第15話 検証時間(一)
微かな余韻を残した静寂。
陽光が射し込む部屋は、仄かにあたたかい。よく眠れそうな心地良い空間。だが、今の俺には天神と二人きりというだけで居心地が悪かった。
それに、ここが『のっぺらぼうの部屋』と噂される部屋であることを思い出して、俺は小さく身震いする。
自分の居場所が安全かどうかを確認したくなるのは、人間の性というものだろう。俺は記憶を探り出さして、現状と比較する。
のっぺらぼうが出る、『夜に一人で歩いている』という条件は、今時点では合致しない。今は朝。この部屋には俺以外にも天神がいるうえに、歩いてもいない。
何も出ない。出るわけがない。深呼吸を意識したまま、首だけを動かしていく。左右、上下。大丈夫、おかしなところはない。
そう思ったところで、思考がピタリと止まった。本当に違和感はないのかと、自問する声。それに促されるように、もう一度、ぐるりと室内を見渡して気が付いた。
入って左側の窓一枚だけ、ガラス面が細かな凹凸状のものになっていた。太陽光は通るものの、外の様子はモヤが掛かったように見えない。
足が自然と窓に向かう。
指先で表面を撫でて見れば、わずかなざらつきを感じた。
「曇りガラス?」
「曇りガラスか。早川には、そう見えるのだね」
気が付けば、天神は俺の斜め後ろに立っていた。俺は、少しだけ横にずれて距離を取る。男は意に介した様子もなく、愉快そうに続けた。
「これでは、人の顔は映らないだろうね」
天神の言葉にハッとした。
顔の映らない人間。人間の形をしているのに顔のない、のっぺらぼう。
「外から小講義室を覗いた誰かが、室内にいる人間をのっぺらぼうだと勘違いしたってことか。バカバカしい」
紐解いてみれば、なんてことのない話。
風呂場のドアガラスなどを思い出せば、すぐに納得がいった。
入射した光が乱反射する凸凹状のガラス面において、人や物がそのまま見えるわけもなく。外からは、中にいる人間の輪郭と色だけが認識できる。
とどのつまり、のっぺらぼうなんてものは最初からこの部屋には存在していなかったのだ。
そんなものに怯えていたなんて、腹立たしいやら、情けないやら。それでも、疑問というのは気が付いた先から湧くもので。
「なんで、この窓だけ曇りガラスにしたんだ?」
「さてね」
撫でるように曇りガラスに触れる、白く大きな手。ちょっとした古い映画のワンシーンにでもなりそうな光景。
「観察力と洞察力に優れたおまえが、この曇りガラスを見逃していたとは思えない。つまり調査を開始してすぐにも、遠野先輩の話が嘘だと分かっていたんだな。なんで、それを」
言ってくれなかったのか。と言おうとして、やめる。聞いてどうする。他人に期待してどうする。
口を一文字にした俺を瞳に移し、天神の薄唇がゆるりと弧を描く。
「褒めていただき、光栄だよ。しかし、実に興味深く、なんともナンセンスな発言をするのだね、早川」
ひやりとする声。
俺は、一瞬だけたじろいだ。
「どういう、」
「では、行こうじゃないか」
「……は? どこへ?」
「もちろん、小鳥が発見されたところへさ!」
颯爽と窓から離れた男は白傘を左手に取り、右手を俺に伸ばす。ヘーゼルアイは俺を捕らえ、真っ直ぐに伸びた背筋からは無言の圧を感じる。従う義理はないと分かっていても、知欲は抑えられない。
俺は複雑な思いを抱えながら、天神の横をすり抜けて、引き戸に手を掛けた。
*
天神は小鳥を発見した場所で足を止め、俺は曇りガラスの窓の前で止まる。その距離は、おおよそ二・五メートル。Z軸固定の同一X軸線上に俺たちは立っていた。
おもむろに上を見上げた天神につられて、俺も空を見る。先ほどよりも青みが深まったスカイブルーに、白い雲。視界の端には、大木の常緑樹がちらつく。それ以上でも、以下でもない風景。
体の向きを変えて、曇りガラスと対面した俺は目を見張る。
「なんで、俺が映るんだ?」
光が乱反射しているのならば、起こりえない現象。思わず出た言葉は、いつの間にか近くに来ていた天神にすくい取られる。
「凹凸加工を室内側だけに施してあるからだろうね。曇りガラスにも良くあることさ」
「そういうことか。それでも、やっぱり外から見ても曇りガラスだって分かるな」
「むしろ、君はどうして今まで気が付かなかったんだい?」
不思議そうな天神が、憎たらしい。
どう答えようか。数秒ほど悩んだ挙げ句、俺は正直に言った。
「……ずっと下を向いていたからな」
「なるほど」
フリルの丸傘の中で天神が小さく笑ったような気がしたが、深く突っ込めば、やぶ蛇になるのは明白だった。
俺は平静を装って、話題を戻す。
「おまえは、これを見てすぐに曇りガラスだと気が付いたんだろう?」
「いいや」
予想外の返答。
いや、俺が勝手に買い被りすぎたのか。
唇を歪めて笑った俺に、天神は首を傾げる。
「どうも君は大いなる勘違いをしているようだね。そもそも、僕はこれを曇りガラスだと思ったことは一度もない」
「は?」
「見てごらん」
白く長い人差し指が伸びる。整った爪先が示したのは、俺の胸の高さほどにある窓の鍵受けだった。
「鍵が挟まる真ん中のところ。凹凸模様がないだろう?」
天神の言うとおり、その部分だけ窓ガラスがつるりとしていた。
「ここだけフロスト加工をしなかったわけは、ないよな?」
「そうだね。普通は、加工し終えた板ガラスを窓にする。この窓には、おそらくシール、いや、フィルムが張られているのだろう」
「フィルム?」
「君もスマートフォンに似たようなものを使っているはずさ。保護フィルムという名称でね」
「そういうやつか」
聞き慣れた単語で、ようやく理解がいった。
「アンチグレアフィルムみたいなのを室内側にだけ貼ったということか」
天神はうなずく。
「でも、なんでこの一枚だけ貼ったんだ?」
答えは返って来ない。
横に立つ男に目を向けると、天神は白傘を斜めにして、西から北の景色を見ていた。
彼の興味が、すでに窓から離れているのは明らかで。なんとはなしに、俺も同じ方向を見る。まだらに色が変わり始めた木の葉の奥、約百メートル先にある白壁の研究棟がやけに眩しかった。




