5 蛇人族
すばらしい脚力でまず一人目の衛兵の頭を踏み台にし、コアンは跳んだ。
二人分の体重を顔面に受けた、かわいそうなその衛兵はグシャ、と嫌な声を上げて地面とコンバンハする。
その間にコアンは石造りの神殿の屋根に降り立った。そこは平らになっている。
「ああっ! 神聖なる神殿の屋根に土足で上がるなんて!!」
神官は卒倒しそうになる。
もともと強くなく、しかも腐っている信仰心が痛んだわけではない。ただ、こういうことになると、熱心な上司に責任を問われる事にもなりかねない。それだけは避けたい事態だった。
「えーい、屋根に上れ! なんとしてでも捕まえろ!!」
画家は必死になって指示を出す。
本当ならば今この場で指揮権を持つのは、いまや地面にへたり込んでいる神官なのだが、衛兵たちもただ飯食いでは肩身が狭い。
どうせならしっかり暴れようと次々と壁をよじ登る。
その事実に神官は泡を吹いて後ろ向きに倒れた。夢の中で、どう責任逃れをしようか考えるつもりなのだろう。
一方、階上では、少年が、コアンと出会って初めて意味のある単語を口にしていた。
「高い……。」
いつしか表情が生まれ始めている。高台から見る夜の街に感動しているのか。
その目は大きく見開かれ、そこかしこを見回している。
砂煙にうっすらと浮かぶ町の明かり。
道の脇につけられたランプの街灯が規則的に並び、その周りを薄く光が円を書いている。
それ以外は全くの闇。
民家の明かりはとっくに消されている時間帯のようだ。
「こわいか?」
コアンに聞かれて少年は首を横に振る。
「よし、えらい。もう少し我慢しろよ。なんせこれから大立ち周りだからな。」
コアンは少年の頭をぽん、と押さえた。びく、と少年が震える。
その直後、まず五人の衛兵が屋根の上に上ってきた。
「フツーにやっつけたんじゃ面白くねえからな・・・・・・。」
五人はコアンを中心に円、包囲網を作り、けん制する。どうやら本能的にコアンの技量を推し量ったらしい。強そうだからみんなでいっぺんにやっちゃおう、という暗黙の了解が透けて見えた。
「だからといって……。」
頭の上を槍がかすめ、コアンは身を軽く沈めて交わす。
「アクロバティックな事も不可能だよな……。」
少年の腕力では側転をしただけで振り落とされてしまうだろう。
「しかし五人一片に殺っちまうのは荷が重いし……。」
膝と背骨をうまく使い、S字になって突き出された槍をかわすコアン。
「人死はこいつにゃ見せれない、と。」
リークを見、跳躍。
足の下を剣が交錯。
人死に、何てことばは、使ってみただけで格好つけているだけだ。実を言うと、そんな経験は一度も無かったりする。
「はぁぁぁぁぁっ!」
と、やり使いの兵士が渾身の突きを食らわせてきた。
「危ねっ!」
ぎりぎり避けると、脇のすぐそばに通る槍の柄を見て、コアンは戦法を決めた。
「槍、も~らいっと!」
交わしたまま相手方に一歩踏み込み、槍の柄をむんずとつかむと、目にも留まらぬ早 業で相手の目玉にチョキをした指を押し付けた。
「目潰し!」
コアンが指を抜くと、相手は目の奥の神経を圧迫された所為で気絶した。
彼は、いや、いまや再び戦地に蘇った盗賊は、倒れ行く彼の腕から細身の槍を抜き取り、頭上で回転させた。
後四人。
コアンの目は油断なく周りを見回し、まずリーチの分有利にいける剣使いを狙うことにした。
「ウリャ!」
相手よりも早く仕掛ける。剣使い二人をターゲットに、まず軽く刃先を薙いだ。
二人の鎧を、真一文字の奇跡が掠め、火花が散る。
鎧の硬さは予想通りで、なまくら槍の刃なんぞでは突き通せない。でも、これでいいのだ。
「ひっ。」
二人は思わず萎縮する。
「そーれっ!」
ガキン!
挑発とも掛け声とも取れる声を出し、コアンは再び槍を払う。重い金属音と共に二人の刀はあらぬ方向に飛んでいった。
二人は、助けてくれー、とかおっかさーん、とか叫びながら、我を忘れて屋根から飛び降りた。直後、地面の辺りで、嫌な音がした。
「ま、この高さなら骨折で済むな。」
ニヤニヤと笑いながら、コアンは下を見下ろす。
後二人。
と、その無防備な背中にしがみついていた少年が、後ろを見て「あ……。」と、声にならぬ声を上げた。その眼が、久しぶりの恐怖に凍りつく。そこに、兵士の持つ、振り上げたこん棒が大映しになる。
「教えてくれてありがとよっ!」
少年が捕まっている背中が、いきなり、地面に向けて傾いた。少年があわてて手を放す。
コアンは、屋根のふちで倒立をした。片手は槍を持ったままで。
「ぐわっ!」
後ろから襲いかかろうとしていた兵士は、顎を蹴り上げられ、仰向けに宙を舞い、頭から床面に激突した。
「バーカ。正々堂々やんねーからいけねえんだよ。」
言いながら、コアンは片腕の力で跳躍し、一回転して床面に降りる。ついでに兵士の身体をけり落としておいた。
驚きと、歓喜に満ちる少年の眼。相変わらず頬に変化はないものの、瞳には輝きが戻りつつある。出会ったばかりと言うのに、すっかりコアンに全面の信頼を寄せている。
「ようやくいい顔、できるようになったじゃん。」
コアンは彼の頭に手を置いた。眼を瞑りながらも、少年は嫌がるそぶりは見せなかった。
しかし。
それまで、茶番にも等しい大立ち周りを見ていた一人の兵士が、もたれていた壁から背を離した。服装も、帽子も、規定のものとは少し違っている。なにしろ、眼だけが見える覆面をかぶった、全身黒ずくめ。それも、身体にぴったりした革服と、あまりにもこの状況下にそぐわない。防御力も殆どなさそうだ。
やけに身体の線が細く、背丈も低い。少年兵なのだろうか。
「さーて、残すはあと一人。」
挑発的な言葉を投げかけたはずのコアンだが、語尾が震えるのが自分でも分かった。
つきを背に立つ兵士は、きわめて自然体だ。月による逆光で顔が見えない。
しかし兵士は、今までの兵士たちとは、明らかに異質な雰囲気を放つ。これまでの普通の兵士とは違い、禍々しくも粘着質な気。
その正体の理解を、本能が拒む。コアンの頬に、汗が伝った。
しかし、その臆病にも似た希望は、暫らく後に、見事に破られる事となる。
「…『無の天使』……。……絶対逃さない……。」
その声。それは、二重にコアンを戦慄させた。
一つは、今日出会った少年と、等しいほどの無表情にして無感動、無抑揚な音質。
そしてもう一つは、声がやけに若く、甲高いというところで……。
「女か……。」
コアンは呟く。女性で、しかもここまで細い体つきをしているにもかかわらず、瘴気をも感じさせるじっとりした殺意が漂ってくる。武器を持っている様子は無い。
身のこなしの軽い彼の事だ、こんな華奢な女性相手に喧嘩をしても、普段ならば楽勝、のはずである。
だが、この不安は一体何だというのだ。
呟きを聞いた女の目が、心なしか光ったように見えた。その色は、コアンの後ろで震えている少年と同じ、濃い緑。
「だから……、何になる?私は女。戦いに向いた身ではないのは承知している。だが、それで忠誠心が揺らぐわけではない。」
闇に浮かぶ二つのエメラルド。それが瞬時に赤く染まり、瞳孔が縦に切れ上がる。
空気が瞬時に、凍りついたように凝固する。コアンは、手で少年に離れるよう合図した。
「貴様の死という事実もな!」
女は跳躍した。コアンの跳躍を遥に上回る脚力。
真っ直ぐ、コアンに向かって降りてくる、頭上からの、重力を伴った蹴り。いわゆるドロップキックという奴だ。それは彼女の軽そうな身体でも、十分な威力を発揮するのに違いない。
しかし。コアンの手元には、槍がある。彼女の脚のリーチをゆうに上回る槍が。
これを使えば、彼女の足がコアンに届く前に串刺しに出来る。
そういった安易な発想から、コアンは槍を構え、
「――だぁあっ!」
腰を支えに、上に向かって突き上げた。相手は空中、避けられる筈がない。
そして、女の表情は……
にやり
と歪んだ。
「?!」
コアンが眼を見開く。この状況下で、何故笑う? コアンは自問する。
それは、コアンの出した「突き」こそが女の最も望んでいた攻撃だったからだ。
コアンは失念していた。この戦いという本来女性の参加がそぐわない場所に、装備もロクにしていない彼女が居るという事は、彼女には男性を上回るアドバンテージがあるということ。防具の装備すら必要としなくていいほどの――。
自答した瞬間、ビルン!!気色の悪い音を立て、わずかに槍の矛先をずれてコアンのほうに向かった脚が、旋回してコアンの胴体に巻きついた。
いや、脚などではない。人はそれを足とは呼ばない。なぜならそれは……。
「……なるほどな。《蛇人族》とはよく言ったもんだ。」
蛇人族。蛇と人、双方の姿を併せ持つ種族。
締め上げられた手から、乾いた音を立て、槍が落ちる。
女性の脚は、いつしか蛇の尾になっていた。女性は、コアンの槍が身体に届く瞬間、人間の皮を破り捨てた。いまや彼女は、一匹の巨大なニシキヘビへと変異していたのだ。