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A病棟

作者: 佐藤ゆきお

酒をやめて10年以上たちました。やめるときは、その後楽しく暮らせるのかとても不安でしたが今では飲酒自体普段は忘れています。このエッセイは禁酒した当時の心の動きを、病院の勧めにより綴ったものです。

                                                           

アル中=アルコール依存症の語源は1948年、49年に著わされた医学論文の「アルコホリズム・クロニクル」という表題の翻訳にあるそうだ。

アルコホリズム、素直に訳せばアルコール主義(医学用語としてはアルコール症)である。これは「慢性アルコール中毒」と訳されたが、その後この病気の障害が身体的なもののみならず精神的あるいは社会的であることが強調され、薬物依存の一種として「アルコール依存症」となった。


しかし思うに、この病気のまことに厄介で執念深い本性からすると「アルコール主義」あるいは「アルコール主義症」の方がぴったりだと思う。

そうすればこの病気のあるいは患者の「治療」に対する強力な体系的抵抗力が暗示されるだろう。もろもろの主義と同じくアルコール主義も自らを否定するものに対しては理屈を積み上げて反論を繰り広げてくる。彼らの力説する飲酒のすばらしさ、禁酒の悲しさにも耳を傾けてあげないとこの病気の真相、彼らの気持ちに迫ることはできない。


 治療の一環として依存症患者によく出される質問に

「飲酒によってどんなに大事なものを失ったか考えて見ましょう」というのがある。

家族、友人、仕事上の信頼は?心身の健康は?金は?時間は?などなど。

しかしアルコール主義者にとって最も辛いのは酒を失うことである。彼らは今それを迫られている。何十年も共に過ごした良き友、辛いときも楽しいときもいつも一緒だった。酒こそ「一番」大事なものでそれをいま奪われようとしている、そう思うのだ。


依存症の原因は、古い昔の何かの喪失体験にあるという人がいる。それを埋めようとして際限のない飲酒に走るのだと。私の場合について考えてみると、私は二歳のときに養子に貰われて育てられたので実の父母の愛情の経験について欠けるところがある?この説はしかし全ての性的障害を幼児期の性的体験とそれを押し隠そうとする心の挌闘にあるとして、その体験をあからさまに自覚することで解決できるというフロイト理論を思い出させる。(依存症患者に過去の酒による失敗を執拗に思い出させようとするのに似ている?)

この説は、人間は誰しも過去の体験を引きずって生きている、と言うこと以上の意味があるのだろうか、よく分からないが、その喪失体験者は他にもいろいろなものを失い最後にはなによりも大事にしてきた酒を失うという二回目の喪失体験を持つことになると言っているのは、そのとおりだと思う。喪失というにふさわしいむごい経験、自己否定の経験である。


 「私たちは足をなくした人間に例えることができる。なくした足が生えてこないようにアルコホリックを普通に飲めるようにする方法はない」 (アルコホリック・アノニマス)

しかし酒なしで五体不満足のまま楽しく生きていくことができるだろうか。チンバの、もとアル中のダメ野郎…。これからずっと、うまそうに飲んでいる人を横目に、指をしゃぶっていきてゆくのか。ずっと日陰の身なのか。


断酒という言葉は好きではない。

…断言、断絶、断行など、暴力的な響きがする。酒をやめるということはもっとデリケートで複雑な事柄だ。あのよきもの『酒』をやさしく扱ってほしいと思う。

酒の悪い面ばかりが強調される。だが酒自身が旨いものでなければ誰があれほど多量に飲むものか。芳醇で適度の刺激のある大人の飲み物。大人になっても遊ぶことをするのは人間と犬だけだというが、酒を嗜むのは人間だけではないか。

…もうわかっている。二度と飲んだらどうなるか、あのひどかった最悪の日々が再開されその続きからさらにひどい世界に踏込むのだ。だから私は二度と飲まない。飲んだら結果は皆様の言われるとおりになるだろう。だが禁酒の辛さ悲しさは、とことん酒を飲んでその良さを味わい尽くそうとしたことのない人にはわからないのだ。

グループミーティングで

「なぜそんなにお酒を飲んだのですか」と若いケースワーカが患者に尋ねた。

「好きだから。それだけです」と口をとがらせて初老の男は答える。その表情には「あんたに酒の旨さがわかるかね?」と描いてある。

「五体不満足」の著者ははっきりと書いていた「自分は不具者に生まれてよかった。健常者にはわからない人間の素晴しさを知ることができた」

また横浜の相談員は、「アルコール依存症になってよかった」と言えるようになればこの病気から回復したということができると言った。たしかにそうなって初めて、旨そうに酒を飲んでいる人たちと対等になる。

赤ん坊のときから旨い酒を飲んで育った人間はいない。

 

(飲酒の始めと変化)

私の酒暦は特に早くはない。就職してまもなく労働組合の結成に、会社にバレないようにとドキドキしながら参加し、無事発足したのだが、毎週一回勤務後の会合の後みなで夜遅くまで議論をしながら酒の味を覚えた。「十二時過ぎると酒の味が変わってきて急に旨くなるナ」などと思いながら。「組合幹部だからこそ遅刻するな」というわけで翌日はキチンと勤務していた。若々しい酒だった。

飲酒量が増えてきたのは三十歳頃、新会社の役員となり接待をするようになったときだろう。「マシーンのように飲むね」とか「ほんとの酒飲みかどうかは沢山飲めるかではなくて、翌日チャンと仕事ができるかどうかだよ」などとひやかされながら。客を帰してから飲み直したりしていた。

楽しく飲み楽しく仕事もしていた。時代の寵児コンピュータソフトウェアという仕事とバブル経済に乗り財布の中など見ることもなく飲んでいた、十五年間。


(変化1 朝酒)

依存症的な飲み方が始まったと思うのもそう昔ではない。

それまでは明るいうちはけして飲まない、と厳しく戒めていたのが五年前にあるきっかけで朝に飲むことを始めてしまった。休みの日には朝から飲むようになった。まことに悪魔と天使は手を携えてやってくる。


(変化2 緊張感のない酒)

ずっと、飲むのは勤務先の東京のどこかだった。

大都会だから「どんな人が客できているかわからない(私も一応役員だったので)」とか「このあと乗物に乗って家まで帰らなければいけない」ということで心のどこかに緊張感があったが、地元で飲むようになってこれがなくなってしまった。来ているのはみんな常連だし、家まで歩いてでも帰れる。

また、東京で飲むということは仕事のない日は外では飲まないということだが地元では土曜、日曜に開いている店もありこれがなくなってしまった。夕食後に出かけたりするようになった。


(変化3 自由な勤務)

その後、自分で会社を一人で始めたり長期の契約がなくなったりで、気が向かないときは働かない生活になった。通勤途中で引き返してきてしまうこともあった。というような状態となりいつ問題がおきてもおかしくない、年中酔っ払い状態になっていった。この頃酔った頭でよくこんなことを家族に話していた。

「いつも酔っ払っていると、酔っているときの自分が本当なのかしらふの時の自分がほんとうなのかわからくなるな」


(二年ほど前のことである)

ここからさきはお定まりのコースである。私の場合、家であばれたり家族にあたるようなことはなかったが、店ではじめるようになった。

「人が歌っているときにベラベラしゃべりやがって」とか、

「詰まんない曲ばかりうたいやがって」とか、

「仕事の愚痴話ばかりしやがって、そんなのは会社にいるうちに社長室で済まして来い」

とか、わざとまわりに聞こえるように大声で言うのだ。

当然店の雰囲気は白ける。私は得意になる。客がその場で怒って喧嘩になっても、その場はそっと帰ってしまってあとから店に苦情を言っても私はどうしたって「出入り禁止」となる。これを何軒もやった。その程度のことでは驚かないような店では、そこの責任者相手に絡む。手に負えないとなると店は警察か自宅に電話を入れる。家族が夜中に迎えに来る。

 車のキー、金、クレジットカードが取り上げられる。こうなると隠れ酒、盗み酒が始まる。息子の部屋の飲み残しのボトルから飲む。料理酒まで飲む。人から預かっている金とは承知の上で女房の財布から盗む。小銭をかき集めて犬を連れて公園で飲む。飲み残しは茂みに隠す。


(病院に行く)

2002年暮れ、女房と長男に朝まで飲んで寝ていたところをたたき起こされ、無理やり病院に連れて来られた。

「アルコール病棟」という金色の看板が目に飛び込む。

「いやな名前をつけたなあ」と思う。せめてA病棟くらいにしてもらいたい。

その日は長い長いアルコール依存症についての説明を聞かされた。

・・・日を改めての二回目の診察のあと私はいくつか質問した。

「報酬系というのは実体なのですか?」

「いえ、系路です」

「それは一生消えないということでしたね」

私はおそるおそる続きを尋ねた。

「ということは一生飲めないということですか」

ドクターは静かな声でハッキリと答えた。

「そうです」

私は愕然とした。もう一生飲めないなんてそんなバカな。私は入院しない。自力で禁酒する。

「坑酒剤を飲みますか」と聞かれた。私は

「イヤです」と答えた。その日から禁酒が始まった。


(おかしな自信)

二ヶ月間ほどたった2003年2月、突然大量の下血があった。

大腸にできた憩室からのものだという。一旦は手術はせずに止めたが三ヵ月後に再び出血した。

「手術はイヤです」という私に外科医が迫った。

「いつまでも輸血を続けることはできません。そのうち抗体反応が起きます。術後のことを心配している状況ではありませんよ。どうします?」

結局、手術を受け大腸を三分の一ほど切除した。全快したときに

「これも酒が原因ですか?」と尋ねたがそうではない、ということだった。

「今後の日常生活で気をつけることは?」

「特にありません。普通の人と同じです」という答えだった。私は拍子抜けしてしまったが、これが更なる飲酒への「自信」に繋がっていったような気がしないでもない。


その年の夏、「お父さん、海でも見に行こうか」と三番目の息子が言う。

「ウン」と答えてつれて行かれたのは久里浜病院だった。また長い問診があって、

「典型的なアルコール依存症です。しかも底を打っています。今すぐ入院する必要があります。そうしないと最悪のことが起きます」と言い渡された。私は

「イヤです」と答えた。またも長い話が続く。私は切り出した。

「私は全部お話しました。先生の話しも同じことの繰り返しです。もう失礼します」と私は診察室を出てしまった。家族がまだ残って話をしている間、私は病院の前の海岸を歩いていた。


(入院の決意)

2004年9月2日、私は次男からの電子メールを読んでいた。結婚して別に暮らしているが今度家を買うというので「取引は信用できるのか、ローンの保証人はどうする?」とか送っておいたものの返信だ。

次男は私の質問にはまともに答えず最後に

「孫ができてもお父さんには会わせない」と書いてあった。私はビックリしてしまった。参ったと思った。そして病院に電話した。

「入院させてください」

私はその一週間前にふざけ半分で長男と殴り合いして顔面を縫った糸を付けたまま、タクシーで病院に向かいA病棟に入院した。


(退院を前にして)

どんなに嫌なところだろうと思ったアルコール病棟もそんなことはなく、かなり自由に過ごしてきたが、あと数日で三か月、待望の退院だ。

入院当日も大酔っ払いで入ってきたため、保護室に五日間ほど鍵なしで入れられたがそこを出て一般の病室に移るときに看護婦と話したことを思い出す。

「保護室が終わってタバコも一本渡しでなく箱渡しになり第二段階になりますが、近いうちに今度は二階へ移れば外出もできるようになり第三段階ですね、第四段階というのはあるんですか?」

と聞いた。看護婦は

「第四段階は退院した後です」と答えた。

私は二階の生活の中で、何か変化はあるんですかと聞いたつもりだった。

退院後のことなどまだぜんぜん考えていなかったので口をつぐんでしまった。


第四段階か・・・いままでの三ヶ月はただの練習。これからが本番。

再入院率は圧倒的高く八割とか九割とか聞いている。死んでしまって戻らない人を除いて。

 私はけして飲まない。今までの最悪のところからスタートしてその続きをやるなんてマッピラだ。でも酒なしで幸せな生活が送れるだろうか?

 爽やかな目覚め、おいしいご飯、家族や人々の優しい眼差し…。

アルコール病棟の三階の窓から晩秋の町田郊外の夜明け前の空を見渡す。

大きな月が西の空に光っている。空は真珠色に明るくなったが、太陽はまだ昇らない。


              (完)  2004年11月



            @copyright Y.SATO 2006 Jan           6




私は幸いにも悪い酒をやめることができましたが、やめられずに苦しんでいるひとたち、不幸にも命を落とすことになったひとたちに捧げます。

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