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名探偵・オブ・ザ・デッド  作者: Roxie
死霊のお引越し
17/18

奴らの悪事にジ・エンドを

「ドロロ、待って!」

 中央銀行と大きく書かれた建物の角を曲がったところで、ホーネットがドロロを呼び止めた。

 3人はもう、ドロロを先頭に安定堂から街中まで降りてきていた。

「なんだ、もうばてたのか? だらしないぞ」

 ゾフィアが顔をしかめる。

「そうじゃないの。本当にユーリがいるのは、こっちの方なの?」

「うん、ここをまっすぐ行けば大学が──」

「そういうことじゃなくて」

 と、ホーネットがドロロの言葉をさえぎる。

「ホーネット、端的に言え」

 ゾフィアがキッとにらんだ。

「知恵だけはあるおまえのことだ、何かしらの考えがあっての意見なんだろう?」

「ええ、そうよ。2人とも、ひとまず説明するから、聞いて」

 ホーネットはそう言いながら、手袋をはめている左手を顔の前に掲げた。

 小指の先端だけ、中身がないかのように、布がへにょりと倒れている。

「実はこの前、私の小指の先をユーリに渡しておいたのよ。万が一のとき、すぐにでも駆けつけられるように」

 MUセミナーセンターで渡した、あのお守りのことである。悠梨は中に堅くて小さな筒のようなものが入っていることに気づいていたようだが、それがホーネットの小指だったのだ。

「じゃあ今も、それでユリィさんの居場所が分かるってこと?」

 ドロロが目を丸くする。

「ええ。あなたを呼び止めたのは、進むべき道はこっちじゃない気がしたからよ。最初は、ユーリのところへ行くには少し回り道をいけないかと思ってた。でも、この道をまっすぐ進んだら、それじゃ遠ざかるだけだわ」

「どういうことだ? ドロロが道でも間違えたのか?」

 ゾフィアに責めるような目で見つめられ、ドロロは青ざめた。

「そうとも限らないわ。ドロロが私たちのところへ来るまでに、あちらも移動したのよ」

「なるほどな。おい、ホーネット。そこまで言うなら、おまえに賭けてやる。道案内しろ」

 と言ったゾフィアだったが、その道案内を待たず、我先に駆けだしてしまう。しかもその矢先、たまたまそこにいたビジネスマンのような男とぶつかってしまった。

「おい、こら、君! こんなところで走っちゃあ──」

 そのビジネスマンは反射的に叱りつけたが、何せゾフィアもホーネットも見た目は外国人。

「あー、その、なんだ。キャンユー、スピーク、ジャパニズ?」

 と、急にたどたどしい英語でしゃべりだす。

 ゾフィアも暇なら、こんな男は“けちょんぱん”にしただろうが、今はそんなのんびりしていられない。

 ギロリと不機嫌そうな目で男をひと睨みこそしたが、

「……まあいい。ホーネット、行くぞ。時間がない」

 と、駆けだす。

 ホーネットはドロロと共に、すぐその後を追おうとするも、

「どうかしたの?」

 という、聞き覚えのある声が彼女の脚を止めた。

 その人物は、ちょうど今、銀行から出てきたところで、

「いえ、急にぶつかってきた子どもがいまして」

 と、そのビジネスマンが説明している。

 その相手は──

「真琴さん?」

「あら、あなたは──」

 と、尼ヶ崎真琴もホーネットに気付いた様子。

「副社長、お知り合いで?」

 と、ビジネスマンが真琴に尋ねるが、

「マコトさん、大変なんです! ユーリが──」

 無理にでもホーネットが会話に割って入った。

 その言葉と、焦燥に駆られたホーネットの様子から、真琴の顔色も変わる。

「悠梨が? 悠梨が、どうかしたの?」

「危ないんです。すぐ助けに行かないと──」

「ホーネット! 道草を食っている場合じゃないぞ」

 ゾフィアがせかす。

「待ってよ。この人、ユーリのお母さんなのよ」

「その場所、分かる?」

 真琴の目は真剣そのものだった。

 ホーネットの話を真摯に受け止めているのだ。

「あの、副社長?」

「佐藤くん、見ての通り急用が入ったの。今日のミーティング、ひとまず順延にして」

「ええ? し、しかし、今日は先方からのお電話の予定が──」

「対応に必要な資料は全てまとめて、私の机の上に置いてあるわ。今日は単なる事務連絡だから、あなたでも十分対応できるはずよ。だからお願い、頼まれて」

「は、はい……」

 真琴の部下とみられるその男は、すっかりその気迫に呑まれているようだった。

「よろしく頼むわ。……じゃあ、行くわよ。車、出すから、案内して」

「はい!」

 ホーネットが力強くうなずく。

 その間、すっかり話の流れに取り残されたドロロとゾフィアは、顔を見合わせ

「あいつ、いつの間にあんな知り合いを作ったんだ?」

「私に訊かれても……」

 ドロロは困る一方。

「おい、ホーネット」

 ゾフィアがホーネットの服のすそを引っ張った。

「今の人間は何だ」

「マコトさんって言ってね、ユーリのお母さんよ。大丈夫、あの人は私たちの素性も知ってるし、理解もあるわ」

「それはあって当たり前だ。だが、あれもユーリと同じ、人間だろう。足手まといを抱え込む余裕があるのか?」

 ゾフィアは疑いを前面に押し出しながらひと睨み。

「そう邪険にしないのよ。あなたのためでもあるんだから」

 ホーネットが諭すように言った。

「もう、あまり余力に余裕がないんでしょ? ここのところ、派手に暴れまわり続けたからね」

 そう指摘された途端、ゾフィアの目が泳いだ。

 こういう、核心を突かれると隠し事ができないのはゾフィアの憎めないところである。 

 ゾフィアの力の根源は、体内に蓄積された毒素と、それを自在に組み替えられる技能にある。

 興奮性の毒素を作り自身の運動能力を瞬間的に上げることもできれば、幻覚性の毒を牙から他人に投与して相手を操ることもできる。

 言い換えれば、それらの力は全て体内に蓄えられた毒素に依存しており、これが枯渇すればゾフィアの強みも激減してしまう。

 長年の付き合いから、ホーネットはゾフィアの毒の残量を、一挙一動からおよそ推定できるのだ。

「現世の車もなかなか速いから、マコトさんの手を借りましょう。ユーリのいるところは、あまり近くないわ。そこまで全力で走り続けたら、あなた、いよいよボロ雑巾になるわよ」

「何がボロ雑巾だ。知ったような口をきくな!」

 とゾフィアは吠えたが、

「まあ、しかし、おまえがどうしてもそうしたいと言うのならな。今回ばかりは特別に、それを採用してやらないことも……」

 みるみる威勢が弱くなっていく。

「もうマコトさん、来たわよ」

 ──というわけで、結局ゾフィアはホーネットの策に従うことになったのだった。 

 ゾフィアもドロロもこれが現世で初の自動車。一悶着がなかったと言えばウソになるが、割合スムーズに発車まではこぎつけた。

「後ろのお二人さんも、地獄からやってきたの?」

 後部座席に座るドロロとゾフィアへ、真琴がバックミラー越しに目をやる。

「は、はい! 地獄から来て、今は居候させてもらっております、日向ドロロと──」

 とドロロは言いかけて、急に目をパチクリさせながら

「あの、今、私、数えられました?」

「待って」

 とさえぎったのはホーネット。

「マコトさん、安定堂のある山に、小さな洋館があるの分かります? きっとユーリはそこにいるはずです」

「……場所は分かるわ。でも、本当にそこなの?」

 さすがに真琴も、半ばいぶかしんでいる。

「人間業ではないので説明は難しいのですが、距離と方角なら分かります。それにあの場所は、今回の事件と強い関連があるんです」

 ホーネットの力説に真琴は少し考えていた。だが、車に乗ったときにかけた悠梨への電話もまるで応答がなかったのも事実。

 全容はまだよく分からないが、今はこの死人たちを信じるしかなさそうだ。

「分かった、あなたを信じるわ。ひとまず出発するから、あなたたちの知っていることを詳しく聞かせて」

 そう言いながら真琴はアクセルを踏んだ。


 ※


 どれくらい、ときが経っただろうか。

 泥沼のようにからみつく混沌の中から、ようやく意識を解放された悠梨。

 まず何とか感じ取ったのが、自分が床に、うつ伏せに転がされていることだった。

 すぐに起き上がろうとするが、ただそれだけのことが上手くいかない。

 別に、何かに抑えつけられているわけではない。体に力がまったく入らないのだ。

 渾身の力を振り絞り、どうにか顔だけでも前を向く。徐々に輪郭が戻っていく視界に、悠梨は息をのんだ。

「なんだ、気づいちゃったのね」

 と笑ったのは、逃走中のはずの浦部であった。

 ここはどこだろうか。少なくとも、MUセミナーセンターやQ大学のような、近代的な建物ではない。

 悠梨はすぐさま、ここは森の洋館なのではないかと直感した。

 そこへ、

「こっちの準備は終わった」

 と男の声が部屋に舞い込んできた。

 数秒の間もなく、姿を現したのは──二階堂であった。

「どうも。それより、こっちの子、起きちゃったわよ。早く済ませちゃわないと」

「わかってる」

 と、二階堂が浦部の言葉に相槌を打つ。

 悠梨は、それだけで、頭を強く殴られたような衝撃を受けた。

 この2人が裏でつながっていたのだと、まだ信じたくなかったのだ。

 何か言い返してやりかったが、毒のまわった体では息をするだけでも相当な気力が必要だった。

「悪いね、尼ヶ崎くん。だが元はと言えば、君の方から首を突っ込んできたんだ。僕を恨むのは筋違いだよ」

 そんな悠梨の思いを、二階堂は冷ややかに一蹴した。

「君の行動力は大したものだったよ。だが、あの植物を、スポンサーである僕のところへ持ってきたのは、最悪の選択だったね」

 二階堂の言葉に、悠梨はほぞを噛んだ。

 思い返せば、悠梨や聡子が襲われたのは、悠梨が二階堂に例の毒草を見せた直後だった。

 あのとき二階堂は1時間ほど待ってくれと頼んできたが、あの間に襲撃の指示を出していたと考えれば、すべてが納得できる。

 くやしいのは、それを今の今まで気付けなかったことだ。

「よくも、私のビジネスをめちゃくちゃにしてくれたわね」

 浦部が一歩進んで、山の土が付着した靴で悠梨の頭を踏みつけた。

 怒りのままに青筋を浮かべ、語気を荒らげる。

「おまえのせいで! おまえさえいなければ!」

 舌さえ回れば、悠梨はひるまず反論しただろう。

 だが体は動かないし、頼りになる仲間は誰もいない。まさに絶体絶命だった。

「浦部くん。逃亡用に手配した飛行機の時間もある、手早く済ませたい」

 と、二階堂が不気味なまでに冷淡な声で諭す。

 浦部は八つ当たりのような目で二階堂を睨んだが、さすがに文句を言うようなことはせず、

「まあ、いいわ。おまえにはこの損失、死んで償ってもらう。あの建物から、重要な書類は持ち出せるだけ持ってきたわ。これさえ抹消すれば、私たちの犯罪は闇に葬れる」

 と言って、ようやく悠梨の頭から足をあげた。

「おまえは義憤に駆られて、この建物を毒草ごと焼き払うことにした。でも、へまを踏んで自分が焼け死んだ。そういうシナリオになっているの」

 その言葉に悠梨はこの場で初めて、恐怖を抱いた。

 殺されることより、やってもいない罪を被せられることの方がよほど怖かった。

「私たちのために、罪をかぶって死になさい」

 浦部は嘲り笑いを満面に浮かべている。

「そうだ、浦部くん。実は、君にはまだ言っていなかったんだがね。この娘には、もう1つ、被ってもらわないといけないことがあるんだ」

「あら、まだ何か?」

 と浦部が問いかける。

 二階堂は、何も言わず浦部のもとへ近づき──

「うっ」

 浦部が短い悲鳴をあげ、悠梨は息をのんだ。

 その腹に、ナイフの刃が深々と飲み込まれていたのである。

「君の殺害だよ」

 二階堂が、その手袋に握ったナイフを抜くと、あたりに血しぶきが飛び散った。

 間髪をおかず、浦部の体が崩れ落ちる。もう死んでいることは、明白だった。

「いくら証拠を抹消しても、君は既に手配されている。そんな足手まといのために、この逃走資金は使えない」

 二階堂は驚くほど無表情を保ちながら、その血に濡れたナイフを握らせた。

「新しいシナリオは、こうだ。君はつまらん義憤に駆りたてられ、浦部くんを追ってここへ来た。浦部くんは証拠隠滅のため火を放ち、その隙に逃げようとしたが君に殺されてしまった。そして君は逃げ遅れ、焼け死んだ。……捜査線上に僕の名が浮かぶ頃には、新しい顔と名前を手に入れ、外国で優雅に暮らしているだろうさ」

 そう淡々と語ると、二階堂は初めて唇の端を歪めるように笑った。

「バカは扱いやすくて良い。毒を吸わされているとも知らず、大金を払い続けるバカ。はした金でも、喜んで汚い仕事をするバカ。本当の元締めが誰かも知らず、間抜け面で“私はスパイです”と名乗るバカ。そして、どんな窮地に陥っても、自分だけは助かると思い込んでいるバカ」

 最後のあたりは、もう動かない浦部を見下しながらの言葉だった。

「どんなバカだろうと、身の程に合った暮らしをすれば、こんな目には合わなかっただろうに。まあ、それができないのがバカの宿命なのかもしれないがね」

 二階堂は、最後にもう1度だけ悠梨の顔を見下ろすと、くるりと背を向けた。

「特別講義は終わりだ、尼ヶ崎くん。来世はもう少し、賢い人間として産まれてくると良い」

 立ち去る二階堂の足音に、悠梨はただ歯ぎしりで答えることしかできなかった。


 ※


「ここね」

「間違いありません。この中です」

 真琴の問いに、ホーネットがうなずく。車は例の洋館のすぐ前まで来ていた。

 実のところ、真琴はここへ来るのは年齢が両手で数えられる頃以来。

 ちゃんとたどり着けるか不安な節もあったが、そもそも山道に分岐はないので迷いようがなかった。

「やっと着いたのか」

 いつも以上に青い顔をしたゾフィアが言った。

 力を使いすぎた反動もあるが、それ以上に彼女を苦しめたのは痛烈な車酔いだった。

「とにかく、中へ入るわよ」

 というわけで、一同が車から降りて(ドロロはドアをすり抜け転げ落ちた)、外へ出たとき、ちょうど洋館の玄関の扉が開いた。

「あ!」

 洋館から出てきた男の顔を見るなり、ドロロが声をあげる。

「あの人です! あの人がユリィさんを」

「これで、探す手間が省けそうだな」

 ゾフィアがつぶやいた。

 洋館からアタッシュケースひとつを抱えて出てきた二階堂は、真琴たちを見つけるなり、明らかにぎょっとした。

 まあ、ドロロに一部始終を見られていたことに気づけなかった二階堂にとっては、まさに青天の霹靂だろう。

「すみません。お尋ねしたいことがあるのですが」

 文面だけならだいぶ穏やかに見えるだろうが、真琴の語気にはだいぶ力がこもっていた。

「な、何でしょう。今、急いでいるので……」

「娘を探しています。尼ヶ崎悠梨と言うのですが、ご存知ですか?」

 その名前を出した途端、二階堂がぎょっとしたのを、真琴は見逃さなかった。

「いえ、聞いたことは──」

「ないとは言わせないわよ、先生」

 有無を言わさぬ口調に、二階堂は一瞬たじろいだが、すぐにうすら寒い笑みを唇の端に浮かべた。

「仕方ない」

 そう言いながらスーツの内ポケットに手を入れると、

「それなら、そこへ送ってあげますよ」

 と、拳銃を抜いた。

 間髪いれず、乾いた銃声が辺りに響く。飛び散った血しぶきが地面を汚した。

 そして、発砲の間際に真琴と二階堂の間へ割って入っていたゾフィアが、片目を押さえながらよろけた。

 顔も手も毒素に満ちる穢れた黒い血に、すっかり染まっている。

「ゾフィ!」

 ドロロの悲鳴が木霊した。

 だがゾフィアは倒れなかった。潰されなかった方の血走った目で、二階堂の姿を射抜く。

 小娘の皮を被った獣のような目つきは、二階堂をたじろがせるには十分だった。

 その一瞬の虚に、勝負はついていた。目にもとまらぬ速さでゾフィアは一気に距離を詰めると、二階堂の肩へ噛みついていた。

 飢えた犬が肉を食いちぎるかのように、何度も何度も毒牙を突き立てる。そのたびに悲鳴があがった。

 やがて動かなくなった二階堂の襟首をつかむと、ゾフィアはようやく顔を上げた。

「吐けッ! ユーリをどこへやった!」

 そう問答を浴びせたときには、既に二階堂は毒牙の作用で顔は土色、白目をむいていた。

 ゾンビ化、より正確には、相手の精神を支配できる幻覚性の毒だ。

「……ナカ、ヘ……、オイ、テ……」

 と、二階堂がぼそぼそとしゃべる。

「見て!」

 ホーネットが洋館の窓の1つを指さした。そこから、黒い煙が立ち上りはじめている。

「悠梨──」

 ほとんど反射的に真琴は走り出していた。

 焦燥に駆られながら洋館の玄関の扉を開けるが、熱気と黒煙のカウンターパンチを浴びて一瞬ひるむ。

 火が回りだしている。最近、とんと雨が降っていないので、建物全体が乾燥しているのだ。

 最悪の展開が、すぐそこまで迫っていた。

「悠梨!」

 と、真琴は我が身も省みず中へ飛び込もうとしたが、その腕をへとつのか細い手がつかんだ。

「死ぬ気か? バカめ」

 顔の半分を血に染めたゾフィアだった。

「離して。あの子が――」

「おまえが犬死にすれば、あいつが助かるわけでもあるまい」

 そう言ってゾフィアは真琴をぐいと引き戻した。手負いの小娘とは思えないほど、力強い手だった。

「任せろ。火あぶりには慣れている。──ドロロ、行くぞ! ついてこい!」

「え、私も? あ、待ってよ、ゾフィ!」

 ドロロが何かを言う暇もなく、ゾフィアは火の海のなかへ駆け出していた。

 普通の憶病者なら二の足を踏むところだろうが、そこは地獄あがれのドロロ。この程度の火など見飽きてすらいる。

 迷わず、炎の壁をすり抜け中へ飛び込んだ。

「ちっ。この煙じゃ、鼻は使えんな」

 燃え盛るロビーで、ゾフィアは鼻をひくつかせていた。

 おまけに、銃弾の直撃を喰らった左目もまともに機能しない状態。

 体力も限界が近づいているのか、肩で息をしている。

 ここまで追い詰められたゾフィアを見るのは、ドロロも久しぶりのことだった。

「あのエセ火消しめ。本当の火災のときに駆けつけなくてどうするんだ」

 と、この場にいないシズメ相手に毒づく。

「ゾフィ、どうしよう! 火の回りが早すぎるよ!」

「何のためにおまえを連れてきたと思っている。ユーリの気配を読み取れ。ぬかるなよ、おまえだけが便りなんだからな」

「う、うん」

 ドロロは集中すべく、目をつぶった。


 ※


 煙はすでに天井まで舌を伸ばしていた。

 悠梨にとって不幸中の幸いだったのは、動けなくなったのが床の上だったことだろう。

 なまじ椅子なんぞに縛りつけられていたら、煙にやられて、今頃ただの燻製ハムと化していたかもしれない。

 だが、這って逃げることすらできない現状は、少しも改善していなかった。

 希望があるとすれば、ドロロが仲間たちへこのことを伝えてくれているはずだということだが、はたして悠梨がここにいると気づいているだろうか……。

 なにはともあれ、諦めるわけにはいかない。

 ここまで、死の恐怖を身近に覚えたのは初めてだ。いくら死人と交流を持ったとは言え、死そのものはやはり無条件に恐ろしかった。

 毒による痺れに支配された手足で、必死にもがく。どんなにゆっくりでも、出口へ近づくよう全身全霊で力を振り絞る。

 そんな“生きる努力”を嘲笑うかのように、焦げ臭い熱風が悠梨の顔をしたたかに打った。

 火の魔手がそこまで迫ってきている。地獄からのお迎えとすら思えた。

 絶望の念が心に暗い影を落としかけた、ちょうどそのとき。

「ユーリ!」

 煙のかたまりを打ち砕くように現れたのは、地獄からのお迎えどころか、見慣れた脱獄囚だった。

「やっと見つけたぞ。まだ生きてるな?」

「ユリィさん、ご無事ですか!?」

 ゾフィアとドロロがそろって悠梨の顔をのぞきこむ。助けに来てくれたのだ。

 体さえ動けば、跳んで喜んだだろう。だが、毒に冒された体では声を出すことすらできなかった。

「……ユリィさん?」

「おい、いつまでのんきに腰を抜かしているんだ。カリカリのベーコンになりたいのか?」

 無性に食べたくなるときはあるが、なりたいと思ったことはない。

 ゾフィアはしばし、うんともすんとも言わない悠梨を怪訝な目で見つめていたが、

「……なるほど、そういうことか」

 とひとりごちて、次の瞬間、悠梨の首筋に牙を突き立てた。

 皮膚を食い破られた痛みに、悠梨は一瞬、顔を歪めたが、すぐに自分の体に起きた変化に気づいた。

 噛まれたところから全身へ広がるように、体の痺れが消えていったのだ。十秒もすると、すっかり全快になっていた。

「どうだ、楽になっただろう」

「……あ、ありがとう。でも、何をしたの?」

「なに。あの毒草にやられたのだと思ってな。それと打ち消しあうような毒を入れてやったのだ」

 ゾフィアは得意気に胸を張った。

「そんなことまでできるのね。てっきり人をゾンビもどきにするだけだと思ってたわ」

「言っておくが、すぐに効果が出るよう、過剰量をいれた。今夜から筋肉痛だぞ、覚悟しておけ」

「その“今夜”を生きて迎えられるなら、なんだっていいわ」

 と言いながら、悠梨が立ち上ろうとしたが、

「って、あんたもひどいケガじゃない。その目、どうしたの?」

「ただのかすり傷だ」

 ゾフィアは潰れた左目を悠梨に見られないよう、罰の悪そうにぷいっと横を向いた。

「わっ! ゾフィ、こっちで誰か死んでるよ!」

 浦部の死体を見つけたドロロがすっとんきょうな声をあげた。

「こいつは、確か、あの組織の──」

「ええ。……悪い奴だったけど、可哀想な最期よね」

「当然の末路だ。ギラギラと欲望のままに輝き、最期は虫けらのように死ぬ。それが悪党のあるべき姿なのだ」

 同情の念を示す悠梨の隣で、ゾフィアは浦部の死体をどこか懐古的な目で見つめていた。

「……私や、父上が、そうだったようにな」

「え?」

 と悠梨が訊き返したとき、下の階から何かが崩れ落ちる音がした。

「ゾフィ、ユリィさん、話は後にしよう! ここも長くはもたないよ」

 ドロロは今にも泣きそうだ。

「それもそうだな。行くぞ、ユーリ。続きはおまえにコーヒーをおごらせてから──」

 そう言いながらゾフィアは歩きだそうとした、そのとき。

「ゾフィ、見て! 天井が崩れそう!」

 と、ドロロが上を見ながら絶叫した。

 梁がきしむ音が少しずつ増していく。火に焼かれ、自重に耐えられなくなったのだ。

「ユーリ、伏せろ!」

 と言いながら、ゾフィアが悠梨を突き飛ばす。

 焼けた梁が落ちてきたのはその直後のことで、ゾフィアはそれを素手で受け止めた。

「ゾフィア!」

 悠梨の心配ごとはねのけるように、ゾフィアは受け止めた梁を床へ投げ捨てたが、急に右目を押さえたまま動かなくなった。

「ゾフィア? どうしたの?」

「……ユーリ、ドロロ。ここからは、おまえたち二人で逃げろ」

 とゾフィアがうめく。

「右目に焼けた破片が刺さった。まともに物が見えん」

「ゾフィ」

 ドロロがすぐ心配するように寄り添う。

 もしゾフィアが万全の体調だったら、この程度では参らなかっただろう。毒の力で細胞を異常活性化させ、即座に傷を治したはずだ。

 しかし、つい昨日に毒素の大盤振る舞いをしたというのに、今日も長時間の身体強化に、二階堂や悠梨への毒素投与。もう毒素が枯渇したのだ。

 いくらゾフィアが苦境に慣れていると言っても、満身創痍は満身創痍である。

「何をモタモタしている。特にユーリ、おまえはまだ生きている身だろう。早く行け」

「行けるわけないでしょ。3人で逃げるのよ」

 と、悠梨はゾフィアを背負った。

 いくら地獄上がりの極悪人とは言え、両目を失った命の恩人を置いていけるほど、悠梨は合理的な人間ではない。

「何のマネだ。私を置いて、2人で行け。どうせ私は死人だ、もう死ぬことはないんだぞ」

「だからって、ボロボロになってまで助けに来てくれた友達を、置き去りにはできないわ」

「恩を着せる気なら無駄だぞ。頼んでない以上、対価は払わんからな」

「みんなで無事に帰れれば、それだけで私は満足よ」

「どこまでバカなんだ、おまえは」

「見ての通りの大バカ者よ」

「……物好きめ。勝手にしろ」

 悠梨の背中で、ゾフィアは拗ねてしまった。

「ドロロ、出口まで案内してくれる?」

「はい、こっちです!」

 先に部屋を出たドロロを追って、悠梨は走り出した。

 幸い、そのドアの向こう側は天井が高くできており、まだ煙はそれほど充満はしていなかったが、それも時間の問題点だろう。

「ユリィさん、ここから下に降りられます」

 ドロロはそう言って、すぐそこの階段から一階へ降りたが

「ウソでしょ!?」

 と、悠梨がためらったのも無理はない。

 階段は既に炎で包まれており、生身の人間にはとても通れそうになかった。

 火がうつるだけでも大惨事だが、下手に脆くなった足場を踏み抜いたりしたら……。想像すらしたくない。

 ──だが、ここにいても焼け死ぬだけ。行くしかないのか……。

 悠梨が二の足を踏んでいたそのとき、すぐ隣の部屋のドアが勢い良く開いて、中から誰かが飛び出してきた。

 その姿を見て、悠梨は目を丸くする。

「お母さん!?」

「悠梨! 無事? ケガは?」

 真琴の登場に、悠梨はすっかり驚いてしまった。

 ゾフィアたちが助けに来てくれるかもしれないとは思っていたが、まさか母まで来てくれるとは予想だにしていなかったのだ。

「私は大丈夫よ。お母さん、来てくれたの?」

「詳しい話は後よ。一階はもう火の海で、とても通れないわ。こっちよ」

 真琴が悠梨の手を引いて、部屋へ入る。

 すぐには気づけなかったが、悠梨を引っ張る真琴の手は、べっとりと血にぬれていた。

「お母さん、その手──」

「大したケガじゃないわ」

 真琴の口調は、それどころじゃない、という感じ。

 ──ゾフィアが洋館へ突入した直後、一時は止められた真琴だが、それでも悠梨を救いに中へはいろうとしたのだ。

 外に残ったホーネットが何度も制止したのだが、それで止まる真琴ではない。

 仕方なく、一方で燃え方の様子を冷静に見極めていたホーネットは、

「でも一階はもう危険です。私が足場になるので、入るのは二階からでお願いします」

 と提案。それに従って、真琴は上から洋館に突入したのだ。

 手のケガは、窓ガラスをパンチで叩き割った際、破片で切ってしまったのである。

「こっちよ」

 真琴が悠梨をつれていった部屋には、外から叩き割られた大きな窓があった。もちろん、真琴はここから入ったのだ。

 そのとき

「あっ」

 ふいに悠梨の足下の床が裂けた。長い年月の末に脆くなっていた床が、ゾフィアを背負った悠梨の重みに耐えきれなかったのだ。

「悠梨!」

 とっさに真琴が手に力をこめたので、悠梨は下へ落ちずに済んだが、それでも宙ぶらりんになってしまった。

 下は既に火の海で、落ちれば命はないだろう。立ち上る熱気に悠梨の顔がゆがむ。

 しかし真琴の手助けがあるとは言え、ゾフィアを背負ったままでは、とても上へよじ登れそうもなかった。

「悠梨、手を離さないで!」

「大丈夫よ、これしき──」

 と悠梨は腕に渾身の力をこめるが、状況は好転しない。

 そんな状況で、ふと

「焼きが回ったな、ユーリ」

 耳元でゾフィアがせせ笑った。

「私のことは置いていけと言ったのに、それを無視するからこうなるんだ」

「黙ってて。落ちるわよ」

「望むところだ」

 その言葉が、悠梨に嫌な予感を抱かせた。

「ゾフィア、まさかあんた……」

「思いあがるな、人間風情。私は地獄あがりの死人だ、おまえたちとは違う。なるようになるさ」

「ダメ、やめてッ!」

 と叫んだときには、もう遅かった。ゾフィアは自ら悠梨から手を離し、燃え盛る一階へと転落した。

「ゾフィア!」

「おい、ユーリ!」

 ゾフィアの姿は炎の海に沈んでしまったが、声ははっきりと聞こえた。

「この私が、これだけ手を尽くしてやったんだ! これで死んでみろ、おまえを殴りにあの世へ帰ってやるからな!」

 その台詞に背中を押され、悠梨は二階へよじのぼった。

 ──あんたのこと信じるわよ、ゾフィア。

 心の中でそう呟きながら、

「……行こう、お母さん」

 と、迷いのない目で真琴の方を見た。

 真琴も、娘の心境は察していたのだろう。黙って頷くと、

「ここから出るわよ」

 と、割れた窓より外を見た。

 二階と言っても、一階の天井が大分高いので、ここから外の地面では、けっこうな落差がある。

 非常梯子はもちろん、テラスやベランダのようなものもない。

「跳べる? 無理そうなら、私がまず出て、あなたを受け止めるわ」

「平気よ。私は、“二階から落ちても捻挫ひとつしなかった子”よ。お母さんこそ、大丈夫?」

「私はその母親よ」

「それもそうね」

 悠梨は先に窓から外へと飛び降りた。軽やかに着地するつもりだったが、思いのほか腰への衝撃が大きくて、顔をしかめた。

 これをもう一度はやりたくないわね、などと思っていると、隣に真琴が華麗に前転受け身。

「やるじゃない、お母さん」

「まだ若いもの」

 38歳にして、即答だった。

「ユーリ! マコトさん!」

 ホーネットがドロロを連れて走ってくる。

「二人とも、無事!?」

「私たちはね。でも、ゾフィアがまだ中に……」

 と、悠梨は洋館の壁に目をやる。

「それなら大丈夫よ。たった今、救援の追加部隊が入ったわ」

 ホーネットがそう微笑んだとき、壁の向こうから、レーザーのような強い閃光が幾筋も貫いた。

 閃光が壁をドア状の形に焼き切ると、その部分が音を立てて地面に倒れる。そして──

「やれやれ、無様なものデスね。これからは“地獄の前座担当”と名乗ったらいかがデス?」

 現れたのは、ドラ=イミーラだった。

 その手に、仰向けに倒れているゾフィアの右足を握り、ずるずると引きずりながら外へ出てくる。

「イミーラ!」

「そうデス。正義の真打ち、イミーラさんのご登場デス」

 真打ちも何も、危機はほとんど去った後なのだが。

「おまえに助けを頼んだ覚えはないぞ。でしゃばるな」

 ゾフィアがすっかり渋い顔をしている。

「それが恩人への口の利き方デスか?」

「何が恩人だ。こんな扱い方をしておいて」

「事実は事実デス」

 と、いつものような小競り合いを繰り広げていると、

「いやー、ごめんね! 遅くなっちゃった」

 と、中からシズメも顔を出した。

「二人もわざわざ来てくれたの?」

「ううん、偶然」

 シズメがケロっと答える。

 ──置いていかれたことに腹を立てたドラ=イミーラが、井戸へ放電してシズメを叩き起こしたのだった。

 その後、ゾフィアたちを追って下山するはずだったのだが、その最中に火事の煙を見つけたシズメ。

 そこで火消し魂に“火”がついたシズメが、ドラ=イミーラを引っ張って火元であるこの洋館へ来た、そしてたまたま悠梨がいた、という経緯だったのである。

「まあ、あとは任せてよ。江戸の火消しの勇姿を、ボクが現世に知らしめてあげるから」

 と言い残して、シズメはもう1度、燃え盛る建物の中に消えてしまう。

 しかし、ああも元気だと、悠梨も「あいつなら何とかなるか」と安心してしまうのだった。

「ゾフィア、大丈夫? あなたにしては、えらく無茶をしたわね」

 ホーネットはゾフィアの顔を覗きこんだ。

「ほざくな。この程度で私が参ると思うのか、バカめ」

 ゾフィアは面白くなさそうに、横を向いてしまう。

「なによ。心配させておいて」

 と、頭に来た悠梨は思わず言ってしまった。

 あの脱出の間際、火の海へ落ちたゾフィアを見て、それほど心配したのである。

 が、このタイミングでその言葉はまずかった。

「悠梨」

 と呼ぶ母の声に、悠梨が顔を正面に向けた途端。一発の張り手がとんだ。

「……お母さん?」

「今の言葉、これだけ周りを心配させたあなたが言えるの?」

 真琴はいつになく、厳しい目をしている。

 だが、まあ、もっともな話だという自覚は悠梨にもあった。

 多少は不可抗力だったとは言え、母やゾフィアたちに身を案じさせたことには変わるまい。

「だから私は、火遊びはほどほどにしろと、あれほど言ったのよ」

「いや、えーと、うん。それは悪かったとは思ってるわ。ごめんね、次から気をつけるから──」

 そういったところで、悠梨の言葉は遮られた。真琴が悠梨をぎゅっと力いっぱい抱きしめたのだ。

「ちょっと、お母さん!?」

 悠梨は慌てふためいてしまった。

 周囲を見れば、ホーネットもドロロもドラ=イミーラも、そろって目をぱちくりしている。

 急に羞恥心がこみ上げてきた悠梨は、たまらず母の腕を振り払おうとしたが、何せ腕力ではボクサーの真琴に分があった。

 少しじたばたしたくらいでは、どうにもならなかった。

「お母さん、何もここまで心配してくれなくても──」

「するに決まってるじゃない」

 と、真琴はさらに抱擁の力を強めた。

「あなたは私にとって、世界中の何より大切な存在なんだから」

「──お母さま!」

 感極まった声が周囲に響いた。

 叫んだのは悠梨ではない。

 見れば、真琴の足元でホーネットがひざまずいている。

「ただ今の深い愛に満ちたお言葉、私、大変感服いたしました! どうか私を弟子に、いえ、養女にしてください!」

 今度は真琴が目を丸くする番だった。

 悠梨に至っては恥ずかしすぎて、くりだす言葉が見当たらない。

「どうかしたの?」

 シズメが再びひょいと顔出す。

「なあに、これ。どういう状況なの?」

 と首をかしげるが、答えられる者は誰もいなかった。

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