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第10話 甘い蜜に潜むのは

    二


 最初にそれを見付けたのは、理工学部に所属する一人の大学院生だった。


 早朝に実験データを回収しにきた彼は、渡り廊下で足を止める。

 小講義室の窓の下。小鳥が落ちているのを発見した院生は、けれども何もしなかった。近寄ることも触れることもなく、ただの偶然だろうと彼は通りすぎた。


 それから、おおよそ一ヶ月の間。地面に横たわる小鳥の発見者は一人、二人と少しずつ増えていった。

 次第に、生物学科が危ない実験をしているのではないか。いや、これは浮かばれなかった実験動物たちのせいではないか。彼らは、夜な夜な仲間を探しているのではないか。

 そんな噂が流布るふし始めた。


 それは蛇行だこうする川の如く、しかし氾濫はんらんするわけでも奇妙な統制を取って、『呪われた生物学科』と名前を変えて、速やかに浸透していく。


 あまりにも、皮肉。

 あまりにも、無礼。

 あまりにも、憂事うれいごと


 耐えがたき感情を胸に、一人の男は腰を上げた。

 かくして、彼は現れる。金曜日の午後二時、レトロ・アヴェに。


     *


 十九世紀英国を思わせるこの喫茶店に、その男はしっくりと馴染なじんでいた。

 中性的な童顔に、黒縁丸メガネ。左目元には、小さな泣きボクロがある。センター分けをした焦げ茶色の猫毛の癖髪はふわふわと跳ね、鎖骨の目立つ細身の体はボタンダウンの白シャツとベージュのカーディガンに包まれていた。


「先日は助かりました、遠野とおの先輩」

「どういたしまして。でも、キミの役に立てることは僕の幸せでもあるんだから、気にしないで欲しいなぁ。むしろ、早めに対処出来て良かったよぉ。カミキリムシは、被害が拡大すると厄介だからねぇ」


 おっとりとした雰囲気に相応ふさわしい、まろやかな声質。練乳と黒蜜を混ぜたように甘ったるく、ねっとりとした喋り方は不快ではないが、耳にこびりつく。

 コーヒーカップを両手で持ち、にこにこと微笑む彼の周囲は、まゆのようにまったりとした空気の層が出来ているようだった。


 一体、どういう関係なのだろうか。


 男の横顔を見ていると、突然、顔がこちらに向いた。丸くぱっちりとした瞳が、俺を舐め回す。多少の居心地の悪さを感じていると、彼はにっこりと微笑んだ。


「やあ、キミが早川くんだねぇ? 一度会ってみたかったんだよぉ。嬉しいなぁ。ああ、ボクは遠野(かおる)。一応、理工学研究科の博士課程に在籍中だよ」

「初めまして、早川翔太です」


 ぺこりと軽く会釈をすると、遠野はグッと上半身を乗り出した。


「ねえねえ、キミは天神くんの相棒なんだってねぇ? 良いなぁ、羨ましいなぁ。彼、とってもチャーミングで楽しい人だから。一体、キミのどこにかれたんだろうねぇ? キミは何を持っているのかなぁ? 知識? 知恵? 体力? 意外と生命力はありそうだよねぇ」


 ふふふ、と目を細めて男が笑う。

 羨ましいなら変わってください、と言い掛けた言葉はつばと一緒に飲み込んだ。

 波風を立たせる必要はない。分かっている。適当な相槌あいづちと作り慣れた笑みを、ただ返すのが最善手であることを。

 隣で、メロンクリームソーダのグラスを置く音がした。


「早川は、非常に普通、当たり前に近い存在だから素晴らしいのです、遠野先輩」

「普通、ねぇ。キミの言うところの『平穏』と『安定』と『真理』っていうやつだよねぇ? いまいち理解出来ないのが悔しいよぉ。たしかに、彼がすごく普通っぽいのは分かるけどさぁ」

「ええ。ところで、今日のご用件はどのようなものでしょうか? まさか雑談をしに来た。という訳では、ないのでしょう?」

「相変わらず連れないなぁ、天神くん。ボクだって教授の目を盗んで、キミと話したい日もあるんだよぉ?」

「光栄です。そんな風に言ってくださるのは、貴方あなたくらいですから」

「ボクはキミの実力を知っているからねぇ。でもまあ、たしかに時間は有限。早速、本題に入ろうか」


 たれ気味の眉を八の字にした彼は、ふわりと微笑んでコーヒーカップを置いた。


「天神くんは、いやキミたちは、『呪われた生物学科』という噂は知ってるかなぁ?」

「『呪われた生物学科』ですか? 僕は知りませんね」


 首を傾げる天神の隣で、俺の心臓がびくりと跳ねた。どんなに興味がなくとも、耳に入る情報というものはある。

 人文学部の天神が知らなくても不思議はない。だが、生物学科の生徒も含まれる理工学部に所属する俺は、残念ながら聞いたことがあった。


「キミは、どうかなぁ?」

「……知っています」

「そっかぁ、キミは理工学部だもんねぇ。ゼミもない学部生だから、もしかしたら知らないかもって期待したんだけどなぁ。うーん、そこまで噂が言っているとはねぇ。ちょっと参っちゃうなぁ」


 遠野は困ったように笑い、しょんぼりと肩を落とした。


「その『呪われた生物学科』が、天神への依頼ですか?」

「へえ? 思ったよりも察しが良いねぇ」


 眼鏡の奥の目が狭められ、怪しく光る。拘束されそうな、何か覗き込まれているような不気味さ。自分に流れる血流の音さえ聞こえそうなほど、感覚が過度に研ぎ澄まされていくのが分かる。


 悪意、いや、敵意を向けられている? 

 何故? 俺が『天神の相棒』だからか?


 乾いた唇を噛む。誰から好かれなくても、嫌われないように。そうやって慎重に生きてきた俺にとって、この状況は苦痛としか言いようがなかった。


 パンッ、と乾いた音が鳴る。


「遠野先輩。その『呪われた生物学科』について、教えていただけますか?」


 遠野の丸い目がぱちくりと瞬く。天神に向かって、ごめんねとでも言うように両手を合わせた彼は、隣に置いてある黒リュックの蓋を開けた。


「必要になるだろうと思って、資料も作ってきたんだぁ。ちょっと見てもらっても良いかな?」

「喜んで。博士はくしが作る資料なんて、滅多に触れることのない貴重なものですから」

「博士ではないよぉ。まだ、ただの学生だからねぇ。それに、あんまり人に見せられるレベルじゃあないんだけど、何かの資料があった方が分かりやすいからねぇ」


 眉尻を下げて苦々しく笑った遠野は、リュックから薄型ノートパソコンを取り出してテーブルの上に置いた。パカッと蓋を開けて、電源を入れた彼はカタカタと手早くキーボードを打つ。


 ジッと見ていると、くるりとパソコンの液晶が向けられた。縦長の文書には、文字がつらつらと横に並ぶ。途中途中で図表も挿入されていた。


「自由にスクロールして読んで良いよぉ」


 コーヒーカップを両手に包み、遠野は微笑む。天神と俺は揃って、パソコンの画面を覗き込んだ。


【背景】

 九月上旬から十月中旬に掛けて、生物学講義実習棟と理工学部総合研究棟を直角に結ぶ渡り廊下の小講義室付近で、小鳥の死体が頻発ひんぱつして発見されるようになった。

 この現象により、我々生物学科が呪われているのではないかという噂(以下、呪われた生物学科)が流布るふしたため、我々は汚名をそそぐべく、調査・分析を行う。


【現時点における調査結果】

 生物学科内での発見者は、八名。発見数は、合計十一羽。ほぼ全ての野鳥に、目立った外傷はなし。ただし、小さな外傷については不明。また、一羽については体温を感じたために発見者が保護。数時間後には目が開き、飛び立っていったとのことだった。

 死体の羽色や尾羽の形状などから、いずれも成鳥ではなく幼鳥と考えられる。

 発見時刻は朝六時から八時が最も多く、加えて、発見された場所も小講義室の西から南西に集中していた。


【考察】


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