真なる変態の証 ‐匂いフェチ‐
お茶を飲みながら、姉は辛抱強く待つ。
約束の時刻は午前九時、しかし現在の時刻は午前十時を回っている。これがデートなら激おこモードのメールを叩き込んで自宅に帰っているところだ。しかし相手は社会不適応者の肉親、引きこもり暦二十年近い弟である。心情的には尻を蹴り飛ばしてでも追い出したいところだが、激甘の両親の手前、そういうワケにもいかない。
あの子は病気だから、とは母親の弁だ。その意見には概ね賛成である。ただ彼女としては、荒療治の方が効果的だろうと思っているだけだ。
と、さすがにイライラが募って呼びに行こうかと腰を浮かせたところで、目の前の襖がスラリと開かれる。その向こうには、くたびれたトレーナーを着込んだ見慣れた姿が立っていた。しかし格好とは裏腹に、その表情は近年稀に見るレベルの真剣な顔つきをしていた。
一瞬驚いたが、自分の突きつけた言葉を思い出し、むしろ当然のことと納得する。
彼女は昨日、選択を迫ったのだ。ここに留まる代わりにアルバイトとして彼女の所属している会社に勤めるか、あるいは全寮制の職業訓練校に行くか、その二つに一つを。
大袈裟かもしれないが、それは人生における大きな選択肢だろうと彼女は思っていた。悩まないハズはないし、真剣に迷うのはむしろ当たり前のことなのだが、こうして悩んでいる姿を見ると、まだ弟の中に人生について真剣に悩めるだけの真剣みが残されていると思えて少しだけ安心する。
それだけでも、こうして一時間以上も待たされた甲斐があったというものだ。
「お茶飲む?」
「あぁ、うん」
腕を組んで大きく首を傾げながら、弟は姉の対面に腰を下ろした。その様子を横目に見ながら用意しておいた湯飲みにお茶を注いでいく姉は、何かが変わり始めたことを実感しながら口を開いた。
「で、どう? 結論は出た?」
「それがさ姉貴、いくら考えてもわからないんだよ。どちらも同じくらい酷く思えて」
「そりゃあ、どっちに行ったって相応の苦労はあるでしょうよ。でもそれを乗り越えれば、きっと嬉しいことや楽しいこともあるんだから」
「……え、姉ちゃんってそんな趣味あったの?」
「趣味? 仕事の話しでしょーに」
「え、姉ちゃんの仕事ってそんな仕事なのっ?」
引きニートの弟に引かれるとか、屈辱以外の何モノでもない。
「えっとゴメン、何の話?」
とりあえず話が何となく噛み合っていないように感じた姉は、威圧感MAXの笑顔で問いただしてみることにする。
「あ、その……匂いフェチについて、ですけど」
彼女は手近にあった新聞紙を引き寄せ、丁寧に丁寧になるべく細くなるように丸めてから、おもむろに立ち上がって思い切り弟の頭を殴りつけた。
とても良い音がした。
「何考えてんだオメーは!」
「痛い……」
「痛くないっ。むしろ痛々しいのはこっちだボケ!」
会社では丁寧な物腰の有能事務員で通っている姉だが、弟には容赦がない。コレが家族の絆である。
むろん弟からすれば、土下座して遠慮したい絆であろうが。
「いやいやでもさ、よく考えてみてよ」
「考えるって何を?」
「不思議だと思わない?」
「だから、何が不思議だってのよ!」
真っ向から弟の言葉を叩き落としているようにも見えるが、根が生真面目な為にか話だけはちゃんと聞いてしまう律儀な姉である。こういった局面で聞く耳持たずに問答無用で切り捨てていたなら、ミクにハマることもガルパンのブルーレイを全巻購入することもアトリエの新作を予約することもなかったハズであった。
何だかんだで仲は良いのだ。
「だってさ、屁の匂いって誰がどう嗅いだところで臭いよね?」
「当然でしょ」
「でも連中はさ、誰がどう嗅いだところで臭いと思うような匂いを自ら嗅いで、しかも喜んでいるワケだよ」
「そういう趣味なんでしょ。というか、何が言いたいの?」
「つまりさ、匂いフェチの人達って、その匂いを良い匂いだと思っているの? それとも臭いけどそれが良いと思ってるの?」
「……ど・う・で・も・いいわっ!」
スパーンと袈裟切りに二発目が決まる。
「良くないって。この二つは似てるように見えるけど全然違うものなんだよっ」
「何がどう違うってのよ!」
「いいかい姉ちゃん、もしも屁を良い匂いだと思って嗅いでいる人がいたら、それは身体の機能に異常があるってことだ。つまり病気だよ。逆に屁を臭いと思いつつ好んで嗅いでいるとしたら、それはマゾだよ。でも同時に、自分を偽っているとも言える。これはさ、どっちが本当の、言うなれば真性の変態なのかという意味では、極めて大きな難問だよね」
「難問というか不問でしょ。結局どっちも変態だし」
「いやいや、わかってないなぁ姉ちゃんは。確かに一見すると臭いと思いつつ嗅いでいる人の方が変態チックだけど、クサヤを食べなれている人があの匂いで食欲をそそられるように、もしかすると良い匂いだと感じられるまでの過程かもしれないよね。でも一方で、嗅覚という器官が狂ってしまったのだとしたら、それはただの錯覚と変わらないワケでさ。そんなのは変態じゃない」
「つまり、臭いということは自覚しつつ、それでも良い匂いだと錯覚できている者こそ、真の匂いフェチだと?」
「そう、そうだよ。やっとわかってくれたか」
「……で、それが今の状況とどうつながってくるのかしら?」
切り裂きジャックが裸足で逃げ出すような笑顔を向けられている弟は、それでも気丈に言葉を続ける。
「そこでニートだよ」
相手に反論の隙を与えずに畳み掛ける。
「好きでニートやってるヤツはただの屑だ。でも罪悪感を抱きつつニートに甘んじているヤツは臆病者だ。だが俺は違う。罪悪感が湧くことを理解しつつ、それでも自らニートという道を選択しているんだ。言うなればニート・オブ・ニートだよっ!」
要するに、働きたくないでござる宣言である。
「……我が弟よ」
「何でしょうか姉上」
「遺言はそれでいいのか?」
「遺言とかやめてください死んでしまいます」
「わかった入院だな。精神科と外科、どっちがいい?」
「前者はともかく後者は家庭内暴力ですよねっ?」
「あぁ、大丈夫よ?」
ニタリと、姉は笑う。
「悪いことだってわかった上で、殴るのが好きなだけだから」
変態とは、覚悟である。




