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ざわざわと廊下の一角で屯っている人々の輪から抜け出し、早歩きでその場を去る。
本当は一刻も早く離れたかったのだが、こんな時でも廊下を走らず、早歩きなところが、彼の真面目さをより強調していた。
そんな彼、カルミアは皆から十分に離れた距離まで来たところで、チッと小さく舌打ちをする。
その顔は怒りで歪められていたものの、前方から若い女性の教師が歩いてきたところを確認すると、一瞬で何事もなかったかのような、すまし顔に変わる。
目の前を通り過ぎようとした時に、軽く会釈をしておく。
「あらロジック様。先日の試験はどうされたのですか? 調子が悪かったのですか? 」
会釈だけしてさっさと立ち去ってしまおうと思っていたのに、この教師は今カルミアが一番触れられたくない事実をド直球で聞いてきた。
内心イライラするも、もちろんそんな様子はおくびにも出さない。
「……俺はいつも通り挑んだのですが、どうやら対策があまかったようで。今度はちゃんと、取り返しますので」
「そう。頑張ってくださいね」
ニコリと向けられた笑みに再度会釈をすると、教師はそのままカルミアを通り過ぎて行った。
完全に見えなくなったところで、もう一度早歩きでカルミアは自分の寮へと入った。
扉を閉め、「クソっ」と珍しく悪態を吐く。
さっきの、廊下に貼られた期末試験の順位が脳内で再生される。
2位の隣に並んでいた、カルミア・ロジックという文字が、何度も頭の中をループしていた。
入学してから、カルミアの成績はずっと1位だった。
この学園に入るための受験も、入学試験も、中間試験も、実力試験も、ずっとトップだったのに。
更に言うなら、授業で行われるちょっとした小テストだって、満点以外とったことがなかった。
今回の試験だって、合計点はそこまで低くなかった、いやむしろ高かったはずだ。
なのに。
『カルミア様、2位だってよ』
『ええ!? 調子でも悪かったのかしら』
『いや、それが1位がさ……』
周りにいた生徒達の会話が耳を素通りしていく中、カルミアはたった一人の、1位の横に並んでいる名前から目線が外せないでいた。
1位 ヤナギ・ハラン
ヤナギのことはカルミアも少しなら知っている。
わがままで横暴で、人を見下すことが大好きな公爵令嬢。
もちろん、成績だって良くない。
馬鹿で間抜けで、アイビーしか追いかけていない阿呆令嬢だ。
詳しくは知らないが、この間の試験だって悪かったはず。
なのに、今回はカルミアを押しのけて、ヤナギがトップに躍り出ている。
この現状は、カルミアにとって面白いものではなかった。
アイビーに負けたのならまだカルミアの精神状態は安定だった。
だが、ヤナギとなると話は変わってくる。
あんな奴に負けるなんてと、腹ただしい気持ちになってくる。
普段あまり人に対して悪態を吐いたり黒い感情を抱いたりすることのないカルミアでも、この時ばかりはそうはいかなかった。
ヤナギは今頃、あのカルミアに勝ったと、カルミアを見下し、馬鹿にしているのだろう。
それを想像するとまた、イライラが募っていった。
更には、もしかしたらズルをしたのでは? なんて思い始めてきていた。
だが、その考えもすぐさま流石にないかと打ち砕かれる。
ここは名門校だ。
ズルをしていたとなれば、そんなのとっくにバレているだろう。
ならば、本当に実力で1位をもぎ取ったとでもいうのか?
「……いや、そんなのどうでもいい」
次こそは、ヤナギに勝つ。
そうすれば良いだけの話だ。
そんな彼女、ヤナギ・ハランと会ったのは平日の午後、お昼休みでのことだった。
いつも通り図書室に行き勉強をしていたカルミアは、図書室に入って来たヤナギを目にするなり動かしていた手を止めて凝視してしまった。
何故、図書室にヤナギがいるのだろうか。
今まで一度だって図書室でなんて見かけたことがなかったのに、珍しい。
そう思いじっと見ていると、ヤナギは小説コーナーの方へ向かって行った。
暫く見ていたかと思うと、1冊の本を手に取りこちらの読書スペースに歩いてくる。
見ていたことに気づかれないようにさっと視線を外すも、チラチラとヤナギを見てしまう。
ヤナギはまっすぐとこちらへ向かってくると、ピタリと足を止め、カルミアの隣の席へ腰を下ろした。
「……おい。何故ここに座る? 」
そのことに若干苛立ち、気づけばほぼ無意識に思ったことが口に出ていた。
ヤナギは本から視線を外しこちらを振り向くと、まっすぐな瞳でカルミアを見つめてきた。
「ここに座ったのは、特に意味はありませんが……。お邪魔だったでしょうか? 」
特に意味はない?
てっきりカルミアの隣に座るのは先日の試験のことで、嫌がらせ目的か何かと思っていたのだが、何の悪意もない瞳でそう言われてしまえば、単なる勘違いだったと思わざるを得ない。
そうなると、邪魔だから向こうへ行けなんて言えるはずもなく。
「……あの? 」
「別に、なんでもない。もういいから」
ふんっとそっぽを向いてそう言うと、ヤナギは「そうですか」と頷いて本のページをめくり始めた。
試験のことを一ミリも気にされていないことを知り、何だか恥ずかしくなってしまった。
これではただの自意識過剰じゃないか。
さっさと勉強に戻ろうと再びペンを動かすも、視線はヤナギの読んでいる本に移ってしまった。
「黒猫と魔法使い……」
無意識に本のタイトルを読み上げると、またヤナギの視線がこちらを捉えた。
「ご存知なのですか? 」
話しかけてしまったようでしまったと思ったが、無視をするのもどうかと思いそのまま続ける。
「知らない。そもそも、そんなファンタジー小説は読まないからな。魔法だの魔法使いだの、あるわけない。馬鹿げている」
カルミアは、そんな非科学的なものは断固として信じないタイプの人間だった。
幽霊も魔法も、全ては空想上の物。そんな物、あるわけがないのだから。
自身の眼鏡をクイッと押し上げて言うと、ヤナギは読んでいるものを否定されたにも関わらず、変わらない無表情のままだった。
「本当に存在するのかは私にも分かりかねますが、それでも、この本を書いた著者の方は、あると言っていますので。この世界には、あるのだと思います」
言いながら、ヤナギはページを軽く撫でた。
「……そうか」
そう言って、もう終わりと言わんばかりに視線を教科書の方へ戻すと、今度はヤナギが暫くカルミアを凝視していた。
「……なんだ」
その視線に耐えられず聞くと、ヤナギははっとしたように視線を慌てて本に戻した。
「……いえ。あなたの髪が、この本の主人公にとてもよく似ていたもので」
よく表紙を見ると、黒猫を肩にのせた一人の少年が月を見て佇んでいる絵が載せられている。
その少年の、よく整えられた緑色の髪は、確かにカルミアによく似ていた。
特に興味もなかったためすぐさま教科書に意識を集中させるも、ここで昼休みの終了を知らせる鐘が鳴った。
カルミアは我先にと図書室を出て、教室へと向かう。
その道中、カルミアは先程のヤナギの様子に違和感を覚えていた。
ヤナギとは、入学式の時すれ違ったことがあった。
あの時は確か、友達らしき令嬢を沢山連れて歩いていた。
なのに今日は、たった一人で図書室に来て、小説を読んでいた。本なんて読まなそうなのに。
それに、カルミアがヤナギ相手にタメ口で喋っていても、ヤナギは特に気に止める様子はなかった。
我儘だと思うような言動もせず、横暴な態度もとっていなかった。
それにあの無表情。
前会った時は楽しそうに笑っていたというのに、今日はその面影もなかった。
カルミアが知っているヤナギではなかった。
「ヤナギ・ハランか……」
その名をポツリと呟いて、カルミアは歩を進める。
速く行かないと、授業に遅れてしまう。
窓から吹いた涼しい風が、カルミアの髪を僅かに揺らした。




