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名探偵・オブ・ザ・デッド  作者: Roxie
死霊のお引越し
5/18

死人と未亡人

 カーテンから漏れた光に射貫かれて目を覚ました悠梨は、枕元の目覚まし時計を見て飛び起きた。

「ウソ、もうこんな時間!? だれか起こしてくれたっていいじゃない!」

 とパジャマを脱ぎすてながら、誰にともなく八つ当たり。

 そうは言っても、真琴は早朝から仕事で家を出てしまうし、他に家族はいないので、必然的に自力で起きるしかないのだが。

 全速力で着替えて、髪も整え、もう朝食という時間でもないのでランチでまとめて食べることにして、あとは教科書を準備しようとしたその矢先。

「ん? ……あ、そっか。今日、土曜日か」

 ようやく、今日は休みだと気づいたのだった。まったく、せわしない限りである。

 しかし急がなくて良いと分かると急に腹が減るもので、悠梨は予定を変更して朝食をとることにした。

 パンが焼ける間、いつもの習慣で何気なくテレビをつける。何か、面白そうな番組はないかとチャンネルを変えていると、

「──山道で昨日起きた交通事故で続報です」

 テレビに、昨日、悠梨が巻きこまれかけた交通事故の現場が映った。リモコンを動かす手が止まる。

「死亡したドライバーの遺体から、多量の脱法ドラッグに類似した成分が検出されました。検出された量から、ドライバーは運転当時、判断力が低下していたのではないかとみられ──」

「は?」

 思わず口から声がもれた。

「何よ、それ。バカにしてるの?」

 テレビ相手に、悠梨は腹を立てている。

 単なる交通事故というなら同情の余地はあるが、それがまさか、こんな危険運転だったとは。

 悠梨の中で、死亡したドライバーへの同情は穴をあけた水風船のようにしぼんでいった。

 かわりにこみあげてきた怒りの情を、オーブントースターのアラームがなだめる。

 ──こんがり焼けたパンに、バターとシロップを少し多め(立腹補正)にかけ、インスタントのポタージュを添えれば朝ごはんのできあがり。

 さっそく一口目をいただこうとしたちょうどそのとき、携帯電話が鳴りだした。

「あ、もしもし? お母さん? はむっ──、ん、ほひはほ?」

「食べるのか話すのか、どちらかにしなさい」

 沈着で抑揚のない母の声に叱られ、悠梨はパンを飲みこむと

「ん、で、どうしたの?」

「今日、どこかには出かけるでしょ? ついでで良いから、家のプリンタ用のインクを買ってきておいてほしいの。そろそろ切れそうだから」

「分かったわ。お金、立て替えておくから」

 今日が何曜日は忘れても、こういうところはちゃっかりしているのである。

 電話を切って、食事を食べ終わると、さっそく街へ出る身支度。

 今日の気分は、ショッピングの後に映画鑑賞というところだろうか。友人は向こうで呼べばよい。

 支度を終えると悠梨は家を出て、バイクにまたがり、さっそうと中心街へ出発──としたかったのだが、そうは問屋がおろさなかった。

「だからこっちだと言っているだろう! バカかおまえは!」

「バカはあなたデス。来た道を来た通りに戻れば良いと、何度言えば分かるんデスか?」

 家から少し離れたところで、見覚えのある5人組が、こちらにまで聞こえるような声で大騒ぎ。

「だから私はいやだって言ったのに!」

「バカめ、こんな所で泣くな! だいたいシズメ、おまえが道案内なら任せろと言うから託した結果がこれなんだぞ! なんとかしろ!」

「仕方ないよ。ボク、江戸の町がこんなに変っているとは思わなかったんだもの。過ぎたことだし、もう水に流してよ」

「そういうセリフは、せめてあの山寺にもどってから言え!」

 悠梨は頭を抱えた。また会える日が来てほしい思っていたのは事実だが、まさかこんな嫌な形になろうとは!

 もう聞いていられない。

「ちょっと、あんたたち、こんなところで何してるのよ」

 と近づくと、ゾフィアら5人が振り向いた。

「お、誰かと思えば昨日の人間か。ちょうどいい」

 とゾフィアが言った。服は、昨日トラックにはねられて血まみれになったままだった。

「少しも良くないわよ、こんな住宅地の真ん中でバカみたいに騒いで。それに、汚れた服くらい着替えてきなさいよ」

「今はそんなことなどどうでも良い。それより、見ての通り、迷子になったところでだな。人間、おまえならこの辺りにも詳しいだろう」

「あのね、人間、人間って。私には悠梨って名前があるんだから、人間呼ばわりしないで」

 あいかわらず、ゾフィアの話の進め方は強引そのものである。

 この、まったくもって嬉しくない再会に、さっそく悠梨は苦い顔をしてしまったが、

「ユリィさん、お願いします! 助けてください!」

 唐突にドロロがひざまずいた。

「他に頼れる人がいないんです」

 こいつ、私の弱いところを的確に突いてくるわね、と悠梨は内心でつぶやきながら

「分かった分かった。話くらいなら聞いてあげるから、そんな道路の真ん中でひざまずかないで。危ないわよ」

 言ったときにはすでに遅かった。

「おい、早くしろよ」

「待ってよ、兄ちゃん!」

 と、近所のやんちゃな小学生兄弟2人組が、ものすごい勢いで自転車を走らせ、ちょうどドロロのいるところへ一直線。

 あわや激突かと思いきや、車体は何事もなくドロロの体をすり抜けて

「わーっ、し、死ぬぅ!」

 明らかにワンテンポ遅れてドロロがひっくり返った。

「大丈夫? 今、ぶつからなかった?」

「心配するだけ無駄デスよ」

 ドラ=イミーラが口をはさんだ。

「現世の人間にはなじみがないと思いマスが、ドロロは浮遊霊という存在、物理的な実体がないのデスよ。ほら」

 と、地面を指さす。

 この場には6人いるのに、南東に昇った太陽が作った影は5つ。ドロロの足元にだけ、あるべき影がない。

 思わず悠梨は、半信半疑でドロロの頭に手をやった。しかし感触はなく、まるでホログラムを触ろうとしているかのように、手は虚空をつかむばかり。

 なるほど、にわかには信じがたいが、確かに実体がないのだ。

 きっとさっきの自転車兄弟たちには、そもそもドロロの姿が見えていなかったのだろう。そう思えば、あの乱暴な運転も納得がいく。

「あの、あまり、いじめないでください……」

 ドロロがぷるぷると震えながら、上目づかいで悠梨を見あげた。「あんたたち、本当にどういう体してるのよ」

「それはこっちのセリフだ」

 ゾフィアが腕を組んだ。

「私は、浮遊霊というのは生きている人間には感知できないものだと聞いていたぞ。実際、こいつの存在に気づいた人間はユーリ、今までおまえ1人だけだ」

 といぶかしむように、悠梨をジロジロと見つめる。

「さてはおまえ、人間のふりをした死人だな?」

「そんなわけないでしょ。ゾンビもどきはあんたたち5人だけで十分よ」

 まさか、名だたる尼僧を輩出し続けた尼ヶ崎一族の血を継いでいるせいじゃないだろうな、と思いながら悠梨は答えを返した。

 今まで明確に幽霊を見たことはないが、昔から墓地や事故現場などで形容しがたい第六感を抱くことなら何度かあったのだ。

 そのとき、一陣の春風が彼女たちの間を吹き抜ける。

 ゾフィアの服にしみついた血のにおいに顔を打たれ、悠梨は思わず顔をしかめてしまった。

「話の続きの前に、とりあえずその服、今すぐ着替えて。服なら貸すから」

 ──5人をまとめて家に招き入れ、とりあえず自分の古着を悠梨はゾフィアに渡した。

 悠梨にとってはもう小さくて着られない服だったが、小柄なゾフィアにはぴったりだ。

「やっぱり、私たちが生きていたころとは、何もかもが違うのね」

 ホーネットが家の内装を見渡しながら言った。きょろきょろと物珍しそうな目をしていたのは5人とも同じだったが。

「そうだと思うわよ。まだあんたたちの素性、全部は知らないけど」

 悠梨は5人を見渡しながら、

「お茶でも飲む?」

「イミーラさんはお茶より石油の方が好みデス」

「お供えしていただけるなら、なんでもかまいません」

 ドラ=イミーラやドロロの答えを聞いて、死人の接待をすると言うのも楽じゃないのね、と悠梨はしみじみと実感した。

 ちょうどそのとき、居間に呼び鈴の音がなりひびく。

「だれか来たみたいね」

 悠梨が立ち上がった。

「おい、ユーリ。地獄からのむかえだったら、適当に追い払っておけ」

「そうだったら、あんたたちで対応してよ。私はいっさい知らないからね」

 と答えて、悠梨は玄関を開けた。すると、いたのは大鎌を携えた黒衣の死神──ではなく、いやに疲れた顔をした1人の女性。

 見た感じは母、真琴と同じくらいのようだが、何があったのか、すっかりやつれてしまっている。

「すみません、こちら、尼ヶ崎さまのご自宅ででいらっしゃいますか?」

「はい。……あの」

「昨日は、主人が取り返しのつかないことをしてしまって、なんとお詫びを申してよいか……」

 と、女は深々と頭を下げたので、悠梨は困惑してしましまった。

 悠梨にはまるで心当たりがないので、きっと真琴への客なのだろう。しかし真琴は土曜出勤も当たり前なので、今日も不在。ここへ来られても、対処のしようがない。

「すみませんが、今、母は仕事でいないので……」

 あわてながらも答えると、女は頭をあげて、

「あの、尼ヶ崎悠梨さんは……」

「それなら、私ですが」

「昨日は大変もうしわけありませんでした。私、昨日の事故を起こしてしまった飯倉信介の妻、聡子といいます」

 そういうことか! 悠梨はようやく合点した。

 確かに昨日の事故でひどい目にあったのは事実だが、地獄からの脱獄者を相手しているうちに、危うく頭から抜け落ちかけていたのだ。

「私なら大丈夫です。ケガもしませんでしたし」

 と悠梨は述べた。

 どんな状況であろうと、自分にむかって頭を下げている人へキツい文句が言えない性分なのである。

「とりあえず、あがってください」

 と聡子を促すと、居間にいた死人どもに

「ちょっと。お客さんが来たから、奥に行ってて」

「なんで後から来たやつに場所を明け渡さないといかんのだ。追い返せ」

 と言ったゾフィアは、シズメに抱えられて、奥にある台所の方へ連れ去られた。

「なんでこんな待遇を受けねばならんのだ。私は、当然のことを言っただけだぞ」

「ユーリくんには一宿の恩義があるんだし、今度はボクらがゆずってあげようよ」

「このイミーラさんまで育ちの悪い子だと思われたら、どうしてくれるんデス?」

 奥の方ではまだザワザワしているようだが、かまわず悠梨は聡子を招き入れた。

 ひとまずお茶を淹れたところで、

「あの、私は特にケガとかもしませんでしたし、これといって被害もなかったので、そう気になさらないでください」

 と述べた。

 よく考えてみれば、この人も昨日、突然に夫を亡くしたばかりなのだ。これ以上、謝らせることなどできない。

「しかし……」

 聡子が涙ぐんだ、ちょうどそのとき、

「おい、見てみろ。新鮮な青菜がこんなにあるぞ」

 陽気なゾフィアの声が奥からもれてきた。

「こ、これが現世の文明デスか。こんな物まで発明していたとは、想定外デス……」

「ゾフィもイミィも、勝手にいじるのやめようよ。またユリィさんに怒られちゃうよ」

 大方、冷蔵庫でも勝手にあさっているのだろう。

「すみません、近所のいたずらっ子が遊びに来ているんです」

 悠梨はそう釈明しながら、あとで一喝いれてやろうと決めた。

「それはそうと……」

 と悠梨が言い出すと、今度はまた玄関の呼び鈴が鳴った。なんとも騒々しい日である。

「すみません、ちょっと出てきます」

 今、それどころじゃないのに。こうなったらセールスだろうが死神だろうが、手短に追い返してやる!

 悠梨はすっかり意気込んで玄関へ向かったが、あちらが勝手にドアを開けてしまい──

「ただいま」

「お母さん!」

 意外なほど早い真琴の帰宅に、悠梨はおどろいた。

 いくら土曜日とは言え、こんなに早く仕事から帰ってくるなんて、滅多にないことなのだ。

「まだいたのね。もう出かけたのかと思っていたけど」

「いろいろあってね。お母さんこそ、今日はずいぶん早いのね」

「重要な書類のデータを家に忘れてね、どうにもならないから取りに来たの」

 どうも、単なる一時帰宅のようである。

「それより、誰かお客さんでも来てるの?」

 真琴の視線は、玄関にずらっと並んだ靴に向けられていた。

「うん、まあ」

 ほとんどは今すぐにでも追い出したい奴らだけどね、とは言いにくい。

「あの」

 振り返ると、聡子が玄関まで来ていた。

 そして真琴の顔を見るなり、悠梨が何かを言う間もなく、

「……真琴さん?」

「あら、聡子じゃない。久しぶりね。来るなら電話でもくれれば良かったのに」

 真琴も目を見張っている。どうも顔見知りの仲らしい。

「知り合いなの?」

 悠梨が口をはさむと

「高校で同じクラスだったの。聡子も、この子のこと覚えてる? ほら、成人式のときにシャンパンをひっくり返して、先生のスーツを汚しちゃった子」

 真琴が20歳というと、そのとき悠梨はまだ2歳(!)である。

 そんな昔のこと、いまさら引っ張り出さないでよ! と、悠梨は母を軽くにらんでみせた。

 第一、今はそんな昔話に花を咲かせられるような状況ではない。

「なにか、わけありのようね」

 真琴も聡子の様子から、おだやかでないことを悟ったようだった。

「話の続きは座ってからにしましょう。悠梨、お茶をいれてきて」

「うん」

 居間へ移る2人をそば目に、悠梨はキッチンへ向かった。

 しかし、母の学生時代の友人というのは初めて聞いた気もする。

 そりゃあ、38年も生きているのだから学生時代もあっただろうが、今や仕事が亭主みたいな人間なので、なんだか新鮮な印象だ。

 それにしても、まさか昨日の事故で亡くなったドライバーの妻が母の友人とは。

「偶然って、あるものなのね」

 つぶやきながら悠梨はキッチンへ入ったが、その途端、言葉を失った。

 冷蔵庫の野菜室は開けっぱなし。床に野菜を包んでいたナイロンの包装が散乱しており、

「やっぱり現世の野菜は新鮮で良いな、ユーリ。これでこそ、地獄を抜け出した甲斐があったというものだ」

 すっかり上機嫌になったゾフィアが、生の玉ねぎをかじっていた。

 その隣では、ドラ=イミーラが勝手に電子レンジを開け、中の構造を熱心に観察している。

「あんたたち、本当に好き勝手やっていたのね」

 こいつらをキッチンへ押し込んだのは間違いだったか、と悠梨は軽い頭痛を覚えた。

「ごめんなさいね。昨日まで地獄の奥底で抑圧され続ける日だったから、どうしても反動で好き勝手したくなっちゃうのよ。償いなら、いつか必ずするから」

 ホーネットがしゅんとしながら詫びを入れる。もっとも、真に好き勝手やっているチビ二人はどこ吹く風。

「まあ、今はそれについてはいいわ。それより、お母さんまで帰ってきちゃったの。悪いけど、明日相手してあげるから、今日は引きあげてもらえない?」

 と悠梨が言うと、ゾフィアが玉ねぎをモグモグしながら

「まずは野菜のおかわりだ。話なら、その後で腹がふくれたら聞いてやる」

「これは一体、何の機械なんデス? ちょっと解体させてほしいのデスが」

 ドラ=イミーラも電子レンジに夢中で、まるで話を聞いていない。

 悠梨の頭に、みるみる血がのぼっていく。──人の家を何だと思ってるのよ!

「だから、私はやめた方が良いって言ったのに……」

 ドロロがぷるぷると震えながらおびえだす。

「今日は引き上げるわよ。シズメ、そっちの2人を連れてきて」

「りょうかーい」

 間延びした返事と共にあくびをすると、シズメはゾフィアとドラ=イミーラを両脇に抱え上げた。

「おろせ、シズメ。私のおなかはまだ二分目なんだぞ」

「な、何の真似デス? 親しい仲と言っても許せぬ横暴デス。イミーラさんは王家の血を継いでいるのデスよ」

 2人はそろってジタバタ抵抗したが、

「はいはい。ケンカなら後でボクが買ってあげるから」

 と、シズメは涼しい顔。

 トラックを1人で持ち上げる剛腕が相手では、ゾフィアもドラ=イミーラも歯が立たないようだった。

「騒いじゃって悪かったわね。後は私たちだけで、つつましくやっていくわ」

 と、ホーネットが先頭になってキッチンを出ていく。

「じゃあね、ユーリくん。今日はありがとう」

 その後にシズメと、その両脇に抱えられている2人。

「待ってよ、おいていかないで」

 最後にドロロが駆け足でキッチンを後にした。

「まったくもう。こんなに食べ散らかして」

 ため息をつきながら手早くゴミを拾うと、悠梨はお茶を淹れようとしたが、なんと茶葉も食べつくされていた。

 ホーネットやシズメあたりはまだ話が通じそうだが、あのゾフィアという奴は手に負えそうもない。こんな傍若無人ぶりでは、地獄にも落ちるというものだ。

 仕方なしにドリップ式のコーヒーを淹れる。

「お待たせ」

 3人分のコーヒーをトレイに乗せて悠梨が居間へ行くと、真琴の不機嫌そうな視線が出迎えた。

 その様子から察するに、どうやら、もう聡子から昨日の事故について知らされたようだ。

「悠梨、あなた昨日、ずいぶん色々とあったらしいわね。どうして私に何も言ってくれなかったの」

「こんな大事になるなんて思わなかったんだもの」

 面倒な知人も増えたしね、とは付け加えなかった。

 真琴は娘の勝気な言葉に肩をすくめると、聡子の方を見て

「見ての通り、うちの子なら何ともないから心配しないで。二階から飛び降りたって捻挫ひとつしない子なんだから」

 また恥ずかしい過去を引きずりだされ、思わず悠梨はうつむいた。そんなの、小学生のころの話である!

「それに聡子、ただでさえ今は旦那さんの葬儀とか、これからのこととか、いろいろあるんでしょう? この子なら、もうこれで大丈夫だから」

「……ありがとう。そう言ってもらえるなら」

 聡子は目元の涙をぬぐいながら頷いた。

「それより、今はやるべきことが結構あるんでしょ? 私に手伝えることがあったら気軽に言って」

「でも、これ以上、真琴さんたちに迷惑は……」

「聡子」

 と、真琴が諭すような口調でさえぎる。

「今はあなたにとって、大事な時なんだから。他にあてがいるなら良いけど、何でも抱えこもうとしないで。無理すると、お腹の子にも悪いわ」

 その言葉に、悠梨は目を丸くした。外観からは分からなかったが、赤ちゃんがいるのか!

「それに、私がこの子を身ごもっているとき、あなたもいろいろ手伝ってくれたじゃない。借りがあるのは私の方なんだから、気後れすることはないのよ」

 滅多なことでは笑わない真琴がほほ笑みながら言った。

「このコーヒーを飲んだら出発しましょ。車が必要なら、私が運転していくから」

「ありがとう、本当に……」

 聡子が声を詰まらせる。

 へえ、と一連のやりとりを横で見て悠梨はいくらか感心した。──仕事人間のお母さんも、けっこう良いところあるじゃん。

 ──悠梨が空になったカップをキッチンで洗っていると、出発の支度を整えた真琴がやってきた。

「じゃあ、行ってくるわ。帰りがいつになるかは分からないけど、終わったら連絡するから」

「分かった。いってらっしゃい」

「プリンタ用のインク、買ってきておいてね」

「まかせてよ」

 と、悠梨は胸を張って

「ついでに野菜も買ってきておくから」

「……何の話?」

「あ、いや、こっちの話」

 いらんこと言ったな、と悠梨はひとり反省した。


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