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巡る春

作者: 緑茶 萩
掲載日:2026/07/06

 春の終わりの、生ぬるい風が吹く午後だった。


 私はその日、ひさかたぶりに山を下りていた。

何十年ぶりだったか、もう数えていない。人の暦は目まぐるしく回りすぎて、いちいち勘定するのが億劫になって久しかった。


 エルフの私は、もう千年からこちらを生きている。

生まれた年も、初めて剣を握った日も、輪郭はとうに霞んだ。覚えているのは、別れの数ばかりだ。

出会った者はみな先に逝く。友も、戦友も、恋人も。だからいつからか人里を避け、山の奥にひとり籠るようになった。誰とも深く関わらなければ、別れも訪れない。


 それでも、時折気の迷いのように山を下りる。

人の暮らしの匂いが、恋しくなるのだ。一度きりの命の熱は、永遠を持て余す身にはどうしようもなく眩しくて、近づいてはならぬと知りながら、近づかずにいられない。


 その日もそうだった。たいした用もなく、足が町へ向いていた。


 町は思っていたよりずっと賑やかだった。

市の立つ通りには露店がひしめき、果物売りの声、鍛冶の槌の音、子どもらの歓声。長く山に籠っていたものだから、私はすっかりその喧騒に当てられてしまった。あれは何の店だ、あの匂いは何だ、と。きょろきょろと辺りに気を取られ、足元も前も、ろくに見ていなかった。


 だから避けられなかった。角を曲がってきた誰かと、まともにぶつかった。


 なんとも情けない話だ。

踏ん張ることもできず、私は街路の真ん中に尻もちをついた。ぶつかった相手――細い肩をした少年も、勢いに巻き込まれて、私のすぐ傍らに派手に転がっていた。


「すまない、怪我はないか?」


 私は慌てて身を起こし、まず相手の心配をした。

ぶつかったのはこちらの不注意だ。少年は地べたに尻をついたまま、目を白黒させて私を見上げていた。


「……本当に怪我は無いか?派手に転んでいたようだが」


 手を差し伸べながら、頭から足の先までをそれとなく検める。

擦り傷のひとつもあれば手当てをしてやろうと思ったのだが、見たところ大きな傷はない。少年は気まずそうに頬を掻き、大丈夫だと小さく頷いて、おずおずと私の手を取った。


「良かった」


 ほっと息をついて、私はようやく笑った。

そのまま手を引いて立たせてやると、思いのほか軽々と持ち上がって、つい口が滑った。


「それにしても君は軽いな。ふふ、そうか、可愛いな」


 ほんの世間話のつもりだった。山の獣たちと比べれば、人の子はどれも頼りなく軽い。とりわけこの少年は、年の割に痩せて見えた。

ところが少年はかっと顔を赤くして、むきになって言い返してきた。男に向かって軽いなどと言うのは失礼なのだと。


「そ、そうなのか?すまない、だいぶ山に籠っていたから世間を知らなくてな。そうか、男に軽いと言うと失礼にあたるのか」


 私は素直に頭を下げた。

千年生きても、人の機微というのはついぞ覚えきれない。頬を赤くしたまま、それでも私を責めきれずにいる律儀さが、なんとも微笑ましかった。


 ひとしきり気まずい沈黙が流れたあと、ふと思いついて尋ねた。


「そうだ、君の名前は?」


 少年は迷うように私を見上げ、観念したように名乗った。

シン、と。短く、まっすぐな名前だった。よく似合っている、と思った。


「そうか、シン。私はミアだ。君はこれから何処へ?」


 行く当てなど特にない、と彼は気だるげに答えた。

家を出てきたはいいが、することもなく、ぶらぶら歩き回っていたのだという。なるほど、互いに上の空で歩いていて、ぶつかったわけだ。不注意だったのは私だけではなかったらしい。


 暇を持て余している――その言葉が、なぜだか胸の奥を軽くくすぐった。

私もまた、いつだって暇を持て余している身だ。永すぎる時間の潰し方がわからず、山にこもったり下りたりを繰り返している。


「そうか暇なのか。ならこれも何かの縁だ。少し案内してくれないかい?」


 シンは少し驚いた顔をして、ぎこちなく頷いた。

山を下りたばかりの私には、ちょうどいい道案内だった。


 その日、私たちは町を歩いた。

市の立つ広場、川にかかる古い橋、誰も入らなくなった鐘楼。シンはぶっきらぼうな口ぶりのわりに、私が何かを尋ねるたび、きちんと答えてくれた。あの川には昔橋がなかったこと、この鐘は壊れていて鳴らないこと、あの店のパンがいちばん旨いこと。そんな他愛のないことを。


 広場では果物売りが甘い杏を山と積んで声を張り上げ、軒先の洗濯物が春の風にはためいていた。

井戸端の女たちの噂話。その足元を駆け抜けてゆく子どもら。鍛冶屋の方から響く、規則正しい槌の音。どれも何の変哲もない、人の暮らしのひとこまだ。その何でもなさが、私にはたまらなく愛おしかった。


 私が立ち止まって杏を眺めていると、シンは何も言わずに二つ買って、ひとつを差し出した。

「お腹すいただろ」と、ぶっきらぼうに。

礼を言うと、彼は照れたように顔を背けて先に歩いていってしまった。その背中を追いながら、胸の奥がくすぐったかった。誰かに何かを差し出されるなど、いつ以来だろう。私はいつも、差し出す側だった。


 人の町は、前に下りた頃とはすっかり様変わりしていた。

新しい家が建ち、見知らぬ名の店が並び、それでも人々の暮らしの匂いだけは、千年前と何ひとつ変わらずそこにあった。私はその匂いが、好きで、苦手だった。その熱がいつか必ず冷えることを、私だけが知っているから。


 気づけば、西の空が燃えるように赤かった。


「日が暮れるな。今日はありがとう。また会うことがあればその時は仲良くしてくれ」


 別れ際、私はそう言って手を差し出した。

社交辞令のようなものだった。人の子との縁など、川面に浮かんで消える泡のようなもの。明日にはきっと忘れている。そう思っていた。


 シンは少しためらってから、その手を握り返した。

小さくて、けれど思いのほか硬い手だった。剣を握る者の手だ、とぼんやり気づいた。


「あぁ、また」


 夕陽に背を向けて去ってゆく少年の影を、しばらく見送った。

その日の別れは、私にとって何の意味も持たないはずだった。人の子との縁なら、これまで数えきれぬほど結んでは、ほどいてきた。一日、二日、長くて数ヶ月。気まぐれに関わり、相手が私という存在に慣れる前に、決まって姿を消す。深入りする前に。情が移る前に。それが、千年かけて身につけた、自分を守るための作法だった。


 だからその夜も、明日にはこの町を発とうと思っていた。

あの少年のことも町の景色もすぐに忘れて、また山の奥へ。いつものように。


 なのに翌朝、私の足は町を発つどころか、昨日あの少年とぶつかった通りへと向かっていた。




「昨日ぶりだな。ふふ、今日はどこへ?」


 翌日、私は同じ通りでシンと再会した。

偶然というには、互いに少しだけ出来すぎた偶然だった。彼は木剣を一振り提げていて、それを見れば行き先は尋ねるまでもない。


「なるほど剣の訓練か。なら力になろう。剣なら多少の覚えがある」


 多少、というのはささやかな見栄だった。

千年の間に、私は数えきれぬほどの剣を握り、数えきれぬほどの者と刃を交えてきた。正直に言ったところで、この少年には冗談にしか聞こえまい。


 かつて私は、人の国の戦に幾度も身を投じた。

理由はもう覚えていない。守りたいものがあったのか、ただ退屈を持て余していたのか。気づけば戦場という戦場を渡り歩き、剣の腕だけが、永すぎる時間のなかで唯一、確かに積み上がってゆくものになっていた。

 だがその剣で守った者たちも、並んで戦った者たちも、今はもう一人として生きていない。

剣の腕をいくら磨いたところで、大切な者の寿命は一日たりとも延びない。それを嫌というほど知っていたから、この何百年か、私は剣を抜くことすらやめていた。


 それでも、シンの構える木剣を見たとき、体は忘れていたはずの感覚を思い出していた。


 町外れの河原で、私たちは木剣を構えた。

シンの構えは荒削りで、芯だけがまっすぐ通っていた。独学なのだろう、誰かに正しく教わった形ではない。それでも、ひと振りごとの気迫が彼の本気を物語っていた。


 私は彼の太刀筋を受け、いなし、ときに軽く弾いてやった。

手加減を悟られぬよう、けれど確かに何かを掴ませるように。シンは汗だくになって何度も打ち込んできた。倒れても起き上がり、また構える。その目には、年に似合わぬ切実な光があった。


 剣を交えていると、相手の心が刃を通して伝わってくる。憎しみで振るう剣、恐れで振るう剣、栄誉のために振るう剣。千年のあいだ、あらゆる剣を受けてきたが、シンの剣はそのどれとも違った。太刀筋の根に、温かい何かが流れている。この子の剣は、人を傷つけるためのものではない。誰かの笑顔を守るためのものだ。それだけは、はっきりとわかった。


 日が傾く頃、私は木剣を下ろして言った。


「君は筋がいい。きっと強くなる。私が保証しよう」


 お世辞ではなかった。彼の剣には、伸びる者にだけ宿る素直さと、何かを背負った者だけが持つ重さがあった。


 シンは照れたように目を逸らした。その口元がほんの少しだけ綻んでいたのを、私は見逃さなかった。


 それから、私はなんとなく山に戻る気を失くした。町外れに小さな空き家を見つけ、勝手に住み着いた。誰も咎めはしなかった。エルフがひとり町の外れに住み着いたところで、人の暮らしには何の波風も立たない。


 そうして私は、シンの剣の稽古につきあうようになった。




「やぁ、一週間ぶりだな。今日も訓練かい?」


 一週間ほど顔を見ない時期があって、久方ぶりに会ったシンは、木剣ではなく籠を提げていた。中に野菜や干し肉が覗いている。


「買い物?そうか、家事も行っているのか。親孝行者だな」


 聞けば、母とふたり暮らしなのだという。

母は体が弱く、家のことの多くをシンが引き受けているらしい。稽古に来られない日が続いたのも、そのためだった。


 まだ少年と呼んでいい年頃の子が、剣を振り、畑を耕し、市で値を交渉し、病がちの母の世話をする。

軽い荷ではない。それを彼は、苦労とも思っていないようだった。当たり前のように籠を抱え、当たり前のように家へ帰ってゆく。

 私のことも、彼は母に話していたらしい。「山から下りてきた、変わったエルフの人がいてね」と。

 そう聞いたとき、私は妙にくすぐったく、ほんの少し誇らしかった。


 あるとき、尋ねたことがある。疲れないのか、と。

これだけのことを毎日ひとりで背負って、しんどくはないのか。シンは不思議そうな顔をして答えた。「しんどい、と思ったことはないな。母さんが、笑ってくれるから」と。

たったそれだけの理由で、彼は重い荷を軽々と背負っていた。一度きりの命を生きる者の強さだ。永遠を生きる私には、ついぞ持ちえないものだった。


 ある日、稽古の途中でふと彼の手が止まった。


「どうした、暗い顔をして」


 木剣を構えたまま、シンはしばらく黙っていた。何か言いかけて、飲み込んで、結局なんでもないと首を振った。


「そうか、なんでもないのならいいが」


 無理には問わなかった。

人の子には人の子の領分がある。千年生きたところで、他人の心の奥底にずかずか踏み込んでいい理由にはならない。

それでも、あの横顔に差した影が、なぜだか胸に引っかかって離れなかった。




 その日、私の住む空き家の戸を、見知らぬ女が叩いた。


 痩せた、目元のやさしい人だった。

どこかで見た気もしたが、千年も生きていると人の顔はみな似て見える。私は正直にそう打ち明けた。


「ん?君は、誰だ?すまない、覚えが悪くて、前に会ったか?」


 女はやわらかく笑って、自分はシンの母だと名乗った。シルアと。言われてみれば、目元のやさしさが、確かにあの少年に似ていた。


「そうか、シンの母親だったのか。それで何の用だ?」


 近々シンの誕生日が来るのだという。

何か贈り物をしてやりたいのだが、何を喜ぶのか自分にはわからない。あの子はいつも私のことばかり気にかけて、自分の欲しいものを口にしない。だから、いつも一緒にいるあなたなら何か知っているのではないかと、そう思ってここまで来たのだと。


「シンにプレゼント?そうか。それで私に助言を」


 しばし考え、私は壁に立てかけてあった一振りの剣を手に取った。

鞘も柄も古び、刃も研ぎを忘れて久しい、なまくらの剣だ。


「ならこれを渡してやって欲しい。私の剣だ」


 シルアは戸惑った。そんな大切なものを、と。私は首を振った。


「何、大したものでは無い。今じゃただのなまくらだよ」


 どうしてこれを、と問う彼女に、私は半分だけ本当のことを答えた。


「彼が私の剣を気に入ってね。プレゼントと言うなら是非とも渡して欲しい。彼なら喜ぶさ。それにもう私に必要の無いものだから」


 稽古のたびに、シンはこの剣を眩しそうに見ていた。

古びてなお、刃の奥に眠る何かを感じ取っていたのだろう。鋭い子だ。――もうひとつ、口に出さなかった理由もあった。私はもう、この剣で誰かを斬る気がなかった。振るいすぎたこの刃を、そろそろ誰かの未来のために手放したかった。


 シルアは何度も礼を言った。私はそれを軽く手で制した。


「何、感謝は必要ない。私も彼に仲良くしてもらっている。その礼さ」


 数日後、ふたたび戸を叩く音がした。開けると、またシルアが立っていた。


「む?あぁ、シルアか。そうか、喜んでくれたか。それなら良かった」


 剣を受け取ったシンは、それはそれは目を輝かせていたという。

シルアの口ぶりからも喜びようが伝わってきて、胸の奥がほのかにあたたかくなった。


 そして、シルアは布に包んだ何かを差し出した。


「これは?アップルパイ?いいのか?」


 礼にと、焼いてきてくれたのだという。

湯気の名残のあるそれは、林檎と砂糖の甘い匂いをふんわりとさせていた。


「ではありがたくいただこう」


 その夜、私はひとり、窓辺でアップルパイを食べた。

甘く、少し焦げて、優しい味がした。母が子のために焼く菓子の味だ。私に母の記憶などとうに薄れているというのに、その味は不思議となつかしかった。


 窓の外には、ぽつりぽつりと人の家の灯りがともっていた。

そのひとつひとつに誰かの暮らしがある。母が子のために菓子を焼き、子が母のために水を汲む、そんな営みが。私の窓に灯る火は、いつでも私ひとりのためのものだった。


 けれどその夜は、誰かが私のために焼いてくれた菓子が、窓辺にあった。

たったそれだけのことだった。




 季節がいくつか巡った。


 シンは見違えるほど剣の腕を上げた。

あの荒削りだった太刀筋に、磨かれた鋭さと落ち着きが宿りはじめていた。


「シンもだいぶ強くなったな。十数回に一回は一本取れるようになったじゃないか」


 私が笑ってそう言っても、その日のシンは笑わなかった。木剣を提げたまま、ただ俯いていた。


「どうした、暗い顔をして」


 彼はしばらく口を開かなかった。

河原の水音だけが、やけに大きく響いていた。やがて、絞り出すように、彼は言った。母が死んだのだ、と。


「シルアが、死んだ?」


 言葉を失った。あのやさしい目元のシルアが。アップルパイを焼いてくれた、あの人が。


 病だった、とシンは言った。

もとより長くはないと言われていたのだと。私が彼の剣に感じていたあの重さは、これだったのだ。母を喪う日が来ることを、彼はずっと前から知っていた。

知りながら、それでも母を安心させたくて、強くなろうとしていた。立派な男になった姿を、せめて一目見せたくて。


 間に合ったのか、と尋ねるのが怖かった。

問わぬ私に、シンはぽつりと打ち明けた。最期の朝、母は彼の手を握って笑ったのだという。「シン、貴方はきっと、私なんか居なくても、生きていける。貴方に無茶ばかりさせた駄目な母親で、ごめんね」と。それが最後の言葉だった。

 彼は、その手を握り返したまま何も言えなかったのだと。ありがとうも、行かないでも、何ひとつ。


 少年がひとり、迫りくる別れに抗うこともできず、ただ強くなることだけを支えに生きてきた。

彼の流さぬ涙の重さを、私は痛いほど知っていた。喪うとはどういうことか、千年のあいだ嫌というほど味わってきたのは、ほかならぬ私だったから。


 私は決めた。この子に、私の持つすべてを与えよう。


「なら、私の全てを教えよう。だから強くなれ」


 慰めではなかった。私にできる、たったひとつの祈りだった。

喪った者のぶんまで、この子が生き抜けるように。せめて剣だけは、彼を裏切らぬように。




 それから、私はシンに本気で剣を教えた。


 手加減はもうしなかった。

千年が知るあらゆる太刀筋、あらゆる足運び、あらゆる呼吸を、惜しみなく叩き込んだ。

シンはそれを、乾いた大地が雨を吸うように吸収していった。喪ったものを埋めるように、ひたすらに剣に打ち込んだ。


「もう、二本に一本取られるくらい強くなったのか」


 河原で木剣を交えながら、私は心底から驚いていた。

人の子の成長の速さというものを、久しく忘れていた。彼らは、永く生きる私たちには持ちえぬ勢いで、まっすぐに強くなってゆく。


「よく頑張ったな」


 私は彼の頭をくしゃりと撫でた。

もう私が見上げるほどに背が伸びていて、撫でるのに少し背伸びがいるくらいだった。町角で私にぶつかって尻もちをついた頼りない少年は、いつのまにか、隣に並ぶ一人前の青年になっていた。


 声が低くなり、肩幅が広くなり、まなざしに落ち着きが宿った。

私だけが変わらない。出会ったときと同じ姿のまま、彼が大人になってゆくのを傍らで見ていた。

いつか彼が老い、私を追い越し、先に逝ってしまう。そんな未来がふと頭をよぎって、慌てて振り払った。今はただ、彼の成長を喜びたかった。


「剣を買いに行こう、祝いだ。強くなった君への」


 その日、私たちは町の鍛冶屋を巡った。店を見て回るうち、シンは何かを見て考え込むような顔になった。


「どうした?買い物がつまらなかったか?」


 彼は首を振って、ぽつりと尋ねた。私の誕生日はいつなのか、と。


「誕生日?そんなものを聞いてどうする」


 祝いたいのだと、彼は言った。私の誕生日を、祝わせてほしいと。


「祝う?誕生日に?私を?」


 私は面食らった。

エルフに、生まれた日を祝う習わしはない。永すぎる時間を生きる私たちにとって、ある一日を特別に数えることに何の意味があるだろう。それに――。


「そうか、私は祝うべきは産んだ母だと思うのだがこれが文化の違いなのか」


 生まれた日に礼を言うべき相手があるとすれば、それは生まれた本人ではなく、その身を産み落とした母ではないのか。そう思っての言葉だった。

 シンは、なぜだか少しだけ寂しそうな顔をした。母を喪ったばかりの彼の前で、母の話をしてしまったことに、私は遅れて気づいた。


「そういう君はどうなんだい?」


 話を逸らすように尋ね返した。彼は自分の誕生日を教えてくれた。

私はそれを、千年の記憶のなかでも決して薄れぬよう、胸の奥に深く刻みつけた。


 結局、私たちは一振りの剣を選んだ。シンの手によく馴染む、軽く、けれど芯の通った一振りだった。


「君に合う得物があって良かったよ」


 その剣を提げて帰ってゆくシンの背を見送った。




 ある日、私は彼を自分の家に招いた。


「いらっしゃい、よく来たね。さぁ入ってくれ」


 考えてみれば、稽古はいつも河原か町外れの空き地でしていた。彼を家に上げるのは、これが初めてだった。


「そういえば私の家に来るのは初めてだったな」


 なぜ呼んだのか、とシンは不思議そうにしていた。

私はそれには答えず、奥の部屋へと彼を導いた。


「なぜ呼んだって、それは君……いや、後で話そう、この部屋だ」


 戸を開けると、質素ながら私が整えた食卓があった。一日かけて作った料理が、所狭しと並んでいる。


「サプライズだ。ふふ、驚いたかい?」


 シンは目を丸くしていた。何のことかと戸惑う彼に、私は種を明かした。


「何のって、君、誕生日だろう?」


 彼が私の誕生日を祝いたいと言ったあの日から、ずっと考えていた。

人の子は、生まれた日をこうして祝うのだと。ならば私も、この子の生まれた日を祝ってやりたい。


「考えても分からなくてね。だから私の手料理が贈り物だ」


 何を贈ればいいのか、千年生きても、ついぞわからなかった。だから私にできるたったひとつのことをした。下手なりに、心を込めて。


 シンは、なぜか顔を赤くして俯いていた。


「何を照れている、長い付き合いじゃないか」


 そう言いながら、私も少しだけ気恥ずかしかった。

誰かのためにこんなにも心を砕いたのは、覚えていないほど昔か、あるいは初めてだったのかもしれない。


 私は、ずっと言いたかった言葉を彼に贈った。


「改めて、生まれてきてくれてありがとう、シン」


 あの日、「祝うべきは産んだ母だ」と言った私に、シンは寂しそうな顔をした。

その意味が、今ならわかる気がした。母を喪った彼には、もう、彼の誕生を喜んでくれる人がいない。

ならば、せめて私が。彼がこの世に生まれてきてくれたことを、心から喜ぶ者でありたかった。


 言ってしまってから、私の方こそ頬が熱くなった。


「何赤くなっているんだ、私まで照れくさくなるじゃないか」


 千年からこちら、こんな言葉を口にすることなど考えたこともなかった。

この子は、私の忘れていたものを、ひとつずつ思い出させてくれる。


「……さ、冷えてしまう前に食べよう」


 照れ隠しに、料理を勧めた。

シンは、ぎこちなく、けれど嬉しそうに席についた。ふたりで食べた料理は、決して上等なものではなかったけれど。


「美味しかったかい?それは良かった」


 空になった皿を前に彼が満足げに笑ったとき、胸に、これまで知らなかった種類のあたたかさが灯った。


 その夜のことを、私は今でもありありと思い出せる。

質素な食卓も、彼の照れた顔も、窓から見えた星空も。千年の記憶のなかで、あの一夜だけが、いつまでも色褪せずにいる。




 それから、しばらく経った、ある夜更けのことだった。


 私の家の戸を叩く音がした。

こんな時刻に、と訝りながら戸を開けると、シンが立っていた。手に、大きな花束を抱えて。


「どうした、こんな夜更けに、危ないだろう」


 彼は何やら緊張した面持ちで口ごもっていた。やがて、絞り出すように言った。今日は、私の誕生日ではないのか、と。


「え、誕生日?」


 言われて、思い至った。前に、彼に問われて答えたことがあった。


「そうか、私の……」


 胸の奥が、奇妙に高鳴った。


「とりあえず中に入ってくれ、夜は冷える」


 灯りの下で、彼の抱えた花束をあらためて見て、私は息を呑んだ。色とりどりの花が、丁寧に束ねられている。


「ふふ、プレゼントは花束か。綺麗なものだな」


 言いながら、その花のひとつひとつに目を留めて、ふと気づいて、言葉を止めた。


「カーネーション、ストック、アネモネ……ってこれら全て求愛の花じゃないか」


 ただ綺麗なだけの花束ではなかった。あなたを愛しています――そう告げる花ばかりが、選びぬかれて束ねられていた。


 顔を上げると、シンが、震える手で小さな何かを差し出していた。


「……え?ゆび、わ?」


 指輪だった。決して上等なものではない、けれど、彼が懸命に用意したのだとひと目でわかる、ささやかな指輪。


 私は、うろたえた。

千年を生きて、戦場を駆け、王の崩御を見届け、国の興りと滅びを幾度も見送ってきたこの私が、たった一人の青年の前で言葉を失っていた。


「年増を揶揄うな。本気にさせると面倒だぞ」


 精一杯の軽口だった。半分は、逃げだった。受け止めるのが怖かったのだ。


「けれど、私は千年を生きている。君のことも、幼い頃から見てきた」


 私は彼の千倍を生き、彼の千倍を見送ってきた。

人の子と添うことがどういう結末を迎えるのか、嫌というほど知っている。

私の春が終わらぬうちに、人の命は尽きる。

だから人の子を愛してはならないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。


 けれど。


 目の前のこの青年は。あの日、町角で私にぶつかってきた頼りない少年は。母を喪ってなお折れず、私の千年の孤独を知らぬまにあたためてくれたこの男は。震える手で指輪を差し出し、まっすぐに私を見つめていた。


 私の長い、長い時間のなかで、誰かにこうしてまっすぐ求められたことが、いったい何度あっただろう。


 いや――きっと、初めてだった。

私はいつも、求められる前に自分から離れていった。誰かが私に手を伸ばす、その一歩手前で身を引いてきた。千年のあいだ、ずっと。

 この子だけが、私が逃げる隙も与えず、心の奥までまっすぐに踏み込んできた。


「……本気に、しても良いのだな?」


 声が震えていた。

千年ぶりに、あるいは初めて、私は逃げることをやめた。

たとえこの先に別れが待っていても。この子を喪う日が必ず来るとしても。永遠の孤独よりも、いつか終わる温もりを選びたかった。


「愛している」


 言葉は、思いのほか、するりと口からこぼれた。

長いあいだ胸の奥に仕舞い込んで、出会ってからの月日のあいだに、いつのまにかこんなにも大きく育っていた言葉。


「あぁ、誰よりも」


 大げさな言葉ではなかった。千年のあいだに出会ったすべての者のなかで、私はこの子を誰よりも愛していた。


 私の指に、彼が指輪をはめてくれた。冷えた指輪が、すぐに私たちの熱であたたかくなった。


 その夜、私は永遠を生きる身でありながら、初めて、永遠など要らないと思った。




 それからの日々を、私はきっと、千年経っても忘れないだろう。


 私たちは、夫婦のように暮らしはじめた。

といっても、大げさなことは何もない。朝が来れば同じ食卓を囲み、昼は河原で剣を交え、夜は同じ屋根の下で眠る。それだけのことだ。その「それだけ」が、私の永すぎる人生に初めて、ひとつの形を与えてくれた。


 シンはよく笑うようになった。

出会った頃のぶっきらぼうさは影を潜め、彼は私の前で年相応の、いやそれよりずっと幼い、屈託のない笑みを見せるようになった。

私が下手な料理を作れば、文句を言いながら全部平らげた。古い戦の話をすれば、目を輝かせて聞き入った。

私が千年を生きてきたことを、彼は怖がりも、敬いすぎもしなかった。「ミアは物知りだな」と、まるで近所の物知りな老人にでも言うように笑うのだった。


 ある晩、尋ねたことがある。

怖くないのか、と。私は永遠を生き、お前はいつか私を残して逝ってしまう。お前が老いても私はこのままだ。それでもいいのか、と。


 シンは少し考えてから、静かに言った。

「俺がいなくなっても、ミアは生きていく。だから俺は、ミアが俺のことを思い出して笑えるような、そんな思い出をいっぱい残していきたいんだ」と。


 私は何も言えなかった。

一度きりを生きる者の覚悟は、永遠を生きる私の弱さを、いつも軽々と超えてゆく。


 春には丘に登って花を見た。

夏には川で水を浴びて、子どものようにはしゃいだ。秋にはふたりで畑の実りを収め、シンは亡き母の作っていたという林檎の菓子を、見よう見まねで焼いてくれた。少し焦げて不格好で、あの日シルアが焼いてくれたものと同じ味がした。

冬には暖炉の前で身を寄せ合い、私は彼に、千年のあいだに見てきた、消えてしまった国々の話をした。彼はそれをおとぎ話のように聞いていた。


 ささやかで、満ち足りた日々だった。

この一度きりの季節が、いつまでも続けばいいと、何度も思った。


 けれど、続かなかった。




 その報せは、ある日、なんの前触れもなく町にもたらされた。

隣国との戦が始まる。国は兵を募り、若い男たちに招集をかけた。


 シンの名も、その中にあった。


「徴兵!?国は何度争えば学ぶのだ!」


 私は怒りに震えた。

千年のあいだ、人の国がいくつも戦を起こし、いくつも滅びるのを見てきた。若者を戦場へ送り、屍の山を築き、何も学ばずにまた繰り返す。その愚かしさを、嫌というほど見てきたはずだった。それが自分の愛する者に降りかかったとき、私はかつてないほどの怒りに身を焦がした。


 国のために死ね。

たかが、人がひとつ引いた境界線の、向こうとこちらのいさかいのために。この千年で見送ってきた数えきれぬ若者たちと同じように、シンをその屍の山に積み上げさせてなるものか。頭の中は、その一念で燃え上がっていた。


 冷静になろうとして、なれなかった。

思いつく限りの手を考えて、ひとつの結論にたどり着いた。


「……逃げよう、この国から」


 私には人の国の境など意味をなさない。

山を越え、海を渡り、誰も私たちを知らぬ土地へ逃れればいい。追手など巻いてみせる。千年を逃げ隠れして生きるすべなら、いくらでも心得ている。私は本気だった。

彼さえ生きていてくれるなら、この国も、この町での暮らしも、何もかも捨てて構わなかった。


 けれどシンは首を振った。

逃げれば、自分だけでなく残された者たちが咎を負う。逃げた兵の家族や縁者が、どんな目に遭うか。それに――と、彼は言った。逃げて生き延びることが、本当に、自分の望む生き方なのか、と。


「けど、それじゃぁお前は!」


 私は叫んだ。戦場とは人が死ぬ場所だ。お前の一度きりの命が、そこで尽きるかもしれないのだ。それがわからないのか、と。


 シンは、静かに笑って言った。

母と生きたこの町を守りたいと。


「ずるいな、君は……あぁ、わかった」


 彼の覚悟を、これ以上曲げさせることはできなかった。

母を安心させるために強くなり、母を喪ってなお折れずに生きてきた、この男の生き方を私は誰よりも知っていた。

逃げて長らえる生は、彼の生ではない。それを奪うことは、私が彼を愛したその心に背くことだった。


「あの日、私の剣を君に託したあの日から強くなった」


 シルアを通じて私の剣を贈った、あの日から彼は強くなった。剣の腕だけではない。心が、生き方が、まっすぐに強くなっていった。


 ならば、私にできることは、ただひとつだった。


「私より、強いから、生きて帰って」


 私の愛する人。私の千年が積み上げたすべてを継いだ人。だから、必ず生きて帰れ。

私はそう言って、彼を送り出した。指輪をはめた手で、彼の背を、強く、強く抱きしめて。


 出立の朝はよく晴れていた。

憎らしいほど空は青かった。シンは、私の贈った剣を腰に提げ、いつもの彼らしいまっすぐな目をしていた。


 約束を交わした。

生きて帰ってくると彼は言った。帰ってきたら夫婦になろう。子も作ろう。永遠を生きる私と、一度きりを生きる君とでできる限りの、ささやかな幸せを積み上げてゆこうと。

「子供に、ミアの耳が遺伝するかな」と、彼は別れ際だというのに、そんな冗談を言って笑った。私も、泣きそうになりながら笑い返した。


 私たちは指切りをした。

小さく、温かい指が私の指に絡んで、すぐにほどけた。そのほどけた感触を、私はその後の永い歳月、片時も忘れたことがない。


 去ってゆく背中に私は手を振った。

彼も、一度だけ振り返り、手を振り返してくれた。

あの日、初めて町角でぶつかり、日暮れに別れたときと同じように。あのときの「また」が私に春を連れてきたように、今度の「また」もきっと、彼を連れ帰ってくれる。そう信じて疑わなかった。




 戦は、長かった。


 季節がいくつも巡るあいだ、私はただ待った。

永遠を生きる私にとって、待つことは本来なら何ほどのことでもないはずだった。

なのに、愛する者の帰りを待つ時間は、千年のどの日々よりも長く、苦しかった。


 そしてある日、町に報せが届いた。戦が終わったのだと。


「そうか、戦争は終わったのだな。凱旋式、見に行こう」


 躍る心を抑えきれなかった。

やっと帰ってくる。シンが約束を守って、生きて帰ってくる。私は朝早くから身支度を整え、凱旋の兵が通る大通りへ向かった。


 通りには人があふれていた。

帰ってくる息子を、夫を、恋人を待つ人々で。やがて、勝鬨の声とともに隊列が見えてきた。土埃にまみれ、傷つき、けれど生きて帰ってきた兵たちの列。私は、その一人ひとりの顔を必死に探した。


 探して、探して、けれど。


「シンはどこだ?」


 隊列は進み、過ぎていった。最後の一人が通り過ぎても、私の探す顔はそこになかった。私は隊列を率いる将のもとへ駆け寄り、すがるように尋ねた。シンはどこかと。


 将は、痛ましげに目を伏せた。

そして、戦没者の名簿を見せてくれた。記されているのは、少尉以上の階級の者――戦のなかで功を立て、隊を率いる立場にまでなった者たちの名ばかりだった。

はぐれただけならいい。名もなき兵のなかに紛れて生きていればいい。

縋るような気持ちで、その紙片を覗き込んだ。


「亡くなった少尉以上の名前?」


 けれど。


 私は、その名簿に、彼の名を見つけてしまった。


 黒々とした墨で、はっきりと。シンの名が、戦死した士官の列に刻まれていた。


 名もなき兵であったなら、この紙に名が記されることもなく、私は今もまだ、彼の生を願えていたかもしれないのに。

私が与えた強さが出世を呼び、彼の死を、こうしてはっきりと私に突きつけていた。


 将は静かに頷いた。それだけですべてが伝わった。


 私は、その場に膝をついた。


「……約束、した、だろう、帰ってくるって」


 声にならぬ声で呟いた。

約束したではないか。生きて帰ってくると。必ず帰れと、あんなにも願ったのに。


「子供も作ろうって」


 帰ってきたら夫婦になろうと。子も作ろうと。あんなにも約束したのに。


「言ったじゃないか、君が」


 生きて帰ると約束したのは君だ。それなのに、なぜ、君だけがいないのだ。


 大通りには勝鬨の声が響いていた。再会を喜ぶ人々の歓喜の声が満ちていた。そのただなかで、私はひとり、千年の孤独のなかへ突き落とされていった。


 あとで知った。

彼は、自らが率いる隊を逃がすために、たったひとり殿に残ったのだという。退路を断たれかけた部下たちを先に行かせ、追ってくる敵の前に最後まで立ちはだかった。

 私の贈った剣を手に、最後の最後まで。彼が稼いだわずかな時間で、彼の隊のほとんどが生きて国へ帰ることができた。生き残った部下のひとりが、わざわざ私を訪ねてきて教えてくれた。

「少尉どのは、あなたのことを、最後まで話していました」と。「帰ったら祝言を挙げるんだと、嬉しそうに」と。


 私は、その話を聞きながら、何の涙も流せなかった。涙は、とうに枯れ果てていた。


 永遠を生きるということが、これほどまでに残酷なことだとは、私は知らなかった。




 あれから二年が経った。


 永遠を生きる私にとって、二年など瞬きほどの時間でしかない。けれど、あの春からの二年は、千年のどの百年よりも長かった。


 この二年、私は一度も彼の眠る丘へ行かなかった。墓の前に立つことも、花を添えることも、できなかった。


 行ってしまえば認めることになる。

あの土の下に彼が眠っているのだと。冷たくなって、もう二度と帰らないのだと。

だから丘へ続く道を、いつも避けて通った。そこに墓があると知りながら、知らぬふりをして。

そうしていれば、彼はただ少し遠くへ行っているだけ――まだ戦地から帰っていないだけのような気がしてしまうから。明日にでも、ひょっこりと、あの町角に現れるような気がしてしまうから。


 だから私は、ただ毎日を繰り返した。

朝が来れば起き、水を汲み、竈に火を入れる。彼がいた頃と同じ手順で。けれど、もう隣に彼はいない。

河原へは、もう行かない。食卓の向かいの席は、空いたままだ。意味のない一日を昨日と同じようになぞり、夜が来れば、彼の指輪を握って眠る。

生きているのか、ただ時間をやり過ごしているだけなのか、自分でもわからない、空っぽの二年だった。


 指輪は今も私の指にある。

冷えても、もう二度と、あの夜のようにはあたたまらない。


 この二年のあいだ、何度も山へ帰ろうとした。

また人里を離れ、奥深くに籠り、誰とも関わらずに。そうすれば、もうこんな思いをせずに済む。誰も愛さなければ、誰も喪わずに済むのだから。それが、千年のあいだ私が選んできた生き方だったはずだ。


 できなかった。

山へ向かう道の途中で、いつも足が止まってしまう。あの町角でぶつかった感触が。河原で交わした剣の音が。同じ食卓で笑ったあの顔が。私を町へ引き止める。

 彼がここにいたという証が、この町の至るところに残っている。それを捨てることが、どうしてもできなかった。


 彼は言った。

「ミアが俺のことを思い出して笑えるような、そんな思い出をいっぱい残していきたいんだ」と。私はまだ笑えない。それでも、彼の言葉のとおり、思い出だけは胸にいっぱいに残っていた。

それは苦しみであると同時に、私が彼を愛したという、たったひとつの証でもあった。


「もう二年、か」


 その朝、私はふと思い立った。

二年のあいだ、ずっと避けてきたあの丘へ。逃げ続けることに、疲れてしまったのかもしれない。


「……あの日、君がくれた花を、そなえに行こう」


 二年で初めて、私は花を買った。彼が私にくれたのと、同じ花を。

彼の眠る丘は町を抜けた先にある。丘へ向かうには、彼と初めて出会ったあの通りを抜けてゆくことになる。露店のひしめく賑やかな市の通りを。二年ぶりに、私はその雑踏のなかへ足を踏み入れた。


「いつまでも行かなかったら他の女になびきそうだ」


 雑踏のなか、ありもしない言葉をそっと呟いた。

彼のいない世界で、それでも彼に語りかけることをやめられなかった。気づけば私は、また足元も前も見ずに、思い出のなかへ沈みこんで歩いていた。

出会ったあの日と、同じように。


 その時だった。


 角を曲がってきた誰かと、私はぶつかった。


 とっさに腕を伸ばし、勢いに巻き込まれて転びかけた細い肩を、私は咄嗟に抱きとめていた。

ぶつかった衝撃よりも、ぶつかった本人の方がよほど驚いた顔をしていた。


 その顔を見た瞬間、胸が奇妙に震えた。


「やぁすまない少年。怪我はないかい?」


 少年は、私の腕の中で目を白黒させていた。


「派手に転んでいたな、大丈夫かい?」


 シンに似ている。

顔が似ているのではない。彼もまた、短く明るい光を放っていたからだ。


 私は彼に手を差し伸べた。


 立ち上がった少年は、気まずそうに小さく頭を下げ、人混みの向こうへと駆けていった。その背中が見えなくなるまで、私はそこに立っていた。


 胸に残ったのは、懐かしさと、それから寂しさだった。


 あの少年も、いつか大人になり、老い、やがて逝ってしまう。

シンがそうであったように。私が出会ってきたすべての人が、そうであったように。眩しいと思う。愛おしいと思う。

けれどその光に手を伸ばすたび、私はいつも、見送る側に立たされる。


 短く明るい光に惹かれてしまうことと、その光を必ず見送らねばならないこと。出会いと別れ、その二つはいつもひとつだった。シンを愛したことを、私は今でも後悔していない。

ただ、誰かを愛するということは、永遠を生きる私にとって、こうして寂しさを抱えて生き残ることと、決して切り離せないのだ。

 あの少年の背中に、それを改めて思い知らされていた。


 私は花束を抱え直し、丘へと続く道をゆっくりと歩きだした。彼の眠る、あの丘へ。


 春の風が、吹いていた。

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