第2話 昼食は食堂にて
天神一という男の価値基準を知っている俺は、無表情でコッペパンの袋を開ける。嗅ぎ慣れた独特の匂いが鼻の粘膜に届いた。
「何が素晴らしいのか、説明しないのか?」
「説明をする必要などあるのかい? このとてつもなく普通の答えに」
「え?」
一転、悠斗が硬直した。
「もしかして、オレ、馬鹿にされてる?」
不安そうな顔で見てくる悠斗に、俺は首を横に振る。
「安心しろ。ちゃんと褒められてる。ただ、天神の価値基準は独特なんだよ」
「なんてことを言うんだい、早川! 凡庸、平均、平凡、十人並み。そして、普通! 素晴らしい褒め言葉じゃないか!」
天神はヘーゼルの瞳を輝かせて、天を仰ぐ。俺は、コッペパンを噛みながら、悠斗と視線を合わせて肩をすくめてみせた。
「な?」
「……もしかして、天神って変わり者?」
「かなりの、な」
悠斗が目を輝かせて天神を見る。
享楽主義者に、普通称賛主義者。
スーパーでおつとめ品のコッペパンを静かに食べている俺が、間違いなく一番まともだ。
「そうだ、早川。今日の午後はバイトかい?」
「いや、今日はない」
「では、午後の講義は?」
「ない。図書館にでも行こうとは思ってるけどな」
「ふむ。では、この後は暇なのだね」
そうは言ってない。相変わらず、この男とは会話の成立が難しい。
「実は、依頼が来ていてね。良ければ、君も、いや君たちも来てくれないだろうか?」
「依頼? 神の告解部屋が開かれるのは、金曜日だけじゃなかったのか?」
「なんだい、それは?」
キョトンとした顔の天神に負けず、俺も目が点になる。助け船を出すように、悠斗が口を挟んだ。
「『毎週金曜日の午後二時。レトロ・アヴェにて、神の告解部屋が開かれる』って、言われてるんだけど、知らない?」
「ああ、その話なら耳にしたことがあるね。だけど、告解部屋なんてものは、あの喫茶店にはない。もちろん、店主も神父ではないから、誤った情報だと思っていたのだけれど」
「その『神』が、おまえなんだとさ」
「僕?」
「そうだよ」
天神が口を開けて笑う。
「なるほど、僕が神で、レトロ・アヴェが告解部屋! どおりで金曜日に、声を掛けられることが多いと思ったよ。噂というのは、本当に興味深い! けれどね、」
彼はゆるりと口角を上げると、バッと手を悠斗に向けて伸ばした。
「今回の依頼人は、違う。彼女は、校内で僕に会いにきたのだよ。貴殿、相澤悠斗くんの紹介だと言ってね」
「え、オレ?」
「そうさ! たしか名前は、フジエダ ホノカ」
「藤枝穂乃香? もしかして、髪が長くてFカップくらいの美人だった?」
あけすけのない言い方に、俺はジロリと悠斗を見る。
俺の妹が聞いていたら、彼の唐揚げは全部没収されていたことだろう。俺は親切なので、一つだけ横から摘まんで、サッと口に放り込んだ。肉汁がじゅわっと広がって美味い。
「胸元まであるロングヘアではあったね。あとは、八重歯があった」
「じゃあ、藤枝かも!」
信頼区間もびっくりの大雑把過ぎる判定に、俺はこめかみを押さえる。全く動じずに紳士然として答える天神には、尊敬すら覚えた。
「藤枝なんてやつ、クラスにいたか?」
「ん? 藤枝は、同じクラスじゃないぜ?」
「は? ああ、元カノか」
納得しかけた俺に、悠斗が全力で手を横に振る。
「いやいやいや! ただの元クラスメイトだよ、高校の!」
「ふーん」
「いや、本当だって!」
「まあ正直、おまえの交流関係にそこまで興味はないんだけどさ。その藤枝っていう女に、天神の話をしたのは事実なんだろう?」
「いや……」
珍しく悠斗の顔が曇った。
「違うのか?」
「……オレが紹介出来たはずがないんだよ。だってオレ、藤枝に嫌われてるから」
無理に笑おうとする表情が却って痛々しい。
しばしの沈黙が流れる。
食堂に響く笑い声で、耳が痛くなる錯覚を覚えるほどの静かさ。
こういうときに、なんて声を掛ければ良いのか。選択肢はこうだろう。
そんなことないよ。
気のせいじゃないか。
おまえは悪くない。
そういうこともあるよな。
表面上の関係を無難に保つなら、そう言えば良い。ベストは難しくとも、ベターはある。
「まあ、そういうこともあるよな」
「……サンキュー、翔太」
歪な笑顔を貼り付けた悠斗は、何事もなかったように箸を動かし始めた。美味そうな唐揚げもホカホカに輝く米も、ハイペースで消えていく。
俺の回答は間違いではない。が、正解だったわけでもなさそうで、どうにも居たたまれない気持ちなった。
話題を元に戻そうと、「なあ、天神」と声を掛けて、俺の目が重箱に釘付けになる。
白から黒へ。
敷き詰められていたのは、濃い紫の俵だった。あまりの衝撃に、考え事が吹っ飛ぶ。
姿勢正しく、箸使い美しく。男は俵を割り、幸せそうに口へ運ぶ。
「……それ、なんだ?」
「このおはぎに目を付けるとは、さすがは早川!」
嬉しそうな顔をした天神に重箱を差し出される。空腹感が癒えていないせいなのか。甘いものが特別好きなわけではないはずなのに、抗いがたい魅力を感じてしまう。
「いただきます」
そろそろと指を伸ばしておはぎを摘まむと、ぐにゃりと指が沈んだ。弾力性を感じない物体を落とさないように、丁重に一口。
「美味い……」
ほんのり塩気が効いて、甘すぎない。あんこに包まれた米はモチモチしていて、食べ応えがある。
俺の反応で悠斗も興味が湧いたのか。「オレも一つ良い?」と尋ねる悠斗に、天神はにこやかにうなずいた。
「それで、相澤くんの予定はどうかな?」
さっきまでの話を聞いていないのか。それとも、聞いた上で尋ねているのか。どちらにしても、理解に苦しむ誘いだった。
案の定、悠斗は首を横に振る。
「オレは遠慮するよ」
天神はジャケットの内側からティッシュを取り出して、優雅に口を拭く。
「承知した。ただ、協力はしてもらうかも知れないが構わないかな?」
「協力?」
「情報提供と言った方が良いかも知れないね」
「それは別に良いよ。今日だったら夕方までは暇だし。明日以降でも連絡をくれれば、対応できると思う。ついでに面白い話も聞かせてくれるなら、大歓迎」
気が付けば、おはぎは売り切れになっていた。「ごちそうさま」と、重箱を紫の風呂敷で包んだ天神は席を立ち、胸に手を当ててお辞儀をする。
「それでは、僕たちはこれで失礼するよ」
天神のヘーゼルアイに俺が映る。
勝手に参加を決められたことに、一言文句でもと思うも、やめる。言うだけ無駄なのは、分かりきっていた。
薄汚れた帆布のリュックを背負い、ビニール傘をつかむ。
「行くぞ、天神」
「ああ、行こう。早川」
重箱を抱えた天神は、にこりと満足そうに笑った。