死者、歩く
「ごめんね、待った?」
「いえ、たった今来たところです」
大学も昼休みとなると、講義室にいた大勢の若者がキャンパスにあふれかえる。
食堂や購買部には長蛇の列ができる一方、今日のように天気が良い日はテラスで弁当を広げる子も多い。
この2人の男女──アベックかカップルかは置いておき──も、そんな春の日差しの下で昼食をしゃれこむ学生たちの一部であった。
ふとしたきっかけから始まった交際も、そろそろ2ヵ月。軌道にはまずまず乗ったというところ。
「今日、先輩のためにデザート作ってきてみたんです」
と、あどけなさの残る少女が弁当箱を取り出すと、年上の男子学生は顔をほころばせた。
「本当? ありがとう、嬉しいな」
「いえいえ、いいんです」
その手作りデザートは、見た目こそ不恰好だったが、それがかえって風情をかもしだしていた。
2人の間に流れる空気は、どんなデザートより甘い物だったろう。
だが、その平穏は長くと続かなかった。
「先輩」
ふと、その男子学生の肩が後ろから叩かれた。
そこにいたのは、これまたこの大学の女子大生だったが、そのすっきりと整った顔立ちはいくらか怒りに引きつっていた。
「その方、どちら様ですか?」
途端、男子学生の顔がサッと青ざめた。
「えーと、いや、その、昔の友達で──」
「言い訳を聞きに来たんじゃないんです」
キッと眉がつりあがる。
「それに、今さら取り繕ってももう遅いですよ。こっちで粗方、調べさせてもらったので」
漂う不穏な空気に周囲は静まりかえったが、その女の子は周りの視線も気にせず、ぶっきらぼうに言い放った。
「このことはあちこちに言いふらさせていきただきます。あと、もう2度と連絡してこないでくださいね。それじゃ」
「ま、待ってくれ! 勘違いだ!」
尻を蹴飛ばされたように男子学生は立ち上がり、去ろうとしていたその子を追いかけた。
「僕は、そんなつもりじゃ──」
と言いかけた途端、その相手がくるりと振り向き、鋭いビンタを1発浴びせた。
小奇麗な乾いた音が響き、男子学生の方が尻もちをつく。ランチを食べに来ていたテラス中の学生の視線が、いっせいに集まった。
「バカにするんじゃないわよ」
ひっくり返った男子学生を氷のように冷たい視線で一瞥すると、少女はわき目もふらずテラスをあとにした。
そのにじみでた怒りのオーラといったら、向こうから来た大柄な柔道部の男3人組があわてて道を譲ったほどだった。
「まったく、もう……」
と愚痴をこぼしたこの少女、名前を尼ヶ崎悠梨といった。
今年で20歳になる、このQ大学の2回生。
“きれいな花にはトゲがある”という言葉を体現したかのような、可憐で眉目よいじゃじゃ馬である。
そのじゃじゃ馬が先の青年と出会い、恋する乙女に変身したのは、つい2ヶ月前のことだった。
当時は甘く幸せな日々を過ごしていたのだが、ふと最近になって彼氏の不可解な態度から、他の女がいるのではないかと勘づいたのだ。
さっそく独自に調査してみたところ、二股どころか三股のプレイボーイだったことが発覚。
しかもこの3人とは別に、一方的に捨てて泣かせた女が過去に2人もいたことも知ってしまったのだ。
悠梨としては、初恋というわけでもないが、それでも一途な恋だっただけに、裏切られたショックは大きかった。それで今日の決起に至ったわけである。
「ほんと最悪」
とつぶやきながら、悠梨は大学敷地内の駐輪所まで来ていた。
モトクロス部に所属してしまうほどバイクが好きな悠梨は、もちろん通学もバイク。ここには彼女の真っ赤な愛車が停められている。
男に裏切られたことは何度かあれど、バイクに裏切られたことは1度もない。良き相棒である。
午後には特に履修している講義もない。こういうときのストレス発散先はだいたい決まっている。
携帯電話を取り出し、母親の短縮番号にかける。
「あ、お母さん? 私。今日だけど、友達とどこかでオールするから。お母さんの方も、今夜は適当にやって」
「そう。……分かったわ」
と、そっけない返事。
「友達って、男の子?」
「逆よ、逆。失恋記念パーティ」
「……そう。まあ、あまりよそ様に迷惑かけないようにね」
「分かってるって」
答えたときには、すでに電話は切れていた。
わんぱくで血気盛んな悠梨とは対照的に、母の尼ヶ崎真琴は寡黙でクールなビジネスウーマン。
ただ、なかなかの仕事第一主義者で、特に悠梨のことはほとんど放任のような形となっていた。
「さてと」
ヘルメットをかぶり、バイクにキーをさす。
こういう怒りと不快の入り混じったような気分になると、悠梨は決まって行く場所があるのだ。
バイクは大学のある街中を飛び出し、閑散とした住宅街を抜け、新緑あふれる山道へと入っていった。
自動車がすれ違えるだけの余裕もないほど細い道を走る。前にも後ろにも、悠梨以外の気配はない。この道は対向車よりキツネやタヌキの方が怖いのだ。
走り出して1時間くらい経っただろうか。対向車をやりすごすための、申し訳程度の避難所までたどり着くと、悠梨はようやくバイクを停めた。
そこから今度は、舗装すらされていない獣道をてくてくと登っていく。
ただの女子大生がこうもデコボコの激しい悪路をスイスイ進めるのは、それだけこの道を進むのに慣れているからに他ならない。
やがて悠梨の額がうっすらと汗をかき始めた、ちょうどその時、うっそうとした山林が急に開けた。
代わりに目前に広がっていたのは、すっかり古びた山寺と、まるで誰も来ていないのが一目で分かる荒れ果てた墓場だった。
「ただいま、じっちゃん。また来ちゃった」
悠梨はつぶやいた。
──安定堂と名付けられたこの山寺は、尼ヶ崎家の8代目当主であり、名僧でもあった悠梨の曾祖父が住んでいた場所である。
電気もガスも水道も来ていない、まるで俗世とは隔離された場所だが、悠梨だって子供の頃はよくここで曾祖父と共に寝泊まりしていた。
悠梨にとって家族といえば、仕事で家をあけがちな母のほかには曾祖父しかいなかった。母が生みの親なら、曾祖父はまさに育ての親だった。
その曾祖父が天寿を全うしたのはつい昨年のこと。その後ここは無人の寺となっていたが、それほど朽ちていないのは、悠梨が時折掃除に来るからである。
曾祖父の死後すぐには、管理者不在につきこの土地を手放してしまう話もあったが、
「ここはこの世の平穏を守るために不可欠な地。何があっても、我ら尼ヶ崎一族が守っていかねばならん」
という曾祖父の遺言どおり、今は9代目当主の座についた母のものとなっている。
もっとも、その母は普段から仕事で忙殺され気味なので、実際に管理しているのは悠梨である。
悠梨にとってここは幼少期の思い出がつまった大切な場所であり、どんな嫌なことがあっても、ここに来ると心が癒されるような気がするのだ。
さて、悠梨は荒れ果てた墓地を横切って、安定堂の玄関へやってきた。
山の新緑は見ると心が安らぐが、庭先の雑草にはそう前向きな気持ちにはなれない。今日は庭を綺麗にすると決めていた。
だが、いざ庭に出てみると、待ち構えていたのは予想の数倍も生い茂る大量の雑草。
「うっわ……」
思わず弱音がこぼれる。
庭には古めかしい石碑があるのだが、今やその石碑も雑草の海になかばおぼれ始めていた。
この石碑ははるか昔に立てられた物らしく、悠梨は僧だった曾祖父からこの石碑にまつわる言い伝えを何度も教えられたものだった。
何でも、この石碑はこの辺の地域一帯の安定を守るための物であり、これが倒れた時、忌まわしき地獄の亡者どもが蘇ると言い伝えられているらしい。
いわゆる“最近の若者”である悠梨としては半信半疑だったが、尊敬する曾祖父が大事にしていた石碑なので、一応は丁重に扱っていた。
「さて、と。やるか」
草むしりに励むべく、腕まくりをしながらかがんだ悠梨だったが、その時ふと顔をあげた。
一瞬、石碑が揺れたような気がしたのだ。
しかし、そんなわけがない。強風で木の幹がしなるならともかく、こんな無風の日に、しかも石碑が揺れるはずがない。
きっと気のせいだ。そう悠梨は思ったが、その瞬間、再び石碑がぐらりと明確に揺れた。
しかもそのまま、ゆっくりと傾いていく!
「待って! ダメ!」
思わず大声をあげてしまったが、だからといって石碑も
「あ、ごめんごめん」
と戻ってくれるはずもない。
鈍い音を周囲に響かせながら、石碑はついに倒れてしまった。
──石碑が倒れた時、忌まわしき地獄の亡者どもが蘇る。
曾祖父の教えが悠梨の脳裏をよぎったその瞬間、石碑が立っていた真下の地面から、まるで新芽のごとく人の腕がはえた。
続いてもう片腕が飛び出し、そこから中学生くらいの、しかし死人同然の肌をした小娘が這い出してきた。
「現世だ! ついに帰ってきたぞ、現世だ!」
と外国人風の小娘が、見かけによらぬ流暢な日本語で喜びの雄たけびを上げた。
不意の出来事に悠梨はすっかり唖然としてしまったが、さらに驚くことに
「ゾフィアくん、出るならさっさと出てくれないかな」
「そこにずっといられると邪魔デス」
と地中から声がする。まだ何人かいるらしい。
ゾフィアと呼ばれたその小娘は、さっさと穴から這い出すと、悠梨には目もくれず仲間たちを穴から引き上げはじめた。
あわせて5人。石碑の下から現れたあたり、どう考えてもまともな奴らとは思えない。
思わず悠梨は周囲を見渡した。ドッキリ大成功、の看板はない。頬をつねってみた。──痛い、夢ではなさそうだ。
「それで、ここ、どこ?」
5人の中でもひと際ビクビクした臆病そうな子が、あたりを見渡しながらつぶやいた。
「私が知るわけないだろう」
最初に出てきたゾフィアとかいう子はそう言うと、ここでようやく悠梨の存在に気がついたらしく、
「おい、人間。ここはどこだ?」
「あんたらね……」
悠梨は苦々しげな顔つきで、5人を一様に見渡した。
「それが人んちの庭を荒らして言うセリフ? 大体、あんたらこそどこの何者なのよ」
「質問に質問で返すな。訊いているのは私の方だぞ」
ゾフィアはキッと鋭い目で悠梨をにらんだ。
見たところ十代前半くらいのようだが、目つきだけならそれなりに迫力があった。
「私を怒らせない方が身のためだ。獄卒の鬼もが恐れた地獄の暴君だ。おまえみたいなひよっ子1人、ひねりつぶすくらい造作もない」
「はいはい。ガキンチョのごっこ遊びなら、よそでやってよ」
と、悠梨が冷たくあしらうとゾフィアは眉をひそめた。
「話の分からない奴だな。さてはおまえ、全然信じていないな?」
「当たり前でしょ。死者が生き返ったなんて、そんな安物のゾンビ映画じゃあるまいし」
うんざりした様子で悠梨がため息をつく。
するとゾフィアは、歯ぎしりをしながら横を向いた。
「おい、ホーネット。ちょっと頭を貸せ」
と言われたのは、5人の中でも最も大人びて見える、すっかり冬物の服に身を包んだ少女であった。
唯一肌を露出している頭部は、この辺では見かけないほど色白であったが、そこにひょいとゾフィアが手を伸ばす。
「あ、こら!」
ホーネットが抗議した時には、すでに遅かった。なんと彼女の頭部が、胴体から外れてしまったのだ。
ゾフィアは意に介することなく、ホーネットの生首を手に持つと、それを悠梨に向け投げ渡した。
「ほら、じっくり見るといい」
「え、ちょっと、待っ──」
と言いながら、反射的に受け取ってしまったが、しかし人の生首なんぞ見るのも触るのも初めての代物である。
だというのに、いきなり受け取らされ、しかも
「はじめまして、人間さん」
と、生首に挨拶までされてしまったものだから、すっかり動転してしまい、
「ひっ」
短い悲鳴をあげながら、つい悠梨はその生首を落としてしまった。
あわや地面に激突、と思いきや、すんでのところでホーネットの胴体が頭部を無事に拾い上げた。
「あのね、勝手に頭を外さないでって、何度言ったら分かるのよ」
頭と体が再び一体化した後、ホーネットがゾフィアに抗議したが、その声にかまうことなく
「これで分かっただろう? 私たちは、地獄より舞い戻った往年の大悪党だ」
と、ゾフィアは悠梨へ、やたら誇らしげに語りかけた。
ついに悠梨も、相手が“本当に”まともな連中ではないということを思い知らされたのであった。
だが同時に、すっかり唖然としてしまった悠梨を見て、ホーネットもまた血相を変えていた。
「作戦タイム! 3分ちょうだい」
と一方的に告げると、5人で小さな円陣を作り、何やら小声で話を始める。
「バカね。いきなり正体バラして、騒ぎになったらどうするのよ」
「私たちは地獄から現世へ舞い戻ったのだぞ。この勝利を、誇らなくてどうする」
「誇るって言ってもゾフィア、あなた、ほとんど勝利に貢献しなかったデスよね」
「あ、あの、私、喧嘩してる場合じゃないと、お、思うんだけど……」
「そうよ。とにかく、ここで不要な騒ぎを起こして地獄へ逆戻りなんてつまらないわ。しばらく、死人であることは隠していきましょ」
「で、でも、さっき、あの人間さんに正体バレちゃったよね? どうする?」
「大丈夫。3歩あるけば忘れるよ」
「それはシズメ、おまえだけだと思うぞ」
「始末するなら脅威にならない今が一番デスが、どうしマス?」
「やめなさいよ。殺生したら、審判での死因を調べる段階で、私たちの脱獄があの世中に知られてしまうわ」
「じゃあ、えーと、じゃあ…………」
さっきの臆病そうな子が浮足立ちながら、悠梨の方をちらちらと見る。
すると次の瞬間、その子は目にもとまらぬ速さで悠梨の目前に駆けてくると、これまた残像でもできそうな俊敏さで土下座した。
「お願いします、どうか何とぞ、お見逃しください! 御恩は一生忘れません。いつか必ず、のし付きでお返しいたします!」
「おまえの一生はもう終わっているだろう」
ゾフィアの冷ややかな言葉に、その子はハッと顔を上げたが、すぐに涙を目に浮かべながらまた頭を下げた。
「どうかお願いします! 後生で善行に励みます! きっとポジティブで良い子になります! ですからどうか、今回だけはお見逃しください!」
「あー、もう。……分かった分かった、頭あげてよ。やりづらいじゃない」
悠梨はすっかり参ってしまっていた。
昔から、威圧的な相手に立ち向かうのは得意でも、平身低頭な相手に鞭を打つような真似はできない気質なのである。
「つまり黙ってろってことでしょ? いいわよ、それくらい。私としては、ここさえ荒らされなければ何だっていいわ」
と悠梨は言った。
「あ、でもあんたたちが倒したこの石碑だけは、元に戻して行ってね」
「分かった。じゃあ、これ、戻しておくね」
と、5人の中で一番大きいのが、倒れた石碑を軽々と立て直してしまった。
大柄な大人が束になってようやく動かせるくらいの重々しい石碑を、たった1人で、である。
そこに悠梨はおどろいてしまったが、
「それにしても、ドロロが相手を打ち負かしたところを見るのは初めてだな」
「こんな形で役に立つとは、少し予想外だったデス」
ゾフィアたちもまた、少し面喰っているようだった。
※
「しかし、やはり現世は良いな」
山道を降りながら、ゾフィアはすっかりご満悦の様子だった。
「どの草も木も、実に美味そうだ!」
「ゾフィア、育ちのほどが知られマスよ」
と、どこか日本語として癖のあるドラ=イミーラの嫌味が、ゾフィアをにらみつけた。
頭や手足に包帯を巻きつけた独特の恰好をした褐色肌の娘で、聞けば包帯は王家の高貴な衣装とのことだが、どう見てもケガ人かミイラである。
「現世って、こんなに広かったんだね。私、迷子にならないか不安になってきちゃった……」
ドロロはあたりをキョロキョロと見渡している。
色白な肌の子で、髪の色も淡く、服も純白のワンピース。ここまで淡い配色だと、存在そのものまではかなく見えてくる。
──一行は今、せっかく現世に来たのだから色々なところを見てまわりたいということで、山を下りて市街地へ向かっている最中。
悠梨としても、こんな珍妙な連中にいつまでも安定堂に居座られるくらいなら、と片道限りのツアーガイドを引き受けたのだ。
「それにしたって、あんたたち、行くあてとかあるの?」
悠梨が尋ねた。
根がなかなかのお人好しなので、ここで見捨てても彼女らがうまくやっていけるのか、そこだけは心配だったのである。
「ないからこうして、ついていってるんだろう」
ゾフィアの答えはあいかわらずの居丈高。
「大丈夫。君には迷惑をかけないよ」
背の高いシズメの声が上から降ってくる。
何度見ても美男子にしか見えないのだが、これでも一応は女らしい。悠梨は内心、小首をかしげていた。
「ならいいけど。生きてた頃の知り合いとかにでも声かけて、上手くやってね」
「生前の知り合い、ねぇ……。まだ現世にいると良いんだけど」
ホーネットが腕を組んだ。
ゾフィアはドラ=イミーラの方を向いて、
「そう言えば、私たちが死んでからどのくらい経つんだ?」
「なぜイミーラさんに聞くんデス? 分かるわけないじゃないデスか」
「つくづく頼りにならん奴だな、おまえは」
「この偉大な王家の血をひくイミーラさんを侮辱する気デスか? 裁判にかけてもいいんデスよ?」
「2人とも、こんな時に喧嘩はやめて」
たまらずドロロが声を上げた。
「そうだ。ここ、日本でしょ? なら君に聞けばいいんだ」
シズメが指を鳴らしながら、悠梨の方を見た。
「今って、江戸の上様は何代目?」
「江戸の上様って……、あんたたち、本当にいつの人間よ」
悠梨は頭を抱えたくなった。これじゃあ生前の知り合いなんて、期待できるはずがない!
そのとき、
「あ、見て。何か、こっちに来るよ」
ドロロが前方を指さした。見れば、1台の中型トラックがこちらへむかって走ってくる。
珍しいな、と悠梨は思った。この山道は道幅もせまく、しかも最終的には山の中腹で行き止まりとなっている。
わざわざトラックが来るような道ではないのだが。ドライバーが道でも間違えたのだろうか。
「何だ、あれは。馬車にしては、馬がいないな」
「でも独りでにこっちへ走ってくるわよ」
ゾフィアとホーネットが意見を交わしている。
まあ、「江戸の上様」時代の人間からすれば自動車に戸惑うのも無理はないが。
それにしても、トラックはやたらに速度を出していた。あっという間に距離が縮まっていく。
そんなに急いでどこへ行こうというのか。悠梨が疑問を抱いた、そのときだった。
前触れもなくトラックの頭が悠梨たちの方を向いた。スピードも一段と加速する。
ひかれる! そう思った時にはすでに、悠梨の足元から地面の感覚が消えていた。
一体どうなったのか分からない。ただ、目まぐるしく変わる視界の中で、少なくとも痛みだけはなかった。
何かがひしゃげる重い音が断続的に続き、肝を揺らすような地響きが悠梨の体を貫く。
やがて再びあたりが静まりかえり、その時はじめて、悠梨は目を開けた。
「大丈夫? ケガはない?」
気づけば悠梨はホーネットに抱えられていた。
あわや激突というその寸前、彼女は悠梨を抱えてトラックの進路から横へ飛びのいていたのだ。
「ええ、なんとか。──ありがとう、助けてくれて」
「いいのよ。せっかく生きているんだから、命は大切にしないとね」
ホーネットはにっこり微笑みながら、悠梨から手を離した。
地獄から来たとは聞いていたが、思ったほど悪い奴でもないらしい。
それはそうと、事故現場は悲惨なもので、それを見た瞬間、悠梨は言葉を失った。
トラックはガードレールは突き破り、山の斜面へずり落ち、立派なスギの木と正面衝突して止まっていた。
木はくの時にへし折れ、トラックの運転席も無残にひしゃげている。
もしひかれていたら、あの木と同様に無残な姿をさらしていたのかと思うと、悠梨の額に嫌な汗が浮かんできた。
「な、な、何デスか、これは! このイミーラさんが王家の血をひくと知っての狼藉デスか!?」
ドラ=イミーラは道端に尻もちをつきながら泡を食っていた。
他の3人の姿はなく、道には深紅の靴が片方だけ転がっていた。
悠梨がそれを拾い上げると、
「それ、ゾフィアのよ。どこに行っちゃったのかしら」
とホーネットが言った。
「……まさか」
悠梨はすぐさまガードレールの破れ目から飛び出し、山肌を駆け降りてトラックの前方へ回りこんだ。
原形を失った運転席、へし折れたスギの木。ちょうどその衝突面を覗きこんで、悠梨は息をのんだ。
つぶれたフロントのひしゃげの隙間から、土気色をしたゾフィアの右腕がだらりと垂れていたのだ。