第5話 高校時代の彼女
レトロ・アヴェの間接照明により、部屋は暖色に包まれている。趣のある時計の短針は、四を少しばかり過ぎていた。
眼前には、メープルシロップとチョコレートソースの掛かったホットケーキにフォークを刺す天神。左には、温玉のせカレーライスを食べる悠斗。
俺の前に置かれているのは、ホットコーヒーのみ。
漂うスパイシーかつまろやかな香りの分子は俺の鼻に侵入し、脳を刺激する。カレーライスはすべてを包み込み、凌駕する。コーヒーの気高い香りは、一瞬にして駆逐された。
「藤枝かー」
気の抜けた声。だが、決して不真面目なわけではない。
「貴殿は、彼女の元クラスメイトなのだろう?」
「そうなんだけどさ。もう何年も話したことがないんだよねー」
悠斗がカレースプーンで口元を抑える。
「藤枝さんに何かしたのか?」
「んー」
曖昧な返答。人から嫌われた話など、思い出したくないのは当然だろう。俺は、それ以上踏み込むことはやめる。
「貴殿と彼女は、高校三年間、同じクラスだったのかな?」
「いや、高一のときだけ。二年からは、理系と文系に分かれたから」
「部活や役員などでの、接点は?」
「なし。俺はサッカー部だったし、藤枝はテニス部の副部長だったから。委員会も、藤枝は生徒会の副会長だったけど、俺は何もやってなかったからなー。役員とか面倒じゃん?」
「貴殿は最初から、彼女に嫌われていたと?」
「いや? 最初は普通に話してたよ」
「では、いつ頃から仲違いを?」
「冬前じゃなかったかな。まあ別に、仲違いをしたわけじゃないんだけどさ」
温玉にぷつりとスプーンが刺さり、どろりと黄味が流れ出す。光沢のある黄色は流れて、わずかな境目を主張する。それをぐちゃぐちゃに混ぜた悠斗は、ぱくりと口に入れた。
ホットケーキの最後の一切れを口に入れた天神が、紙ナプキンで口を拭う。
天神はテーブルの上に両手を置き、体をグッと乗り出した。
「単刀直入に聞こう。彼女の出身地や家族構成、好きな食べ物から苦手なものまで。どんな些細なことでも構わない。貴殿が知っていることや記憶に残っていることを教えてはくれないだろうか?」
「そういえば、情報提供が目的って、最初から言ってたもんな。良いよ。とりあえず、出身地はオレと同じ県北だね。家族構成は、両親と姉が一人だったはず。あとは、ルティーって名前の犬が一匹」
「犬?」
「うん。白と茶色のちょっと馬っぽい模様の犬。なんだっけなぁ、シェルティー?」
「随分と詳しいけれども、実物を見たことが?」
「いや、写真。待ち受けにもしてたから」
「なるほど。では、彼女の好きな食べ物や苦手なものは分かるだろうか?」
「いやぁ? りんごが好きって聞いた気もするけど、苦手なのは分かんないわ。ただ、いっつも笑顔で面倒事も引き受けるから、生徒や先生からの信頼も厚かったのは覚えてる。友人も多かったみたいだし。まあ、やっかむ連中もいなくはなかったけど」
天神の切長の目が細くなる。
「やっかむ、とは?」
「藤枝だって聖人君子みたいだからさ。影で謂われのないことを噂するのも、一部にはいたんだよ」
「謂われのない?」
「そうそう。『両親が医者だから金持ちぶってる』とか、『姉の方が優秀なのに』とか。他にも、テニスの試合でスコートを履いてたら、男を誘ってるとか。
あとは、ほら藤枝って胸も大きいし、美人じゃん? 頭も良いし、礼儀正しい。なのに、驕ったところがないだろう? 大和撫子的な儚さもあって、学内の野郎どもは早々に高嶺の花だと諦めたんだけどさ。
学外のバカが押せばいけると勘違いしたのがいてさー。校門前や駅で待ち伏せしたり、セクハラまがいに口説いたりしたわけよ。もちろん藤枝は落ちなかったんだけど、それを逆恨みして噂を流したんじゃないかっていうのもあったね」
悠斗は心底呆れるように、否、反吐が出ると言わんばかりに口を歪ませた。なんともくだらなく幼稚な内容ではあるが、無視の出来ない情報だった。
何もしていなくとも、向かう悪意。
噂だけではない。
誰かに恨まれるということ。
現代的とは言い難くとも、呪われる可能性もあるのだと一度気が付いてしまえば、指先から冷たくなっていくのは止まらなかった。
「なるほど。なんとも、愚かしい喜劇だね。しかし、貴殿の情報提供には感謝するよ!」
穏やかな口調に冷ややかな声。
ヘーゼル色の瞳を細めて微笑んではいるが、天神はピリッとした空気を纏っていた。
「どうでも良いことも話した気がするけど」
「どうでも良いことなんてものはないさ。どんなに些細でも情報には価値がある」
「そういうもん? まあ天神が良いなら、それで良いけど。そういえば、藤枝の依頼って何だったの?」
屈託のない質問を、天神は右手で制する。
「大変申し訳ないが、その質問には答えることが出来ない。正式な生業ではなくとも依頼を受けたからには、守秘義務があると思っているのでね」
「それも、そっか。結構、ちゃんとしてんだねー」
感心する悠斗の腕時計から、トトトと音が鳴った。
「ごめん。部活の人から、連絡が来たわ」
「華道部だっけ?」
「そうそう。来月には発表会があるからさ、週一の稽古が欠かせないんだよ」
悠斗は残りのカレーをかっこむ。
「急に呼んで悪かったな」
「良いってことよ。俺もここに来てみたかったし」
「ありがとう、相澤悠斗くん!」
「いえいえ。今度は、面白い話を聞かせてくれるのを期待してるわ。じゃ、ご馳走様!」
パンッと手を合わせた悠斗は、ソファから腰を上げて、財布から千円札を二枚置いた。
カランコロンという柔らかな音に見送られ、友人は夕闇へと消えていく。
「早川、ありがとう」
ティーカップを傾ける天神は、穏やかに微笑む。
「別に、俺は何もしてない。それよりも、欲しい情報は得られたのか?」
「早川、明日は何限から講義かい?」
相変わらず質問の答えはない。意図的なのか、聞こえていないのか。俺は小さくため息を吐く。
「……明日は、水曜日だよな?」
「ああ」
「なら、二限以外は全部講義だ」
「なんて、都合が良いのだろう! 僕も水曜日は二限がなくてね。ぜひ明日の十一時に、食堂テラスに来てくれたまえよ!」
スッと俺に伸ばされた手は、爪先まで整えられていた。
一瞬、ここが劇場で、自分は次回公演にでも誘われたのかと錯覚しかけて、頭を振る。
これは現実で、俺は観客者ではなくなりつつある現在。思考は明快。至って、シンプルだ。
この謎を、天神一はどう解くのか。
一番近くで見てみたい。
りんごが地面に落ちるように。否。磁石に集まる砂鉄のように。ただ、惹かれてならない。
だが、素直にうなずくのは癪に障る。だから俺は、差し出された手を取りはしない代わりに伝票を乗せた。
「このコーヒーを奢ってくれたらな」