第8話 紐解く事実と
六
依頼を受けてから、六日目の日曜日。
昼食時はとっくに過ぎ去り、もう間もなく三時のおやつの時間になるという頃。
レトロ・アヴェはいつもどおり、俺たちで貸し切り状態だった。こんなに客がいなくて、やっていけるのかと他人事ながら、少し不安になる。
それはともかく、本日も天神は絶好調だ。
真っ白な皿には、甘く香ばしい香りをさせていたスコーンの残骸。横にはクロテッドクリームと、ベリーのジャム。さらには、追加注文をしたメープルシロップが置かれていた。
どれだけ甘いのが好きなのか。もちろん、お供は白濁したミルクティーだ。
俺はモヤのかかるホットコーヒーの液面に視線を落とす。
指示されたとおりに来店して、隣に着席して約五分。天神が核心の話題に触れる気配はない。ただただスコーンが彼の胃袋へと消えるのを見守るだけの時間は、今年の無駄時間オブザイヤーのトップ三に間違いなく入るだろう。
「なあ、」と、しびれを切らした俺の声と、カランコロンと柔らかな鐘の音が重なる。重厚な扉を開けて入って来たのは、ダークブラウンのロングヘアを緩く右側にまとめた、藤枝穂乃香だった。
ベージュのコートから覗くのは、オフホワイトのブラウスに、ワインレッドのロングスカート。先日会ったときよりも、背が低く感じるのはヒールのない靴のせいだろう。
彼女は真っ直ぐに俺たちのテーブルにやってくると、笑みを深めた。
「こんにちは、天神さんと早川さん」
「こんにちは、藤枝穂乃香くん」
椅子から立ち上がった天神は、「どうぞ、席へ」と片腕をソファに向ける。
「先日と同じ紅茶で構わないかな?」
「はい」
店主に注文を告げた彼は、すぐさま藤枝に向き直る。
「眼科へは?」
「行きました。軽度の網膜剥離だったそうです。網膜に出来た穴は大きくなかったそうで、視力の低下の可能性はあるものの、視野欠損などの後遺症は少ないだろうという診断でした」
「手術は?」
「金曜日に日帰りでしていただきました」
「それはなにより」
やはり眼科案件だったのか。
後遺症は少ないという言葉に安堵するも、視野欠損という単語に、一瞬、ヒュッと喉から音が出た。
店主が、藤枝の斜め前に洒落たティーカップを置く。
「すみません、ちょっと良いですか?」
「ええ、どうかされましたか? 早川さん」
「どうして、最初から眼科に行かなかったんですか?」
「まさか、そのような疾患になっているとは思いませんでしたので」
しずしずとした口調。
穏やかに微笑む表情からは慌てた様子も、恐怖も全く見えない。ただ、淡々と。平坦とも言える答え方。どこか無機質な打ちっ放しのコンクリート壁を見ているかのような不気味さが、そこにはあった。
「早川」
天神の凜としたいつもの声が、やけに優しく聞こえる。
「普通の人というのは、多少変だと思ったところで、すぐに診察を受けることは少ない。多くは、その症状が見過ごせないものになってからなのさ。
それに、網膜剥離でよく言われる症状は、光が強く見えたり、何かが飛んでいたりするというものでね。今回の雨というのは、見逃しても驚きはしないのだよ」
たしかに、病院なんてものは明らかな実害が出てから行くものだ。
納得する俺を見て、天神はフッと笑った。
「もっとも僕としては、左の眼球にテニスボールが当たった時点で、何はなくとも病院の診察を受けていただきたかったけどね」
「随分と、お調べいただいたのですね」
「ご気分を害したかな?」
「いいえ」
微笑み合う二人。穏やかな空間。
端から見れば、美男美女の談笑。なのに、どうして俺の背筋はヒンヤリとしたものを感じるのか。
場を紛らわせたくて、俺は口を挟む。
「えっと、なんで左の眼球って分かったんだ?」
「理由は二つだよ。一つは、彼女自身が左目に雨が見えると言っていただろう? もう一つは、髪型さ」
「髪型?」
「僕たちに会いに来たときと違い、今はもう左目を隠していない」
「それは、」
偶然では、と言いかけて口をつぐむ。
たしかに、雨宮は先週の藤枝は髪を隠していたと言っていた。左目に隠したい何かがあったのだと考えるのは、おかしなことではない。
藤枝のペールピンクの唇が、ブラックティーで濡れる。
「天神さんは、私が『狐の窓』で見たものも、眼の所為だったと思われますか?」
「いいや?」
「では、」
ほんのわずかに、彼女の瞳に色彩が宿る。
天神は彼女の様子を気に掛けることなく、ジャケットからスマートフォンを取り出した。不慣れな手つきでトントンと画面をタップした彼は、液晶を藤枝に向ける。
「これが、貴女が見たものの正体だろう」
映っているのは、先日、撮影した木の表面。冬の大三角形が、しっかりと表示されていた。
笑みは残るものの、明らかに動揺した表情の藤枝。
「これは、なんでしょうか?」
「穴さ」
そんなことは、見れば分かる。
戸惑う女の心理が、手に取るように分かった。天神は俺たちに構うことなく、にこやかに続ける。
「もちろん、人間や魔のものの仕業ではない。これは、カミキリムシによるものさ。知り合いに相談して、市の行政にも調べて貰ったから、間違いはない」
「ちょっと待て、天神。カミキリムシってなんだ?」
「カミキリムシは、名前のとおり昆虫の一種さ。別名、テッポウムシとも言ってね。その名のとおり、鉄砲の様な穴を開けて木を食べるのだよ。
幹の下に、おがくずが落ちていただろう? あれは、カミキリムシによって生み出されたものさ。穴の出来ていた場所も低く、シラカシの木だったからね。すぐに見当が付いたよ」
「シラカシなんてよく分かったな?」
「どんぐりを見ただろう? あれが、シラカシの実だと教えてくれたのさ。それに、カミキリムシにも好みが存在してね、シラカシは好物の一つ。それも弱ったシラカシが大好きでね。あの木は苔が表面を覆っていた。そういうのを、彼らは好むのだよ」
「へえ」
どこから、その知識が出てくるのだろうか。素直に感心する一方で、それがどうしたという疑問も湧き上がる。
いまいち理解が追い付かない俺とは違い、藤枝は何かに気が付いたようだった。
「『シミュラクラ現象』」
ぽつりと彼女の口から、聞いたことのない単語が落ちる。
「しゅみくら?」
「『シミュラクラ』だよ、早川。三つの点が逆三角形に配置されていると、『人間の顔』だと錯覚する現象さ。人間の脳の処理ミス。一種の錯覚とされていて、ストレスを感じていると見間違い易いらしいね。『狐の窓』で区切られた視界では、より錯覚は起こりやすかったのだろう」
「……錯覚、だったのですか?」
透明感ある声は弱々しい。
「もちろん、断定は出来ない。あくまでも、その可能性が高いというだけさ」
がっくりと、彼女の華奢な肩が落ちる。微笑みは抜け落ちて、絶望すら感じさせる表情。その意味を、俺は理解出来なかった。
店内のジャズは、ゆったりと流れる。
天神は何も言わない。俺も何を言えば良いのか、分からなかった。
ペールピンクの唇が微かに震える。
「では、私に掛けられた呪いはなかったということですか……?」
今までの解をつなぎ合わせてみれば、彼女に掛けられた呪いは存在しないことになる。
もっとも、呪いなんて非科学的、非現代的なものを、俺は最初から認めてはいなかったが。
分かりきった解答をただ待つ時間。
そう思っていた。
「さてね?」
「は?」
「え?」
俺と藤枝の声が重なる。現象を解明した張本人が、どうして曖昧な答えをするのか。
「二人とも、なかなかに良い反応だね! とても普通で、平凡。まさに理想的!」
いたずらっ子のように楽しそうな天神は、バッと開かれた両腕から左手を胸に。右手の人差し指を伸ばし、指揮棒でも振るうかのようにくるりと一回転させた彼は、顔のド真ん中に位置させた。
「どうやら、君たちは大いなる勘違いをしているようだね! 良いかい? 僕はまだ、藤枝穂乃香に起きた、彼女が見た現象を解いたに過ぎないのだよ。つまり、藤枝穂乃香が掛けられた呪いついては何一つとして明らかになっていない。これが、現時点での僕の解答さ」
俺たちは、揃ってハッとする。紛うごとなき正論。天神の言うとおりだった。
だが、当然不服は生じる。
「依頼が解決指定なのに、なんで藤枝さんを呼んだんだ?」
「彼女の目が心配だったからさ! そして、診察を受けるように進言したからには、説明する責務があると僕は考えた」
そういうことか。
説明は至極真っ当。納得して藤枝を見ると、彼女の目には再び光が宿り始めていた。
「では、依頼は」
「もちろん、継続して調査するよ。ただし、その過程で貴女に協力してもらうことも、もしかしたら嫌な思いをさせることもあるかも知れない。それでも、構わないだろうか?」
「構いません。どうか、よろしく申し上げます」
藤枝穂乃香は即答だった。
深々と頭を下げた彼女の頬には、微かに朱が走っていた。