4 天使の飛翔するとき
少年は、膝を抱きかかえた姿勢を変える事無く、床を見つめている。
彼の無表情は、自分を護る盾。決して感情や思考それ自体がなくなったわけではなかった。ただ、外からは見えないように隠していただけだ。
だから、少年は考える。少年は、頭の中で呟く。幸せになる道を探そうと、必死で。
思考の間だけは自分は幸せだ。本当の今はどこかに隠れてしまうから。
今は、逃げる方法の模索。
……もう殺されるのは、いやだ。
蛇の姿になりたい。蛇になれれば、きっとここからにげられる。でも、僕は死なない限り蛇にはなれない。いっそのこと殺してくれたら楽なのに。
そしたら、ぼくは蛇になれる。蛇になって、あいつらみんなかみついてひきちぎってけりとばしてなぐりつけてこわい目にあわせてやる。そしてここを出るんだ。
パパやママには会いたいけど、今度ばかりはあの人たちもぼくの事をころしたいと思うかもしれない。
誰とも会わなければいい。誰も居ないところに行けば良い。自分ひとりで生きればいい。
だれもいない砂漠のまんなかに行こう。
誰も僕を壊そうとは思わないし、僕もやがて寂しくは無くなるだろう。だから。
早く、僕を…殺して……。
少年は、自分にまだ願望が残っていることにほっとする。歪んでいようと、狂っていようと、少年が「しあわせ」になれる唯一の方法を、望めている(・・・・・)事に。
望みというものが、人間全てに普遍的に備わっていなければならないものである事すら忘れて。
でも、せっかく持った望みも、なかなか実行に移されることはない。
想像と現実を隔てる線。それは、越えてはいけない線。越える事等始めから出来ない線。
実行に移すには、リスクがいる。
少年にとっての今のリスクは、なんだかんだ言っていても、何度経験していようとも、死ぬのが怖い、と言うこと。自分から蛇になど、なれないということ。
それは相手にもとっくに解っており、だから脆い地下牢に衛兵もなしに入れられている。
逃げることなど出来ないから。逃げるために自殺なんて出来ようはずがないから。
少年は、死ななければ絶対にナーガの姿にはならない。なれない、ならせないから。
ナーガには役不足の神殿地下の牢屋も、無力な少年相手なら思う存分付け上がる。
少年は、線を越えられない。もう逃げることは、出来ないのだ。
少年は、目に憂いを浮かべようとした。しかし、そのよどんだ色が動く事は、最早ない。
無いように、思われた。
その時。
ズーンと言う重い振動が彼を襲った。建物自体が大きく揺れ、彼は床の上を転がる。
「……?!」
何が起こったのか把握できない。
しかし、続いて爆発音と共に石造りの天井が壊れた。
少年は二三度目をしばたたかせ、起き上がった。その真横にいきなり元天井の大きな石が落下する。
少年はそれを無表情に見つめた。
いや、それひとつではない。何個も、何個も。
石は落下と同時に砂煙と小さな破片にバラけ、飛び散った。
食らったらひとたまりもない。石は少年が手を広げたぐらいあるのだ。小さな少年なんてあっと言う間に頭からつぶされてしまうだろう。
……当たったら痛いだろうな。
少年はやっとのことで命の危機を感じ、逃げようとしたが思いとどまった。
……そうだ。今ここで死ねば蛇になれる。
少年は動きを止めた。砂煙が濃くなり、目を開けていられなくなる。
ガラ…ひとつ……、ガラ……またひとつ……。
落ちては地面に吸い込まれるように崩れていく天井の石。少年の頭上の天井が崩れた。
少年は動けない。少年は動かない。
今、少年は線を超えようとして……。
「おーい、今助けるぞー?!」
いきなり、場違いな明るい声が頭上から聞こえた。何がなんだか把握出来ないまま、 少年の身体は軽々と宙に浮いた。
「……え」
否、少年は身体にロープを巻きつけられ、遠心力に任せて引き上げられたのだ。
一瞬のことだった。
『無の天使』は、初めて天使らしくふわりと宙を舞い、
「よっと。」
温かい腕の中に抱きとめられた。
「あ……」
少年の無表情は一瞬崩れ、驚きが顔の表面を支配する。
腕の中自分を見上げる少年を見据えた後、コアンは、にこりと笑った。
「あの……」
少年は口を開いた。今助けるぞ。それは、少年が十年足らずの人生で、一番渇望していた言葉だった。…どうしてぼくを助けてくれるの? そう聞きたかった。
しかし、少年の見上げる男は、笑顔で、立て続けに言葉を放つ。
「悪い悪い。怖い思いさせちまったな。爆弾を使ってちょっと壁を崩すだけのつもりだったんだが、火薬の配分を間違えちったよ。……俺はコアン。あんたのご両親に依頼されておまえのことを盗みに来た盗賊だ。」
自分を助けに来た理由は分かった。しかし、次の疑問が浮かぶ。
どうしてぼくを殺したがらないの?
この時のリークには知る由もなかったが、彼の非殺害性因子とでも呼ぶべき特性は、祖先を同じくする蛇人族の間でしか通用することがない。
方やコアンは一介の人間である。彼にとっては、先祖がえりをしたナーガであるリークも、神官たち一般の蛇人族も、関係のない、異種の生物なのだ。
この瞬間、リークは始めて、自分たち蛇人族とは異なる種の生き物と、相まみえたのであった。
「あの……。」
少年は、震える口を開いた。コアンは、首をかしげて声に耳を傾けようとする。
その時、どたどたと足音がして、邪魔が入った。神官と画家、それに衛兵たちが駆けつける。
「その子供は私の物だ。返してもらおうか。」
画家が叫ぶ。その隣の神官は相変わらず腰低揉み手だ。でも目は笑っていない。
「画家大先生もそう言っておられる事ですし、ね。」
その神官の言葉を合図に、衛兵たちがいっせいに持つ槍を、刀を、コアンに向ける。
だが。
「へー。少しは鍛えてあるんだ。」
コアンは不敵に笑う。
ニヤニヤとしたわけのわからない男に、画家は叫ぶ。
「早く子供を渡さんか!!!」
びく、と震えた少年は、目を瞑りコアンにしがみつく。
「こら、男の子なんだから我慢しろ。」
それを聞き少年は不安そうにコアンを見上げた。
「と、言いてえトコだが……。」
同時にときの声を上げ、衛兵が飛び掛ってくる。
いきなりのハイジャンプでそれをよけたコアンは叫んだ。
「怖くて当たり前だ! だが、いいか? 生き残りたかったらしっかり掴まってろ! 歯ぁ喰いしばらねえと舌噛むぞ!!」
力を緩めかけた少年はあわてて今一度コアンの服にしがみつき、口を閉じた。