第7話 今の彼女(二)
満ち足りた表情を浮かべる雨宮に、天神は思い出したように口を開いた。
「ところで、彼女はりんごが好物らしいね。アップルパイなどもお好きだろうか?」
「え?」
雨宮はキョトンとした後、わずかに眉をひそめる。
「穂乃香ちゃんは、りんごを好きじゃないよ? りんごジュースやりんごの入ってるミックスジュースも飲まないくらい徹底して避けてるくらいだから、アップルパイも食べないと思うけど……」
「おや、そうなのかい? りんごアレルギーか何かかな?」
「どうなんだろう? ごめんね、わからなくて」
「構わないさ。では、彼女にアップルパイの差し入れはやめておこう」
「うん、その方が良いと思うな。きっと、困っちゃうと思うから」
「ありがとう、雨宮くん。ところで、藤枝穂乃香に恨みを持つものを知っているだろうか?」
穏やかな会話を切り裂くように鋭く、流れをぶった斬る質問。
天神はにこやかに微笑んでいるが、どう考えても笑いながら言う言葉ではない。一種、傍若無人ともいえる発言。俺の口があんぐりと開く。
瞳を大きくさせた雨宮は、案の定、硬直していた。
「そんな人……」
いない。
雨宮なら、そう言うだろうと思った。だが、俺の予想に反して彼女の唇は固く結ばれ、動かなかった。
「心当たりでもあるのかな?」
天神の追求に、小ぶりな頭が横に振れる。はらりと落ちる一房の髪。
「私に心当たりはないの。でも、だからと言って、いないとは言えない。人から恨まれたり、嫌われたりする理由なんて様々《さまざま》だと私は知っているから。だから、とても悲しいけれど、穂乃香ちゃんが誰かに負の感情を持たれていたとしても、驚かない」
グッと、顔を持ち上げた雨宮が天神を見る。しっかりとした芯を感じる横顔。
「だって、穂乃香ちゃんは目立つから」
誇らしそうで、憂うような声。
出る杭は打たれる。
それは、この日本では特に顕著だ。
素晴らしい功績も、褒め称えられるような言動や人格も関係ない。どんな聖人、偉人でも、必ず叩く人間はいる。
「それに、告白とかも全部断っているみたいで。その人たちから、恨まれてないとも言えないから」
愛憎は表裏一体、か。
昨日の話からしても、その線で逆恨みを買っている可能性は十分に考えられた。
「モテるっていうのも、大変なんだな」
ポロッと零れた言葉に、雨宮が「そうですね」と相槌を打ってくれる。落ちた髪を耳に掛け、眉尻を下げて微笑する姿は、どこか庇護欲を誘う。
「ねえ、天神くん。穂乃香ちゃんに何かあったの? まさか、嫌がらせとか……?」
天神からの返事はない。返答する様子もない。
守秘義務を遵守するならば、答えないのが正解なのだろう。だが応えないのは、礼を欠く気がした。
「雨宮さんは、天神が探偵みたいなことをしているのは?」
「もちろん、知っていますよ」
彼女は嬉しそうに微笑む
さすがは龍山大学の神様。知名度は抜群らしい。
「藤枝さんは、」
「早川」
ぴしゃりと咎めるような声。ひりつく視線を辿れば、ヘーゼルアイとぶつかる。
「なんだよ」
「言う必要はない」
「こんなに協力してくれたのに、か? それは、不義理じゃないか?」
無言。
沈黙。
蠱惑的な瞳からは、気味が悪いほどに何も読み取れない。
雨宮はオロオロとし、俺は天神を睨みつけ、天神は一笑した。
彼の腕が、俺を讃えるように広げられる。
「やはり、君は希有な存在だ! 素晴らしく凡庸で、美しい」
「馬鹿にしてるのか」
低い声が出る。
「まさか! 心から褒めているのさ」
天神の大きな体が、グッと前のめりになる。
ほんのりと朱を帯びた色白の肌。彼の口角は楽しそうに持ち上がっている。大きく見開かれた榛色の瞳は、獲物を捕らえるかの如く、俺を縛った。
スッと、人差し指が真っ直ぐに伸びる。
「良いかい、早川。『義理』を果たすべきは、『僕ら』ではない」
「……どういうことだ」
「君は、対価と義理を合い混ぜにする傾向があるようだね。それは、ごく普通で、ありきたりな事のようで、一方、非常に珍しいとも言える。とても希有だ」
「何が言いたい」
「僕たちが雨宮くんに渡すものがあるとすれば、それは情報だ。それも『僕たちの』ね」
「は?」
「ということで、早川」
天神が姿勢を正す。
「君の家族構成でも、彼女に教えてあげると良い。そうだね、好物や特技なんかでも良いかもしれない」
「はあ?」
「て、天神くん?」
「雨宮くん、遠慮は要らないよ。情報は価値だ。何かの役に立つかも知れない」
その情報は絶対役に立たない。断言しても良い。特技はともかくとして、一体誰が欲しがるというのか。俺の好物と家族構成を。
「おまえの情報の方がよっぽど価値になるだろう⁈ おまえも何か言えよ!」
「おや! 君は、この僕にそんな価値があると思ってくれるのかい? なんとも光栄なことだね! しかし、全くもって残念なことに、彼女は僕の情報ならそこそこ持っていてね。ゆえに、今回の対価にはなり得ないのだよ」
「そこそこ? もしかして、彼女なのか?」
「ち、違いますよ!」
真っ赤になった雨宮が慌てて手を振る。
天神は呆れたように、否、哀れむように俺を見ていた。
気まずい沈黙が流れる。
天使が通ったどころか、悪魔を通らせてしまった俺は、内心、頭を抱えていた。俺が口火を切るしかない状況を、自ら生み出した愚かさを悔いて止まない。
「……家族構成は、両親と弟と妹が一人ずつ。好物は高級なたんぱく質。特技は……」
口に出してから、考え込む。
「特技は……ない」
二人の視線が俺に向けられる。
何とも言えない気恥ずかしさが俺を支配する。
耳に熱が集まるのを感じて、俺は俯いた。
「『特技なし』、か」
「なんだよ、悪いか?」
「いいや? とても興味深いよ。しかし、そうか。なるほど、なるほど」
天神は、鷹揚に首を振る。何が『なるほど』なのか。さっぱり理解が出来ない。
「私も、弟が居るんですよ」
嬉しそうに話に乗ってくれた雨宮が女神に見えて、心の中で拝む。
それにしても、二人の関係はどうにも奇妙だった。もちろん、わざわざ首を突っ込むことはしない。表面上、無難に過ごせれば良いのだ。
それから少しだけ他愛のない会話をした俺たちは、「そろそろ、時間だ」という天神の声で席を立った。
「そうだ、雨宮くん。念のため、眼科へ診察に行くよう、彼女に勧めておいてくれるかい?」
「穂乃香ちゃん?」
「ああ。出来れば今日、明日中にも」
「うん、分かった」
雨宮は力強く頷き、それ以上の言葉は発しなかった。
「それと、早川。君は、結末まで付き合う気はあるかい?」
俺を見下ろすのは、吸い込まれそうなヘーゼル。
「ああ」とうなずけば、安堵するように天神が微笑んだのは気のせいか。
「では今週、君の空いている時間を教えてもらえるかな?」
「ちょっと待て」
俺は、パーカーのポケットからスマートフォンを取り出す。カレンダーを見れば、来週までのシフトは明らかになる。
「直近だと、土曜日が空いてる。あとは、日曜日も昼以降なら。ただ日曜は早番だから、土曜日の夜は早く寝たい。あと課題をやる時間も確保したい」
大きくうなずいた天神は、くるりと体を半回転させて雨宮と向かい合う。胸に手を当てて、お辞儀をする姿は、悔しいが綺麗だ。
「雨宮くん。今日は本当に助かった、ありがとう」
「気にしないで。私は天神くんの力になれて、嬉しいから」
「恐悦至極。君も何か困ったことがあれば、相談してくれたまえよ」
「ありがとう、天神くん。ハンカチは洗って返すからね」
ギュッとハンカチを握り締め、小動物のように笑う彼女。
天神は優雅に微笑み、丁重に傘を開いた。
「それでは、また」
偉丈夫は、颯爽と去る。そうして、俺たちは解散した。