教育ママ
話に出てくる母親のモデルは、僕の身近にいる人です。
憎しみと悔しさと怒り、それらを全部ひっくるめた殺意をもって健一は藤崎母に迎え入れられた。健一に殺意が向けられる事情、それ自体はいたって簡明。藤崎家の長男・博が大学受験に失敗し、健一は第一志望校のN大に合格した。もう少し詳しく説明すれば、健一とは学部は違うものの、博は滑り止めとしてN大も受けていたがそれも落ちた。それだけのこと。しかし、愛息の不合格を目の当たりにした母親の心中たるや昨今の年金問題よりも混迷を極めている。事実、合格発表の後、藤崎母がN大の悪口を散々言っていると別口から耳にしていた。
今日は親友の頼みということで嫌々ながらも藤崎邸を訪れた健一ではあったが、のっけから見事な先制パンチをお見舞いされてしまった。
「あら、松本君、お久しぶりね。博もそろそろ降りてくると思うんだけど、午前中は一区切りつくまで部屋からは絶対に出てこないの。ほら、うちはね、来年もあるし、いつまでも他の人と同じようには遊んでいられないから。合格した人はうらやましいですわね。さあさ、どうぞこちらで待っていてくださいな」
言葉使いは優しくとも、その声音、表情から殺気を押し殺している様子が十二分に伝わってくる。無理に隠そうとしているのが見え見えだ。健一は、おじゃましますと言いながら、恐怖の館へと足を踏み入れた。
通されたのはリビング。質感のよい、品のあるソファーに座らされた。だが、こんなところに座らされても全く落ち着かなかった。一方の藤崎母はカチャカチャとお茶の準備をしている。
健一は所在無く辺りをきょろきょろと見回した。藤崎邸を訪れるのはもちろん初めてではない。しかし、こんなにゆっくりと室内を見渡すのは初めてである。二回りほど室内を観察しても、何一つとして健一の頭に残るものはなかった。
「お待ちどうさま。お砂糖は一つでいいかしら?あら、ミルクを忘れてたわ。ちょっとお待ちになっててね」
テーブルの上にはコーヒーが仲良く二人分用意されている。おそらく、藤崎母も少し早めのコーヒーブレイクとやらをとるつもりなのだろう。衝撃の事実に気付き、はっとしていると藤崎母が戻ってきた。そして、さも当然のように健一の隣に座った。呉越同舟とはまさにこのこと。健一としては気が気ではない。
「松本君は、もうお住まいなんかはもう決めてらっしゃるの?」
ついに来た、そう感じて顔がカッと熱くなってくるのを健一は感じていた。
「あ、はい。一応は。安いだけのボロアパートですけど」
藤崎母は同意を示すように頷いている。
「一人暮らしは大変よね。なにかとお金がかかるし。やっぱりね、大学生までは自宅から通うのが一番だと思うのよ。博は弁護士を目指すと言ってますから、だから勉強以外のことで気を紛らわせたくないの。大学に入るのが目的じゃないんだから、しっかり勉強してもらわないと」
健一は、はあと曖昧に返事しながらコーヒーをすする。コーヒーにミルクと砂糖を入れ忘れてしまったことからも動揺ぶりは窺える。そんなことは全く気にならないように藤崎母は喋り続ける。
「まあ、今となってはね、N大に行かなかったのは正解だと思っていますわ。私立だと何かと誘惑も多いでしょう。ましてN大なんていうのはマンモス大学だから、つい、ということもあるし。ほら、他の大学でも、テレビなんかでよく出てくるでしょう。学生の不祥事かなんかで。私はもう心配で心配で。遊びほうけて学業が疎かになってしまったら本末転倒ですものね」
ようやく一段落ついたのかコーヒーに口をつける。そして今更気付いたようにはっとした顔をする。健一がこの春、N大に進学するのを知っててのその態度だから、なお性質が悪い。
「ごめんなさいね。別にN大の悪口を言ってるんじゃないのよ。多くの学生はまじっめにがんばってらっしゃるとは思うけど、やっぱり印象は良くないわよね。うちの子も来年は国立一本でがんばると言ってますし。あの子、真面目だから、滑り止めの大学といっても本気を出さないと気が済まないみたいで。それが本命に集中出来なかったようにも理由じゃないかとね、今更ながら後悔してますわ」
健一はもはや祈るしかなかった。一刻でも早くこの気まずい時間が終わってくれるのをひたすらに祈りながら、残りも少なくなってきたコーヒーをちびちびと飲み続けた。
その祈りが通じたのか、再び藤崎母が何かを話かけようとした瞬間、博がリビングに入ってきた。博は健一の心中には全く気付いていない様子で、にこやかに、よっ、と簡潔な挨拶を済ませる。
「じゃあ健一、部屋で。飲み物も持ってきちゃいなよ」
健一はそそくさとカップを持つと、素早く博のもとへと歩み寄った。藤崎母は博に向かって何か話しかけようとするが、それを遮るようにして「何もいらないよ」、と言う。さすがに親子、この辺りは心得たものである。「でも」と言いかけている藤崎母をよそに二人はさっさとリビングを出た。
階段を上がり、健一はようやく緊張を解くと、ふうっと大きなため息をついた。博は振り返りながら、何だよそのため息、と笑顔で返す。
「散らかってるけど、気にすんなよ」
そう言うものの、博の部屋は男の部屋としてはびっくりするほどきれいに片付いている。机の横の本棚には参考書の類が綺麗に教科別に分類されて並べられている。ベッドもちゃんと整えられていて、寝て起きたままにしてある健一のものとは大違いだ。これで散らかっているというなら、健一の部屋はもはや廃墟である。「まあ、適当に座ってくれ」と促され、いつものようにベッドの上へ腰掛ける。
「今日は、そんな大それた話ってことでもないんだけど、まあ相談があってさ。俺にとっては大事なことなんだけど」
今までにこやかだった博の顔が真剣になる。それに合わせるように健一も真面目な顔をする。藤崎母の話を聞かされてきた今となっては健一の頭には不穏な想像しか思い浮かばない。
(まさかこいつは一緒に一浪して国立を目指そうとか言い出すんじゃないだろうな…そうなったら丁重にお断りしよう)
健一の密かな決意には全く気付かないよう様子で博は口を開く。
「あのさ、俺、来年、N大を第一志望にしようと思うんだ。母さんは国立に絞るように言ってんだけど、やっぱり国立一本だと不安だし。もしN大に進学することになったらお前もいるしな。一人暮らしをしてみたいってのもあるけど。だから」
博は目をキラキラさせながら健一の目をじっと見る。
「だからさ、あっちに行ってもずっと友達でいてくれよな。俺も来年こそはきっと受かるから」
親友の無駄にさわやかな申し出を断る理由はなかった。健一はすっと手を差し出すと、握手で了承した。
「ああ、もちろん!お前なら絶対に受かるさ。今年だって何でお前がN大に落ちたのか不思議なくらいだもん。来年もう一度受ければ絶対受かるって」
健一の懸命なエールにも関わらず、なぜか博は気まずい顔していた。健一は理由が分からず困惑する。
「あのさ、実はお前にも言ってなかったことがあるんだ」
健一はますます困惑してしまう。今更衝撃の告白を神妙にされても困る。
「実は、俺、N大受けてないんだ。願書は出したんだけど、結局受けなくてさ。母さんには秘密にしてもらいたいんだけど、俺、観光で一度行ってみたくて願書出したんだ。全く受ける気ないのにな。それで、受験の当日はずっと遊んでたんだ」
こんなときどう対処すればいいか分からず、健一はとりあえず作り笑い的なものでごまかしておいた。