じようなつくりなので、同時に分譲されたのであろうが、明らかに周囲とは違う雰囲気を醸し出している。
手入れのされていない庭は、名も知らぬ草が茂り放題だ。雨戸が閉まりっぱなしのところもあり、窓ガラスも見えるところは水垢がむごく中の様子はここからではうかがい知れない。
玄関がきしんだ音を立てて開き、そこから中年男性が顔を出した。白いランニングシャツに無精ひげ、手入れのされていないボサボサの髪。土のような顔色が不健康さを物語っている。
彼は目の前の見えない誰かに話しかけ、そして頭を撫でる仕草をして、その見えない誰かを家へと入れた。
「旦那かな?」
「たぶん」
つゆりの表情は相変わらず優れない。ここは思い切って、中の様子をうかがいに行くべきだろうか。つゆりに石の力を使ってもらって入るべきだろうか。
「ご親戚の方?」
突然後ろから話しかけられた。振り返ると買い物のエコバッグを抱えたおばちゃんが立っていた。じろじろと俺たち二人を値踏みするように見てくる。
「あ、いえ、違います」
「あら、そうなの。ひょっとしてあれ?児童相談所?」
「それも違います」
「あら、失礼。でも何度来てもダメなんですもんねえ」
いかにもご近所の噂好き筆頭のような風情のおばちゃんに、俺は食いつくことにした。
「いわくつきのご家庭なんですか?」
「いわくなんてもんじゃないわよ」
おばちゃんが声を潜めて周囲を見る。あくまでポーズで話す気は満々なのが分かる。
「奥さんが行方不明になってさあ、息子さんがあんな感じじゃない。ご近所から通報が児童相談所にいったんだけどねえ。まあ旦那が隠してるんだろうけど、会えてないのよお」
大盛り過ぎる。
「奥さん行方不明なんですか?」
「旦那が殺したんじゃないかって噂なのよ」
なるほど。
「奥さんて妊婦さんじゃありませんでしたっけ?」
「あら、なんで知ってるの?ご近所さん?」
「いえ、その産婦人科でお見かけしたことがあって」
我ながら苦しい言い訳だが、おばちゃんは意に介さず続けてくれた。
「そうなの、妊婦だったのよ。夜に悲鳴を聞いたなんて話もあってね。旦那は実家に勝手に帰ったなんて言い訳してるみたいだけどね」
「物的証拠もないので、家宅捜索までは出来ていないってことですか?」
「そうらしいわね。何、あなた記者?」
「違いますよ。えーっと子供って言うのは?」
おばちゃんの内緒話モードがさらに強化された。仕方なく耳をずいぶんと近づけたら、なぜか甘い匂いがした。
「けんなんとかって名前なんだけどさ。みんなはケンとかケン坊とか呼んでるわね。学校に行かせてもらってない上に、食べ物もろくに食べさせてもらってないみたいでさあ。やせている上に服もあんなでしょう?」
どうやら俺たちが見た少年で間違いないようだ。
「不憫に思って、菓子パンをあげた奥さんがいたんだけどね。その日の晩に顔を腫らしてその子が家に、食べかけのパンを返しに来たんだって。しかも「迷惑だからこういうことするな」って言ったんですって。絶対言わされてるのよ、旦那に」
なかなかにすごいDV親父のようだな。
「児童相談所もさあ、警察を連れていけばいいのにねえ。逮捕よ、逮捕」
「はあ、なるほど」
「で、結局あんたたちは何?」
ターゲットが俺たちに移ったところで、話を切り上げた。怪しむ視線を背中に感じつつ、いったんそこから離れた。公園を見つけてベンチに座る。自動販売機は売り切れランプが結構点っていたので、仕方なくあまり普段飲まないジュースを買うことになった。
それでもつゆりは一口二口と飲むうちに少し落ち着いたようだ。
「大丈夫?」
「うん、平気。ちょっと驚いて」
「えーっと、旦那が妊婦さんを家に入れていたように見えたけど」
「あ、うん、それはそうだね」
この返しと言うことは、もっと別の何かを感じたと言うことか。
「もっとやばい何か?」
「うん、家が」
「家が?」
「家が全部、禍々しい空気をまとってる」
家全部とはレアだ。つゆりと結構な付き合いになるが、初めてのケースだ。
一度バス一台まるごとやばいなんてことや一部屋全部なんてことはあったけれど、家となるとまた規模がでかい。しかもつゆりが「禍々しい」なんて言葉をチョイスするのも異例のことだ。
「気にはなるけど、おばあちゃんに頼った方がいいんじゃないか?」
「うー、今、法事で田舎に行っちゃってる」
「そうなのか」
そうなると、頼れる人は近くにはいないわけか。
「家の色、隣と同じに見えた?」
「ああ、分譲だろ。くすんだクリーム色だったよ、隣の家と同じ。庭はひどいもんだったけど」
「私には茶色に見えた。いえ、黒に近いかも。明らかに周りの家と比べて明るさが足りない」
「そんなに違って見えるのか?」
「うん、何かが染み出している感じもした。こう、水の中に墨汁を垂らして、それがじわーっと広がっていく感じ」
「周囲にも影響があるってことか?」
「分からない。でも「見える」人にとっては、相当やばいと感じると思う」
「呪いの一種かな?」
めったにないという呪いの類いかもしれない。
「間違いない、と思う。しかもすごい強力な」
つゆりのあの表情の理由が分かった。ここまで言うことは今までに片手で足りるくらいしかないことだ。
「映画で呪われた家みたいなのがあるけど、あんな感じか?」
「見てないから分からない。でも呪われた家って言い方はしっくり来る」
となると俺達で手に負える相手じゃないんじゃないか?
「おばあちゃんに電話はつながるだろ。アドバイスもらおうよ」
「そうだね。そうする」
立ち上がったつゆりがよろめいた。これも異例。体幹の強いつゆりがここまでダメージを受けるとは。しかも離れたところで見ていただけなのに。
これは想像以上の厄介ごとになったと俺は思った。
◇
「というわけなんだ、おばあちゃん」
何度かキスの補給をして、つゆりはやっと元気を取り戻した。
スマホで事情をおばあちゃんに説明し終えたところで、つゆりはスマホをスピーカーに切り替えてテーブルに置いた。
『そりゃ、つゆり。間違いなく「禍家」だよ』
「まがいえ?」
『禍々しい家と書いて、禍家。あたしも数回しかお目に掛かったことはないけどね。普通は誰かに強力な呪いを掛けられた家がそうなる』
「誰かがあの家を呪ってるってこと?」
『普通はな。しかし今回は違うだろうね』
「どうして?どうして違うって思うの?」
『その妊婦だよ。呪われた家に住む者は、普通その家に縛られる。外をうろうろすることは無い』
「あ、そうか」
『となるとその家の住人がその家をそんな状態にしているってことさ。そして「禍家」になっているのさ』
「やっぱり旦那さんが原因かな?妊婦さん、田舎に帰ったんじゃなくて殺されちゃった?」
『そこが不可解だね。殺人事件のあった家がみんな「禍家」になるわけじゃない』
思わず口を挟んでしまった。
「おばあさん、上梨です」
『おお、あんたかい。うちのつゆりはわがまま言ってないかい?』
「はい、大丈夫です」
つゆりがほっぺたを膨らませて、無言でおばあちゃんに抗議している。
「その、おばあさんが以前見たという「禍家」って言うのは、どんな理由でそうなっていたんですか?」
『そうだね。一つの例では、嫁が子供を産むと、必ず旦那を食べちゃうっていう慣習に縛られた田舎の名家ってのがあったねえ』
「食べちゃう?」
『そう、言葉通りだよ。突然旦那が蒸発しちまうんだが、地元の警察もあの家ではよくあることだみたいな、土着の慣習となっていた家があったね』
「それは、確かに家が呪いになりそうな話です」
『旦那を食った後は、村の男衆が夜這いに行くんだよ』
「その、おばあさん、「禍家」の例としては分かりやすいですが、今回のケースは当てはまらないかと。土着の風習も関係ないですし」
うんうんとつゆりも頷いている。
『そうだねえ。正月に親戚一同が集まる家の次女が、ふざけてみんなのご飯にそうとは知らずに毒物を入れちまってね。その次女も含めてみんな死んじまった家があったね』
「それも「禍家」に?」
『ああ、毎日毎日その親戚一同が家に集まるところから死ぬとこまでを繰り返しておった。その瘴気みたいなもんに誘われて、のこのこと家に入ったものは、同じように毒殺されていたのさ』
「もう死んでいるのに毒殺できるんですか?」
『できる。死んだ男性の体内から毒物が検出されてね』
「家に集まるって部分は、妊婦さんが家に帰るって部分と重なるよね」
「そうだな、そこは同じに思えるな」
『つゆり、悪いことは言わない。今回は止めときな』
思わぬおばあさんの言葉に、つゆりが固まった。
「な、なんで?」
『さっきも話したろ。「禍家」は人を誘う』
「うん、だからこそ対処しないとダメじゃない?」
『分かっておらんな』
「何を?」
『もう「禍家」に誘われていたんだぞ、お前達』
ガツンと殴られた気分だった。そうか。産婦人科で彼女をつゆりが見かけてから、追跡しているようで、実は誘われていたのか。
『そこまでついて行きながらよくぞ中に入らなかったものだよ』
あのおばちゃんだ。噂話のおばちゃんが話しかけて来なかったら、あのまま入っていった可能性が高いと思う。
「だとしたらなおのこと、祓う必要があるんじゃないですか?」
『上梨君、あんたの力は認めているよ。確かにすごい。しかし相手が「禍家」となれば話は違う。うろうろする「蚊」を追い払うのとは違うんだ』
おばあさんも「蚊」という表現を使うんだな。覚醒遺伝的にこの言葉が受け継がれてることが面白かった。そんなことを思っている場合じゃないけど。
「でもこんな時のために、お孫さんに石を譲り渡したんでしょう?」
『ぬ』
「そうだよ、おばあちゃん。石を使えばさ」
『分かった、分かった。好きにするがいい。確かにこんな時のために石は渡した。だがな。「禍家」は手強いぞ。無理だと思ったら逃げるがいい。特に上梨君』
「はい」
次の言葉まで少し間があった。
『つゆりを置いてでも逃げろ』
◇
翌日は結構な雨だった。その翌日も小雨がぱらついていた。傘を差すほどでもない小雨。しかし長い時間そのままだと少し濡れた感じになってしまう。そんな天候だった。
「ね、本当に逃げてもいいからね」
「逃げないよ、つゆりを置いて」
「えへへ。嬉しいけどさ。おばあちゃんが、ああ言ったってことには、たぶん意味があるんだ」
「意味があっても置いて逃げない」
町中だが、つゆりが手を握ってきた。俺も軽く握り返す。
「じゃあ、上梨。いい?」
「おう、どんと来い」
つゆりが握っていた石が光り始める。
「開眼」
つゆりの託された石は、一度使うとしばらく使えなくなる。先日使わないでいてよかった。まあ、つゆりも滅多なことでは石は使わないが。
普通に見えていた家が、その瞬間禍々しい気をまき散らす「禍家」と変貌を遂げた。壁は黒くくすみ、周囲がぼやけるように滲んでいる。これは確かにやばい。
「これは、確かに「禍家」だな」
「でしょ。いきなりこれ見たら驚くよね」
お腹に少し力を込めていないと知らずに後ずさりしてしまいそうな迫力だ。
「来た」
やはり時間も定刻で行動するタイプだった。先日と同じバスに乗って来たに違いない。
思い切って家に近づいて様子を伺う。
妊婦は玄関の前に立っている。玄関の戸が開いて旦那が顔を出す。
「おお、遅かったな、入れ」
確かに旦那は見えないはずの妊婦が見えているようで、頭を撫でて家に入れた。
「庭に」
不法侵入だけど躊躇はしない。このあたり、だいぶ侵入慣れしてるなあ、俺達。
曇ったガラスの向こうが居間のようで、人の動く気配がする。
突然怒鳴り声が聞こえて首をすくめた。旦那の声だ。
「堕ろせって言っただろうがあ」
つゆりがびくっとなる。さすがにこれは聞きたくない言葉だった。
よく見えないが、妊婦の腹を旦那が叩いているのか、何か刺しているのか。堕胎を命じるばかりか、自ら手を下すとは。下衆が。
しかし今飛び出しても意味が無い。もうこれはいつかの過去に行われてしまったことの再現だから。
ぐったりと床に倒れる妊婦。ぶつぶつ言いながら旦那は隣の部屋に行ってしまった。
「やっぱり旦那が殺したみたいだな」
「そうかあ。じゃあここで石を使うかな」
そっとガラス戸に力を入れると、鍵は掛かっていなかった。音を立てないようにそっと開ける。
さすがに靴を脱いで、体を滑り込ませようとして止まった。
床に倒れ伏していた妊婦がお腹をおさえながら起き上がったのだ。
ここで死んだのではなかったのだ。
息を潜めて見守ると、よろめきながら階段を上がっていった。
「二階みたいだ」
「行こう」
いつもの即決即行動のつゆりが戻ってきていた。いい傾向だ。石を使う覚悟があるのも大きいのだろう。
足音を忍ばせて階段を上がるが、ぎしぎしと音を立ててしまう。結構なボリュームの音だったが、旦那はこちらには来なかった。
「どの部屋かな」
「手前」
「了解」
声を潜めて一番手前の部屋のドアを開けた。中は子供部屋だったようで、学習机が置いてある。しかし教科書やノートは見当たらない。
「いないぞ」
「いませんね」
ぐるっと見回す。気配となると俺は感じないので、つゆりに頼るしかない。
広くない子供部屋に隠れる場所はない。俺はつゆりに押し入れを指さして見せた。こくりとつゆりが頷いた、
開けるよとつゆりに合図して押し入れのふすまに手を掛けた時だった。
ばちん
手が弾かれた。電気のような痺れはなく、ただ痛いだけだった。
「うそ。結界っ!?」
おお、なんかそれっぽい言葉。伝奇SFみたいだな。
弾かれたので1cmほど開いたかどうか。そしてその匂いはたった1cmの隙間からでもしっかりと鼻腔を刺激したのだった。
「血のにおいだ」
酸っぱい匂いとくさい匂いに混ざって明らかな血の匂いが漂っていた。
「開眼すると匂いも分かるのか?」
「見えるだけっておばあちゃんは言ってたけど。でも、匂いがするなんてめったにないよ」
ひそひそ声で確認する俺達。その耳に聞こえてきた異音に俺達はひそひそ話を止めた。
にちゃ
くちゃ
咀嚼する音。
湿り気のある物を食べている音。
くちゃくちゃくちゃ
旦那は階下にいるはずだ。
となれば押し入れにいるのは。
俺は結界が俺の手をばちんと弾くのを無視して強引に手を突っ込んで押し入れの取っ手を掴んだ。
「わあ、そんなにあっさり結界突破しないでよ」
「そりゃ失礼」
ふすまを一気に滑らせた。
少年がうずくまっていた。
一心不乱な少年は俺達がふすまを開けたことにも気づかない。
少年は、妊婦の腹を裂いて食っていた。
いや、違う。
妊婦の向こう。
妊婦の体を透かした向こう。
そこには別の、本物の妊婦がいて、その腹を裂いていたのだ。
「えーっと」
やっと言葉が出て、少年が真っ赤な口でくちゃくちゃと肉を噛みながらこっちを見た。
よく見れば本物の妊婦に見覚えがあった。
産婦人科でつゆりが見つめていた妊婦だ。
「おなか、すいた」
少年が屈託なくそう言って妊婦の腹に顔を埋めた。
ぬちい
くちゃくちゃくちゃ
少年がもぐもぐと口を動かしながら顔を上げる。
なるほど。
本命は親父じゃなくて少年だったか。
押し入れの奥に血でガビガビになった教科書が転がっている。
その血痕はすでに黒く、時間の経過を感じさせた。
「こいつ、いくら言ってもやめないんだ」
おー、驚いた。慌てて振り返ると親父が立っていた。
俺たちに怒るでもなく、押入れを気だるそうに指さす。
「妊婦が来るたびに食っちまう」
つゆりがぐいぐいと無言で俺の袖を引っ張る。
「だから堕ろせって言ったんだ。それなのに、あいつ、産みたいとか言いやがって」
徐々に親父がイライラしてくる。つゆりが泣きそうな顔をしながら俺を見つめている。
「子供なんて出来たって、どうやって食わすんだって、言ったんだ。そんな金はねえってな。だから堕ろせって言ったんだ。俺は、言ったんだ。言ったんだっ。言ったんだからなっ」
だんだんと床を踏む親父。怒りにぶるぶると震えている。
「はは、だからよお。俺が腹を叩いて堕ろしてやったんだ。はは、それしかねえだろ。そしたらさ、あいつ、自分を息子に食わせやがった。ははは、はひ、意味分かんねえ」
親父が突然固まった。視線の先は押入れ。
少年が親父を見つめていた。
くちゃくちゃ
ごく
「おいしかったよ」
つゆりがぐいっと手を引っ張った。
邪悪。
少年の笑顔は、邪悪そのものだった。
「今日のも、おいしかった」
笑う口が血で真っ赤だ。
「上梨っ」
弾かれるように俺の足も動いた。親子から距離を取る。
「すまん」
「お願い、気を付けて」
つゆりが泣いていた。
「祓えるか?石で」
「たぶん、私だけじゃ無理」
「流し込めばいい?」
「それで何とか」
以前ちょっとやばい奴を相手にしたときに、つゆりと石の力だけでは祓えずに、俺の力を貸したことがあった。その時に俺が彼女に後ろから抱くように手を添えて、力を流し込んだのだ。
「だれだ?」
親父が俺達を見た。
「お前ら?」
少年も押入れから出て親父の横に立つ。
「つゆり」
「お願い」
俺はつゆりの後ろに回り、ハグするように手を回した。つゆりが石を握った手を前に出す。
「あ」
つゆりが喘ぐ。これ、前にからかったらすごい怒られたから、俺、華麗にスルー。なんでも力を流し込むとどうしてもそんな声が出ちゃうんだと。
「食べていいの?」
少年が親父を見もせずに言う。
つゆりが祝詞を唱えている。手の中の石が光を放って、手そのものを光らせる。俺も流し込むことに意識を集中する。
少年がにいと笑って一歩踏み出した。
「破魔」
つゆりが手を開くと強烈な光が部屋に満ちた。すごい。過去最高だ。あまりに眩しくて目を開けていられない。目を閉じても眩しい。
どさりと人が倒れる音がして、目を開いた。いつの間にか輝いていた石もその輝きを無くしている。
「終わりかな」
俺の呟きにつゆりが反応しない。
ハグの状態から顔をひねってつゆりの顔を見たら、青ざめてた。
「まさか、こいつらが本命じゃないのか」
「そ、そんな」
つゆりの視線は押入れに向いた。
そうか、しまった。
結界が張られていたのだ。
本命は結界の中にいるに決まっているじゃないか。
自分のうっかりさに唇を噛んだ。石の中では今の「破魔」の石が祓うという力においては最強のはずだ。
「押入れの中だな」
「で、でもっ」
「俺、逃げないんだ」
「上梨っ」
倒れている二人を避けながら押入れへ歩く。
むわっとする血臭の混じった匂い。
さっきまで見えていた妊婦は消えて、死体の妊婦だけだった。
どこだ?
上か。
押入れと言えば屋根裏への入り口になっている。そう言えば児童相談所の職員も会えなかったと言っていた。屋根裏をエスケイプルームのようにしていた可能性は、ある。
「屋根裏かもしれない」
俺はスマホのライトを灯して押入れに入った。べちゃっと靴下に血が付く。
そして案の定、押入れの天井がずりっとずれた。
「あった」
「行く。私も行く」
つゆりも押入れに入ってくる。靴下汚れるぞ。
一息気合を入れて押入れに頭を突っ込む。スマホのライトで照らす。
いろいろな物が転がっていた。学用品、壊れた玩具、ボロボロの毛布。
「どう?」
「いろいろ転がってるけど、誰も見えない。何も見え」
思わず言葉が止まった。
屋根裏の奥。スマホの光がぎりぎり届くところに人形が転がっている。
歪な形の人形。
「マジか」
「上梨っ」
俺には分からないが、つゆりには何か感じられたのだろう。ぐいっと引っ張られた。俺は逆につゆりを引っ張り上げた。
狭い。
屋根裏の入り口は二人が身体を入れたらぎゅうぎゅうだ。
俺は何とか出した腕を伸ばしてスマホの光をその人形へと向けた。
つゆり。
あれって。
まさか。
つゆりの身体が強張るのが分かる。
「つゆり」
「待って」
つゆりが別の石を取り出す。
その時だった。
「み」
人形が声を出した。
ああ、やはりあれは人形ではなかったのだ。
「う、あ」
人形に見えたのは、赤ちゃんだった。
いや、赤ちゃんと呼ぶのには相当早い。
胎児だ。
未熟な手足で這ってこようとするが、その顔にある目はまだしっかりと開いてもいない。
「あ、みー」
あの状態で生きられるはずがない。つまりはそういうことだ。「開眼」を使っていなかったら、俺にはたぶん見えていない存在。
「上梨、流し込んで」
「お、おう」
つゆりはどうするつもりなのだろう。
狭いながらもなんとかハグに近い体勢をとって、流し込めるように備える。
つゆりは石を持った手を前へ伸ばした。
「おいで」
その声は涙声だった。
「みー」
よたよたと、ふらふらと、胎児がこちらへ近づいて来る。
早くしないとつゆりの手に届きそうだ。
まだか。
流し込むぞ。
「待って、上梨」
えーい。もう知らんぞ。俺も腹をくくった。
とうとう胎児がつゆりの手に達した。つゆりは手を開いて胎児をその手の中に包み込んだ。石と一緒に。
「み」
愛おしそうにつゆりの手が胎児を撫でた。
「上梨、お願い」
「おう」
つゆりが祝詞を唱え始める。俺は力を流し込んだ。
「んっ」
胎児を包んだ手が輝き始める。この光を放つ石は?
「慈愛」
優しい光に包まれて、胎児が光の粒に変わっていく。
「みー」
消えていく胎児の最後の言葉が、感謝の言葉に聞こえたと言ったら、思い込みが過ぎるだろうか。
◇
「よくやったよ」
田舎から戻ったおばあちゃんに頭をわしわしされた。わざわざお土産を持って来てくれたのだ。
「しかしこんな無茶はあまりするもんじゃない。「禍家」を払えたのは彼氏のおかげだからな」
「分かってるよ。どっちも私だけじゃ足りなかった」
おばあちゃんは顛末を聞いて、いろいろと解説してくれた。
「胎児となれば、ただの生存本能、つまり生きたいという思いだけの塊だったのだろうよ。それが少年にも影響を及ぼしたんだね」
「その、食べる、ということで、ですか?」
「うん、そうだろうね。犠牲になった妊婦達についても調べてみたがね。どうも妊娠を喜べない女達だったみたいだ」
私は上梨と顔を見合わせた。そんなはずはない。って言うか、どういうルートでそんなこと調べられるのよ。
「でも、最後の妊婦さんは、産婦人科の待合室で見かけた時に、幸せそうだったよ」
「ふむ、そいつはな、その日の検査で、胎児に先天的な異常が見つかったんだとさ。お前さんたちが見たのは、そいつがそれを知る前だろ」
そんな。気持ちが落ち込んでいくのが分かる。すっと肩を上梨が抱いてくれた。気が利きますねえ。
「それにしても上梨君。あんた、うちのつゆりと相性抜群みたいだね。まあ、つゆりがあまりそれに頼るのもいい話じゃないが、頼りにはしてる」
「はあ、どうも」
「結婚せんのか?」
「はい?」
「ちょっと、おばあちゃん止めてよ」
さすがに真剣に抗議する。
「ふん、だいたいなんでお前さん方は産婦人科にいたんだい。年寄りだからって馬鹿にすんじゃないよ」
「あう」
そうだった。
「ま、まだ大学生なんだし。避妊はしっかりすることだね。上梨君、分かったね」
「はい、すいません」
「ちゃんとしてますってば」
思わず叫んでしまった。
おばあちゃんは嵐のように去って行った。
「お、これ美味しい」
上梨は呑気にお土産のおまんじゅうを食べている。
「はあ」
思わず嘆息してしまう。このオンオフがはっきりしてるところも素敵なんだよなあ。
「食べないの、つゆり」
「んもー」
「ん?」
私はつかつかと近づいて、上梨の手からおまんじゅうを奪い取り、テーブルに置いた。
「ほかに食べるものがあるでしょうがー」
私は部屋の明かりを消して、上梨とベッドに倒れこんだ。
家物では「呪怨」という金字塔があるので、違う感じを出したくて苦労しました。
病院はちょろっとしか出てきていませんが、まあ、全話でひとまとめってことで。
つゆりが最後に積極的なのは、2回も上梨に流し込まれたせいですので。
もう病院ネタも無いので、たぶんこれで終わりです。読んでくださった方、どうもです。