天涯のサンサーラ
1
この狭い世界の一番高い場所に立つのは、自分の特権だ。そう錯覚するほどの間、シンに並び立てる者は現れなかった。
最下層を地表から十数メートル離して建造されたデカン居住区の、三階層四階層まだ上へと建て増しを続けた末、五層の途中で放り出された骨組みの上。街の一角を覆う巨大なジャングルジムの、天を向いた鉄の柱の頂点に、シンはぴたりと足を揃えて立っている。
転落すればまず命を失う高みは、声変わりを迎えてから数年来の通り道だ。背中に隠した大振りのナイフも左手の手甲に仕込んだ鉤爪も我が身の延長のようなもの、そんな重みでバランスを失するわけがない。
今日は快晴だ。乾いた風が、伸びて視界を覆いかけている黒い前髪を揺らす。眼下に広がる街を歩く人々は、小指の先ほども小さい。それでもシンは、腰を折って下方へ目を凝らすことに何の恐怖も覚えない。
お前は頭がおかしい。シンに仕事の依頼を伝える仲介者には、いつもそう言われる。おそらく今の仕事に向いているという意味だろう。
高いところなど怖くない。知らぬ場所ではないのだから、歩いて回ろうと高みから見下ろそうと変わりない。死ぬのが嫌なら落ちないようにするか、落ちてもどこかに叩きつけられる前に対処すればいいだけだ。そんなわかりきった話より、見上げても手を伸ばしても何もわからない頭上の空の方が、得体が知れなくてよほど気持ち悪いとシンは思う。
この青空のはるか彼方には、この居住区に犇めく三万以上の住人より、更に数万倍も多くの人間が存在するという。
そんな途方もない話があり得るのか、陽が巡り雲が流れ星が散らばる天球の向こうがどうなっているのか、シンには想像できない。
ただこの街で最も空に近い場所はシンのもので、頂点に立った者は他にいない。それでいい。それだけでシンは、地表に這いつくばる連中を眼下に置いて生きてこられたのだ。あの男に会いさえしなければ。
「 ……時間だ」
右腕の古びた時計に目をやり、憎たらしい男の面影を頭から追い出す。眼下に建つ飲食店の屋上に目当ての人影を確認、同時に足場を蹴った。
落ちる。落ちる。横渡しにされた鉄骨に腕を巻きつけ、ぶら下がって勢いを殺し、また落ちる。時に鉄骨にぶら下がったまま両腕だけで横に移動する。体を振って、大きく前方に飛ぶ。ベルトに仕込んだフックを鉄骨に引っかけて、ワイヤーで静かに降下する。
そしてターゲット頭上の鉄骨に降り立ち、最後の跳躍。二十秒もかけずその中年男の肩に着地したシンは即座に、衝撃に呻いて倒れかかる男の首の後ろにナイフを突き立てた。
死体となった足場を蹴って、平らな床に足をつける。懐を探り、依頼者から盗んだとされる薬物を回収する。ヤク漬けの客を装って誘い出したため、この中年がターゲットでないという心配はしていなかったが、これで確定だろう。ナイフを仕舞い、今日の仕事もつつがなく終了だ。
お前は頭がおかしい。呆れたように、祝福するように、何度も言われてきた。
依頼を受けて人を殺し、報酬を得るのがシンの仕事だ。人より頑健で危険を厭わず、手を汚すことに躊躇いがない、そういう自分の特徴に合った生き方だと思う。
この商売をやる上で、最後のひとつは特別重要だ。寧ろそれ以外はおまけだと言ってもいい。同業者の中には、罪悪感だの裁きや報復を恐れる臆病さだのをまともに持ち合わせたばっかりに、夜も人殺しの感触が蘇る不幸な奴もいる。
生きていくためだ仕方ない、好きで殺しているわけじゃない、そんな言い訳は必要なら自分で用意しなけりゃならない。それができずに潰れた同業者は何人かいた。なぜこの仕事を選んだのか理解に苦しむ。
敢えて言うなら、生業についてそれほど揺れ動けることが羨ましい。シンの日常は彼らより無感動だ。いや、無感動だったと言うべきか。
死体を放置して手近な鉄骨に走り寄り、勢いで数歩駆け上る。ろくでなしにしろ無辜の民にしろ、不審な死を遂げるのはこの街の常態だ。所持品に触れずに置いておけば、掃除を生業とする誰かが片付けるだろう。
飛び出したボルトに指を引っかけてバランスを取りながら、足のついたところを蹴って横渡しの鉄骨に掴まり這い上がる。あとはそれを繰り返す単純作業だ。このルートなら、地上を歩くよりトラブルに巻き込まれず早く帰れる。
しかしシンがわざわざ高所に戻るのには、もうひとつ理由があった。
ある程度の高さまで戻り、眼下を見回す。慎重に、自然と足音を殺しながら。治安の悪い四層、それも五層が建築途中のまま放置されているこの区画に来る人間はそう多くない。それでもあの男は、定期的に現れる。前回の対面から十数日、そろそろのはずだ。
シンの目線は、よろめきながらも連れの女に絡む酔っ払いや、浮浪者を襲って錆びた武器を奪う少年たちを通り過ぎる。
目標はいつも、周りに関わらず早足で歩いている。もし現れればすぐ見つけられる自信があった。行き先の明確な足取り。それなりに高い背。黒いキャップからはみ出す、雑に結った茶髪。グレーの作業着と眼帯 ――見つけた。
アルファ。
シンといくつも変わらない、成人するかしないかの若い男だ。そして体のあちこちのパーツを機械と取り替えている。あとは少々の経歴、それ以外は知らない。彼は唯一、シンが殺害の依頼を完遂できていないターゲットだ。狙う理由はそれだけで充分だった。
連戦を躊躇うような消耗はない。静かに足を運び、アルファが通るだろうルートの上へ先回りして身を潜める。
彼の行き先は決まっている。この区画を抜けた街の北端にある、デカン居住区管理局の研究施設だ。
一跳びで着地できる高さのぎりぎりまで降下する。あちらは視界が狭いはずだが、見つからないだろうと楽観視はできない。なにせ相手はこれまで幾度も、シンの襲撃を生き延びているのだ。
タイミングを見計らい、黒いキャップをめがけて跳ぶ。落ちる。瞬きもしない間に距離が縮まる。手にしたナイフで相手の肩口を狙う。
しかし手応えはなく、足が地に着いた。
「真面目だねえ、お前も」
わざとらしい感心を滲ませた声が真横から聞こえた。予想していたかのような、余裕を持った回避。しかしそれは、シンにとっても予想の内だった。
すぐさま左手の仕込み爪を突き出す。距離を取ろうとしていたアルファを追った三本の鉄爪は、狙いの首を庇った右腕に阻まれた。
「へえ」
すぐ近くで、眼帯をしていない方の大きな目が見開かれる。シンが舌打ちして爪を引くと、金属同士がこすれ合う嫌な音が耳を刺した。
「やってくれるな。最初に当てたの、久しぶりじゃん」
引き裂かれた袖を眺めるターゲットを睨みつける。腕や脚に当てても大したダメージはない。初対面で腹を刺した時すら、アルファは即座にシンを蹴り飛ばし、突き立てられたナイフごと逃走した。シンは武器を買うために余分な仕事をしなければならなくなった。
それ以来、最初の一撃は必ずかわされている。
「いい加減に諦めりゃいいのにさ。お前の腕なら、俺みたいなめんどくさいのに拘んなくても食ってけるだろ」
「うるさい」
「だって俺が喋らないと、お前喋んないじゃん」
シンが苛立ち任せについ口を開くと、アルファは面白がって声を弾ませる。自分を殺せない殺し屋程度、たまに会う刺激的な話し相手くらいに思われているのだろう。
危機感のない緩い笑みを引き裂いてやろうと、下から抉るようにナイフを突き出す。また爪を繰り出す。正面からの攻撃などますます当たらない。奇襲を必ずかわされる理由は不明だが、これは単純に技量の差だ。
「お前が俺に勝てない理由、教えてやろうか」
アルファが地面から伸びる鉄骨を蹴って跳び、見る間に頭上の鉄骨に立つ。
彼がこんな行動に出たのは初めてだ。そしてシンが咄嗟に追おうと動く、その胸元を狙い打つように、機械の足が降ってきた。
かわす暇もなかった。衝撃で鉄骨に背を叩きつけられ、そのまま地面に倒れる。息ができない。無理に空気を吸おうとすると、胸を針で貫かれたように痛んで悶絶した。
「自分と同じこと、相手もしてくるかもなんて考えない。そりゃ勝てないさ。お前、俺としか戦ったことねえだろ」
かろうじて音は拾えるが、何を言っているのかわからない。
すぐそこに黒いブーツが立っている。手を伸ばせば、鉄爪の先でもいいから届けば、この足をひっくり返してやれるかもしれない。好機があれば逃さず仕留めるのがシンの仕事だ。しかし手は土を掻くばかりで持ち上がらない。
そうしている内に、ブーツが一歩を踏み出し遠ざかる。機会がすり抜けていく。
「悪いが勝ち逃げさせてもらうわ。お前が働くまでもねえよ、俺はもうすぐ死ぬ」
残された言葉を理解する前に、シンの意識は途絶えた。
2
人類のメインステージはとうに空の上だ。
居住区の果てまで行くと、ちょっとやそっとじゃ壊れないガラスの境界越しに、荒野と空がどこまでも続いているのが見える。その先に何かがあるという発想は忘れ去られて久しい。
ろくな教育を受けていなくとも、シンは自分が狭い世界しか知らないことなら知っている。かつてはこの居住区程度、人が寄り合った大きな共同体のごく一部に過ぎず、その共同体すらこの星の広大な土地の一角に過ぎなかったという。シンの認識はそのくらいの雑なものだが、それ以上は必要なかった。仕事に支障もない。
狭い世界であろうと生活は続く。生きている以上、わざわざ死のうとする者は少数派だし、わざわざ殺すのは悪だった。残り少ない地上の住民が、増えるのと減るのとどちらが早いのか、シンは知らない。知らないまま、生活のために殺し続けるだけだ。ただひとつ、仕留められずにいる男への苛立ちだけが、変化のなかったシンの暮らしを乱していた。
「なんだ、今日も負けたのかよ」
酒場に入るなり、シンの顔を見た店主が鼻で笑う。シンは無言で歩み寄り、ターゲットから回収した薬物をカウンターに放り出した。店主の皺の目立ち始めた浅黒い手が、粉末を詰めたパックをさっと隠し、代わりに水を湛えた木のコップを差し出してくる。口をつけると胸がまた傷んだが、すっきりしない気分は多少晴れた。自宅の水道から出る水など飲めたものじゃないので、仕事のあと飲用水を飲めるのはひそかに楽しみにしていた。
店主が続けてカウンターに放ったくしゃくしゃの紙幣と汚れた硬貨数枚、拾い上げてポケットに突っ込む。平均的な依頼主に平均的なターゲットならば報酬はこんなものだ。
依頼を取りまとめて殺し屋に振り分けているのは、この店主だ。いつだったか、仲介料は良心的な設定だと胸を張り、「ガキ相手に善良な商売やってりゃ、来世はもっとマシな人生かもしれねえだろ」と肉のない頬をひん曲げてシンを呆れさせた。
未来を語るなら来世の話。居住区の中に生まれ、届かない空を見上げて終わる一生を定められた人々は、時に笑い時に真面目に、かつてこの地にあったという教えの名残を語る。シンも聞いたことはあるが、現在の過ごし方次第で空の上に生まれ変われるものだろうか。来世があったとして、また地上なら無意味だ。
どのみち、端金のために殺す自分にもそれを助ける店主にもまともな未来などないとシンは思う。
「しかし何度やられても飽きない奴だな。これじゃデカンの死神の名は返上だぞ」
「そんな妙な名前、そもそも持った覚えはない」
アルファの始末は自分が紹介した依頼だというのに、店主は無責任にシンの醜態を嘲笑う。無視して喉を潤していると、隣の席から肩を叩かれた。
「箔がついていいじゃん。お疲れ、死神さん」
振り返ると、張りのある太ももを見せつけるように組んだ少女がにんまりと笑っていた。
「そういうふざけた名はお前の方が似合う、メイリン」
彼女はシンの同業者だ。女と見くびって隙を見せれば、隠したナイフで捌かれる。特に剥き出しの肌や切れ長の瞳に目を吸い寄せられたが最後、ターゲットが生存する確率は皆無と見ていい。相手の情報を集め、使える手段は何でも試す、シンとは異なるタイプの殺し屋だ。
「メイよお、お前また自警団の連中を巻き込んだろ。あいつらの首には誰も金を出さねえって言ってんだろが」
「えー、だってスカッとするでしょ。みんなも喜ぶでしょ」
店主とメイリンのネジの飛んだ会話を聞き咎める者などいない。カウンター席に座るのは、店主と個人的な取引がある人間。常連客は誰でも知っている。
「よかねえよ。俺の立場も考えろ」
「立場って何のことですかねえ。わかんないでーす」
わざとらしい挑発に、店主はメイリンを睨んで愚痴を並べ始める。
シンは興味ない振りをして耳を傾けていた。以前は本当に興味のなかった話題だ。
デカン居住区管理局と、協調して活動する自警団、そして民衆とシンたち底辺の人間の関係は、そうシンプルなものではない。
例えばこの酒場は、間に合わせや未完成の建造物が多い四層の中でも、思い切り壁を蹴り飛ばせば倒れて潰れそうなほど薄っべらい。しかし見た目を裏切って繁盛している。食料の仕入れに関して安定したルートを確保できており、ボロいがいつ来てもそれなりの飲み食いができる店と評判だからだ。
一方で、いつでも崩壊しかねないこの街を治めるのに必死な管理局の連中こそ、ひそかに邪魔者を始末する手段が必要な時もある。店主が誰と懇意にしているのか、あからさまに言及する者はいない。
利権も治安も他人事だ。それでもそうした構造に目を向ける理由ができた。それもこれも、例のアルファのせいだった。
彼は元自警団の人間だ。そして自警団を辞してからは、平凡な工場作業員に過ぎない。なのに彼を始末すれば、シンの手元には当分遊んで暮らせる額が転がり込むことになっている。
彼が狙われる理由は、おそらく職業や彼自身の所業には関わりない。ならば残る可能性はあの半ば機械の体か、そんな体になった由来そのものか。
情報がアルファを倒すために役立つかはわからない。仕事をするのは縄張りである未完成の骨組みの上だ、知ったところで活かせるかも定かでない。それでも探らずにいられなかった。ただ殺し、それが日常と流してきたシンにとって、初めてのことだ。
シンにとって殺しは、ひとりでも生きていける身近な手段だった。
父が殺しで生計を立てていた。物心ついた頃には母はおらず、建造が中止されたばかりの五層とそこを縄張りとした父を見上げて育った。父はある日、ターゲットだった自警団の人間に返り討ちにされ、そのまま拘束されて消えた。とっくに生きてはいないだろう。
管理局に保護され教育を受けられる一握りの子供たちに含まれず、食料プラントや発電施設の歯車となるには自身の身体能力を評価しすぎていた。自然と凶器を手に取り、適性は正しく発揮された。父が築いた、縄張りでこそ真価を発揮する稀有な殺しのスタイルは真似て覚えていた。競合する者がいないから、それなりに仕事はあった。
鉄骨の上から息を潜めて見下ろした、集まった自警団の連中に引きずられていく父の姿はおぼろだ。自分はああなるまいと思ったことだけは覚えている。
なのに今、元自警団のターゲットに拘って、幾度も返り討ちにされている。
いつ父のような終わりを迎えるともわからない。一度受けた依頼を手放せば評価ががた落ちするとはいえ、人生が終わってしまっては元も子もない。なのに降りる気はなかった。何に拘っているのか、物事に執着した経験がないシンにはわからなかった。
遠ざかっていくアルファの足を思い出す。勝ち逃げ。もうすぐ死ぬ。
いつの間にか、コップを掴む手に力が入っていた。拘っているのは勝ち負けなのか。これまで仕事に手こずったことはない。負けたことはない ……誰かとまともに戦ったことはない。負けるとはどういうことか。
アルファの残した言葉が、シンの中で渦を巻いていた。温くなった水を飲み干しても、胸の辺りに煩わしい蟠りが残る。淡々と日々を過ごしていれば、それができる自分を感じていられればよかった。誰も登ってこない高みにいられれば。
殺せるか、失敗するか。それだけだった。失敗したことはなかった。いつも一撃か、その次には相手は死んでいた。それが今はどうだ。シンはまともにアルファの血を見たことすらない。
そのまま終わるのだろうか。変化した日常が、自分の手で決着をつけるでもなく、ただ元に戻ってしまうのだろうか。
自分が殺すという形以外での終わり方など、想像もしなかった。急に突きつけられた終わりへの拒否感が募る。
あれが鬱陶しい殺し屋を突き放すための出任せとは思っていなかった。アルファが言い残した件について、ひとつ心当たりがあるからだ。
かつて地表の王者だった人類を空へ追いやった、この世界に蔓延る呪い。一度侵されれば逃れられない死の病。それがアルファを蝕んでいるのではないか。
自分がアルファを倒す以外の終わり方なんて、考えてもみなかった。
水を飲み干す。また胸が痛む。考えない、アルファ以外とまともに戦ったことがない。
「なんでおれは、勝てないんだろう」
「ん、いつも殺し損ねてるって奴のこと?」
思わず漏れたつぶやきを、隣のメイリンが聞き咎める。
「勝てない理由? バカじゃないの。殺し屋が勝ち負け語ってどうすんの」
メイリンが持っていた酒をカウンターに置いて鼻で笑う。シンは思わず瞬いた。問題にすべきは殺せるか否かだ。いつの間に発想の根本からすり替わっていたのだろう。
どうやら自覚しているよりもずっと、自分の日常は変わっていたらしい。
「ね、教えてあげようか。あんたがそいつを殺せない理由」
「条件は」
「あんたに支払われる報酬の半分」
メイリンは強かな女だ。情報を集めては売り払う。自分が果たす依頼の報酬の賃上げ交渉などしょっちゅうだ。その分仕事はしっかりしている。彼女は命が惜しく、自分が好きで、可能な限りマシな生活をしていたいのだ。
その彼女が、これだけ強気な取引を持ちかけてきた。おそらく相応の情報が得られる。アルファに勝ち逃げを許さないほどの。
「 ……教えてくれ。お前が知ってること、全部」
返答まで、やや間があった。
「えーっ、なになにどうしたの。これまでどんな仕事でも、あたしの手なんて借りなかったじゃない」
自分から持ちかけたくせに、メイリンは大袈裟に驚いて身を乗り出してきた。香料の甘ったるい匂いが立ちのぼり、シンは背を逸らす。
「どうでもいいだろ、そんなこと」
「焦ってるんだ。いいよ、からかわないで教えてあげる。おじさん、聞いてたでしょ? シンがそいつ倒したら、ちゃんとあたしに支払いするように見ててね」
洗い物をする振りでしっかり聞いていた店主がへいへいと請け負う。これでもう後に引けない。メイリンに渡す額は情報の値段としては破格だが、このまま決着をつけられずに終わるなんて、どうしても考えたくなかった。
3
始まりは生物兵器の開発事故だと言われている。
多くは四肢の末端から、病は毒が染み込むように静かに顕れる。痛みは薄く、しかし異常がひと目でわかるほど醜悪に、どす黒い斑が皮膚を覆う。そして果実が腐り落ちるように、患部は本来の機能を失っていく。
一度感染すれば、全身に飛び火した。一度で中枢器官をやられる場合も、じわじわと体が欠け落ちて恐怖ばかりが長引く場合もあった。
既存のウィルスからかけ離れたそれに対抗する抗体を、人類は持たなかった。症状の進行を停滞させる唯一の手段は至って単純、患部を丸ごと取り除けばいい。しかしそれで完治することはなく、何度でも再発していずれは罹患者の命を奪った。四肢を内臓を感覚器を、たとえ次々機械に取り替えようとも、終わりまでの時間を引き延ばすだけだった。
それでも終わりまで、立って歩き好きに行動できるのは、他の罹患者たちと比して恵まれているとアルファは思う。
彼がわざわざ四層を訪れるのにはわけがある。居住区の一角を上から下まで柱のように貫いた管理局の施設のうち、アルファが通うのは四層の医療技術研究所だ。
整備と建て増しが頓挫したままの四層は、この居住区で最も治安が悪い。アルファに出入りできるのは研究所だけだから、下層の役所から入って昇降機を使うことはできない。お陰で毎度あの殺し屋の男に襲撃されている。
初めて訪れたとき、なぜこんな場所に拠点を構えたのかここの主に訊いた。「空はできるだけ近い方がいいだろう?」と返されて大口を開けた。頭のいい連中は随分と頭が浮世離れしているのだと思った。
今はたぶん、彼の言いたかったことがわかる。
巨大な白い箱めいた研究所の前に立つと、自動的に扉が開いた。その先にも厳重に閉ざされた扉が数枚あったが、近付くだけですいすい開く。体内に埋め込まれたチップに反応しているのだ。
ここは居住区の真の中枢、すべてを左右し得る頭脳の住処。外面こそ雨風や落書きで汚されているものの、一歩中に入ってしまえば清潔でセキュリティも万全だ。
一面真っ白な通路の先に、書斎や施術室、そしてアルファが自由な出入りを許されている応接室がある。やはり自動で開く扉を抜け、ガラステーブルを囲む形で置かれたソファのひとつに身を沈める。全身を優しく受け止める感触に溜め息がこぼれた。一般住民の多くは簡素な、あるいは廃材で適当に組み立てたひどく軋む家具を使っている。アルファの住処にある椅子もひどいものだ。
例の殺し屋との小競り合いは、軽い運動とはいえ、アルファの体の機械化されていない部分には結構な負担となる。病み衰えた体は、意思のままに動く手足で引っ張っているのだ。ある程度は健康な頃と変わりなく動けても、主観的な実態は当時と大きく異なるものだった。
考えるだけで自在に動く義肢。痛みや疲労を感じない人工臓器。視界に映るものの輪郭を認識できる義眼。周囲のデータを収集するセンサー。そして各種パーツの稼働記録を保存するチップ。いまやアルファの多くの部分が、かつて地上を豊かにした科学技術の残滓で構成されている。
眼帯に覆われていない右目が映す世界は、色がなく少しぼんやりしている。しかしその不鮮明さを補って余りある情報が、視界の端々に表示されていた。
表示されているデータを惰性で読んでいたアルファが、ふと振り返る。直後、扉が音もなく開き、禿頭の老人が湯気の立つカップを二つ乗せたトレイを手に入ってきた。
アルファが振り返ったのは偶然ではない。周囲で動く熱源が感知されれば、すべて視界に位置情報が表示される。頭上に潜む殺し屋も、襲われる前に発見できる。
「待たせたかな。新しく再現されたお茶の淹れ方に慣れなくてね、少々手間取ってしまった」
老人は穏やかに微笑み、アルファの眼前にそっとカップを置いた。軽く礼を言ってカップを手に取る。指から陶器の硬質さを感じながら口をつけた。この老人に出されたものは、遠慮せず口にして出来についてコメントするのが契約のひとつだ。
「うまいですね。香りもいい。なんかほっとします。こないだの緑茶ってのより好きかも」
「それはよかった。紅茶というものなんだが、かつてはこの地が世界一の生産国だったそうでね、常々再現したいと常々思っていたんだ」
飾らない感想を受け、ナガノは満足気に頷いた。アルファは熱いうちにと再び紅茶を啜る。病状が進んでも、嗅覚と味覚が残っていたのは幸いだった。上質な食事と飲み物が驚くほど気を楽にしてくれると知ったのは、研究所通いを初めてからだ。
再現。かつての技術をはじめ、断片や痕跡だけが残された文明の遺産を取り戻すのが、ナガノが人生を懸けて行ってきた偉業だ。
死病が広がり、人類のほとんどが空へ逃げ、地上からは人類の生活を変える英才も多くの技術も失われた。取り残された人々の破滅は急速に進んだ。そんな中生まれたのがナガノ、目の前で上品にカップを傾けている研究者だった。
彼は文明の断片をかき集め、可能な限り再現した。汚染された土の代わりに植物が根を張ることのできるフィルムによって餓えを、乾季でも大気から水分を集めて飲み水を抽出するシステムによって乾きを克服した。
地上に取り残された人間が生きていけるだけの資源が確保され、少しでも死病を避けるために特急でこしらえた居住区を増築・整備するという方針が立てられて、一時は最悪の先を見たという治安は「かなり悪い」程度まで回復を見せた。ナガノを擁し、物資の配分を行えるまでになった管理局は、なんとか街を治める程度の力を得た。すべてアルファが生まれるよりだいぶ前の話だ。
確固たる基盤を手にしたナガノが、医療技術の研究を晩年の課題としたのは必然と言えよう。 病こそ人類を地上から追いやり、残された人々を破滅へ向かわせようとしている原因なのだから。
紅茶を飲み干し、アルファは黙ってソファに身を預けた。ナガノはまだカップの中身を楽しんでいる。この研究所では街中よりずっと、時間がゆっくりと流れる。自分がもうすぐ死ぬことすら忘れそうになる。
感謝はしていた。偉大だとも思う。けれどアルファが今、こうしてナガノと過ごす時間を心地よく思っているのは、この研究者が餓えているからだ。
残された人類の救世主、最後の天才。それでもナガノは満ち足りない。
それに気付いたのは知り合ってすぐ、アルファが被験者となる契約を結んだ日だ。
発病し職を辞したアルファは、元上司からの連絡でこの研究所に呼び出された。初めて通されたのは、この部屋の隣の書斎だった。
そこには管理局が所有する、空の上の人間と対話するための機械がある。なぜそんな離れたところにいる者と意思疎通できるのか、仕組みを説明されてもさっぱりわからなかったが、ナガノの知識を支えているのはこの天上との繋がりなのだろうとアルファは受け止めた。
私は天才ではない。真っ白な箱のような対話機械を撫でてナガノは言った。自分を卑下する物言いなど、これから自分の体を弄り回されるかもしれないアルファにとってはマイナス要素でしかなかったが、淡々と事実を述べるような声に文句を言う気を削がれた。
「私は天才ではない。どうしてもお前が必要だと言ってもらえるほどの器ではない。それでも夢を見ずにはいられないんだ」
ナガノは人々を導いた天才技術者ではなく、まだ誰にも自分を認めてもらえず足掻いている若造のような激しさを覗かせた。老いた瞼の下から、爛々と輝く瞳に見つめられ、居心地の悪い思いをした。
彼がいなければこの居住区など成立前に崩壊していただろうに、なぜそんなことが言えるのか。理解はできないが、そのときこの天才研究者が、少し身近に感じられたのを覚えている。
「我々の頭上に蜘蛛の糸が垂らされることはない。だからこの地の底から編み上げて天に届ける。もちろん君の命は助けてみせる。協力してくれ」
「蜘蛛の糸? あんな細っこいもんでどうすんだよ」
なぜいきなり蜘蛛の糸が出てくるのか、おそらく意味のあることなのだろうが、見当のつかないアルファはまともに返して茶化した。まっすぐすぎる懇願に怯んだのだ。
「すまない、熱くなった。私はね、天上の連中に ……捨てた地上を、顧みさせたいんだ。ここにまだ生きている人間に、価値があると思わせたい。そうすれば我々は、本当に助かるはずだ」
「それができるとしたら、あんただけだと思うよ。先生」
まったくナガノの言う通りだと思った。多少命を長らえたところで、根本的な治療は叶わず感染は止まらない。地上にいる限り救いはない。いくぶん冷静さを取り戻したナガノに、アルファは握手を求めた。右手はその頃には動かなくなっていたので、残る左手で。
もちろん被験者はひとりではなかった。おそらく数十人の患者に、ナガノは助けると声をかけたはずだ。しかし今、生き残っているのはアルファだけだった。病状の進行が早すぎた者、術後の経過が悪すぎた者、自ら命を断った者、見知らぬ技術で自分の体が置き換わっていく感覚を恐れて施術を重ねなかった者。一年と経たないうちに、ここまで減った。
施術を受け入れられなかった者たちを、臆病者と笑えはしない。ナガノにとっては信頼できる技術でも、無知な自分たちにとっては違う。アルファとて内臓や目を取り替えると言われてすぐに頷けたわけじゃない。
そして今もひとつ、最後に提案された施術を承諾できずにいる。
今日はそれを伝えに来たのだ。
ナガノが紅茶を飲み終えるまで、アルファは返事を引き伸ばした。
「先生。俺、やっぱりできない」
ナガノはそうかと答え、目を伏せた。
「ごめんな。俺が最後の被験者なのに」
アルファを侵す病は、遂に脳へ到達した。
前回の訪問時にはわかっていたことだ。それでも検査結果の精査と、施術の決断のために間を空けた。考えて、様々なことを天秤にかけて、出した答えだ。
「構わんよ。こんな世でも、どんな終わりを迎えるかくらいは選択の余地があるべきだ。私は君の決定を尊重する。寧ろ謝るのは私の方だ。約束を守れなかった」
「俺が降りたんだよ。あんたが守れなかったんじゃない」
「もし気が変わったらいつでも来てくれ。いや、用がなくとも。また紅茶をご馳走したい。次はこれに合う菓子も用意しておく」
「ああ、生きてたらな。でも一応言っとく。これまでありがとう、先生。あんたはひでえ人だけど、なんか嫌いになれなかったよ」
ナガノが言葉の意味を聞き返す前に、アルファは立ち上がった。それでもいつか、自分が急に何を言い出したか、理由に気付いてしまうだろう。
振り返らずに研究所を出る。紅茶は飲みたいが、もう来るつもりはなかった。
ナガノはきっと、ずっと天上を見ている。勝手な願いだが、数十人の被験者を失い、平均寿命を超えた老齢であろうとも、まだ諦めずにいてほしい。
空は近い方がいい。見上げた空は、鉄骨に区切られてはるか遠い。
かつて人間が当たり前に暮らしていたという地面の上は、デカン居住区では地下と呼ばれている。アルファが暮らすのは一層よりも更に下、放置されているだけの五層とは違い厳格に隔離された暗がりだ。
土、虫、あるいは罹患者の体液。死病の感染経路は複数確認されている。由来は関係なく、罹患者は発覚し次第この地下へ送られる。以降ろくに日の光を浴びることもなく、静かに朽ち果てていく。
だから自分は恵まれている。アルファはナガノに拾われたし、自警団を辞しても管理局からの支援だけで安穏と生活することすらできた。しかし何もすることのない暮らしは、四肢を取り替えたばかりのアルファを狂いそうな気分にさせた。新しい体を十全に操り、幅広い記録を取るためにも仕事は必要だと訴えて、地下の廃材処理場に紛れ込んだ。変化も身入りもない仕事だが、ひとりで蹲っているよりはマシだった。
上層に足を踏み入れられるのは、研究所を訪れるときだけだ。人から人への感染は滅多にないとはいえ、罹患者は自由に居住区を移動できない。一見手足も揃って健康そうに動けるアルファが罹患者と看破されることはそうそうないが、だからといって大手を振って歩けはしない。
しかし居場所のはずの地下にも、アルファは馴染めなかった。
薄明かりの点る広場に立った黒服の男が、周囲に集まった民衆に残された時間の過ごし方を説いている。病は世界を汚した人類への報いだの、来世のために行動を改めようだの、聞きかじりをかき集めたような教えだ。
積み上げてきた教えも組織力もないが、黒服の言葉は地下に暮らす人々の一部を支えているのかもしれない。どうせ治らない、救われる見込みはない、遊び歩いて自分を慰めることもできない、ならば束の間でも平穏を得られる方がいい。アルファは少し早足に、跪いて祈る人々の脇をすり抜ける。
祈る人々の囁きが聞こえなくなっても、道端には終わりの決まっている罹患者しかいない。いつか天から迎えが来るからそれまできちんと生きるのだと、無責任な寝物語を子供に聞かせる母親。薬物浸けの気持ちよさそうな顔のまま転がっている死体。生きても何も残らない。居住区が維持される限り、この地獄も引き延ばされる。
アルファは彼らのようになりたくなかった。だからナガノの手を取った。だというのに、最後の最後でこの有り様だ。
自警団にいた頃は、度が過ぎた振る舞いをするごろつきどもを懲らしめ、管理局への反逆を企てる者を制圧する日々だった。この居住区のいつか終わる安寧を守って、地の底も空の上も関係なく、淡々と生涯を終えるのだろうと思っていた。たとえ病を患うとしても、当分先だと思っていたのだ。
すっかり元の色かたちを忘れてしまった両手を握る。ここまでして生き長らえてきたのはなぜだ。現世を投げず薬を買わず、この体がまだ立っているのは。
なのに頷けなかった。どうしても最後に提示された手段は選べなかった。ナガノが伸ばした救いの手を振り切った。
マインド・アップローディング。頭の中身、記憶と意識だけを抜き出し、白い対話機械を通して空へ送る。それがナガノの再現した、最後の生存手段だった。
想像の域を超えていた。体の一部を同じ形の代替品と取り替えたり、カメラやセンサーの機能を体内に持つというのはまだイメージできる。しかしその代替品すら捨て、肉体も自分を形作っている記号もすべて脱ぎ去って、頭の中身だけになって生きるというプランは何度説明されても理解できなかった。ナガノが再現したなら、かつてそんなことをやった人間がいるということだ。それも信じられなかった。
自分が特別臆病だとは思えない。それでも、頷けなかったことですべてが終わろうとしているのは事実だ。
帰り着いた住処の、光のない片隅に蹲る。廃墟の一室を片付けただけの、埃臭い、しかしよく見知った住処だ。肉体をなくせば、この湿った匂いも敷石の冷たさも、すべてデータとして認識するだけになるのだろうか。こんな虚しさも消えてなくなるのだろうか。果たしてそこに、アルファという人間はいるのだろうか。
これまでとこれからを思う。病を抱えて生活は変わり、様々な繋がりを失った。そのうち何も考えられなくなって、この暗がりで朽ち果てる。ナガノの夢は叶わない。後には何も残らない。
アルファは緩慢に顔を上げた。そこにあるのは薄汚れた天井だけだ。空にはもう届かない。しかし四層のいつも訪れている道筋は、また辿ることができる。
研究所まで行くつもりはない。ないが、あそこへ向かえばもうひとつ、必ず起こることがあった。
残り少ない時間の使い道を、変えられるとしたら。アルファはそのまましばらく、天井を睨みつけていた。
4
アルファには、シンの奇襲が見えている。
メイリンから得た情報を要約するとそういうことになる。手足と同じく機械化された瞳は、近付く者の位置を映すというのだ。
何がどんな風に見えているのか、シンの想像は及ばない。その辺りはメイリンも大差なかった。しかしイメージはできなくとも、奇襲失敗の前提が把握できただけで心構えは変わる。
勝算まで得られたかは微妙なところだ。シンの位置を確実に捕捉できるという反則めいた力を持つ相手に、有効な手段が見出だせない。詳しい仕組みはわからないがおそらく飛び道具も通じない、そう言われた時点でお手上げだ。
奇襲の意味はなく、四肢や内臓への攻撃ですぐさま動きを封じることはできない。そして純粋な対人戦の能力で勝てないことは認めるしかない。シンが今も生きているのは、単にあちらに殺す気がないからだ。
膝の上で組んだ手に力をこめる。高所ゆえの強い風が前髪をかき混ぜた。
シンは五層の半ば、横渡しになった鉄骨に腰かけていた。勝ち逃げを宣告したアルファが再びここを訪れるかはわからない。しかし健康な者は地下に入るのを禁じられているため、捜しにいくこともできない。
待つしかない。勝ち逃げを宣言した彼がまた来ると、根拠もなく信じるしかなかった。もう一度でいい、彼に検査や治療があれば。もう助からないと決まっても、治療を打ち切るとは限らない。
もし既に彼が死んでいたら。時折浮かぶ考えを振り切り、眼下を見渡す。待つのも見張るのも慣れている。何日だって続けるつもりだ。
そうして数日が過ぎた。
それはまた、よく晴れた日だった。夕暮れも近い時間帯、彼は現れた。いつも通り早足に、立ち止まることなく荒んだ街を過ぎる。
シンは立ち上がった。しかし飛び降りることなく、身動ぎもせずアルファを見下ろした。気付くはずだ。いつもと違うこちらを不審に思うはずだ。真下を通り過ぎる黒いキャップを、突き刺すように見つめる。
どうやらメイリンの情報は事実らしい。
アルファはしばらく進んで止まった。振り返ってまっすぐ、確かにシンを見上げていた。
「驚いたな。当分は食事ひとつするのも辛いんじゃねえかと思ったのに」
「辛い。お陰で夜も眠れなかった、昨日までは」
「そりゃよかった。お得意の奇襲はどうしたよ」
「通じないんだろ、お前には」
シンは指で自分の右目の下を叩いてみせる。
アルファの表情がすっと冷める。
「誰から聞いたんだか。お前、これまでお上品に武器ひとつでやってきたのにな。そんなに俺に勝ち逃げされんのが悔しかったか」
「そうだ。勝手に死なれるなんて我慢ならない」
「そんなに俺の首ってお高いわけ?」
「金は問題じゃない。おれはただ、この手でお前を倒したい」
そりゃ熱烈、とつぶやいてアルファが一歩踏み出す。
「丁度いい。俺も誰かに、相手してもらいたかったとこだよ!」
昂ぶる声とともに、アルファが鉄骨を蹴って駆け上がる。シンが奇襲を仕掛けなかったのはもちろん、アルファの方からこちらへ向かってきたのも初めてだった。
逡巡は束の間、シンは上がってくるアルファ目がけて飛び降りる。途中でフックを斜めに放る。そして先日受けた蹴りをやり返すように、足を突き出した。
アルファがしがみついていた鉄骨を手放して避ける。シンはすぐさまフックに繋がるワイヤーを引いて制動をかけ、アルファが着地した横渡しの鉄骨に降りる。
あちらが体勢を立て直す前に、斜め上からナイフを振り下ろす。左腕で受け止められたが、狙い通りだ。有利な体勢を取ったシンが体重をかけてやれば、さすがのアルファもバランスを保つために歯を食いしばった。
「上がってきたのはハンデのつもりか? ここで後れを取る気はないぞ」
「なんだ、今日はよく喋るじゃねえか」
このままシンが押し切れば、アルファは落下する。即死するほどの高さではないが、いくら半ば機械の体でもただでは済むまい。
ナイフを押し込む。押し合う金属が擦れる。立ち上がる途中のような体勢のアルファがわずかにぐらつき、シンは更に力をこめた。
不意に、体が前に倒れかけた。
視界の端に、ナイフで押し出された機械の腕が飛んでいくのが見えた。正面にはシンの攻撃から解放されたアルファ。
左の肘から先がない。自ら捨てたのだと気付いたときには、先ほどまでアルファの左腕があった場所から左腕が飛び出してきていた。狙いは顎か。喰らえば昏倒する。全力で身を引き、ガードに突き出した腕を掠めて頬まで抉られる。
血が飛んだ。呻きを堪え、背後の鉄骨に背中からぶつかって後ろ手にしがみつく。アルファも一歩後退し、身を屈めて足場に掴まっていた。
「お前はまったく、反則だな」
「ちょっとはマシになったみたいだけどな、詰めが甘えよ。見てわかる物だけが武器じゃないって、俺の目の件でお勉強できなかったか」
左腕の肘から先は、以前の精巧な義手と違い、人の手の形をしていなかった。工場の作業用アームを折ったような、無機物そのものの黒い腕だ。
「まさかこんなバカな仕掛け使う羽目になるとはな。目のからくりはわかっても、さすがにこっちは知らなかったか」
シンは手の甲で頬の血を拭って呼吸を整える。手足は一度潰れても代わりが出てくるかもしれない。それは覚えたから、もう同じ手は食わない。まだ想像もつかないからくりが残っているかもしれないが、この足場で長期戦はできない。
幸いナイフは手放さなかった。左の鉄爪も剥き出しに、シンは正面の隻眼を見据える。
自分の縄張りで、誰かと対峙するのは初めてだ。
一歩で距離を詰め、時間差をつけて左右から攻撃を仕掛けた。ナイフは黒い腕に止められ、突き出した爪は身を屈めてかわされた。しかしアルファの右目が、爪の後を追って横に流れる。
これを潰せば。シンは吸い込まれるように、鉄爪を引き戻すと見せかけて、アルファの右目を貫いた。
「素直だね、お前」
間近で、アルファは笑っていた。
爪に引っかかった眼帯が切れ、その下からアルファの眼球が現れた。過去に一度だけ見たことがある、柔らかい日の光のような色だった。
その目は確かに、シンを見ている。
何が起こったか理解する前に、鳩尾に強い衝撃を感じた。
バランスが崩れる。落ちる。咄嗟にフックを放り、シンを蹴り飛ばしたらしいアルファの右足を絡め取った。なあっ、と慌てた声。二人してやけにゆっくり体が傾く。浮き上がるような、いつもの落下の感覚。しかし体勢は最悪だった。
このまま落ちればただでは済まない。全身生身の自分は特に。駄目なのか。これがきっと、本当に最後なのに。結局最後まで、後れを取ってばかりだ。
無茶な方向に伸ばされたアルファの右手が、先ほどまで足場にしていた鉄骨を掠める。彼が届けば、シンも落下の危機だけは避けられるだろう。しかしシンが選んだのは、アルファの右足に繋がるワイヤーを手繰り寄せることだった。
義手の指先が、鉄骨を引っ掻いて落ちる。シンは更にワイヤーを引く。落ちながら、引き寄せた腿の辺りをできる限りの力で蹴り飛ばした。
反動で体が離れた。鉄骨に背を打ちつけ、地面に投げ出される。最低限の受け身は取ったものの、叩きつけられた右肩の後ろが熱湯に浸かっているようだ。しかし笑いが漏れる。コンクリートの地面に左手をついて無理に上半身を持ち上げると、皮膚のあちこちと力の入らない右手が震えた。
すぐ先に転がったアルファが、上半身を持ち上げようとして崩れ落ちた。腕も脚もやられて立てないらしい。シンの空中での悪足掻きが功を奏したのだろう。半身を起こした分見下ろしてやると、残った生身の目が睨みつけてきた。
彼を初めて地に這わせた。
「なんだよ。満足か」
「ああ。清々しい」
割れた右目から、ひしゃげた薄い金属片が飛び出している。シンは無意識に、眼帯に隠されている目は病で使いものにならないのだと思っていた。考えてみれば逆なのだ。患部を機械と取り替えるのだろうから、病んだ目なら残しておくわけがない。
アルファの言う通り、詰めが甘かった。それが悔しくはあるが、結果は結果だ。
自分が起き上がり、アルファが倒れている。改めてそんな状況を意識すると、また頬が弛んだ。アルファが物言いたげに見ているのがわかったが、しばらく目を合わせられそうもない。
「おい、ニヤニヤしてんなよ。どうすんだ、殺すんだろう、俺を」
当たり前だと答えようとして、弛んでいた口を閉ざす。まるで待っていたような言い種ではないか。
「抵抗しないのか。今さらおれを挑発して何になる」
「そんなに構えんなよ。俺はもう戦えない、それは認めた。ただ頼みがあって喋ってる」
「頼み?」
おう、とアルファは笑ってみせた。
「俺に勝った記念に、持ってって欲しいものがある。始末した奴の持ち物なんてどうでもいいだろうが、俺は散々手こずらされた相手なんだ。勲章のひとつも欲しくはないか」
「断る」
反射的に突っぱねる。とうとう負けたくせに、それが何でもないことのような振る舞いをするのが腹立たしい。
「まあ聞けよ、邪魔になるような物じゃない。俺の体にはチップが入ってんだ。目とか手足とか、あと色々、俺がこの体で生きてきた記録が詰まってる。お前から見たらただの機械の欠片だけど、こんな面倒くさい奴を倒したんだって証拠にはなる」
頼みなど聞かない。これからシンは仕事を完遂するだけだ。そして元の、仕事に手こずることもない、ひとり高みに立つ日々が戻ってくるだけ。なのにアルファの言葉を遮れなかった。シンはたっぷり間を空けて、苦々しく吐き出す。
「おれがそんなもの、欲しがるように見えたのか」
「……要らないか。そうだよな。お前にとっちゃ、殺せって言われた奴なんて殺すだけのもんだろうし」
もう少し食い下がるかと思いきや、やけにあっさりしていて拍子抜けだった。それで気付いた。
やけに頼みを思いつくのが早い。答えがわかりきっていたように、諦めるのも早い。
彼はわざと自分に殺されようとしているのではないか。
殺させて、何かを押しつけて、勝手に死んでいこうとしているのではないか。
無性に腹が立った。短い間とはいえ味わった勝利の高揚が、跡形もなく消える。取って代わったのは、空虚感だった。
「もし勲章なんか欲しいとしても」
ナイフを拾い、倒れたままのアルファににじり寄る。待てだの刃物はよせだの今さら喚いているが、これから殺す相手の言うことなど聞いてやる義理はない。
「お前に恵まれるつもりはない」
そして、左手を降り下ろした。
「ぐ、は ……!」
ナイフがアルファの腹部を貫く。引き抜いて、血がはねて、また貫く。少しずつ狙いをずらして繰り返す。刃を止めようと割り込んできた義肢を払い、ねじ伏せてナイフの柄を叩きつける。人工の皮膚が破れて、覗いた機械の骨組みが割れた。
また刺す。どこを穿てば効くのだろう。確実に臓器を破壊しているはずだが、それが天然か人工かまでは判別できない。ナイフから伝わる感触は、慣れ親しんだ、肉を貫くときのものだけだ。血が噴き出し、シンの顔を体を濡らす。
「お前の血を浴びたのは初めてだな」
ひと通り破壊して、息をついた。空虚感がわずかに薄れる。これでシンの仕事は間もなく終わる。
「馬鹿。お前、死ぬぞ」
でもそれは今すぐの話ではない。死病がシンを殺すとしても、しばらく先だろう。
ただアルファを殺していれば問題はなかった。元の、仕事に手こずることもない、ひとり高みに立つ日々が戻ってくるだけ。
その先に、何があるというのだろう。
だから鉄骨から飛び降りるように、いつも通りターゲットを手にかけるように、躊躇いなく行動した。
「お前こそ馬鹿だ。なんでおれみたいな、大して知りもしない奴を選ぶ。自分の記録なんだろう。お前なら他に託す相手もいたんじゃないか」
アルファの目が揺れた。答えがないわけではなさそうだ。シンが黙って見つめていると、抑えた声が返ってくる。
「お前がひとりだからだよ」
さまよっていた目線が空に、あるいは空を目指して伸びた鉄骨の先に定まる。
「死ぬって決まってるわけでも、はっきり目標があるわけでも、薬だの金だのに溺れて楽しんでるでもない、何にもない奴に見えた。それなら少しくらい、何度も突っかかった俺のことくらい覚えて……ああ、もういい、もうお前も死ぬもんな。見くびってたよ、お前頭おかしかったんだな」
アルファは大袈裟な溜め息をつく。そして思いついたように、シンの顔を見た。
「俺さ、お前の名前、訊いたことあったっけ」
「シン。そう名乗ってる。 ……アルファ」
「あれ、俺の名前知ってんだ。そりゃそうか。……シン、ね」
互いに呼んだことのなかった名を、今になって呼ばれる。片っ端から臓器を破壊しても、裂けた皮膚と薄い肉でしか痛みを感じないのか、アルファの掠れ始めた声はまだ途絶えていない。
「あのな、シン。もし死にたくないって思うなら、方法はあるんだ。俺には選べなかった方法が」
「選べなかった? それだけあちこち取り替えて、今さら躊躇うことなんてあるのか」
楽しんでやったわけじゃないと囁きが漏れる。義手の指先が、自身の肩を撫でる。
「駄目になった体捨てて、頭ん中だけで空へ行けるんだってさ」
シンは反応に詰まった。何度反芻しても、言葉通りの意味にしか受け止められなかった。体を捨てる? 残った肉体も、機械の部分もすべて?
「できるのか、そんなことが」
「準備はしてたさ。あとは俺が頷くだけだった ……なんだよ、その心底わかんねえみたいな顔やめろよ……怖気づいたんだよ。ただ死ぬのも怖いくせに、今残ってるものを捨てるのも怖かった。体は死んで、頭の中身だけ知らねえとこ行って、それで本当に、俺が生きてたことが残るのかって」
怖い。アルファが吐き出した本音は、シンに衝撃を与えた。自分を何度も負かした人間が何かを恐れている。
病も理解不能な治療法も、恐ろしいのが普通だ。自分でさえアルファの立場だったらどう感じていたかと、理性ではそう考えることができる。しかしどこかで、アルファにはそんなものがないような気がしていた。
考えて戦うことをしてこなかったように、当たり前のことに当たり前に思いを巡らせもしていなかった。今、シンはアルファの恐怖を知った。まるで初めて、他人に触れたようだった。
「それで、おれにはそうまでして生きろというのか」
「だってシン、頭おかしいだろ。お前ならやれるんじゃないかって思ったんだよ」
少し軽い調子を取り戻したアルファの評を、シンは否定しなかった。先ほどの虚無感に比べればマシだ。どうしようもない日々の代わりに、記録と記憶だけが残る。それは悪くないことのように思えた。
「持っていってやる、お前の記録」
シンは答えた。しばらくのち、右肩、とアルファは呻いた。作業着をはだけて指先で探ると、ごくわずかな凹凸があった。アルファが頷いて歯を食いしばる。ナイフでそっと近くの皮膚を裂き、血まみれの指を差し込んだ。
先ほど腹を捌いたときとは真逆の繊細な動きで、触れたチップをつまみ上げる。肉の隙間から引き出されたのは小指の先の骨ほどの、薬のカプセルに似た機械だった。
「持ってれば、研究所にも入れる。ナガノって爺さんがいるから、会いに行ってやってくれ。俺の代わりに」
痛みか苦悩か、皺の寄っていたアルファの眉間からすっと力が抜ける。すべての荷物を下ろしたような健やかな、初めて見る顔になる。
「なあ、何も残らないのって、嫌だよな?」
直接的な問いかけに応えるのは抵抗があった。しかしシンはアルファの残った目に映るよう身を乗り出し、しっかり頷いてやる。
「だよな」
一言、深い息に混ぜてつぶやき、アルファは再び空へ目を向けた。シンは手を伸ばし、指先を迷わせて、結局アルファの額を撫でた。茶色い眉が不可解そうに歪む。
「空に、手を伸ばしたいのかと思ったから」
拗ねた子供の言い訳みたいに声がくぐもる。アルファの自然な笑い声を初めて聞いた。
「俺は臆病者のままだけどさ。空に届くんだって夢、見られそうだよ」
声は途中で力を失い、徐々に吐息のようになっていったが、シンには最後まで聞こえた。
空を見上げたまま薄く開いた瞼を閉じてやる。自分が殺した相手にそんなことをするのは、きっと最初で最後だろう。
小さな小さな機械の欠片を握り込む。アルファが見てきたシンの姿も、ここに刻まれているのだろうか。
5
管理局に足を踏み入れる機会など、生涯ないと思っていた。
扉のロックはすべて、シンが近付くだけで解けた。特に分かれ道もなく、道なりに進むと、真っ白な通路の半ばで背筋を伸ばした老人が待っていた。
他に人影はない。ここに至るまでも、誰にも会わなかった。しかしこの老人がアルファの言い残した相手だとわかったのは、その弛んだ瞼の下から覗く目がまるでシンがここに来ることを予測していたかのように揺るぎなかったからだ。
「おれにアルファ殺しを依頼したのはあんただな」
断定する。ナガノは静かにシンに対峙していた。
研究所までの道で、これまで興味のなかったことを考えてみた。依頼主がどんな奴で、何を考えて殺しの依頼なんてしているのか、ターゲットを殺してどんな得をするのか。アルファを殺して、いや、命の危機を感じさせて、得をするのは誰か。元とはいえ、後ろ暗い連中なら誰もが厭う自警団の首に金を出す理由があるのは。
ヒントはあった。なぜメイリンが、アルファのあれほど正確な情報を持っていたのか。彼女は噂や目撃情報など市井に転がる情報も扱っているが、アルファの体がどうなっているかなんてそんな経路でわかるわけがない。近くにいるだけでシンの動きが見えるなんて、街の連中に思いつくはずがない。つまりこれは、確かな情報筋からもたらされた話ということになる。
管理局と殺し屋を繋ぐ糸、そしてメイリンの強かさを思えば、彼女なら管理局と繋がる個人的なパイプを作っているだろうと予想できる。アルファを打ち損じた日の店主とシンのやり取りを何度か聞けば、シンのターゲットの見当はつくだろう。報酬が高額であろうことも。それだけ揃えば、メイリンが行動しない理由はない。シンに交渉を持ちかけた日、彼女は情報を売りつけるために待ち構えていたに違いない。
もうひとつ。アルファがこれまでシンを殺さずにいたのは、死病を患った彼に殺し屋相手だろうと生命を尊ぶ心が生まれたなんて理由ではないだろう。なのに殺さなかった。そうする機会は何度もあったにも関わらず。
きっと彼は、シンを雇ったのが誰か気付いていたのではないか。気付いて、なお見逃すような相手は誰か。そしてその相手は、どんな得をするのか。
遡ってみれば心当たりはある。初めて会ったときは、アルファにも奇襲が通じた。眼帯もしていなかった。二度目にはそれらすべてが変わっていた。見た目がほとんど変わらないから気付かなかった ――アルファの体のほとんどが機械に置き換わったのは、あの頃なのではないか。
楽しんでやったわけではないと彼は呟いた。被験者が施術を躊躇うなら、同意する理由を作ってやればいい。
「止まりなさい」
シンは踏み出しかけた足を引く。アルファはこの老人が何をしたか気付いていた。なのに会いに行ってやってくれと残した声は柔らかだった。
「どうやって君がここに来たのか、考えられる可能性はひとつ。問題は理由だ。君がここへたどり着くほどにアルファと親密なのだとしたら」
「おれは、あんたに話が」
「君が私を殺しに来たと考える方が自然だ」
なんとか話がしたかった。しかしナガノはシンの言葉を遮る。少し考えて、シンは自分の衣服を引っ張った。顔も同様に、赤く汚れているはずだ。
「これは、おれとアルファの血だ」
「 ……信用しよう」
シンにはナガノを殺すより優先すべき事項がある。最後の天才の理解は早かった。
通された応接室には、アルファがこれまで感じたことのない緩やかな空気が流れていた。
「少し、座って話をしないか」
シンは首を振り、勧められたソファの横に立った。アルファの血がつけば、この立派なソファは二度と使えなくなるだろう。
「アルファに聞いているかな。私はここで、主に医療技術の研究をしている」
名を訊かれ、答える。ナガノは深みのある優しい声で、シンの名を口にした。
「シン君、先ほどはすまなかった。しかしこちらも肝が冷えたよ。そんな姿で現れて、開口一番あのセリフではね」
「それはよかった」
アルファのような切り返しだと、言ってから気付く。ナガノも同じ感想を抱いたのか、笑い混じりの吐息はいくらか親密だった。依頼者と殺し屋、両者の間にはターゲットという既にいない者の影が濃く落ちる。
あそこでナガノを問い質したのが適切だったとは思わない。ただシンは知りたかった、いや確認したかっただけだ。アルファが背負っていたもの、自分たちが出会った理由、そして殺し殺される以外の道がない構造をより深く。
「研究所がこんな場所にあるのも、いざというとき渋る病人を追い込むためなのか」
「否定しないが、それだけではないよ。空はできるだけ近い方がいい」
「……驚いた。天上人の言葉に共感できるなんてな」
「私は天上人などではないよ。なり損ないだ。いや、なる機会すらなかった」
清潔な管理局内で暮らし、老いてなお理知的なナガノは、シンからすれば充分に天上人だった。彼が取り乱したり、餓えている様など想像できない。
ナガノは一言断り、大儀そうにソファに身を沈めた。
「それでも私は天に届きたかった。そのためにできることはでき得る限り、試さずにいられなかった。ただの好奇心でやってきたのではないと信じてほしい」
「届かないのか。あんたほどのことをやっても」
「私がやってきたのは、単なる過去の技術の再現だよ。アルファを延命した義肢や人工臓器にしても、苦しむ人々を助けるには生産量が絶対的に足りない。そして天は我らを顧みない。わかっていて続けた。死の迫る罹患者を追い込んだ。蔑むかね」
「おれは依頼を受けただけだ」
シンは依頼通りに殺すだけの人間で、アルファは死を待つ病人で、この狭い世界に他の道はなかった。そうでなければ出会いもせず、ここまで来ることもなかった。
「おれはあんたを裁きに来たんじゃない。頼みがあって来たんだ」
「延命か。残念だが罹患した以上、二年も持つかどうか」
シンは首を振った。最後の天才も、まさかいきなり現れた新しい罹患者の目的が、つき合いの長い被験者に断られた治療法だとは思わないだろう。
「行けるんだろう、空へ」
ナガノは腰を浮かした。すぐにシンの意図を理解したのだろう、色のない唇が震える。
「行ってくれるか」
「そのために、ここまで来た」
ナガノが目を細める。眩しいのか、訝しんでいるのか、シンにはわからない。
「救われるよ」
最後にひとつだけ、願いを告げた。アルファのチップを見せて、ともに行けるかと訊く。
「データをまとめることは可能だ。しかしアルファの記録を君の中で展開することはできない ……喩えるなら、鍵のかかった日記帳を抱いていくようなものだ。いいんだね」
ナガノの返答は否定ではなく確認だった。充分だとシンは答えた。記録と記憶、二人で残せる最大限が残ると確認できれば、もう思い残すことはない。
そこそこ使える殺し屋など他にもいる。病んだ体の代わりを求める患者などいくらでもいる。過去の遺産を現代に蘇らせたところで、天から下る評価などない。地表に這う人々はみな最初から、人類のメインステージを外れている。
誰かを唯一の何かと見る者はいない。ずっと、いなかった。
ついてきなさい、と告げてナガノは背を向けた。見上げても手を伸ばしても届かないはずの空へ、シンは向かう。