第1話 雨は降る
一
十月も上旬の火曜日、午後一時半。
喫茶店<レトロ・アヴェ>は、いつもと変わらない。
快適な温度と心地の良い音楽。俺たち以外に客のいない店内で、俺は四人掛けテーブルに着席していた。
隣の椅子に座るがっしりとした男は、同じ大学の天神一。今日もきっちりとしたスリーピースを着こなし、黒々と艶のある髪を七三分けにしている。
テーブルを挟んだワインレッドのソファには、胸元まである髪をゆるりとハーフアップにした女。ダークブラウンのふわりとした前髪で、左目は隠れていた。
着席して、はや数分。
早々に背もたれに身を預けた俺とは対照的に、浅く腰掛けた女は微笑んだまま、ずっと美しい姿勢を保っていた。
ぱっちりとした目は俺たちを見つめて、動かない。
誰も口を開かない。ひたすらに続く、無言。
店内のスピーカーから流れるジャズの爽やかな音がやけに浮ついて聞こえ、あまりの居心地の悪さに、尻をもぞもぞと動かしたくて仕方なかった。
もちろん天神が気にする様子はない。
彼はティーカップにシュガースティックを三本入れて、優雅にミルクを加える。乳白色は自重でゆるりと拡散し、銀のスプーンで回すこと十三回。優美にカップを傾けた天神は、口を離すと満足そうに笑った。
「ああ、今日も素晴らしく平凡な味だ!」
相も変わらず、よく通る声。
この席からは店主の顔が見えないとはいえ、申し訳なさで思わず背が縮こまる。さぞかし驚いただろうと彼女を盗み見て、俺は硬直した。
彼女は表情を、微笑を、全く崩していなかった。
人間が出来ているのか。
それとも、見た目よりも豪胆なのか。
しかし、一切気にかけない天神は、両翼を広げるように両手を大きく開いた。
「初めまして、麗しき淑女。この天神一へのご用件。ぜひ、お聞かせ願おうか!」
意気揚々。喜色満面といった顔をする男の隣で、俺はただ、頼りない背中を精一杯伸ばした。
二
まだ午前の講義が終わったばかりだと言うのに、大学の食堂は早くも賑わいを見せていた。
シトシトと雨が降り続く。窓ガラス越しに見る外は、どんよりと薄暗い。
「こうも雨の日が多いと気が滅入るな」
「まぁなー。でも昨日は一応、晴れたじゃん? まあ、途中で雨がぱらついたけど」
「雨が降ったのか?」
「うん。天気雨っぽかったけどね」
「それで、洗濯物が濡れてたのか」
「多分ねー」
唐揚げ定食を手に持った相澤悠斗が、二人分の空席を求めて俺の前を横切る。ふわりと揚げ物の美味しそうな匂いで、グギュウと俺の腹が鳴った。
「翔太は、またコッペパンなのか……」
「やめろ、哀れんだ目で俺を見るな。哀れむくらいなら、その唐揚げを寄越せ」
「良いぜ! ただし、なんか面白い話をしてくれたらな」
享楽主義者がにんまりと笑う。だが、いきなり言われたところで、何も思いつくはずもなく。
「……天気雨が降る理由は、」
「そう言うんじゃなくてさー。もっと、夏みたいな話が聞きたいんだよ! それに、晴れてるのに雨が降る理由は、オレだって知ってるし。上空で出来た雨が強風で流されたか、小さな雨雲によるものとかだろう?」
「あとは、雨が落ちてくる間に雨雲が消えるのもあるらしい」
「へえー! って、そうじゃなくて、」
突然止まる、不平不満な声。
見上げれば、友人の視線は吸い寄せられたように何かを凝視していた。
開いた瞳孔。楽しそうに上がる口角。嫌な予感を感じつつ、先を辿れば、一人の大柄な男に行き着く。
ダークブラウンにベージュとワインレッドのチェック模様の背広。カラスの濡れ羽のような黒髪が、頭一つ抜きん出ていた。
「もしかして、あそこにいるのって神?」
目を輝かせた悠斗の顔には、『面白そう』と書いてあった。俺は前を向いたまま、聞こえないふりをする。しかしどうやら、それがいけなかったらしい。
「神なんだな?!」
一段とテンションが高くなる声。どうして、過去の俺は天神の特徴を話してしまったのか。今更ながら悔やまれる。
「席も空いてるじゃん! 行こうぜ!」
子供のようにはしゃぐ悠斗の背を、俺はからあげの為に仕方なく追った。
*
スリーピースをかっちり着こなした男は、日の丸弁当を食べていた。
二段重ねの四角い弁当。否、重箱というほうが適切かもしれない。その一面に広がっていただろう白米に、ぽつんと赤い梅干し。分の二ほど空白となってもまだ、米の圧と赤の主張が激しい。
「隣、良い?」
「もちろんさ!」
悠斗の問いに、襟元に白のナプキンを付けた男が爽やかに答える。
「サンキュー! おーい、翔太。そんなところに立ち止まってないで、座ろうぜ」
悠斗に手招きされて、俺は仕方なく偉丈夫の前に座る。コッペパンで目を隠しても、無駄だったらしい。
「おや、……早川翔平くんじゃないか!」
「早川翔太だ!」
「これは失敬! 早川翔太くん!」
冗談なのか、本当に間違えたのか。そんなことはどうでも良く。ただ、振り下ろしたコッペパンが少しへこんでしまったことが悔やまれた。
「やっぱり、君が神なんだな!」
「貴殿は……相澤悠斗くん、だったかな? 初めまして、僕は天神一。早川とは連絡先を交換して、バーに行った仲だ」
天神が箸を置いて、握手を求める。律儀に応える悠斗は、複雑そうな顔をしていた。
「ごめん。オレ、天神と話した覚えがないんだけど、何かで一緒だった?」
「安心してくれたまえ。貴殿と話すのは、間違いなくこれが初めてさ。ただ、貴殿は一年の基礎科目で心理学を選択していただろう?」
「心理学? ああ、サトセンのか!」
「その佐藤先生が、『何故、人を殺してはいけないのか』と貴殿に問うたのを覚えているかな?」
「あー、そんなこともあったような?」
困惑する悠斗の手を放し、天神は微笑む。
「覚えていなくても無理はない。もう一年以上前のことだ。だた、そのときの貴殿の答えが僕はとても好きでね。それで、名前を覚えたのだよ。相澤悠斗くん」
天神が名前を覚えてしまうほどの回答。そう考えると、俄然興味が湧いてくる。
「悠斗は、なんて答えたんだ?」
「んー……。なんか、『自分が殺されたくないから』とかだったような? でも、そんな立派なことは言ってないぞ?」
頬をポリポリと掻く悠斗に、箸を置いた天神が手を叩く。
「その通り! やっぱり、貴殿は素晴らしい!」
訳が分からなくとも、褒められるというのは存外嬉しいらしい。
天神の言葉が何を意味しているかも知らない友人は、無邪気にはにかんだ。