第39話 謎解き(二)
「それは、」
「ああ、彼のものの名誉の為に言っておこう。呪いを掛けたのは、貴女の想像する相手ではないだろうね。さあ、どうしたい?」
藤枝のぱっちりとした目が、これでもかというほど見開かれる。
「どうして、ルティーではないと言えるのですか」
「逆に尋ねよう。どうして貴女は、呪いを掛けたのが愛犬のルティーだと思っているのかな? とても大切にしていたのだろう? それとも、彼のものに恨まれるようなことでも?」
欠落した表情。
藤枝は答えない。
首を動かすどころか、まばたき一つしない彼女は、人形のようだった。
天神は、優雅にティーカップを傾ける。
「貴女が勝手に恨まれたいと願っているのであれば、それは彼のものも報われないだろうね」
刹那、彼女の目に激烈な光が宿った。
「あなたが何を知っているというのですか? 勝手なことを言わないでください」
「随分と面白いことを言うね! もちろん、僕は何も知らないよ。貴女が言わないのだから。しかし、見つけて欲しいと依頼したのは藤枝穂乃香くん、貴女だ」
「見つけてなんて」
「初めて会った時、君は僕のことを探偵と言っていた。『探偵《detective》』は見付けるという語源から来ている。僕は、その名に恥じぬとおりにしたまでさ!」
舞台でスポットライトを当てられたように、天神がバッと手を広げる。藤枝は、唇を強く噛んでいた。
初めて見る表情。
これが彼女の怒りなのだと、すぐに気が付いた。
「もう結構です。神なんて、嘘ばっかりですね」
「ようやく、藤枝穂乃香の言葉を聞けて嬉しいよ!」
成立しない会話。
天神は一歩も退かない。気圧されない。
さすがと言えば、さすがだが。
偉丈夫は呵々大笑し、俺の心臓はバクバクと音を立てていた。
「しかし僕は、貴女の依頼の報告をしている最中だ。まずは、ご着席願いたいものだね」
「もう要りません」
「やれやれ。多くの人から褒め称えられ、信頼される《《藤枝穂乃香》》が、この程度とは残念極まりない。中途半端になったのは心残りではあるが、依頼人の要望は絶対。
他者の目も気になるからね。僕からの報告は以上としよう。ああ、貴女に僕を紹介したという彼にも、結果は伝えておくから安心したまえ」
嘘だ。
この男が他者の目なんて、気にするはずがない。そんなに彼女を煽ってどうするのか。
一転した絶対零度よりも冷たい、抑揚のない声。背もたれに体を預けた天神は、つまらないという表情を隠しもしない。
対して、立ち上がった藤枝の目はつり上がり、頬は赤くなっていた。
真逆の二人を俺は交互に見る。下手に口を出すのがまずいのは、日の目を見るよりも明らかだった。
大型肉食動物の争いを間近にしてしまった、うさぎの気持ちが今ならよく分かる。どうするのか見守っていると、藤枝は思いのほか大人しくソファに座り直した。
「報告を続けても?」
「どうぞ、ご自由にしてください」
「ご要望のままに」
天神は椅子に座りながら、左胸を押さえて大げさにお辞儀をした。
「そもそも、貴女は呪いとの距離が異様なまで近かった。それが僕には不思議でならくてね。忌避すべき対象として見ていないどころか、呪いに掛かりたいと思っているのだとすら感じたのが、違和感の始まりだった。
いいかい? 藤枝穂乃香の身に起こった、呪われたと思う出来事はたった一つ。ボールが眼球に当たったことによる網膜剥離だけ。しかも、それに対して恐怖を覚えている様子もない。雨が見えた原因が分かっても、喜んでいる素振りもない。
奇妙だと思ったよ。さらに貴女は、『私に掛けられた呪いを教えてくださいませんか?』と僕に依頼した。それが僕には、自分は呪いを掛けられていると思い込みたかったように見えてならなかったのさ」
藤枝は喋らない。
ただ、歪に貼り付けた微笑が顔に乗る。
「かなり慎重な人であれば、嫌な出来事から呪いを視野に入れることもあるだろう。けれども、そういう御仁は、目の異常を感じたらすぐに医者に掛かるだろう。
言動の不一致。
非常に興味深かったよ。『呪われたい』なんていう感情、平凡に暮らしていれば、なかなか起きるものではない。『呪いたい』なら度々聞くけれどもね。
付け加えるならば、呪いの内容は知りたいのに、自分を呪っている相手に興味がないのも不思議だった。一度、引っ掛かると些細なことでも気になってしまうものでね」
姿勢を正した天神の人差し指が、スッと上を向く。
「一つ。依頼人は、自分を呪っている相手を知っているのではないか」
節くれの目立つ中指は、楽しそうに。
「一つ。どうして、疎遠になっているはずの相澤悠斗の紹介だと言ったのか」
薬指は、やや窮屈そうに面を上げて。
「一つ。何故、自分が呪われていると思っているのか」
解放された小指は、すがすがしく。
「一つ。呪いを知ってどうしたいのか」
待ちわびた親指は、四本の指と合流する。
「一つ。藤枝穂乃香の描く筋書きは何か」
ひらひらと手のひらを振った天神は、満面の笑み。藤枝は、不気味なほど表情を崩さない。
ホットコーヒーの表面には、白いモヤが掛かる。ただのカフェインの結晶。分かっている。けれども、それが何かを隠すベールのように見えて、俺はカップを揺らした。
「貴女の評判を聞けば聞くほど、貴女を呪う明確な対象は浮かび上がらなかった。けれども、誰からも恨まれたり、憎まれたりしたことのない人間などいない、というのが僕の考えでね。
そもそも、その対象が有象無象であれば、普通は、もっと怖がっていてもおかしくない。それで、呪っている相手を知っているのではないかという考えに至ったのさ。そうして、パッと思い浮かんだのが相澤悠斗だった」
「え? おい」
「安心したまえ、早川。彼と話をして、本件に関わっていないことはすぐに分かったよ。
だから今度は、どうして彼女は呪われていると思っているのか、を考えてみることにしたのさ。もちろん、虚言の可能性も視野には入れていたよ。けれども、そうなると何故、嘘を吐いたのかということに行き着くことになる。僕は依頼人の証言を、端から疑いたくはなくてね」
一息つくと、天神は白濁した液体で喉を潤した。
藤枝は変わらず無言、不動を貫き通す。
「まずは、彼女に呪いが掛かっていることのメリットに目を向けた」
「メリット? そんなのあるのか?」
「たとえば、誰かに心配してもらえる、とかね。あとは、彼女ほど人に慕われているのなら、誰かに濡れ衣を被せることも出来るだろう」
「じゃあ、悠斗を悪者にしようと?」
「落ち着きたまえ。そうは言ってないさ。友人思いなのは美徳ではあるが、早合点も飛躍が過ぎるのもいただけないよ、早川」
苦言を呈されて、それはそうだと俺は黙る。
「そもそも、このメリットを享受したいのであれば、僕たちに相談するのはいささか遠回りすぎる。彼女が直接、仲の良い人間に相談する方が何倍も早く効果が出るはずだからね。
それならば、と次は彼女が掛けられたと思っている呪い自体に理由があるのではないかと考えてみることにしたのだよ」
「はあ」
相槌を打っては見たものの、正直、あまり理解が出来ていない。そんな俺を見て、天神は笑う。
「さっきも言ったように、彼女は呪いを掛けられていると思いたかったのだろう。それが、たとえ彼女に危害を及ぼすものでも、受け入れられるほどに」
やっぱり俺には理解が出来なかった。仮にそれが事実だとして、藤枝がそう思う理由が。「あくまでも、憶測で、推測で、空論だけれども」と言った天神は、上半身をグッと藤枝の方に傾けた。
「呪いの内容を知りたかったのは、掛けた相手への確証を持ちたかったのか。それとも、罪を背負うためか。あるいは、どちらもか。この僕に教えてはくれないだろうか、藤枝穂乃香くん」
ヘーゼルアイが鈍く輝く。
藤枝はペールピンクに彩られた唇を引き結ぶ。
危うい均衡。
ぷるぷると揺れる水銀で、空気の通り道を塞がれていくような気持ち悪さ。心地の良いはずのジャズは遥か遠くに聞こえ、体は小さくに震える。
沈黙は、いつまでも続かない。
柔らかな唇が上下に引っ張られたかと思えば、透明感のある声が流れ落ちた。
「見つけるのが、探偵というものなのでしょう? どうして、私に尋ねるのですか?」
「どうやら誤解させてしまったらしいね。僕は好んで見つけたいわけではない。ただ、知りたいのだよ。どうして貴女は、ルティーが呪ったと固執するのか。藤枝穂乃果の人生のこれまでと、これからを」
「……それを知ってどうするのですか?」
「貴女の依頼を完遂させたい」
「まだ完遂していないと?」
眉をしかめる藤枝に、天神は強くうなずいた。
「教えてくれないだろうか? 藤枝穂乃香の、いや、貴女自身の言葉で」
二人は見つめ合ったまま、目を逸らさない。
店内の音楽は止まり、真空に迷い込んだような静寂が占める。
それは、とても長い、深呼吸のようなため息だった。
「わかりました。お話ししましょう」




