第37話 空論と企て
「早川。『飯テロ』は何故、起きると思う?」
「何故って、その写真が美味そうに見えるからだろう?」
「では見せられたのが、君の苦手な食べ物や満腹時だったらどうだい? 飯テロになり得ると?」
「……いや、ならないな」
俺の返答に満足そうな笑みを浮かべ、天神の腕が力強く横に広がる。
「なんとも理想的な解答だよ! ここからは僕の推測、あるいは空論になるけれども。『飯テロ』というものは、一種の錯覚なのではないかと僕は考えるね」
「錯覚?」
「『始末の極意』という古典落語は知っているかい? この中の噺に、たいそうケチな男が鰻の蒲焼きの匂いをおかずにごはんを食べるという下りがあってね。嗅覚というのは、記憶を想起させたり、味覚を錯覚させたりする要因になることは分かっているのだよ」
匂いをおかずに飯を食う。
なんとも覚えのある行動。動揺を見せないよう、俺は平然を装う。
「視覚でも似たような現象が起きるってこととか。だから、美味しそうに見える写真で空腹感が刺激されると」
「もちろん、断言は出来ないよ。あくまで、僕の仮説さ」
天神は戯けるように言うが、理解は出来た。否、納得した。
「だから俺は生協の前を通ったときに、やたらパンを食べたくなったんだな。パンの匂いを嗅いで、写真も見たから」
「おそらく、ね。昼食を前にした空腹時における、嗅覚と視覚の刺激。条件としては、十分だろう」
俺は少し離れたところにある売店に目をやる。今も掲示板に写真は貼ってあるが、特に食べたいとは思わなかった。
「そうすると、やっぱりカレーにミントが謎だよな」
「いいや。返って、はっきりしたよ」
天神の目がキラキラと輝く。
「なんでだ? ミントの香りを嗅いでも、カレーを食べたくはならないだろう?」
「そうだね。もしも、『匂いと購買意欲の関係性』だけに特化した、たとえば経済学部による純粋なマーケティング実験であれば選択ミスと言えるかも知れない。
けれども、これは心理学科の実験だ。仮定として、『飯テロ』が視覚の錯覚よるものだとしよう。
もしも君が何か食欲をそそる、たとえばステーキを見せられたとして、そこにガーリックの美味しそうな匂いが加わったらどう思うかい?」
「……より腹が減るだろうな」
「理想的な回答だよ! では、加わったのがグレープフルーツの匂いだとしたら?」
「グレープフルーツ? 想像も付かないが、食欲は湧かないんじゃないか?」
言い終えてから、やっと天神の言いたいことを俺は少しだけ理解した。
「そういうことか。嗅覚と視覚の錯覚が一致したときとそうでないときで、購買意欲に差が出るかどうかの実験をしていたと」
「もちろん、確証はないけれどもね。僕の推理が正解かどうかを知るためには、実際に携わっている人間に尋ねるしかないだろう。さて君は、答えを知りたいと思うかい?」
「そりゃあな。でも心理学科と一概に言っても、四学年分ともなれば、おおよそ二百人以上にのぼるだろう? そんな人数の中から、探り当てるのは困難じゃないか?」
「大学院生も含めればもっと増えるだろうね」
まさか、一人一人に聞いていくつもりなのか。いや、それでも間に三人挟めば目的の人物には辿り着くと言われている昨今、不可能ではないのか。
そう考えたところで、天神がクスクスと笑っていることに気が付いた。まるで考えを読まれていたような表情。気恥ずかしいやら、腹立たしいやらで、つい口調が乱暴になる。
「何だよ」
「いいや。不可能ではないさ。偶然か必然か。僕たちには伝手がある」
「伝手?」
「藤枝穂乃香だよ。彼女は、研究室にも顔を出していると雨宮くんが言っていただろう? 彼女自身が知っていなくても、関係者には辿り着くことは出来るかも知れない」
「そういうことか」
早速、藤枝に連絡を取るべく、ジーパンからスマートフォンを取り出す。ロックを外したところで、手が止まった。
「ちょっと待て。次の授業まで、あと十四分しかない」
「おや、もうそんな時間かい? では、この答え合わせはまた後日にしようじゃないか。なに、これはあくまで僕たちの好奇心の問題。ならば、今日中に知る必要もない。そうだろう?」
「まあ、そうだな。じゃあ、まだ藤枝さんには連絡しなくても良いか?」
「いや……」
天神が薄唇に紅を塗るように撫でる。
「早川。君の来週末の予定を教えてもらっても?」
「来週末? ちょっと待て。確認する」
天神にしては随分と日を空けるな、と思いながらカレンダーをタップする。
「来週の土曜日は、九時から午後の一時までがバイト。日曜日は休みだけど、悠斗と出掛けるからパスだな」
「それは、好都合。僕も日曜日は予定があってね。そうしたら、土曜日にレトロ・アヴェというのはどうだろう? 時間は早川たちに任せるよ」
天神の予定というのも気になるところだが、それよりも『早川たち』と言われたことの確認をしなければならなかった。
「俺たちって、俺と藤枝さんか?」
「さすが、早川! その通りだよ」
パチパチと手を叩く音がホールに響く。ほとんど人がいないとはいえ、誰かの視線を浴びたのは分かった。
俺は天神の手を押さえ、拍手を遮る。キョトンとした顔をする彼に悪気がないのは分かるが、それとこれとは話が別だ。
「藤枝さんには、連絡をしておく。実験の話も調べてもらうので良いか?」
「感謝するよ、早川!」
「分かった。じゃあ、俺は行くわ」
くるりと背を向けて歩き始めた俺に、天神のよく通る声が掛かる。
「デザート一つ分」
「は?」
「当日、デザートが一つ食べられるように、お腹を空けてきてくれたまえ!」
朗らかに笑って、天神は大きく手を振る。俺は、「了解」と軽く手を振り返し、ラウンジを後にした。




