5
オレンジ色に輝く空に、夕日に染まった鳩が飛んでいる。
お祭りだからなのか、まだお店が閉まる気配はない。
早くから酒場に入り浸っている大人や、子供達で集まって遊んでいる影が目立つ。
何処か懐かしさを纏った横丁の空気は、ニール街とはまた違った美しい景色を見せてくれた。
「はぁ……」
と、灯り始めた街頭の下で、そうため息を吐く男が1人。
空を見上げて沈みかける太陽に目を細めているその横顔は、寂しそうだけど、悲しそうなものではなかった。
ただ、しょうがないなと小さく呆れたような雰囲気。
「今年も見つからなかったかー」
「まだ、演奏は始まっていませんよ」
「そうだけど、1度でいいから最初から聞いて見たかったな……」
カチリと、時計塔が5時を指す。
リライさんの演奏は、5時から8時の何処かで始まる。まだ、決して諦められる時間帯ではない。
しかし、もうそろそろ帰らなくてはならない時間がきていた。
「いよいよ今年は、聞けずじまいか……」
「残念、でしたね」
ヤナギも少し興味があったのだが、こればかりは残念としか言いようがない。
だが、今日は楽しかった。
演奏を聞くことはできなかったけれど、図書館や博物館等、いろいろな場所に行くことができた。
また1つ、新しい世界を見ることができた。
それも、1人ではなくアイビーと一緒に。それだけで、心は随分と満たされている。
「また、来ましょう」
本当に、楽しかったから。
「今度は絶対、聞いてやりましょうね。最初から、最後まで」
また、次の約束を取り付ける。
未来の予定を作っていけば、今起きている寂しさも、楽しみに変わることができるから。
「ああ」
だから、アイビーと約束を交わす。
何が起こるか分からない未来の約束を、楽しみなものへと近づけるために――――
パアアアアァァァァァァァァァァ
鳩が、一斉に頭上を飛んでいく。
風が吹いて、髪を揺らす。
音が、辺り一帯を動かした。
「今の、音は……」
緊張したように、アイビーが息を飲む。
その手を、掴んだ。
「ヤナギっ……!? 」
「行きましょう! まだお祭りは終わってませんよ! 」
諦めるなんて、言わないで。
「そうだなっ! 」
その手を握り返して、アイビーと一緒に走った。
何処に向かっているのかなんて分からない。
ただ、そのトランペットの音だけを頼りに走って行く。
懸命に、途中転びそうになりながらも、何とか音の近辺まで辿り着くことができた。
「ここ、さっきの……」
「ああ。リライさんの楽器店、だな」
楽器店とこじんまりとした服屋さんの間、細い細い道。いや、道と呼べるのかも怪しい、とてもではないが通れそうにない場所。
それでも、諦めようとは思わない。
せっかくここまで来たのだから。それに、まだ演奏は終わっていない。
「こうすれば、何とかいけそうです」
「分かった」
壁に張り付くようにして、薄暗い道を進んでいく。
何とか進みきったその先には、眩い光に包まれていた。
「リライさん……」
噴水と、その周りに集まる鳩をバックにリライさんはトランペットを吹いている。
太陽が良い具合にリライさんを照らしていて、トランペットも黄金色に光る。
お客さんは、ヤナギとアイビーを含めて10人ととても少ない。
どうやらここは、知る人ぞ知る有名な穴場スポットのようだった。
そこは、とても綺麗な場所で。
背景に負けないくらいの演奏をするリライさんは、もっと美しく、そして儚く映った。
「美しい、ですね……」
昼間見た時のおちゃらけた様子とは全然違う、別人とも思わせる程の真剣な瞳に、思わず吸い込まれてしまう。
しんみりした曲を吹いているわけではないのに、何だか懐かしいような、そんな何とも言えない気持ちにさせてくる。
目を閉じて、音を聞き入る。
何処までも伸びる、穏やかな音色。
明るい曲でもない、懐かしい曲。懐かしい音色。
目を開けると、そこには景色が広がっていた。
オレンジ色だった空が、澄み渡った青空へと変わる。
永遠に広がる大草原と、緑の匂い。
暑くて、涼しい。
そこには、リライさんとヤナギの2人だけ。
カラン、と音が鳴った気がした。
トランペットの音ではない。楽器店で飲んだアイスコーヒーの氷か、それともアイビーと飲んだレモンティーの氷か。
景色が、また変わる。ひまわり畑。
ここは確か、去年訪れたメリアの故郷。
あの時のお爺さんとお婆さんは、今も元気にしているだろうか。今年も、ひまわり畑は咲くのだろうか。
ザブン、と音がした。
また景色は変わっていて、今度は海の中にいた。
息ができないはずなのに、苦しくない。寧ろ、揺蕩う並に身を任せていて、楽だった。
手を伸ばすと、音が掴めるような、そんな気がした。
楽しいな。切ない気分だったのに、そんな感情が芽生え始める。
このままずっと、音を聞いていられたら――――
プツン
見ていたテレビを急に消された時のような、夢から覚める時のようだった。
景色が戻る。
知らない間に人は増えていて、数十人程の観客と、噴水前で演奏するリライさん。
けれど、リライさんは演奏をしていない。
マウスピースから口を離したまま、名残惜しそうな、寂しそうな瞳でトランペットを眺めていた。
曲が終わったのではない、途切れたのだ、音が。
「どうしたのでしょう? 」
「リライさん? 演奏は? 」
周りがリライさんに続きの演奏を求める中、ヤナギはさっきまで見ていた景色の余韻を引き摺らせていた。
「景色が、見えました」
「景色? 」
「はい。懐かしくて、自由で、何処までだって行けそうな程、伸びていて……。まるで、夏を先取りしたかのような……」
綺麗で、真っ直ぐな音色だった。
もう一度、聞きたい。
「リライさん、続きは……」
リライさんは、マウスピースに口を当てて何度も息を吹き込んでいる。
しかし、そこから音が鳴ることはなかった。
そうして、リライさんは首を振った。横に、振った。
「そんな、どうしてですか……? 」
「もう、逝ってしまったんじゃよ」
「え……? 」
トランペットを優しく撫でて、穏やかな顔でリライさんは言う。
「まさか、儂を置いて先に逝くなんてなぁ……」
「……トランペットが、どうかしたのですか? 」
先に逝った、置いて……。
それがどういうことなのかは、おのずと想像することができる。
「儂は、今この瞬間、トランペット演奏者ではなくなった」
風が、揺れた。
鳩が、リライさんの周りから飛び立っていく。
トランペットを、何処か別の世界へ連れていくように。
「別のトランペットは……! 」
「駄目だ、ヤナギ。あのトランペットじゃないと、リライさんは演奏できない。ただのトランペットじゃない。リライさんにとっては夫婦同然、代わりなんてないんだよ」
代わりなんてない。
そう聞いた時、とても悲しくなった。
「ふぉっふぉっふぉっ、流石、アイビー様は分かっておられる。もう次なんて、無くなってしまったな。すまん……」
「いえ……」
アイビーの瞳は、悲しそうだった。
寂しくて、悲しそうだった。
リライさんの笑みも、悲しそうで。
「嘘でしょう……? 」
「仕方のないことなんだ。分かってる、けど……」
「お母さん、もう、リライさんの演奏聞けないの……? 」
観客も、悲しそう。
もしこれが、本当にリライさんの最後の演奏になってしまうのだとしたら、こんな終わり方で、本当に良いのだろうか?
これが、リライさんの望んでいた、最後の演奏なのだろうか。
さっき見たあの景色の中でのリライさんは、とても自由に、子供のように楽しそうに演奏していた。
楽しい演奏会にしたい、誰かに自分の演奏を聞いて笑ってほしい。楽しい気持ちになってほしい。喜んでほしい。そんな想いが、願いが伝わってきた。
単なる妄想だと言われればそれまでだが、ヤナギはそうは思えなかった。
思いたくなかった。
分かっている。今からやることは、全てヤナギの身勝手な都合だ。我儘だ。
リライさんが最後の演奏と言ったのだからヤナギもそれを受け入れるべきだ。それは分かっている。
分かっているのだけれど、あんな終わり方は、あんまりだ。
もっと、聞いていたかった。
もっと、聞きたい。
「ア、アンコール、アンコール」
アイビーも、観客も、リライさんも、ヤナギに注目する。
「アンコール、アンコール」
できるだけ大きな声で、言った。
「アンコール、アンコール」
「すまんな、お嬢さんには悪いが、もうこのトランペットは……」
「まだです! 」
「え……」
「まだ、生きています! 」
だから、諦めないで。
「しかし、寿命は来るだろうと、予感はしていた。大分前から音の調子は悪くてな……。今日がその時と言うのなら、儂は……」
「生きてますっ……から! 」
諦めないで。
お願いだから。
「私は、貴方の演奏が聞きたいんです! まだ、曲の途中だったはずです! まだ、終わっていません! 」
もう一度、音を聞かせて。
「アンコール、アンコール! 」
大きな声で、叫ぶようにそう言い続ける。
「アンコール、アンコール」
ヤナギの声に合わせて、アイビーも。
「アンコール、アンコール」
集まり始めていた、横丁の人達も言い始める。
「アンコール、アンコール! アンコール、アンコール! 」
合唱のように、次第に声が集まっていく。
音が、集まっていく。
「アンコール、アンコール! 」
鳴り止まない音に、リライさんの瞳が涙で濡れる。
けれど、零れる前に袖で拭う。
「諦めないでください! 」
「っ……! 」
ヤナギの言葉と、観客からの声援を受けて、リライさんはトランペットを構え直す。
静かに息を吸い込んで、吹いた。
が、音は鳴らない。
「アンコール! 」
それでも尚、アンコールは続く。
頑張れ、そう言っているようだった。
また、息を吹き込む。
しかし、また鳴らない。
「アンコール! 」
鳴らないなら、鳴るまでだ。
根気強く待つことを、ここに誓う。
もう一度、息を吹く。
また鳴らない。
「アンコール! アンコールっ! 」
プァッ
何とも、間の抜けた音だった。
破裂音のような、大きくて、短い音。
「鳴った……? 」
確認を求めると、リライさんはニッと白い歯を見せて、親指を立ててグッドポーズを送った。
辺りから、歓声が挙がる。
ドレミファソラシドと、軽快に音を鳴らすリライさん。
これなら、また演奏を続けられそうだ。
「いつ以来だったか……また、こんなに大勢の観客を前にしたのは……」
1人1人に目を向けて、感慨深げにリライさんは言う。
「トラちゃんも、やる気が出たって言っておる。まだ、終わるわけには行かないと」
奥さんであるトラちゃんを構え直す。
「それではもう一度最初から。居場所」
曲名を告げて、息を思いっきり吸い込む。
マウスピースに口を当てて、吸った息を思いっきり吹き込んだ。
今までで一際大きな音が鳴って、あの景色がまた浮かぶ。
懐かしくて、輝いていて、何処までも飛んでいけそうな、期待と希望に満ちている曲。
壮大でゆったりとしたその曲に、再度耳を傾けた。




