第17話 『相棒』の理由
盤上から目を離して天神を見遣ると、彼は笑っていた。ゆるやかに弧を描く口からは、言葉が流れ続ける。
「僕の観察力と洞察力を褒めてくれたのは、他ならぬ君だというのに、随分と驚いているようだね」
気付けば、ヘーゼルの瞳は俺を見透かすように覗き込んでいた。
「僕が君を付き合わせていることかな。いや、違うね。君は、最後まで付き合うことに同意した。では、遠野先輩かな」
口元がギュッと閉じる。
動揺。図星。
自分でも、頬がピクリと動いたのが分かった。
「当たりのようだね。さて、まだ続けるかい? 僕としては、君の口から聞きたいのだけれども」
天神の表情が柔らかなものへと変化する。俺は、目線を将棋盤に向けた。
「……気が付いていたのか」
「早川の様子が変わったのは、彼と会った日だったからね」
肺の中の酸素を出し切るように、口から息を吐く。もう逃げられない。
踏み込まれた分だけ、踏み込む覚悟を。
それで痛い目を見るのなら、仕方ない。
「なんで、俺を『相棒』なんて言ったんだ」
「相棒だと思ったからだよ」
淡々と、さも当然と言わんばかりの声。想像を優に超える呆気ない返答に、言葉が詰まりかける。
「……なんで、俺なんだ。遠野先輩や藤枝さんの方が、よっぽど相棒に相応しいだろう」
「相応しい? 何を持ってして、君はそう言うのかい?」
「二人とも俺よりも、はるかに優秀だ」
「ああ、なるほど。たしかに、そうかも知れない。けれども、僕は君の『平凡』で『普通』のところを気に入ったのだよ。少なくとも遠野先輩は、凡庸から離れたところにいる人だ。
それに僕は、早川がちゃんと話せば、彼は君を気に入ると思っている。おや、理解不能といった顔をしているね」
天神が愉快そうに笑いながら、駒を動かせとジェスチャーする。
「早川。もしも真冬に小さな池が凍っていたら、君はどう思う?」
「寒かったんだなと思うだろうな」
「では、真夏に凍っていたら?」
「そんなことは、」
「あり得ない? 本当に、そう言い切れるかい?」
「いや……」
「とても良い。物事を柔軟に考えることが出来る、切り替えられるのは君の美しさだよ、早川」
両肘を机の上につき手を組んだ天神は、手の甲に顔を乗せて、にこりと笑う。
「僕が『普通』を愛するのは、それが基準になるからさ。経験や知識、教育から生物は『普通』を知っていく。そこから、ずれればずれるほど、おかしいと人間は感じることが出来る。
けれども同時に、その基準は不変ではない。時代や国ごとに、生き物のように変化していくのだよ。
とても美しくて、儚くて、恐ろしいほどしたたかだ。
僕は基準があるからこそ、安定と真理の距離が測れる。もたらされるとすら、思っているのだよ。
それにね、早川。謎というものもまた、普通、平凡、在り来たりから生まれるものなのだよ」
正直に言って、天神の言っていることは半分も理解出来なかった。きっと、それは彼も分かっているのだろう。それでも、天神は言葉を続ける。
「僕は完璧ではない。だから、基準が欲しくなる」
「俺も完璧じゃない」
「そんなことは、分かりきっているとも」
あっさりと言われると、おかしなもので腹すら立たない。適当に動かした盤面は、早くも劣勢。
「他に、言いたいことは?」
「……俺を『相棒』にするなら、情報や思考を共有しろ」
子どもっぽい要求だろうか。だが、俺には必要なことだった。
どうせ一人で勝手に拗ねていたのだ。今更、恥の上塗りをしたところで、天神は気にもしないだろう。でも、もしも拒絶されたら……
恐る恐る盗み見た切れ長の目は、ぱちくりと瞬いた。ゆっくりと、天神の頬が緩んでいく。
「その発想はなかったよ! けれども、早川の言うとおりだ。努力しよう。他には?」
「……思いついたら、言う」
「承知したよ」
予想外の応えに、少しだけ浮ついた心を深呼吸で落ち着かせる。震える手で迷いながら駒を動かすのに対し、天神の手に迷いはない。
いつ詰んでもおかしくはないほど、盤上の駒は少なくなっていた。
「なあ、天神」
「なんだい? 『待った』は聞かないよ?」
「違う。曇りガラスのフィルムを貼った理由。おまえの《《普通》》から組み上がる推論を聞かせろ」
「君は本当に得難い人物だね、早川。僕の推論は君の考えたものに、講義の邪魔にならない配慮というのを加えたくらいさ」
「どういうことだ?」
首を傾げる俺に、天神の人差し指がスッと上に伸びた。
「ヒント一。この小講義室は、夜間にも使われるらしいね」
「あ、ああ」
節くれ立った中指が顔を上げた。
「ヒント二。さっき、君は窓を見て自分が映っていると言っていたね? では逆に、どうしてこの部屋から窓を見ても、君が映らないのだと思う?」
「それは……」
「ヒント三。鏡の原理。いや、この場合はものが映る原理と言った方が分かりやすいかな」
自分の下唇を人差し指でトントンと叩きながら、俺は脳内を整理していく。
ものが映るのは、光の反射によるもの。
ガラスに限らず、表面がツルツルとしたものなら、材質に関係なく光は反射される。それを、限りなく全反射させたものが鏡だ。
「窓に反射したものよりも強い光があれば、像は弱くなり視認しにくくなる。それが、昼間の室内ガラスに物が映らない理由だ」
「さすが、理系だね。では、夜は?」
「使用している部屋であれば、当然、室内の方が明るい。現象としては、昼間とは反対のことが起きる。……蛍光灯の反射を抑えて、生徒の気を散らせないため、か?」
正解だったらしい。彼は小さく首肯した。
「どうしてカーテンを直していないのかは、残念ながら現時点では手札がなさすぎて、推論も出来ないけれどもね」
「おまえにも分からないことはあるんだな」
ヘーゼルの瞳がまんまるくなり、笑い声が部屋に響く。
「当然さ! 僕は平凡で普通の人間だからね! 分からないことだらけだよ!」
「平凡で、普通?」
「凡庸と言ってくれても構わないよ? ほら、駒を動かしたまえ」
パチンっと、王を逃す。
「平凡で普通な天神。結局、のっぺらぼうの噂と鳥の死は関係なかったんだよな?」
「おそらくはね。二つの事象が同時に起きたからと言って、要因も同じとは限らない。仮説推論の飛躍さ。遠野先輩は気が付いていたようだけどね。さて王手だよ、早川」
王将が逃げる場所はもう、ない。「参った」という俺に、天神は満足そうに微笑んだ。
「小鳥くんが起きるまで、もう一局、どうかな?」
「飛車と角を抜いてくれたら、考えても良い」
「望むところさ」
駒は盤面に戻る。空は明るい。気が付けば、俺の心も大分軽くなっていた。




