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論文

有閑階級の諸相

ありとあらゆる娯楽に勤しみ、毎日のように悠遠で奢侈な生活を過ごす有閑階級(1)の存在は、決して見逃せないものである。此の世界に於ける社会性において彼らほど自由自適な存在はそういないだろう。見栄を張る為に非実用的な支出さえ厭わず、雑然とした感情のままで財布の紐を緩める事は、最早彼らの特権だろう。

アメリカの開拓者時代、それこそ他人を退け退けられの抗争の最中で為れた「有閑階級」は、誰もが夢見た憧れの立場であったことは言うまでもない。急激に発展する社会の中で、幸福追求の究極とも言えるアメリカンドリームはそこにあった。不合理な実用をも鼻で笑えるような存在になる事は、一種の人間性であった。此の階級は果たしてプロレタリアなのかブルジョワなのか、と問われれば万人が「ブルジョワだ」と答えるかもしれないが、不思議な事に此の階級は一切のイデオロギーを持たないのである。

この階級に於ける存在意義としての理念は全く無く、ただ金に物を言わせてしまっているだけの存在―――それが今では金利や土地代などで生活する金利生活者が、有閑階級の代表例となってしまっているのだ。この諸相には社会学では顧みれない、一種の観念が亡霊のように佇んでいる。


ブルジョワ社会では、資本は独立していて人格を持っている(2)が、果たして有閑階級の資本は独立しているか、と考えて見ればそうでもない。其処には奢侈な生活を毎日の休暇として行う人々が居るだけで、資本は決して独立しておらず、寧ろ癒着さえしている。彼らは資本を「他人に見栄を張る為に必要な鍵」としか考えていない。他人と決別させ、自身を独立させることが有閑階級の本質であるからだ。

この本質はまるで此の階級の為だけに存在するようなもので、不思議な事に資本の一切が彼らの感情欲、顕示欲的な退嬰さそのものである。この資本の一切に「独立していて人格を持っている」と言うのは殊更おかしい話なのである。そう考えると彼らはブルジョワとしてのイデオロギーを持っていないのではないのか。

では彼らはプロレタリアなのか?と言うと、そうとも考えにくい。寧ろプロレタリアの位相とは似ても似つかぬ具合だろう。奢侈強欲な生活を厭う彼らと有閑階級の所業は大幅な距離感が立ちはだかっている。


此処で私は、彼らの為に新たな位相として――『オム・シヴィル』と言う言葉が当て嵌まるであろう、と考えている。ルソーの言った『社会人』(「社会」=シヴィル、「人」=オム)は、全体性の中における自分を確立させた存在であるが、相対的に『オム・ナチュレル』(「自然」=ナチュレル、「人」=オム)は、自分の為だけに生きている。

この「全体性の中における自分の確立」と「自分の為だけに生きている」と言う事の概念的な内容として、オム・ナチュレルに於いてはプロレタリアとブルジョワが相当するのではないのだろうか。彼らは労働や経営と言う事柄を通じて資本を動かし動かされに携わっているが、この携わりこそは正しく自己を満足させるための感情欲求の究極化したもので、家族を養う為である、家の借金を払う為である、新しい工場を建てるためである、と言った〈ある程度の欲求〉が閾値化され、ベクトルとしている。

しかし有閑階級はそれとも差異があった。彼らは他人に差をつけんと見栄を張った。この見栄に顕現されるのは、一社会に於ける自己保存の精神であった。今なお彼らは金や株券片手に世間を右往左往している。彼らは決して〈ある程度の欲求〉では済まされない欲望を常に抱いている。終わりが見えない、広大な社会の中で自己を見出すことは、既に「自分の為だけに生きている」と言う概念から逸れてしまっている。


有閑階級の本質は、正に其処に存在していた。イデオロギーを持たない彼らが代わりに抱くのは闘争心である。それも永遠永劫に終わりが見えないであろう、見えない敵との闘争である。金銭と言う剣を構え、豪華な生活と言う盾を構えた戦士である。彼らは決して自己を見出してはいない。見出す事が目的の闘いで、終わる事すら考えられないであろう闘争の最中に、ただ奢侈的な生活を行うことは見出す可能性よりも流浪的な世間に於ける自己保存の意味合いが強いのだ。其処にはオム・シヴィルとしての精神が根強く張られている。彼らが手にするのは夢でも現実でもない、―――自分自身なのである。

社会的位相のカントール集合は、プロレタリア、ブルジョワ、そして有閑階級であろう。この三つは決して揺らがない。曾てヴェルズが『タイムマシン』で警戒した資本主義的な分析も、少し爪が甘かったのかもしれない。と言うのも其処には『有閑階級』が反映されていないからである。


一方による他方の搾取(Ausbeutung der Einen durch die Andern)による階級闘争の中に、彼らが入り込んできた。もはやプロレタリアもブルジョワも、彼らの存在を看過できないだろう。

彼らは遷り変って新たな観念―――『有閑階級』と言う観念位相を生み出した。金利生活者が有閑階級の代表例となったのも、自然人と言う規範から外れた背徳的な精神である。

ゆめゆめ彼らも武器を構えるだろう。その奢侈は何となり、その見栄は何になるか。これこそが、今現代を生きる「有閑階級の位相」なのである。



――――


(1)ヴェブレン著、小原敬士訳(1993)『有閑階級の理論』岩波書店

(2)マルクス・エンゲルス著、大内兵衛、向坂逸郎訳(1991)『共産党宣言』岩波書店

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