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室温で溶かしたバターを混ぜ、砂糖をボウルに入れる。隣ではせっせと薄力粉を振るっているユリウスがおり、さすが一人暮らしをしてきただけあってか手際の良さが伺える。
卵を割り、数回に分けて全てを入れると、混ぜる。
ただ、混ぜていた。
その間、無言。
別に気まずいとかそういうわけではない。お互い話題を持ち合わせておらず、まぁ別にそんな無理して話さなくても……という雰囲気だった。
が、薄力粉を全て振るい終えたユリウスが、ちらとこちらを一瞥してきた。
何か言いたそうにしている顔だったので、ヤナギの方はしっかり、ユリウスを見て口を開く。
「なに? 」
「……いや。アイビー様のとこ、行かなくて良いのかと思って」
「……行くわよ、後で」
「ふーん……」
「それだけ? 」
「別に」
「嘘」
「……なんで、俺なんだよ」
薄力粉をボウルに入れて、ヤナギからヘラを奪い取る。力任せに生地を練るユリウスを、ただじっと、見つめて言った。
「……ごめんって、言いたかったから」
「は? なんで」
「ハラン家の跡継ぐって、お父様に聞いたから」
「……ふーん。いつ聞いたんだ? 受験勉強ばっかで、どうせ家に顔出してないくせに」
「あなたに手紙を出した時……だから、冬休み期間、先月ね。家族になろうって私が言ったから、あなたはハラン家の跡を継ぐことに決めた。違う? 」
「……何言ってんだ、おまえ」
「そのままの意味よ。私のお願いを聞いてくれてありがとう。でも別に、私はあなたの未来を縛りたいわけじゃない。お父様もお母様も私達のことばっかりで、ハランの名なんてもうどうでも良いみたいだし、私だって別に、無理に継ぐ必要はないと思う。私はただ、また家族でどこか別のところにでも住んで、幸せになれればと、そう思っているだけよ」
「長々と鬱陶しい。簡潔に」
「自由になって」
最初から、そう言っているではないか。ハランなんて、所詮名前だけだ。権力や地位こそあれど、そこに拘りもプライドもない。ただ、家族がいればそれで良い。ヤナギが必要としているのはハラン公爵家じゃない。ハラン家なのだ。
ユリウスは頭をガシガシ掻くと、ため息をこぼしつつ生地を練った。生地は、まだまだ柔らかい。
「それ、おまえが言うのか」
「私は自由よ。自由すぎて、世間から引かれるくらい」
「急な自虐はよせ。反応に困る」
「あらごめんなさい。私はただ、世間から引かれていても自由であることに誇りを感じているだけよ」
「誇り? 」
「そう。ねぇ、私が教育校の受験をしたこと、知ってるでしょう? 」
「知ってるな」
「受験期間中、周りが私のこと何て言ってたかしってる? 」
「知らねぇけど、批判はしてたんじゃねぇの? 後は、馬鹿にしたりとか。どうせ無理とか、絶対やめた方が良いとか」
「そうね。確かにそういうのもあったけれど、一番多かったのはこれ。昔から我儘で横暴だったお嬢様が、教師なんかになれるわけがない。どうせ失敗する、ですって」
「……昔の話だろ」
「いいえ、必ずしもそうとは限らないわ。だって私はこの学園に入学したばかりの頃、メリアを虐めていたもの」
言って、ユリウスは初めてヤナギをしっかり見てきた。その瞳は驚愕に見開かれており、視線はヤナギとその前の台所にいるメリアとに行ったり来たりしている。
口をあんぐり開けて、間抜けな声が喉から漏れた。
「……嘘だろ? 」
「嘘じゃないわ。本当よ」
「いやいやいやいやいや」
「いやいやいやいやいや、そのまさかなのよ。確かに私は前科持ち。いくら筆記試験で満点に近い成績を残すことができたとしても、面接で落とされるかもしれない。だから、面接練習は入念にやってきた。今は、あの頃の私とは違うってアピールするために」
「それで、どうだったんだ? 」
「わからないわ。いくら今の私は前とは違うと語ったところで、過ちが消えることはないもの。どんなに綺麗事を並べ立てたところで、無駄だったのかもしれないわね」
「……試験、自信ないのか? 」
「さぁ、どうかしら」
悪戯っぽく笑って見せると、ユリウスはむすっと頬を膨らませる。曖昧な返事に、どうやら少し怒っているようだ。
「……後悔、してるのか? 」
「しているわ。最も、今までの私に、だけれど。今回の受験に関して言えば、後悔はしていない。やれるだけのことをやったのだから、後は結果を待つだけよ。良い結果だろうが残念に終わろうが、今は、どうしようもできないもの」
どう足掻こうが、終わってしまったものは取り返せない。時間でも巻き戻さない限りは、どうしようもないのだ。だったら足掻くだけ無駄。今は、ゆったりと結果を待っていれば良い。
「私、教師になったらこの学園で働きたいと思っているの」
言うと、ユリウスはヘラの動きを一旦止めて、疑問を浮かべた瞳でヤナギを見た。
どうして、そう言いたそうな表情で、実際、ユリウスはそう言った。
「なんで? 」
「なんで、というのは? 」
「……辛いこと、いっぱいあったんじゃねぇの? 教師になりたいって言って馬鹿にされて、しかも、ハラン家の子じゃないからってだけで、嫌がらせとかも受けてきたんだろ? 」
「あら、どうして知っているのかしら? 」
「昨日ここに来てから、おまえのこと、いろいろ言ってる奴がちらほらいたから……。単なる噂、なのかと思ってたけど」
「事実よ」
「じゃあ、なんで? 」
そんなの、答えは簡単だ。考えるまでもなく、ヤナギは即答していた。
「だって、ここは私を、変えてくれた場所だから」
「変えた……」
「ええ。メリアと会って、アイビー様、ブレイブ様、セルフ様、カルミア様、シード様……。その他にもフィアー様やヨナ様、ミア様……。いろんな方と出会って、いろんな方が、私を変えてくれたの。だから、恩返しがしたい。ここに勤めて、この学園に、お礼を言いたいの」
「……辛いとか、もう二度と戻りたくないとか、思わなかったのか? 」
「確かに辛いこともあった。けれど同時に、嬉しいこともあったの。……ちょうどこの間、受験が始まる前々日くらいだったわね。とっても嬉しいことがあったのよ」
「なに? 」
もうすぐ受験というヤナギの耳に、嫌ってくらい入ってくる罵詈雑言や誹謗中傷。冬休み前に比べると大分減ってはいたものの、それでもやっぱり完全になくなることはない。
ヤナギ・ハランに教師は無理だ。何を生意気なことを言っているんだ。立場を弁えたらどうだ。
そんな言葉が聞きたくなくても勝手に聞こえてくるものだから、毎日、耳を塞いでいた。
そんな言葉達、気にする必要はない。自分は、自分と親しくしてくれる人とだけ一緒にいれば良い。向き合う必要なんてない。ずっとそう思って、傷つく胸を必死に押さえて、勉強に専念していた。
そんなある日、突然、彼女達は現れたのだ。
「私が気分転換で外に出ていた時、ある2人の女の子に会ったのよ。同学年では見ない顔だったから、二年生か一年生だと思うのだけれど、彼女達は私を見つけるなり、走って追いかけてきてくれて……。なんて言ったと思う? 」
「なんて言ったんだ? 」
「入学した時からずっと憧れてて、受験頑張ってください、ですって」
今でも心に刻まれている。単にヤナギが単純だっただけなのかもしれないが、それでも、これまでの罵詈雑言全て、あの時だけは忘れられていた。
まだ、完全に傷が治ったわけではない。けれど、あの言葉のおかげで少しは回復した。それは事実だ。
言ってすぐ走り去ってしまったから名前は知らないけれど、それでもヤナギは、あの2人を決して忘れはしないだろう。
「私、憧れの令嬢だったらしいわ」
「ふーん。それはおめでとさん」
「なによ、もう少し姉を褒めたらどうなの? 」
「ただの自慢話にしか聞こえないからな。褒める気が失せる」
「良いじゃない、ただの自慢話でも褒めたって。でもまぁ、結局何が言いたいかっていうと……」
これまで長々話してきたが、ヤナギが一番言いたいこと。それは、さっきと何にも変わっていない、ヤナギのありのままの本心だ。
「私は今、充分に……充分すぎるくらい、幸せよ」
「……んだよそれ」
「本心よ。私は幸せ、幸せ者なの。誰に何を言われたって、今こうして皆でクッキーを作っている。この時間が、本当に大切で……本当に、幸せなの」
友人と過ごす時間が。
夢を追いかけている時間が。
辛いこともあった。許せないこともあった。大変だった。泣いた日もあった。でも、その逆もあった。
楽しいことも嬉しいことも努力したことも笑ったことも、全て、あったのだ。
全部引っ括めて纏めたら、「幸せ」の2文字で表せる。幸せで、充実していた。
あの時は幸せだなんて感じていなかったけれど、あの時を乗り越えたから、ヤナギは今こんなにも幸せだと、そう思えているのだろう。
「ユリウスは今、幸せなの? 」
「勘違いするなよ」
ヘラがコトンと、ボウルに落とされる。
生地は、もうとっくにできあがっていた。
ボロボロ崩れることもなく、ちゃんとしっかり、固まっている生地が。
「俺は、俺のために跡を継ぐ。それだけだ」
「本当に? どうして……」
「俺は、サントリナ様とゼフィランサス様に、恩返しがしたい」
視線は、ボウルに注がれている。ユリウスの指には、所々黄色い生地の欠片がくっついていた。
ユリウスは、一度指に目をやるも、そのままにして言葉を継ぐ。
「これまで何年間も、俺のこと見ててくれたんだ。だから俺は、そんな2人に恩返ししたい。例えサントリナ様とゼフィランサス様が大丈夫って言ったところで、俺はハラン家の跡を継ぐ。そうすることが、俺の幸せ」
「……どうして? 」
「本物だから」
その瞳に、迷いはない。
「偽物でも、俺にとっては本物の家族だから。見せつけてやんだよ、社会に。散々ヤナギを馬鹿にしてきたあいつらにも、俺を見下してきたあいつらにも、全員に、見せつけてやんだ。ハラン家の名を世界に刻みつけて、どこにも負けない幸せな家族だって、そう言ってやる。そのために俺は、ハラン家を大きくする。それが、今んとこの俺の夢」
「ユリウス……」
「だから、俺のためだから、おまえは勘違いすんな」
ぶっきらぼうで、優しくて。思わず笑みがこぼれると、ユリウスは恥ずかしそうに生地を手に持ち、敷いておいたまな板の上にそれをのせた。
めん棒で広げて、時に薄力粉を少しまぶす。
手持ち無沙汰で立っていると、何もしていないヤナギに気がついたユリウスが、ちらとこちらに一瞥くれてこう言った。
「用が済んだなら、もういけ」
「いけって、どこに……」
「話したい人、いるんだろ? 」
ユリウスは、ヤナギの相手がアイビーだということを知らない。知らないけれど、この中に相手がいることはとっくに見抜いていた。
何となくでわかったのか、それともヤナギがわかりやすすぎたのか、どちらなのかは定かでない。
けれど、ユリウスがヤナギを気にかけてくれている。それだけは、わかった。
「ありがとう、ユリウス」




