第6話 今の彼女(一)
五
すっかり秋めいた、久しぶりの青空を見上げる。
秋の晴天は、あたたかみがあって好きだ。冬のように凜としているわけでもなく、夏のようにコントラストが強いわけでもないのが良い。
建物に寄りかかり、目を瞑る。
微かに甘く香るのは、金木犀。
涼やかな風を頬に受けていると、聞き慣れた声が聞こえてきた。今日も今日とて、ドーム型のフリル傘をさした天神は、スリーピースを嫌みなほど完璧に着こなしている。
「やあ、早川! 待たせたかな?」
「別に、待ってはいないけど」
俺の意識は吸い寄せられるように、天神の横に立つ、眼鏡を掛けた女に向いた。
身長は女子としては、平均的な一メートル五十センチ半ば。髪を染めていないボブヘアに、ぺたんこの靴。服も雰囲気も大人しそうで、真面目な印象を与えていた。
ジッと見ていると、彼女の体が三分の一ほど天神の背後に隠れる。なんとなく、小動物を思わせる動きだ。
「淑女を凝視する行為はいただけないよ、早川。それはともかく、雨宮くんだ」
「は?」
「あの、初めまして。心理学科二年の雨宮です」
ぺこりとお辞儀をする彼女につられて、俺も会釈をする。
使い慣れた安い笑みを浮かべながら、俺は現状を把握すべく脳を動かす。
心理学科二年。つまり、藤枝穂乃香と同級生。
それだけで、なんとなく天神の狙いが読めてくる。もちろん、どこからの伝手かなんて、無粋で無駄なことは聞かない。どうせ答えは、『天神一』に収束するのだ。
「初めまして、早川です。藤枝さんのご友人ですか?」
「えっと、はい。穂乃香ちゃんとは仲良くさせてもらってます」
雨宮と名乗った彼女は、眉尻を下げて少しだけ自信がなさそうに微笑んだ。なにか不適切な質問だったのだろうか。
やや困惑する俺に構わず、凜とした声が頭上から振ってくる。
「こんなところで立ち話をしなくとも、僕たちには十分な時間がある。まずは、着席するところから始めようじゃないか!」
バッと片翼を広げるように伸ばされた腕の先には、学食の軒下。白い小洒落た長方形のウッドテーブルとベンチが置かれていた。
パチンと白傘を閉じ、先陣を切って座ったのは天神。
雨宮と俺は、互いに顔を見合わせる。
「あの、早川さん。どうぞ、お先に」
「いや、雨宮さんが」
「いえ、早川さんが」
どうぞ、どうぞとお互いに譲り合う。
期せずしてお見合いのようになった俺たちに、天神は呆れたように声を上げた。
「君たちは、何をしているのかな? 人形劇でも、もう少し動きがあると思うけれど」
日陰で頬杖をつく彼の口角は、わずかに上がっている。
「ごめんね、天神くん。えっと、隣、良いかな?」
「もちろんさ、雨宮くん! ああ、これは失礼」
席に座ろうとする雨宮を制止した天神は、ジャケットの胸ポケットからハンカチを取り出してベンチに丁寧に置いた。
ネクタイと同色の紺色ストライプは、白のベンチに良く映える。
「淑女に対してエスコートもせず、申し訳ない」
「え、ううん。大丈夫だよ!」
俯きがちに頬を染める彼女の手を取った天神は、優雅にベンチに誘導する。
「さあ、どうぞ」
「あ、ありがとう」
なんともキザったらしい。見ている俺まで赤くなりそうだ。それでも似合ってしまうのが、この男なのだろう。
「君も、エスコートが必要かい?」
「いらない」
馬鹿にしているわけではなく、純然と尋ねているのだから、全くもって質が悪い。
俺が雨宮の斜向かいに座ると、男は満足そうに腰を下ろした。
「さて、貴重な時間だからね。本来であれば自己紹介から始めたいところなのだけれども、ここは単刀直入にいこう」
天神は同意を取るように、俺と雨宮の顔を交互に見る。
他人と時間を共有するのが得意ではない俺は、即座に同意を示した。雨宮もコクンとうなずく。
「早速ではあるが、雨宮くん。藤枝穂乃香について、君の知っていることを教えてくれないだろうか?」
「うん。えっと、穂乃香ちゃんは私と同じ、人文学部心理学科二年で部活はテニス部に入ってるよ。あとは……ごめんね、何を話したら良いかな?」
「彼女の家族構成は知っているかな?」
「あ、うん。たしか、ご両親とお姉さんが一人だったと思う。あとは、お手伝いさんがいるみたいなことは言ってたかも」
「お手伝いさん?」
ドラマや小説でしか聞かない単語に、俺はつい口を挟んだ。
「あ、はい。ご両親はお忙しいみたいで。家のことは昔から、お手伝いさんがされてるらしいです」
「お姉さんとは、何歳くらい離れているのだろうか?」
「どうなんだろう? そんなに離れてはいないと思うんだけど。穂乃香ちゃん、あんまりお家のことは話さないから……ごめんね」
「気にしないでくれたまえ。しかし、彼女は犬を飼っていると聞いたのだが、違ったのかな?」
天神の問い掛けに、雨宮はハッと目を開き、すぐに表情を曇らせた。
「違わないんだけど……」
「『だけど』?」
「……穂乃果ちゃんから、はっきりとは聞いてないんだけどね。ルティーちゃん、虹の橋を渡っちゃったのかも知れなくて……」
「虹の橋? ああ、海外の散文詩か。つまり亡くなってしまった、ということかな?」
彼女の頭はコクンと縦に振れる。
「元々、喉に傷があって、流動食しか食べられなかったらしいんだけど。夏頃から、すごく弱ってたみたいで……」
「いつ頃に亡くなったのかは、分かるかい?」
「多分、今月に入ってからだと思う。あ、でも、本当にそうかは分からないよ! 勘違いかも知れないし」
想像よりも遥かに直近の出来事で、俺は驚く。
「構わないさ。君のことだ。そう考えるだけの根拠もあるのだろう?」
「う、うん。もちろん、天神くんみたいに、はっきりした根拠じゃないんだけど……。後期が始まってから、一度もルティーちゃんの話が出てないの。SNSの写真もアップされてないから、何かあったのかもって話になって。でも、穂乃香ちゃんから言ってくれるまでは、そっとしておこうねって、友だちとは話してるんだ……」
雨宮は眉尻を下げて、視線を落とした。
暫しの沈黙。
木がサワサワと揺れる音がした。
「それに穂乃果ちゃん、後期になってから授業中もぼんやりしてることが増えたし、部活中にボールが当たっちゃったこともあったみたいでね。
運動神経も良いし、テニスも大会に誘われるくらい上手なのに……。ちょっと心配だよねって」
「彼女は大会にも出てるのかい?」
「ううん。断ってるみたい。学問に集中したいからって。授業料免除になるほど成績優秀なのに、本当にすごいよね」
「素晴らしく熱心な学徒だね。ところで、ボールが当たったのは最近の話なのだろうか?」
「先週末のことだと思うよ。今週の月曜日に、テニス部の子が穂乃香ちゃんに声を掛けているのが聞こえちゃったから」
天神が名前を覚えるだけはあるのだろう。ほわほわした話し方とは違い、雨宮は意外にもしっかりと応答していた。昨日、悠斗から聞いた話とも整合性は取れている。
しかし、高校でも大学でも変わらず優秀な人物とは恐れ入る。つい興味本位で、「藤枝さんって、どんな人なの?」と尋ねると、雨宮の目がキラリと輝いた。
「穂乃香ちゃんは、聖人君子みたいな、天女みたいな人ですよ! 頭も良くて、運動も出来て、性格も見た目も美人! 今週に入ってからは前髪で顔が隠れちゃってるけど、それも色っぽくて。あ、それだけじゃないですよ! まだ二年生なのに、もう心理学科の研究室やゼミにも顔を出しているんです」
その熱弁する様子は、妹が『推し』を語るときに似ているなと思いながら、適度に相槌を打つ。
「……なんか、本当にすごい人なんだね」
「はい! こんな私にも親切にしてくれるくらい優しくて、クラス委員もしていて。先生からの信頼も厚いんですよ。本当に、クラスみんなの憧れなんです」
眼鏡の奥の瞳は、瞳孔が開き、キラキラしている。よほど、藤枝穂乃香が好きなのだろう。
こんなに人から褒められることも、こんなに人を褒めることも縁のない俺には、それが眩しく。同時に、少しだけ空恐ろしく感じた。