6 アンタの幸せ
ギチ……、ギチギチ……。
鱗と鱗がこすれあい、嫌悪感をもよおす音を立てる。その尾に幾重にも胴に巻きつかれ、元盗賊は呼吸もままならない。コアンは、あまりの圧力に眼が眩むのを感じた。視界が狭くなる。暗くなる。
ものが、認識できなくなる。
「くそっ……。」吐き捨て、抵抗を試みるが、間接の急所を締め付けられているの で、力を込めることが出来ない。
「うう……。」
無駄とは分かっていたが、胸元に手を伸ばさずに入られない。
(あいつさえ呼べりゃぁ……)
「無駄だ。あまり抵抗すると、骨にひびが入る。」
コアンの目論見を、冷淡な声が破り去った。
伸ばした手の甲に、ニシキヘビが噛み付いた。「うあ゛っ……!!」痛みに、コアンは眼を瞑る。どろどろと、二つの孔から血が滴る。手から力が抜けた。
「貴様……俺を殺す気か!?」
汗が噴出した。毒の恐怖に、身体が震えてくるのを、必死で押さえる。これほどまでに自制心を必要としたのは、十八年生きても今以外にない。
「心配無用だ。私に毒はないのだ。昔抜かれてしまったからな。」
低い声。先ほどの女性の声なのだろう。音の根源的部分は同じだが、邪悪な響きを帯びている。本能的に、同じ者だと思いたくない。
「この身体と、この牙、そしてこの力さえあれば、――何もいらない。」
心を見透かされたようで、コアンは戦慄したが、話を変えて紛らわす。
「あんた、その身体で喋れるのか……。」
「ああ、身体を改造された際に、声帯を移植してもらったからな。……良いか、これが最終通告だ。『無の天使』からは手を引け。でないと、私はお前を殺さねばならない。殺生は好まないが、食べる為ならば、話は別だ。噛み付いて引き裂いて血をすすり骨を砕き、欠片一片塵一片、残さず我が糧へと変えてやる……!!」
ガチ、ガチッ! 噛み合わされる歯。ちろちろと出入りする先の分かれた舌が、歯を舐める。コアンの手の甲に噛付いたとき付着した血を、舐め取っているのだ。
「つまり……、諦めねーと喰うぞオラって、脅してるわけだな。」
「人の言葉を簡略化するな。しかし、言いたい事は同じだな。理解したなら話は早い。何に使うつもりかは知らぬが、『無の天使』はお前には不釣合いだ。諦めろ。」
蛇の目は、本気だ。コアンにもはっきりと分かる。
だが。コアンは答える。
「嫌だね。」
「な……、自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
「ああ。少なくともまだ、ボケちゃいないんでね。……俺はな、お前らと違って、あいつを利用しようなんざ、これっぽっちも考えない! ただあいつが嫌がっていたから連れ出すだけだ。俺は、無く子も黙る、『レパード』の団長だった男だぞ! 子供ひとり守れねえで、俺がのうのうと生きるなんて、真っ平だ!!」
「思い直せと言っているだろう!」
蛇が激昂する。しかし、コアンももう、我慢なら無かった。理性など、とっくに吹っ飛んでいる。ここで死んでも良いと、始めて思った瞬間が訪れていた。どうせ死ぬなら、命をかけて説得しようと。それが自分の務めだと。
「アンタだって、こんなところで何やってるんだよ! さっきのアンタの目は、俺が一番嫌いな目だ! 自分の感情押し黙らせて、食って殺して千切って捨てて。あんたのしたいことは、絶対他にあるだろ! でないと、そんな死んだ魚みたいな目、どう頑張っても作れねーよ!! 殺すのが嫌なら、さっさと兵隊なんか辞めて、何処へでも行けば良いだろう?! あんたのその力があれば、何処でだって生きていける。今からでもいい、さっさと逃げろよ!! アンタの幸せ、見つけに行けよ!!!」
「黙れ!! せっかく釈明の余地を与えてやったというのに!! それに、私の幸せは、ここにいて、ここの仕事に尽力する事だ! 戯言も休み休み言え!! 何を言っても私の忠誠心は変わらぬ!! 無駄だと何度言わせれば気がすむ?! もう許さぬ! ここで、お前を喰らってやる!!!」
ぎりぎりぎりぎり……。絶え間なく鱗がしまる。圧力が増し、コアンは思わずよろけ、そのまま床に倒れこむ。
「ぐ、あああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!!」
コアンは絶叫した。しかし、胸がしまり、次第に声も小さくなる。
「望まねえことして……、また傷つくのはおめーなんだよっ……。」
薄れる意識の中、それでも必死にコアンは呼びかける。意識の闇に耐え、閉じていく眼を開こうと足掻きながら。
「五月蝿い!! 死ねっ! 今すぐ私の前から消えろぉっ!!」
蛇は気付いていない。爬虫類の目から、涙が一筋、こぼれている事に。
床に落ち、水の珠がはじける。
「ほら、そうやって自分を迷わせる奴を排除する。それが、お前が迷ってる証拠だよ。」
「わ、私は迷ってなど居ない!!」
さらに圧力がかかり、コアンは咳き込んだ。
最早ここまでか。コアンは眼を閉じる。血流が止まり、体中がしびれてきた。耳鳴りに邪魔され、周囲の音も聞こえない。五感全てが、急速に失われていった。
だから、次の瞬間に起こった事もまた、知らない。
「――ん、何だ、お前は。……ナーガ…? ………まさかっ……!!」
ザシュッ……。
フッ。
突如、蛇の締め付けが弱まった。理解してくれたのか?
コアンはそう思ったが、急に開放されたせいもあり、咳き込むのに忙しく、状況がつかめない。なぜか、遠くのほうで争いの音が聞こえる気がする。
めまいのせいで目は使い物にならなかったが、暫らくすると、視覚が戻ってきた。
先ず眼に入ったのは、赤みだった。血。大量の血液が、ここの床にたまっている。
――ただし、自分のものではなかった。
「ひっ……。」
コアンは思わず息を呑む。掌が、赤く染まっている。いや、触覚が戻っていないせいで気付かなかったが、たった今まで、血の水溜りに手を置いていたようだ。べっとりと付着した血。その持ち主は、丁度、ひくひくと痙攣して絶命するところだった。
少年は、ゆっくりと鱗の生えた手で、蛇の眉間を切り裂いた剣を抜いた。
その眼は、横たわった蛇と同じ、爬虫類の形質を持っていた。感情の読めない目が、こちらを見ていた。
認識したコアンを先ず襲ったのは、安堵でも驚愕でも恐怖でもなく、怒りだった。