深夜病院の罠
「いやだわ。すっかり遅くなっちゃった」
楽しい時間と言うのはあっという間に過ぎる。それは人間でも死人でも、そう変わらない。
デートにうつつを抜かしたホーネットは、やや急ぎ足で安定堂への道を進んでいた。
特に、ゾフィアを拗ねさせると面倒くさい。
あまりご機嫌が斜めに傾く前に帰れれば良いのだが、とはデートの中も頭の片隅では思っていた。
しかし、もう帰らないといけないという気持ちが、かえって愛を熱くするものなのだ!
──と言って、はたしてゾフィアに分かってもらえるだろうか。
「寝言は寝て言え、ハレンチめ」
と蔑まれるのが関の山だろうな、と認めざるを得なかった。
「……あら、ここって」
あまり意識せずに歩いていたが、気づくと市立病院のすぐ近くの道だった。
そう言えば、飯倉聡子はどうなっただろうか。訊いたら、誰か教えてくれるだろうか。
「こういう寄り道なら、文句、言われないわよね……」
と自分を正当化する言葉をつぶやきながら、ホーネットは病院の方向につま先を向けた。
※
時を同じくして、市立病院の一般病棟、507号室の前に1人の男が立っていた。
外観こそサラリーマン風のスーツをまとっているが、刑事がその顔を見たら、すぐさま取り押さえ逮捕したであろう。
ドラ=イミーラが描いた似顔絵により、この男が飯倉聡子を襲った実行犯だということは、警察にも知れ渡っている。
そんな男がなぜこの病院へ来たのかと言えば、ここに入院している飯倉聡子にとどめを刺すためだった。
1度「殺せ」と命令された以上、実行できなければ自らの進退が危ない。それは、本部に警察の介入があっても同じことだろう。
それにしても、1度しくじったにもかかわらず、病室の前には見張りの警官すらいない。
社会の秩序を守るなどと息巻いている割には能天気な連中だ、と男は冷笑をこぼす。
音もたてず、病室のドアを開けた。ここが聡子の病室であると、事前に調べてあった。
消灯時間後だったので部屋は暗かったが、ドアのスリガラス越しに廊下の光が差し込んでくるので、真っ暗闇というわけでもない。
少なくとも、ベッドの位置や、そこに女が横たわっていることを確認するのには十分な明るさだった。
忍び足でベッドに歩み寄った男は、懐から飛び出しナイフを取り出した。
あまり大きな物ではないが、相手が無抵抗な病人ならば問題にはならない。むしろ隠し持つのには、小さい方が都合が良い。
刃先を下に向け、男は何のためらいもなく、ナイフを胸の辺りに振り下ろした。
かけ布団を、深々とナイフが貫通し──、一瞬の白い閃光が部屋を覆った。
「ちっ、誰だ!」
男が青くなる。誰もいないと思っていたのに、部屋の片隅に人影があったのだ。
「今の瞬間、確かに撮ったわよ」
カーテンの影から、女がカメラを持って出てきた。雰囲気からして、聡子ではない。見知らぬ女である。
「観念するのね。もう逃げ場はないわ」
「くそっ」
とナイフを乱暴に抜いた途端、ベッドから何かが転げ落ちた。
人の頭のように見えたそれは、よく見ればカツラを被った頭部だけのマネキンだった。
青ざめながら、男はかけ布団をめくる。誰も寝ていなかった。男が刺したのは、丸めた布団だったのだ。
「はめやがったな。あの飯倉聡子って女はどこにいる!」
「大きな声を出さないの。ここは病院よ」
「質問に答えろ! 早く白状しないと、ここがおまえの霊安室になるぜ」
「助かるわ。あなたにその気がないと、正当防衛が成り立たないもの」
淡々とした口調で、女はカメラと、かけていた銀縁メガネを懐にしまった。
代わりに取り出したのはメリケンサック。女の目がすわった。
「舐めやがって」
リーチの長さなら、ナイフの方が有利である。
男は一気に距離をつめると、ナイフを振りかざした。
が、女の拳が一閃! ナイフはメリケンサックに弾き飛ばされ、部屋の隅の方に転がっていく。
そこからはもう、一方的な有り様だった。顔、肩、腹。どこをどう殴られているかも理解できないまま、男は拳を浴びせられ続けた。
女の眼がギラりと輝く。口元は、人を殴ることを純粋に楽しんでいるような、狂気じみた笑みに歪んでいた。
その表情を目にしたちょうどその瞬間、女の拳が男のアゴに直撃。大きく吹っ飛ばされた男はドアを破り、廊下に転がった。
そして、そのまま大の字にのびてしまう。その殺し屋らしからぬ醜態を、
「ようこそ、市立動物病院へ」
と、黒沼医師が笑いながら見下ろしていた。
「凶暴なメスゴリラの病室に忍びこんだ気分はどうだい?」
「誰がメスゴリラですって?」
と、尼ヶ崎真琴がメガネをかけながら廊下に出てきた。
「せっかく褒めてやってるんだ、おっかねえ顔するなよ。流石、アマチュアボクシング元チャンピオン。圧勝だったな」
「今さら褒めたって、失言は失言よ」
「そうツンツンするなよ。マコト同士の仲じゃねえか」
と、黒沼誠は、尼ヶ崎真琴の肩に馴れ馴れしく手を回した。
※
尼ヶ崎真琴と黒沼誠の出会いは、今より22年も昔、同じ高校の同じクラスに属していたことから始まった。
周囲はさぞ、珍妙な取り合わせだと思っただろう。学校一の天才生徒・黒沼と、学校一のチンピラ・真琴では、何もかもが対照的すぎる。
しかし、誰もが一過性の接点と思った2人の関係は、意外なほど長々と続き、今や“最も頻繁に会う親友同士”にまでなっていた。
互いに時間を確保できた夜に、バーで落ち合って世間話をしながら一杯やるのが、昔から変わらぬ2人の友情の形だった。
そんな2人だが、今回の事件、何も最初から連携していたわけではない。
先に動いていたのは黒沼の方で、入院中にこっそり外出をしてはセンターに入り浸っている患者が何人かいるという噂を聞き、留意していたのだ。
そこに真琴と仲の良かった飯倉聡子が、主人を亡くすという事件が発生。
事故の裏にセンターが関わっているのではないか、という聡子の推測を信じた真琴が、この話を黒沼にして、いよいよ2人は立ち上がったのだ。
学生である悠梨ほどアクティブには動けなかったが、それでも何とか時間を作って、知人をあたるなど少しずつ調べ回っていたのである。
悠梨が事件に首を突っ込んでいたことが真琴に筒抜けだったのは、もちろん、黒沼が真琴へ目撃情報を流していたからだ。
そこへ今度は、聡子が命を狙われて重体に陥り、この市立病院に緊急入院。
犯人が逃走中であることを知った黒沼は、2度目の襲撃を危惧し、警察とは独自に一計を練ることにした。
まずは院内の手ごろな空き部屋を確保すると、飯倉聡子の見舞いを名乗る人物にその部屋番号を教えることをナースステーションに依頼。
この手の寝技に長けているのが黒沼の強みであり、その読み通り、不審な人物が見舞いにきたという報告があった。
おそらくは所在を確かめるだけの下見。凶行は人の気の少ない夜に行うはず。
そう読んだ黒沼は真琴に、今夜、偽病室である507号室にて待機するよう電話したのだ。
「聞きたいこと? 何だ?」
「聡子は、まだ厳しい状態なの?」
「ああ、容態はだいぶ安定しているが、まだ意識は戻っていない」
「犯人なら、この隙を確実にねらってくる、ということね」
「きっと、そうだろうな」
「どこまで不幸のどん底に突き落とせば気が済むのよ。これから幸せになるってときに……。犯人のこと、絶対に許さないわ」
「ああ、地獄を見せてやれ。君なら朝飯前だろう」
──そして、今に至るいうわけである。
※
「不審者が出たんですって?」
廊下の向こうから、若い警官がやってきた。
聡子が眠っている“本物の”病室を守っていたのである。やけに来るタイミングが良いのは、もちろん、黒沼が呼んだからだ。
「そいつですよ」
と、黒沼が廊下に横たわる不審者の男を指さす。
「ナイフを持っていました。刺される寸前だったので、“思わず”殴ってしまいましたが」
真琴は、明らかに“思わず”の部分を強調していた。
駆けつけた警官は、その不審者の顔を見ると、ポケットからA5用紙くらいのメモ紙を取り出し、
「あ、こいつだ。いやあ、お手柄ですね。こいつが殺人未遂で逃げていた犯人ですよ」
と、男の顔とドラ=イミーラが描いた似顔絵を、何度も見比べながら、
「いやあ、お強いんですね。凶悪犯を殴って撃退ですか……。──もしかして、こちらの先生の奥様ですか?」
「違います。他人です」
即答だった。
「──他人はねえだろうよ、尼ちゃん」
警官が気絶したままの男を、病院のストレッチャーを借りて連れていった後、黒沼は渋々としていた。
尼ちゃん、というのは黒沼がつけた真琴の愛称で、尼ヶ崎真琴の苗字とアマボク元チャンピオンという肩書をかけている。
「本当のことを言ったまでよ」
真琴は指でメガネの位置を直しながら、澄まし顔で答えた。
この銀縁メガネ、実はただの伊達メガネであり、度は入っていない。
これは真琴が、産まれたばかりの娘を喰わせていくため学校を辞めて働き出したときにかけ始めたものだ。
真琴はろくに学業にも励まずケンカ沙汰ばかりの不良だったのだが、メガネをかければ“頭が悪い女”とは見られないだろうと考えたのだ。
当時の黒沼からは「その発想がすでに頭悪いわ!」と思いっきり笑われてしまったが、その伊達メガネは今もかけ続けている。
このメガネは、後先考えないやんちゃ女だった頃の自分との決別の証しでもあった。
「でも、これで全て終わったのよね」
面会室の明かりをつけると、真琴は椅子に腰かけながら安堵の息を吐きだした。
「あいつが全て白状すれば、組織も殺人教唆でお縄だ。逃げ道はねえさ」
黒沼が真琴の隣に座る。
「ま、色々あったが、あのガキンチョ探偵が危ない目にあう前に片づけられたのは幸いだったな」
「本当よ。学生なのに勉強そっちのけで無茶なことばかりやって。誰に似たのかしら」
「鏡を見てみろよ。そこに答えが映ってる」
黒沼は意地悪に笑ってみせた。
「しっかし、本当によく似たもんだ。顔見ただけで、すぐピンと来たぜ。こいつが尼ちゃんジュニアかって」
「確かにあの子、顔のつくりは私とよく似ているのよね。きっとメガネ、似合うわよ」
「似合わねえよ、賭けても良い。まず尼ちゃん、おまえさんが似合ってない」
「素人が女のおしゃれをけなすものじゃないわよ」
と、真琴が顔をしかめた、ちょうどそのとき
「きゃーっ!」
とけたたましい悲鳴が廊下に響き、2人はバネのように立ち上がった。
「これは、あまり良い事態じゃねえぞ」
「とにかく急ぐわよ」
と、走り出す。病院の廊下を全力で駆けるなんて、そう体験できるものではない。あまり嬉しくもないが。
悲鳴が起きた場所に着くと、あの警官が血まみれになっており、既に何人かの看護師に手当てされていた。
ストレッチャーが横転しており、あの男の姿はどこにもなかった。
想像はつく。目を覚ましたあの男が、隠し持っていたナイフで警官を切りつけて逃走したのだろう。
「せ、先生……」
息も絶え絶えの警官が、血のついた手を2人の方に伸ばす。
「大丈夫、落ちついて。後はこちらで何とかします」
と答えて、黒沼は処置に入る直前、真琴の方を一瞥した。
「尼ちゃん」
「任せて」
すぐ近くに階段があった。夜の病院は静かなので、誰かが全力で駆け下りる音が反響して真琴の耳にも届く。逃げる気なのだ。
奥歯が擦れるほどの力で歯ぎしりをした真琴は、乱暴にメガネをつかむ。
「……逃がしはしないわ」
真琴は数段飛ばしに階段を駆け下り始めた。今も週一でボクシングジムに通っているのだ、体力に不足はない。
──チンピラ時代に培った往年の狂犬根性が、野放しにされた瞬間であった。
※
「ごめんください。誰か、いませんか?」
静寂が支配する夜の病院で、ホーネットはそんな声をあげた。
昨日ここへ来たときは、悠梨もいたし、その母である真琴が来てくれたのだが。
現世の勝手にはだいぶ慣れてきたとは言え、それでも病院のことはよく分からない。
部外者がズカズカ進んで良いものなのか。それに、進むにしたって、一本道というわけでもない。
「困ったわ。やっぱり、ユーリと来れば良かったかしら」
などと戸惑っていると、ちょうど昨日と同じのように、誰かがこちらへ来るのが分かった。
知らない男だ。それも、どういうわけか全力疾走。
確かに困っていたのは事実だけど、とホーネットは思った。──何も、そんな急いで来てくれなくても良いのに。
「あの、ちょっとよろしいですか?」
とは言いかけたものの、なぜか男はすごい剣幕。
なんだか、声をかけても助けてもらえそうにないな、とホーネットは
「都合が悪ければ別に──」
と断ろうとしたが、なんと、男はホーネットの後ろに回り込むと、背後から腕でホーネットの首を絞めあげた。
「ちょっと、何のつもり?」
既に死んでいる身なので、何をされようと怖くはないが、それでも戸惑いは隠せない。
ちょうどそこへ、
「待ちなさい!」
と、これまた歯を剥き出しにした狂犬のような形相で、女がこちらへ突進してくる。
ホーネットはすぐ、その人が昨日会った尼ヶ崎真琴であることに気付いた。──でも、昨日と違って今日はなんだかワイルドなのね。
「来るな!」
と、男がホーネットの首元にナイフをつきつける。
「一歩でも近づいてみろ。こいつの命はないぞ」
もう既にないわよ。ホーネットはそう言いそうになったのをこらえた。
真琴はひとまず止まったが、すぐに人質が昨日も会った、娘の友人と気づいて、
「あなた、昨日の──」
「あら、またお会いしましたわね」
首さえ自由だったら、きちんと頭を下げていただろう。ホーネットはできるだけ愛想良く、
「ちょっと、後でお時間いただけませんか? お尋ねしたいことが──」
「おまえは黙ってろ!」
男がホーネットの首をしめる腕に力をこめる。
「ねえ、あなた。誰かは存じませんが、人質にする人はきちんと選んだ方が良いのではなくて?」
ホーネットはちょっぴり呆れながらささやいた、
正直なところ、地獄の住民だったホーネットにとって、こんな状況などピンチのうちには到底はいらない。
むしろ、正体を知られないようにこの場を切り抜けることの方がはるかに難題だった。
「その子、離してあげなさい」
真琴が言った。
「じき、新手の警察が来るわ。あなたはもう、袋のネズミよ。無駄に余罪を抱える必要もないでしょ」
「どうにでもなるさ。こっちには人質がいるんだ」
男がニヤリと笑う。
ホーネットはむしろ、事態がだんだん大事になっていくことを危惧していた。そんな心境などつゆも知らず
「そうだ」
男が脅すような口調で真琴に言った。
「今から飯倉聡子の病室へ案内しろ。少しでも逆らえば、こいつをぶっ殺してやる」
「……今、なんて?」
ホーネットの声色が変わった。戸惑いと呆れは引っ込み、代わりに頭をもたげたのは燃え上がる怒りの念。
「あなたの仕業だったのね!」
ホーネットの首が、ねじ切れそうな勢いでぐるんと半回転し、男を睨んだ。
その瞬間、男の腕の上に頭部を残し、首から下の体が床に崩れ落ちる。
「ぎゃっ」
驚いた男がホーネットの頭を落とすと、ホーネットは体中の骨を一直線につないだ、異形の姿で蛇のように鎌首をもたげた。
「覚悟はできているんでしょうね」
そう言って、蛇状の骨格になったホーネットが一瞬のうちに男の体に巻きつく。
男は苦悶の色を顔に浮かべながら声にならない悲鳴をあげ、数秒後に崩れおちた。
首から下には間接も腱もないホーネットが体を自在に動かせるのは、骨自体を動かす特殊な力を持っているからである。
そしてその力を適用できるのは、自分の骨だけに限らない。相手と密着さえしていれば、その力で全身のあらゆるところを脱臼させることくらい、造作もないのだ。
膝や肘はもちろん、手足の指の1本1本に至るまで、全て……。
「痛いとは言わせないわよ。愛する人を失った痛みに比べたら、そんなの大した痛みではないわ」
男の体から離れると、ホーネットは骨格を元の人型に戻した。
「あなたを愛した人もいたのでしょうから、その人たちに免じて、背骨だけは手をつけないであげたわ。ただし、次は配慮しないわよ」
と言い捨てて、くるりと背を向ける。
視界にうつったのは、ポカンとしたまま一言も言えなくなっている真琴だった。
そのときホーネットは、ようやく、自分が白骨丸出しの全裸だったことを思い出した。
「あの、いえ、これは、その……」
と、あたふたしていると、
「尼ちゃん。あいつは、どう──」
黒沼がやってきて、これまたホーネットの骨格を見て、固まってしまう。
あわててホーネットは、床に落ちている服をひっつかみながら、
「えーと……、後生ですから、どうか、見なかったことにしてもらえません?」
地獄に落ちたのに後生もへったくれもないのだが。
「最近の若い女はダイエットのしすぎだって聞いたことがあるけどよ」
黒沼が、そのむき出しの肋骨を眺めながら、ぼそっとこぼした。
「ここまでとは、思わなかったよ……」
※
「本当に、ありがとうございます!」
ホーネットは──もちろんだが、ちゃんと服は着ている──深々と頭を下げた。
「なんとお礼を申して良いか──」
「それはお互いさまよ」
真琴は静かな口調で答えた。
2人は、警察への対応や残業の処理にあたっている黒沼を置いて、遅くまで営業している喫茶店まで来ていた。
つい先ほど、パトカーのサイレンの音が聞こえたので、犯人は連行されていったに違いない。
「あの男を捕まえたのはあなたの手柄だからね。恩人を売るような真似はしないわ」
と、真琴は気さくに微笑んだ。
「支払いは私がもつから、好きなもの頼んで良いわよ」
「お気持ちは嬉しいのですが、その……」
「どうかしたの?」
「食べようにも、胃袋がない体なので……」
ホーネットは顔を赤らめながらうつむく。
「言い方は悪いかもしれないけど、ずいぶん、変わった体質なのね」
真琴は率直に言った。
「これも何かの縁だし、私にできることならしてあげられるけど」
「お構いなく。私としては、ご内密にしてもらえれば、それで十分ですの」
思わぬ良待遇に思わず照れながら、ホーネットが答える。
「そう。まあ、他言はしないから安心して。黒沼くんにも、私の方から口止めしておくわ」
と、真琴は言った。
そのとき、ウェイターがやってきて、
「カレーライスをご注文の方は」
「私です」
と真琴がそれを受け取ったのを見て、ホーネットはびっくり。
そのカレーライスは、どう見ても3人前くらいはありそうな大きさで、真琴も当然のようにそれを受け入れている。
「悪いわね、私1人でガツガツ食べちゃって」
「いえそんな、気にしないでくださいな。私はただの骨ですので」
とホーネットは言って、
「これを全部、おひとりで食べるんですか?」
「夕飯、まだだったのよ」
真琴はさも当たり前のように答えた。
ホーネットは知る由もなかったが、この辺りの飲食店事情に真琴はくわしい。
この遅い時間にまだ営業していて、かつ、それなりのボリュームのものが食べられるということで、ここは真琴の行きつけの店の1つである。
減量中はまず来店できないのが、辛いところではあったが。
「そう言えば、昨日言っていたことは、どこまで本当のことなの?」
最初の一口を味わった後、真琴が尋ねた。
「確か、ついこの前、来日したって言ってたけど」
「ええ。全部、本当のことです。ただ、言うべきことを言わなかっただけで」
「なるほど。なかなか、強かな子ね。確かに、昨日は根掘り葉掘り、訊かなかったものね」
真琴は笑いながら、
「答えたくなければ、そう言ってもらって構わないわ。私も興味で訊いているだけだから。……あなた、どこから来たの?」
「地獄です」
もう今更、隠すこともあるまい、とホーネットはあっさり白状した。
「……あの、天国とか地獄とか、そういうの信じていらっしゃいます?」
「これでも尼ヶ崎の宗家9代目当主だからね。現代人にしては信心深い方よ」
ユーリってば、そんな由緒正しい家柄だったのね、とホーネットはこっそり感心していた。
少なくとも、ホーネットの価値観にある“名家のお嬢様”とは、だいぶ様子が異なる。
「それにしても、天国じゃなくて、地獄からの方なのね」
「でも、別に悪さをしに来たわけじゃありませんの。ただ、ハネムーンに」
「ハネムーン?」
「そうです。ただ、お相手は現地調達を目指しておりましたが」
「見切り発車のハネムーンなんて、ずいぶん斬新ね」
とは言ったものの、真琴としては、疑いの気持ちはなかった。
このホーネットという娘がウソをついているようには見えないし、何より、ウソならもっと無難なものがある!
「素性は概ね分かったわ。それで、悠梨はあなたの素性を知ってるの?」
「ええ。現世で最初に私たちを受けいれてくれたのがユーリでしたもの。今は安定堂というお寺で、お世話になっています」
「なるほど。確かに、隠れ住むには絶好の場所ね」
とつぶやいて、また、カレーライスを一口。
「あの、……許してもらえます?」
ホーネットがおずおずと尋ねると、真琴はきょとんとして、
「許す? まだ責めてもいないのに?」
「じゃあ──」
「悠梨がすべて承知の上で決めたことなら、私は口出ししないわ。あの子ももう、親の口出しが必要なほど子どもじゃないものね」
夜の窓ガラスに映った真琴の顔が、ふっとやさしく笑った。
「まあ、あの子が結婚前提の交際相手を連れてきたら、そのときは思いっきり介入させてもらうけど」
「ユーリさえ受け入れてくれるなら、私は婿側でも嫁側でも喜んで!」
ホーネットが頬を赤らめながら熱を上げると、真琴は笑みを引っ込めながら、カレーライスに視線を落とした。
「……今のは、聞かなかったことにしておくわ」
※
さて、食事も終えて──真琴に言わせれば「小腹は満たせた」そうだが──店を後にした。
「山の麓まで、車で送っていくわ」
と真琴が車のカギを見せる。
「そこまでしていただかなくても……。帰り道なら分かっていますわ」
「女の子が夜道の1人歩きなんて、感心しないわね。あなたなら不審者は怖くないと思うけど、おまわりさんに素性を訊かれたら困るんじゃない?」
「それは、確かに……」
「山の入り口まで行けば、もう誰とも会わないはずよ。そこまで送っていけば、あとは1人で帰れるわよね」
「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
この親子にはもうずっと頭が上がらないわね、とホーネットはお辞儀をした。
「ここで待ってて。車を持ってくるから」
と、真琴の姿がビルの曲がり角に消えた。
素敵な人だな、というのが率直な気持ちだった。こんな怪物じみた姿の根なし草に、こうも優しくしてくれるのだから。
──そうね、あの真琴さんに嫁ぐのもアリかもしれないわ。でも、そしたらユーリにはどんな顔で接すればよいのかしら……。
とらぬ狸の皮算用もここに極まり、といった具合である。
そのとき、ちょうどホーネットの目前で、道路の反対側の歩道を1人の女性が歩いていた。
やや大きめのキャリーバッグを引きずって、帽子を深くかぶり、口元をマスクで覆っている。
一瞬、目と目が合った。向こうの女は明らかに動揺し、早足でその場を去り始める。
はて。どこかで見たような気もするのだが、残念ながらホーネットの目にはドラ=イミーラのような録画機能がない。
思い当たる節と言えば、MUセミナーセンター代表の浦部くらいのものだが、あれはシズメが退治したはずである。
あやふやな印象で声もかけるわけにもいかず、小首をかしげているうちに自動車がホーネットの目前で停まった。
「乗って」
と真琴が声をかける。
あの女は放っておいて良いか、とホーネットは判断した。何より、もう組織は壊滅したのだから、今さら何もできまい。
そんなことより、問題なのは……
「ありがとうございます」
ホーネットは慌てふためきながら、その問題をぶつけた。
「でも、恐縮ですが、乗り方を教えてください!」
昔は馬車によく乗っていたが、さすがに自動車とは勝手が違いすぎる。
──ホーネットを乗せると、車はおごそかに走り出した。
「その様子だと、死後1年2年ってわけでもなさそうね」
「ええ。私も、まだピンと来ていないのですが……」
と、ホーネットは頭をひねって、
「あ、そう言えば、ベルサイユの宮殿は完成したか、ご存知ですか? 私、完成の一報すら聞けなかったことが心残りなんです」
「そうね……」
真琴は、今でこそクールで知的な女に見られるよう振舞っているが、学生時代は授業サボタージュの権化。
世界史の授業なんて、まともに耳を傾けたことすらなかった。
「悠梨に訊くと良いわ。私よりあの子の方が詳しいから」
と上手くはぐらかす。
そんなとき、噂をすれば何とやら、真琴の携帯電話に悠梨から電話がかかってきた。
「もしもし、お母さん? 遅くなるなら、連絡ちょうだいよ」
「悪かったわね。予定外の“サービス残業”を片づけるのに手間取ったのよ」
「ふーん」
と、気のない返事。
「あまりにもお腹すいちゃったから、もう1人で夕飯、食べちゃったんだけどさ、お母さんはもう食べた?」
「ええ。たまたま、あなたの友達と会ったから、一緒にね」
「私の友達? 誰のこと?」
「ホーネットちゃん」
真琴が答えると、スピーカーの向こうで悠梨がむせ返りだした。
「身の上話を交えながら夕飯につきあってもらったお礼に、今、安定堂の途中まで送っているところよ」
「えぇッ? まさか、お母さん、全部聞いたの?」
「地獄から来たってことも含めて、大体はね」
向こうで気まずそうな顔をしている娘の姿が、真琴には容易に想像できた。
「何が起きるか分からないものね、人生って」
「本当よ、もう!」
もう悠梨は吹っ切れたようで、
「急にお墓をひっくり返って、その下から現れたのよ! しかも地獄から来たって言うし、どこまでも常識外れな奴らだし、身勝手でわがままで我が強くて──」
と、今まで誰にも言えなかった分を、まとめてまくしたてている。
「──でも、地獄から来たって言ってる割には、そう悪い奴らとも思えなかったのよね。行く宛てもないって言うから、安定堂に置いてあげようかな、て思って」
「そういう経緯だったのね」
「うん。……お母さん、いい?」
「私のこと、筋金入りの放任主義者だと思ってるんでしょ? こんなときだけ、許可を求めないでよ」
と、真琴は笑いながら言ってやった。
悠梨が先日、黒沼に対して「うちの母は筋金入りの放任主義者なので」と言ったのは、“マコト同士のホットライン”で筒抜けなのである。
「あはは、そんなことは……まあ、あると言えばあるかな……」
悠梨はどうにか茶を濁そうとしている。
「まあ、これ以上の話は帰ったら紅茶でも飲みながら聴かせてもらうわ。もうバッテリーがあまりないのよ。お湯、沸かしておいてね」
「分かったわ。それじゃ、ホーネットのこと、よろしくね」
通話はそこで切れた。
もう街中からはとっくに出ており、民家と山林が入り混じる、山のすそまで来ている。
前後には人や車の気配はない。真琴は車を停めた。
「真っ暗だけど、この辺から、歩いて行ける?」
「はい。本当に、お世話になりました」
「いいのよ。──もし、また娘が無鉄砲なこと始めようとしていたら、無茶しないよう助力してもらえないかしら」
「勿論ですわ、喜んで」
とホーネットは愛想良く微笑んで、
「ところで、この車の扉はどうやって開けたら良いのですか?」
──外に出ると、春の心地よい夜風がホーネットのブロンドの髪をかき分けていった。
「じゃあ、おやすみなさい」
真琴の車のテールランプが街の方へ帰っていく。
「似たもの親子なのね」
ホーネットは、何気なくつぶやいていた。